【フローニンゲンからの便り】19087-19090:2026年8月4日(火)
- 2 時間前
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タイトル一覧
19087 | 曲との出合い直し |
19088 | 今朝方の夢 |
19089 | 今朝方の夢の振り返り |
19090 | 排便に潜む音楽 |
19087. 曲との出合い直し
昨日、ブランダン・エイカー氏の文章を読んで、音楽には不思議な時間が流れているのだと改めて思った。楽譜に書かれた音符は変わらない。和声も、フレーズも、休符の位置も、以前に弾いたときとまったく同じである。それなのに、何年か後に同じ曲を聴くと、まるで別の作品に出会ったように感じることがある。曲が成長したのではない。曲を眺める自分の目や、音を受け取る心のほうが変化したのである。一曲を練習するということは、正しい完成形へ近づいていく作業だと考えられがちである。音を間違えず、テンポを整え、強弱や表情を決めれば、やがて作品は完成する。その地点に到達したら、曲は理解済みのものとして、自分の中の棚に収められるのだと思われる傾向にある。しかし、エイカー氏の文章を読みながら、それは曲を標本のように固定しようとする考えだったのかもしれないと気づいた。長く弾き続けたいと思う作品ほど、一度の理解では終わらない。以前は何気なく通り過ぎていた二つのフレーズの結びつきが、ある日突然、問いかけと応答のように聞こえることがある。目立たなかった和音が、夕暮れの光のような陰影を帯びて感じられることもある。若いころには単なる静かな部分だと思っていた箇所が、別れやためらいを経験した後では、言葉にならない感情を抱えた沈黙のように響くこともあるだろう。音楽は鏡に似ている。ただし、顔の形をそのまま映す鏡ではなく、その時点の自分が何を大切にし、何を恐れ、何を失い、何を待っているのかを、音の形で静かに映し返す鏡である。同じ曲を弾いているつもりでも、そこに映る自分は毎回同じではない。だから作品の印象も変わるのであろう。エイカー氏が、解釈は目的地ではなく実践であり、時間をかけて続く対話だと述べている意味も、少し理解できた気がする。演奏者は作品に対して最終回答を提出するのではない。その時々の自分が曲に問いを投げかけ、曲から返ってきた響きに耳を澄ませるのである。数年後には、同じ問いに別の答えが返ってくるかもしれない。それは過去の解釈が間違っていたからではなく、自分が以前とは異なる場所に立っているからである。大切なのは、曲を完全に所有したと思わないことなのだろう。もう理解した、もう弾ける、と扉を閉じた瞬間、作品との会話も止まってしまう。反対に、まだ何か聞こえるかもしれないと耳を開いていれば、変わらない楽譜の中から、新しい風景が現れる。音楽を学ぶことは、曲を完成させることではなく、自分が変わるたびに曲と出会い直すことなのだと思った。フローニンゲン:2026/8/4(火)06:43
19088. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない綺麗な体育館にいた。そこで私は、日本のバスケの選抜チームに所属しており、練習に打ち込んでいた。ちょうど今から紅白戦を行うこととなり、今日が最初の顔合わせということで、選手同士、お互いの実力を確かめ合う場となった。私はガードのポジションを担当し、マッチアップしたガードの相手がハイプレスをかけてきて、その見事な圧に対して、敵ながら賛辞を送った。そこから試合はシーソーゲームとなっていたのだが、気がつくと、いつの間にか、選抜チーム対NBAのオールスターチームの試合となっていた。相手はテレビで見るようなスター選手揃いで、身長差も実力差もありながら、それでも均衡した試合を行っていた。少しでも気を緩めると、そこを見事に突かれてしまうという最高の緊迫感がたまらなく快感であり、自分はその快感の中でゾーンの状態に入ってプレーを続けていた。
次に覚えているのは、夢を観察する者として存在していた場面である。私が眺めていたのは、あるとても気の優しいロボットが3人の若い日本人女性に騙されている光景である。3人はロボットをそそのかし、ロボットを騙してお金を巻き上げようとしていることがすぐにわかった。ロボットはそれに気づいておらず、3人の話を親身になって聞いていた。すると3人が大きな包装紙を何枚か用意し、ロボットをそれに包んでキャスター付きの台に載せた。3人はその台を押しながらアジトに向かい始めた。ところがアジト近くの急な坂道で、台から手を離し、ロボットを壁に激突させて破壊するという暴挙に出た。台が坂道を転がり始めると、ここまで俯瞰的に夢を眺めていた自分の意識が突然ロボットの目線となり、壁に衝突する瞬間までハラハラしながら見届ける形となった。壁に衝突しながらも、ロボットは壊れることはなく、その勢いのまま、アジトのアパートの中に台が転がっていった。アパートには複数の部屋があり、そこには3人と同世代の日本人の男女がたくさんいた。ロボットはようやくそこで自分が騙されていたことを知り、包装紙を破って中から出てきた。その時のロボットはもう優しさも理性も失っており、その場にいた若い男女を殺戮し始めた。私は最初からロボットの味方で、人間よりも人間らしいと思っていたので、その場にいた若い男女を殺戮することに対して何にも感情はなく、むしろそれを応援している自分がいた。醜悪な人間たちが一掃されることを歓迎している自分がいたのである。全ての部屋の若者たちを1人残らず殺したところで、ロボットは屋上の展望台にまるで呼ばれたかのように向かっていった。するとそこには2人の若い外国人の女性がいて、彼女たちは日本語を話すことができた。彼女たちはそこで踊りの練習をしており、彼女たちが舞う姿をロボットが見た時、ロボットはハッと我に返った。その2人は唯一、ロボットに対して優しく接していた人間だったのだ。2人はロボットに優しく微笑み、ロボットはその微笑みに癒やされるのと同時に、自分が先ほど行った大量虐殺について深い懺悔の念を持ったようだった。ロボットはそのことについて話すと、2人は始終優しい笑みを浮かべながら、ロボットの気持ちを労わりつつ、自首することを勧めた。ロボットは2人の提案を素直に聞き入れ、自首する決意を固めた。そのような夢を見ていた。この夢の後、またしてもロボットが現れてくる夢を見ていた。そこにはたくさんのロボットと人間が互いに尊重し合いながら、お互いを助け合い、共生している姿が映し出されていた。私は、ロボットと人間の双方の温かい思いやりの心に感動し、夢の中で涙を流していた。フローニンゲン:2026/8/4(火)07:02
19089. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で高度な競争性と深い倫理性が同時に鍛え直されている過程を象徴しているのかもしれない。見慣れない綺麗な体育館は、これまで十分に使用されてこなかった新しい精神領域であり、そこで選抜選手として練習する姿は、自分が人生の次の舞台に向けて能力を選別し、精鋭化していることを示しているように思われる。ガードという役割は、全体を見渡し、流れを読み、適切な瞬間に判断する自己機能の象徴であろう。相手のハイプレスに賛辞を送る場面は、圧力を敵として退けるのではなく、自分を研ぎ澄ます砥石として歓迎できる段階に入りつつあることを表しているのではないか。試合相手がNBAのスター選手へと変わる展開は、課題の尺度が突然世界最高水準へ引き上げられることを暗示しているようである。それでも試合が均衡している点は、自分の深層が、表面的な自己評価以上の力をすでに認めている証しなのかもしれない。わずかな油断が失点につながる緊迫感を快感として味わう姿は、危機によって縮こまるのではなく、極度の集中の中で自己境界を忘れる資質を示している。そこでは自分は、試合をしている個人というより、試合そのものを流れる電流になっているのであろう。後半のロボットは、自分の中の誠実で理性的だが、他者の悪意には無防備な部分を象徴していると考えられる。人間よりも人間らしいロボットとは、感情的な駆け引きよりも善意と原則を信じる自己像であり、それが包装紙に包まれる場面は、他者の物語や期待によって本来の判断力を覆われる危険を表しているのかもしれない。包装紙は贈り物の外観を持ちながら、実際には拘束具である。そこには、善意の顔をした搾取への警戒が込められているように見える。坂道で突き落とされる瞬間に視点がロボットへ移るのは、傍観者でいることが不可能となり、傷つけられる側の痛みを自分自身の感覚として引き受けたことを意味するのであろう。しかし、衝突しても壊れない点は重要である。破壊されるはずの経験が、むしろ封印を破る衝撃となっている。ところが、解放された力は正義として働くのではなく、殺戮へと反転する。これは、抑圧された怒りが噴出すると、加害者だけでなく、同じ集団に属する者全体を一括して断罪する危険を示しているのかもしれない。自分が殺戮を応援していたことは、心の奥に、腐敗したものを完全に消去したいという苛烈な浄化願望が存在することを示唆しているようである。屋上は、閉ざされた部屋から空へ抜ける意識の高所であり、そこで踊る2人の外国人女性は、怒りの論理では到達できない異質な救済原理を象徴しているのであろう。彼女たちの踊りは、裁きではなく調和によって秩序を回復する力であり、その微笑みは、ロボットの残虐性の奥にも善性が残っていることを静かに照らす月光のようである。自首を勧める行為は、無条件の赦免ではなく、愛情と責任を両立させる成熟した倫理を表している。最後に現れた人間とロボットの共生社会は、この夢全体の回答であるように思われる。自分の課題は、理性と感情、競争と慈悲、人間性と機械性のどちらかを滅ぼすことではなく、互いの力を尊重しながら統合することなのであろう。前半の試合が対立の中の共鳴を示し、後半の殺戮が断絶の悲劇を示した後、最終場面では差異を保ったまま助け合う世界が出現している。夢の涙は、自分が本当に望んでいる勝利とは敵を消すことではなく、異なる存在が共に生きられる秩序を創ることだと、深層が理解した瞬間の涙なのかもしれない。フローニンゲン:2026/8/4(火)07:55
19090. 排便に潜む音楽
ふと、日々の生活には音楽探究の種が思いのほか多く潜んでいるのだと思った。音楽というと、つい楽器や楽譜、整った演奏会場を思い浮かべてしまう。しかし、耳を少し解放してみれば、身体そのものも絶えず音を生み出している。足音、呼吸、衣服の擦れる音、食器の触れ合う音、そして排泄の際に生じる音も、その例外ではない。大便をするときの音に注意を向けると、そこには意外なほど明確な時間的構造がある。落下までの間、便器に触れる瞬間、続いて現れる水音、それらの間にできる沈黙が、一つの短いリズムを形成している。毎回同じように見えて、実際には速度も間隔も音色も異なる。ある日は短く歯切れがよく、別の日には長い休符を挟みながら不規則に続く。これは身体が無意識に演奏する、小さな打楽器曲のようでもある。さらに興味深いのは、その音の高低や輪郭を記憶すれば、旋律の原型として捉えられる可能性があることである。もちろん、そこに明確なドレミが聞こえるわけではない。しかし、上昇する感覚、下降する感覚、短く途切れる動き、長く尾を引く響きといった特徴を抽出すれば、即興演奏のフレーズへ変換できそうである。現実の音をそのまま模倣するのではなく、身体が偶然生んだ運動を、ピアノや声や打楽器の身振りへ翻訳するのである。小便の音を重ねて考えると、さらに音楽的な可能性が広がる。連続的な流れの音は持続音やドローンのように機能し、大便の断続的な音はその上に置かれる打点となるかもしれない。そこに換気扇の低い唸り、水を流す音、扉の開閉音まで加われば、狭い空間の中に偶然のアンサンブルが成立する。少し滑稽ではあるが、滑稽さと真剣さが同居するところに、現代音楽らしい魅力も生まれるのだと思う。毎日の排便をレコーダーで録音するという発想は、さすがに徹底しすぎている気もする。しかし、録音せずとも、音の特徴を一瞬だけ意識し、リズムや輪郭を記憶する習慣は試してみる価値があるだろう。大切なのは、排泄音そのものを珍奇な素材として見せることではなく、普段なら無視する音に耳を澄ませ、そこから音楽的関係を発見する態度である。また、もし記録を続けるなら、単に録音を蓄積するのではなく、日付、速度感、音の密度、残った印象を短い言葉や図形で書き留めてみたい。五線譜に無理やり閉じ込めるのではなく、点、線、空白、波形のような記号で記録すれば、身体の偶然を視覚的なスコアへ変えることもできるだろう。その譜面を後日見返し、元の音を正確に再現するのではなく、その日の身体感覚だけを手がかりに演奏すれば、記憶の曖昧さそのものが作曲技法になる。今日から、生活の中で聞こえた音を、意味や品位によって選別しすぎないようにしたい。美しい音だけが音楽の入口なのではない。むしろ、誰も作品になるとは思わない音の中にこそ、まだ名前のないリズムや旋律が眠っているのかもしれない。排便という最も日常的で身体的な行為が、即興演奏の素材へ変わるなら、生活そのものが巨大な作曲装置になる。これは確かに少しやりすぎである。しかし、その過剰さを笑いながらも真面目に試してみるところから、新種の現代音楽が始まるのだと思った。フローニンゲン:2026/8/4(火)09:52
Today’s Letter
Life is music, and music is life. They are one and nondual. Groningen, 8/4/2026


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