top of page

【フローニンゲンからの便り】19094-19096:2026年8月6日(木)

  • 4 日前
  • 読了時間: 7分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

19094

指板を見ない演奏に向かって

19095

今朝方の夢

19096

今朝方の夢の振り返り


19094. 指板を見ない演奏に向かって

                                   

昨日は、いつか指板をまったく見ずに、目を閉じて音だけを感じながら演奏することについて考えていた。もちろん、いきなり盲目のプロギタリストのように演奏することはできない。長年かけて築かれた身体感覚や空間認識を、短期間で再現できるはずもない。しかし、できないことと、近づけないことは同じではない。バスケットボールでノールックパスを覚えたときも、最初から味方の位置を見ずに正確なパスを出せたわけではなかった。視線で状況を確認し、動きを予測し、その感覚を身体の中に少しずつ蓄積した結果、やがて目が向いていない場所にもパスを通せるようになったのである。クラシックギターにも、これと似た学習があるのかもしれない。今は左手の位置を確かめるために指板を見ることが多いが、視線に頼る時間を少しずつ減らしていけば、指先そのものが場所を覚え始めるはずである。フレット間の距離、弦の張力、ネックの角度、腕の開き方、親指が触れている位置など、これまで視覚の陰に隠れていた無数の手がかりが浮かび上がってくるだろう。指板は目で読む地図ではなく、皮膚と関節で読む地形へと変わっていくのである。練習では、まず簡単な音階や短いフレーズを使い、数音だけ指板から視線を離してみたい。慣れてきたら、一つの小節、一つの楽句へと時間を延ばす。演奏の途中で短く目を閉じ、自分の指がどこにあり、次の音へどれほど移動するのかを感じ取る。間違えたときも、すぐに指板を見るのではなく、耳と手の感覚から位置を修正してみる。その試行錯誤の中で、視覚とは別の羅針盤が育っていくように思う。目を閉じると、演奏は少し怖くなる。足元を照らしていた明かりが消え、暗い道を手探りで歩くような不安が生まれる。しかし、その暗闇は欠如ではなく、別の感覚が目を覚ますための静けさでもある。視線を閉じた分だけ、耳は音の立ち上がりや減衰に敏感になり、指先は弦の細かな震えを拾い始める。音程だけでなく、音の温度や重さ、呼吸の方向まで感じられるようになるかもしれない。重要なのは、指板を見ないこと自体を目的にしないことである。目を閉じていても身体が固まり、音が痩せてしまうなら、それは自由ではない。本当に目指したいのは、視覚への依存を減らすことで、音楽への注意を深めることである。左手の移動を身体に任せられるようになれば、意識はフレーズの呼吸、和声の移ろい、音色の変化へ向かう。運転中に一つひとつの操作を考えなくなるように、技術が意識の表面から静かに沈み、音楽だけが前に現れる状態である。いつか一曲を通して指板を見ずに演奏できる日が来るかもしれない。そのとき自分は、暗記した動作を機械的に再生するのではなく、音の流れの中に身体を置いているはずである。目を閉じることは世界を遮断することではなく、音によって別の世界を見ることなのだろう。今日から少しずつ視線を離し、指先の目と耳の目を育てていきたい。フローニンゲン:2026/8/6(木)


19095. 今朝方の夢

        

今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校のサッカー部に高校2年生の夏休みから入部することを決意していた。何か思い立ったように、またサッカーをしたいという思いが芽生えたのである。その決意をすぐさま行動に移し、入部届けを顧問の先生に提出すると、その帰り道にサッカー部の友人たちと遭遇した。彼らに入部のことを伝えると、前々から勧誘してくれていた彼らは心底驚き、そして喜んでくれていた。確かに、引退まで1年弱しか時間はないが、ここから自分としてもできる限りのことをしていき、鈍った感覚を取り戻し、以前よりも能力が向上した状態でピッチに立ちたいと思った。友人たちはその実現に向けて助けを惜しまないと述べてくれたので、それは大きな励ましになった。ここから自分は、勉強と部活の両立について考え、両者の最適なペース配分を見つけていく必要があると思った。これまでは勉強過多だったので、そこに運動を加えた時に、逆に運動しすぎて疲弊しないようにすることに注意が必要だと思った。適度な運動は、脳に良い影響を与え、それは勉強にも良い効果をもたらすだろうという確信があったので、それはとても楽しみだった。高校から駅近くの自宅に戻っていると、駅につながっている陸橋で突如違和感を感じた。どうやらその辺りにいる地縛霊が巨大化したようで、それが暴れ出したようだった。その地縛霊は、辺りの建物を一瞬にして爆破し、それによって被害者が出た。私は被害者の救出に向かおうとしたが、それよりも先に地縛霊の退治が優先だと思ったので、それができるのは自分だけだという直感に従い、呪縛霊の退治に向かった。一切の迷いも恐れもなく、呪霊の駆除は自分の使命に感じられた。フローニンゲン:2026/8/6(木)06:33


19096. 今朝方の夢の振り返り

                          

今朝方の夢は、自分の内側で長く眠っていた身体的生命力が、知的活動の偏りを修正するために再び前景化してきたことを示しているのかもしれない。高校二年生の夏休みからサッカー部へ入るという設定は、人生の最初からやり直すのではなく、すでに進行している物語の途中から別の可能性を選び直すことを象徴しているように思われる。残された時間が一年弱しかないという事実は、現実の時間が有限であるという自覚を映し出しつつも、遅れて始めることが無意味ではないという内的確信を表しているのではないか。実際に通っていた高校は、自分の人格形成の基礎が作られた場所である。その場所で再びサッカーを選ぶことは、過去に置き去りにした資質を回収し、現在の自分へ統合し直す試みと考えられる。サッカー部の友人たちが驚きながら喜ぶ場面は、自分の中の行動性、競争心、協働性といった諸部分が、ようやく帰還した仲間を迎えている姿なのかもしれない。彼らは外部の友人であると同時に、これまで知性の陰で出番を待っていた身体的な自己の分身でもある。鈍った感覚を取り戻し、以前より高い能力でピッチに立ちたいという願いには、単なる復帰ではなく、過去の自分を超えて再生したいという欲求が表れているように見える。ピッチは人生の実践領域の比喩であり、書物や思索の中で養ったものを、瞬時の判断と身体運動へ変換する場所なのであろう。勉強と部活の最適な配分を考える場面は、精神と身体、静と動、蓄積と放出の間に新しいリズムを作ろうとする調整過程を示していると推測される。これまでの勉強過多は、弓を引き続けて矢を放たない状態に似ている。運動を加えることは、張り詰めた弦に振動を与え、知性そのものをよりよく響かせる試みなのである。しかし、帰宅途中の陸橋で巨大な地縛霊が現れることで、夢は急激に深層へ降りていく。陸橋は、学校と自宅、過去と現在、社会的役割と内的世界をつなぐ移行空間である。その中間地点に地縛霊がいるということは、自分が次の段階へ進もうとする際、過去の場所や記憶に縛られた未処理の力が立ちはだかることを象徴しているのかもしれない。地縛霊が巨大化し、建物を爆破するのは、長く抑圧されてきた感情や生命力が、適切な形で扱われなければ、既存の生活構造を破壊するほどの圧力になることを示しているように思われる。被害者の救出より先に霊の退治を選んだ判断は、表面的な損傷への対処よりも、原因そのものに向き合う必要を自分が理解していることの表れであろう。しかも、それをできるのは自分だけだという直感には、現在進行中の人生の再編成を他者に委ねることはできないという自覚が宿っている。恐れも迷いもなく退治へ向かう姿は、内なる破壊性を否定するのではなく、それを見据え、引き受け、変容させる準備が整ったことを示しているのかもしれない。今朝方の夢全体は、身体性の回復と影の浄化が同時に始まったことを告げているように見える。サッカー部への入部は生命力の再入学であり、地縛霊との対決は過去に滞留した力の卒業試験である。自分は今、知性だけで進む細い廊下を抜け、身体、仲間、危険、使命を含む広い競技場へ出ようとしているのではないか。そこで求められているのは、勉強か運動かを選ぶことではなく、両者を一つの呼吸に変えることである。そして巨大な霊は、その新しい呼吸を妨げる最後の古い結び目として現れた可能性がある。フローニンゲン:2026/8/6(木)09:40


Today’s Letter 

My mind is calm and serene. This calmness and serenity arise from a nondual realm. The more deeply I connect with that realm, the calmer and more serene I become. Groningen, 8/6/2026

 

 
 
 

コメント


bottom of page