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【フローニンゲンからの便り】19091-19093:2026年8月5日(水)

  • 5 日前
  • 読了時間: 8分


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タイトル一覧

19091

選択肢の縮小と自由の拡張

19092

今朝方の夢

19093

今朝方の夢の振り返り


19091. 選択肢の縮小と自由の拡張

                        

ふと、ブランダン・エイカー氏の「自由とは、制約がないことではなく、適切な制約を選ぶことで生まれる」という助言について考えていた。音楽を学んでいると、自由に演奏するとは、好きな音を好きな順番で使うことだと思いがちである。決められた音も、調性も、和声も、リズムもなければ、何でもできるように見える。しかし実際には、選択肢が無限に広がるほど、どの音を選ぶべきか判断できなくなる。広大な海に地図も羅針盤もなく放り出されたようなもので、進める方向は無数にあるのに、どこへ向かえばよいのか分からない。自由のはずの状態が、かえって不安や停止を生むのである。反対に、使用する音を一つのキーに限定し、さらに一つのコードに絞り、簡単なリズムを決めると、音楽には輪郭が現れる。使えない音が増えることは、可能性を奪うことのようにも思えるが、実際には余計な問いを消してくれる。その結果、注意は「どの音でもよい」という曖昧な迷いから、「このフレーズをどこへ向かわせるか」「どの音に長く留まるか」「どこで休ませるか」といった、より本質的な問いへ移っていく。ここで印象に残ったのは、制約が判断の負担を減らすという点である。演奏中にすべてを同時に決めようとすると、耳は音を味わうよりも、選択肢の処理に追われてしまう。だが、あらかじめ使う材料を絞っておけば、耳には余白が生まれる。その余白によって、音色の変化、呼吸の長さ、沈黙の意味まで感じ取れるようになる。制約とは扉を閉めることではなく、雑音の多い廊下から、一つの静かな部屋へ入ることなのだろう。この考え方は、練習にもそのまま当てはまるように思う。曲全体が難しく感じられるとき、自分はつい、もっと広い範囲を練習しなければならないと考えてしまう。しかし本当に必要なのは、範囲を広げることではなく、焦点を狭めることなのかもしれない。一つの短いフレーズだけを取り出し、その下にある和声を確かめ、安定して聞こえる音と、次へ進みたがっている音を聴き分ける。その小さな場所にしばらく留まることで、今まで見えなかった音の重さや方向が浮かび上がってくる。今後の練習では、一度に一つの条件だけを置いてみたい。例えば、限られた三つの音だけで旋律を作る、同じリズムを保ったまま音程だけを変える、一つの和音の上で響きの濃淡を探る、といった方法である。材料が少なければ、ごまかしは効かない。その代わり、一音の置き方や間の取り方が鮮明になり、自分の癖や感覚も見えやすくなるはずである。小さな庭を丁寧に耕すことで、広い荒野をさまようよりも豊かな収穫が得られるのかもしれない。絵画にはキャンバスの大きさがあり、詩には形式があり、建築には重力や素材の法則がある。制約は創造性を閉じ込める檻ではなく、創造性が立ち上がるための舞台なのである。床も壁もない場所では踊れないように、音楽にも自分を支える枠が必要なのだと思う。この助言から、自分は「自由を増やすために、あえて選択肢を減らす」という逆説を学んだ。迷ったときには、さらに多くを求めるのではなく、扱う音、フレーズ、和声、リズムを意識的に限定してみたい。自由とは、境界線の外へ逃げることではなく、自分で選んだ境界線の内側を、深く歩き尽くすことなのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/5(水)06:21


19092. 今朝方の夢 

                                   

今朝方は夢の中で、小高い丘の上にある一軒家に向かって歩いていた。そこには、イギリス人の友人が住んでおり、彼のところに遊びに行くことになっていた。彼の家は小屋のようにシンプルな作りになっていて、到着すると彼は笑顔で家に迎え入れてくれた。彼は今無職だが、ゲームの腕前はプロ級で、私は彼ならプロゲーマーとして食べていけるのではないかと思っていた。しかし彼はあまり自信がないようで、しばらくはこのままダラダラと生活していくと笑いながら話していた。雑談を終えて速やかに私たちは、格闘ゲームを始めた。やはり彼の技術はプロ並みで、彼には全く歯が立たなかった。とは言え、素人の予測できない攻撃が当たる場面は結構あり、ダメージを与えることはわりかしできていた。キャラクター同士の相性なのか、最後の試合に関しては彼を倒す直前まで攻撃が当たり、あと少しで勝てそうというところで場面が変わった。

 

次に覚えているのは、中学校時代にお世話になっていた個人塾の教室が舞台になっていたことである。私はどうやら体調管理を誤り、喉を痛めてしまい、マスクをつけて教室に入った。普段は優しい先生が、その日は機嫌が悪く、私の体調管理の杜撰さを突然皮肉混じりで責め始めた。体調管理を怠ったと言ったものの、実際のところは自然な不可避な現象であったので、その理不尽さに怒りが湧き、気づいたら先生の顔に蹴りを加えており、脳天にかかと落としを喰らわせていた。右足で三発、左足で二発の種々の蹴りを喰らわせ、先生は瀕死の状態になった。その状態を見ても全く罪悪感はなく、むしろ当然の報いのように思え、自分の内側に爽快感が満ちていた。


次の場面では、デパートの布団売り場で、同い年か少し年上の見知らぬ女性に手伝ってもらう形で、布団カバーと枕カバーを選んでいた。速やかに買いたいものが見つかるかなと思っていたが、意外と難航した。というのも、選択肢の種類が意外と少なく、自分がこだわっている肌触り感や色に関して良いものがあまりなかったのである。とりあえず新居の引越しに向けて、枕カバーを二つほど購入することにし、布団カバーについては少々嵩張ることもあるので、引っ越しを終えてから購入すればいいと思った。


最後の夢の場面は、大学時代のフットサルサークルの先輩たちと一緒に見慣れない屋外コートでフットサルをしていた場面である。時刻は夕方過ぎで、あたりはもう薄暗くなっていて、涼しさもあった。これから久しぶりにフットサルをするということで、各自ウォーミングアップを始めた。するとどういうわけか、自分だけが空高くに浮かび上がり、時計回りに上空を旋回する形でウォーミングアップを始めたのである。上空で結跏趺坐の姿勢で股関節をほぐしたり、上空に浮かんでみて気づいたが、地上よりも色々と体が動かしやすいことがわかった。入念なウォーミングアップをしたところで地上に下り、三チームほど作って紅白戦をすることになった。フローニンゲン:2026/8/5(水)06:39


19093. 今朝方の夢の振り返り

                             

今朝方の夢は、自分が新しい土地と生活段階へ移る直前に、内側の能力、怒り、生活基盤、身体感覚を順番に点検している夢であるように思われる。全体は四つの部屋を持つ一軒の精神的な家のようであり、それぞれの場面が、自分の移行期に必要な要素を映しているのではないだろうか。丘の上の一軒家へ向かう場面は、これから入っていく英国での生活や、まだ十分に形になっていない未来を象徴している可能性がある。丘は努力して上がる場所であり、小屋のような家は華美ではないが、本質だけを残した生活の器である。無職でありながらプロ級の腕を持つ友人は、自分の中に存在する「能力はあるが、まだ社会的役割へ変換されていない部分」の投影かもしれない。彼が自信を欠いている姿は、自分自身の高度な知的能力や音楽的可能性が、まだ完全には職業的・社会的な形に結晶していないことを示しているようにも見える。格闘ゲームで彼に敗れながらも、素人ゆえの予測不能な攻撃が通じる点は、既存の熟練に対して、型にはまらない直観が意外な力を持つことの表れであろう。あと少しで勝てるところで場面が変わるのは、現在の自分が何かを完成させる一歩手前にいるという暗示かもしれない。塾の先生への激しい攻撃は、抑圧されてきた怒りの噴出を象徴していると考えられる。体調不良という不可避な出来事を、自己管理不足として非難される場面は、自分が長く抱えてきた「すべてを自分の責任として引き受けすぎる傾向」への反発である可能性がある。先生は内面化された権威、すなわち厳格な自己批判の声であり、その顔面や脳天を蹴る行為は、その声の支配を断ち切る象徴的な反乱であろう。罪悪感ではなく爽快感が残るのは、暴力そのものへの肯定ではなく、不当な自己責任化から解放される感覚が強く表現されたものと思われる。長年頭上に置かれていた裁判官を、ついに法廷から引きずり下ろしたような場面である。布団売り場は、新生活のための心理的な寝床を整える場面であろう。布団や枕は、休息、安心、無防備になれる空間を象徴する。肌触りや色に妥協できないことは、自分が今後の生活において、単に住めればよいのではなく、精神と身体が本当に落ち着ける環境を求めていることを示しているように見える。枕カバーだけを先に買い、布団カバーを後回しにする判断は、すべてを一度に完成させず、必要最小限から新生活を始めようとする現実的な知恵の表れかもしれない。最後のフットサル場面は、これら三つの課題を統合する場面である。夕暮れは一つの時代の終わりと次の時代の入口を表し、大学時代の先輩たちは過去の活力や仲間意識を呼び戻す存在であろう。自分だけが空へ浮かび、結跏趺坐のまま旋回する姿は、身体性と精神性が結合し始めたことを象徴しているように思われる。地上では動かしにくかった身体が空中では自由になるという発見は、これまでの重力、すなわち常識、役割、自己批判から距離を取ることで、本来の柔軟性が回復することを示しているのではないだろうか。時計回りの旋回は、時間の流れに逆らわず、新たな周期へ入っていく動きである。十分に空で身体を整えてから地上へ戻り、試合に加わる構造は、超越だけに留まらず、得た自由を現実の活動へ持ち帰る必要を示しているように見える。この夢全体は、自分が能力を信じ、過剰な自己批判を打ち払い、生活の器を整え、最後には心身を軽やかにして新たな共同体へ降り立つ準備をしていることを示しているのかもしれない。夢は、自分の内側で既に引越しが始まっていることを告げる、夜明け前の梱包作業のようである。フローニンゲン:2026/8/5(水)09:42


Today’s Letter 

This reality is dreamlike; it is evanescent and ephemeral. Whatever I perceive in the waking world is dream-stuff. Groningen, 8/5/2026

 

 
 
 

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