【フローニンゲンからの便り】19079-19082:2026年8月2日(日)
- 3 日前
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タイトル一覧
19079 | 基礎の集積 |
19080 | 今朝方の夢 |
19081 | 今朝方の夢の振り返り |
19082 | 五度圏を使った遊び |
19079. 基礎の集積
ブランダン・エイカー氏の言葉を読みながら、難しい技術を前にしたとき、自分がいかに完成形だけを見てしまっているかを考えた。演奏を聴くとき、耳に入ってくるのは滑らかに仕上がった音だけである。そこに至るまでに何度動きを遅くし、何度失敗し、どれほど単純な練習を積み重ねたのかは見えない。そのため、自分は完成した技術と現在の自分を直接比べ、能力の差だと思い込んでしまうのだろう。トレモロはその典型である。速く均一に連続する音だけを聞けば、一つの特殊な才能によって生み出されているように感じられる。しかし実際には、右手の各指を独立して動かすこと、一定の順序を保つこと、余分な力を抜くこと、音量をそろえること、拍の中に音を配置することなど、複数の小さな技能から成り立っているはずである。それらを一度に完成させようとすれば、頭と身体が混乱するのも当然である。難しい技術とは、巨大な一枚岩ではなく、小さな技能が肩車をしてできた塔なのだと思う。塔の頂上だけを見上げて跳びつこうとすれば、何度試しても届かない。しかし、一段目に足を置き、次に二段目へ進めば、同じ高さでも現実的な道として見えてくる。複雑さを分解するとは、技術を易しく見せかけることではない。自分が今扱うべき課題を、身体が理解できる大きさまで小さくすることである。この考え方は、トレモロだけでなく、語学やスポーツ、楽器全般にも通じている。会話を身につける前には単語があり、単語の前には音がある。即興演奏の前にはフレーズがあり、その前には音程やリズムの感覚がある。何かを習得するとは、突然できるようになることではなく、互いに支え合う小さな能力を正しい順序で積み上げることなのだろう。特に印象に残ったのは、進歩が遅いから忍耐が必要なのではなく、進歩には順序があるから忍耐が必要だという指摘である。自分は焦ると、基礎を飛ばして先の段階へ進みたくなる。しかし、飛び越えた部分は消えるのではなく、後になって弱点として姿を現す。速く進みたい気持ちが、かえって遠回りを生むのである。これから難しい技術に出会ったときは、できないと判断する前に、それがどのような小さな技能に分けられるかを考えたい。一つを整え、次を加え、さらに次へ進む。その繰り返しの中で、かつて不可能に見えたものが、いつの間にか自然な動作へ変わっていくのだと思う。才能とは大きく跳ぶ力だけではなく、目の前の一段を丁寧に上る力でもあるのだろう。フローニンゲン:2026/8/2(日)07:17
19080. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れないフットサルコートでフットサルの試合に出場していた。チームメイトと相手チームには、小中学校時代の友人が数人いた。それ以外には、特に相手チームにかつての世界的名サッカー選手がちらほらいて驚いた。そんな相手に対して、こちらは試合を優位に進めていた。自分はゴールとアシストの双方で大いに結果を出していたのだが、自分がイメージした動きよりも一歩体が遅く動き、それに対して幾分フラストレーションを感じていた。毎日フットサルをしているわけではないし、長年やっていなかったから感覚が鈍るのは仕方ないことなのかもしれないが、それにしても思い通りにプレーできないことにはフラストレーションが溜まると思っていた。試合終了間際に、逆転の危機を迎えた。どういうわけか、コートには2つのボールが入り込んでいて、2つのボールで試合をしていた。ゴール目の前で同時に2つのフリーキックを与えてしまったのである。片方のキッカーは、ブラジルの伝説的選手ロナウジーニョで、彼の方をまずケアし、彼のキックを止めてからもう片方のキックを防ぎたいと思った。それさえできれば、この試合はこちらのチームが勝利するだろうという確信があった。
次に覚えているのは、アメリカのある船着場にいた場面である。そこで私は、見知らぬアメリカ人の船に詳しい人と停泊している船の吟味をしていた。2人で中古価格を算定していると、気づけば私は海の上に浮かぶ一艘の小舟の上にいた。しばらく海を漂っていると、今度は突然、アメリカの高速道路を走る車の中にいた。車を運転していたのはある知人で、その車には小中学校時代のある親友(YU)と彼の母親が乗っていた。どういうわけか、ある地点から自分が運転することになり、運転免許を持ってはいるが、普段全然運転しない自分にとっては、アメリカの高速道路の運転には不安があった。それにも関わらず、その地点からなぜか車が自然と逆走し始め、後進モードで逆走する形で車を走らせた。そして、一般道に無事に出たところで、そこからは運転を誰かに代わってもらおうと思った。みんなあまり運転したくないようであったが、とにかく自分はもう運転はしないと覚悟を決めていたので、運転席から外に降りた。
もう一つ覚えているのは、広いバルコニーに置いている複数のプランターの植物に水をあげていた場面である。母の代わりに水をあげ始めたのだが、いくつかのプランターはすでに水が撒かれた跡があり、おそらく母が水をあげたのだと思った。まだ水があげられていないものを中心に、心を込めて水をやると、なぜかこちらが癒されるような気持ちになった。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2026/8/2(日)07:33
19081. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が過去に培った能力を携えながら、現在の生活の大きな移行期を渡ろうとしている心の構造を映しているのではないかと思われる。冒頭のフットサルコートは、限られた空間の中で素早い判断と連携が求められる場所であり、現在の自分が、研究、移住、生活整理、将来設計といった複数の課題を狭い時間枠の中で同時に処理している状況を象徴しているのかもしれない。小中学校時代の友人たちは、自分の人格の土台を形成した古い自己像であり、世界的名選手たちは、自分が内面化してきた卓越性の基準を表しているように思われる。その強敵を相手に優位に試合を進め、得点とアシストの双方で成果を上げている点は、自分が単独で成果を出す力だけでなく、他者や複数の領域を結びつける力も育てていることを示すのではないか。しかし、身体がイメージより一歩遅れる感覚は、精神の設計図に身体や現実の時間が追いついていないことへの焦燥を表しているのだろう。頭の中ではすでに次の地点に到達しているのに、現実の自分はまだ一歩手前にいる。そのずれは、速い旋律を思い描きながら指がわずかに遅れる演奏者のようなものである。試合終了間際に2つのボールが現れる場面は、とりわけ重要であると思われる。本来一つであるはずの試合が二重化し、同時に2つの危機へ対応しなければならなくなる構図は、自分が現在、過去の整理と未来の準備という2つの時間を同時に生きていることを象徴しているのかもしれない。ロナウジーニョは、予測不能な創造性や遊戯性の象徴であり、まず彼を止めようとする判断は、最も魅力的で強力な課題に注意を奪われながらも、優先順位を定めようとする意志を示しているのだろう。2つを同時に完全に処理するのではなく、まず一つを防ぎ、次にもう一つへ向かうという発想は、混乱の中で順序を回復しようとする心の働きである。船着場、小舟、高速道路へと場面が移る流れは、移住をめぐる心理的な航路を表しているように見える。船の中古価格を査定する行為は、これまで所有してきた物や経験にどの程度の価値を与え、何を手放すかを吟味する作業である。気づけば小舟で海上にいる場面は、評価者だった自分が突然、移行そのものの当事者になることを示しているのかもしれない。海は制度や国境を越える不確実性であり、小舟は最低限の装備だけで未来へ進む自己の姿である。その後の車の逆走は、単なる失敗ではなく、前へ進むために一度後ろ向きの姿勢を取らざるを得ない逆説を象徴しているのではないか。過去の友人とその母親を乗せ、後進しながら高速道路を抜ける姿は、古い記憶や家族的な安心を伴ったまま、通常とは反対の方法で危険な移行区間を切り抜けようとする自分を映しているように思われる。一般道に出て運転席を降りる決断は、すべてを自分で統御し続ける役割を手放す意思の表れである。これは逃避というより、運転すべき道と、他者に委ねるべき道を区別する成熟した境界設定であろう。最後の植物への水やりは、夢全体を静かに浄化する結末である。母がすでに水を与えた鉢と、まだ乾いている鉢を見分ける行為は、過去から受け継いだ養分と、これから自分が育てるべき領域を識別することを意味するのかもしれない。水を与えることで自分自身が癒されるのは、世話をする行為が他者への奉仕であると同時に、自分の内面へ水を戻す循環だからである。夢は最終的に、勝敗や運転のような制御の課題から、育成と共生の感覚へ自分を導いているように思われる。今の自分に必要なのは、すべてを速く動かすことではなく、乾いている場所を見極め、そこへ静かに水を注ぐことなのだろう。フローニンゲン:2026/8/2(日)08:13
19082. 五度圏を使った遊び
昨日、Cのすぐ隣にあるC♯やD♭を同時に鳴らしたとき、なぜあれほど不気味に聞こえるのかを考えていた。二つの音は遠く離れて衝突するのではなく、ほとんど同じ場所を奪い合うように震える。完全五度のような協和音では、二つの振動が比較的単純な比率で重なり、耳はそれらを一つの秩序として受け取りやすい。しかし半音差の二音では、基本音だけでなく倍音同士も近接し、耳の内部で細かなうなりやざらつきが生じるらしい。音が滑らかな一本の線にならず、薄い刃を何枚も擦り合わせたような感触になるのである。実際、二つの周波数が近いと、振動は周期的に強め合ったり弱め合ったりする。このうなりは音量の微細な脈動として感じられ、耳には落ち着かない震えとなって届く。さらに人間の聴覚には、近い周波数を同じ帯域の中で処理する傾向があるため、二音を鮮明に分離できない場合、それらは透明な二本の線ではなく、輪郭の崩れた一つの塊として聞こえるようである。半音の不気味さは、二音が離れすぎているからではなく、むしろ近すぎて区別しにくいことから生まれるのであろう。特に同じ強さで長く伸ばすと、この不安定さがよく分かる。CはCとして居場所を主張し、C♯もまた別の中心を要求する。ところが両者は近すぎるため、耳はどちらを基準にすべきか決めきれない。まるで二つの磁石を無理に同じ穴へ押し込んだように、引き合うのか反発するのかが定まらず、知覚の表面が震え続ける。音楽理論でいう不協和とは、単に音が汚いということではなく、解決先を要求する緊張なのであろう。この感覚が禁忌めいて聞こえるのは、距離の近さそのものが原因なのかもしれない。遠い音同士なら、違いは明確であり、それぞれが別の人格として並び立てる。だが半音差では、似ているのに同一ではない。親密さと異質さが同時に現れ、境界が曖昧になる。自分が近すぎる関係の不穏さを連想したのも、このためであろう。似た者同士が調和するのではなく、似ているからこそ互いの輪郭を侵食する。そこに、心理的な居心地の悪さが生まれるのだと思う。ただ、半音そのものが常に不気味なわけではない。旋律の中でCからD♭へ一瞬動くなら、それはため息や憧れにも聞こえる。D♭からCへ戻れば、緊張がほどけ、暗い部屋の扉が静かに閉まるような安堵が生まれる。また、音楽を聴いてきた経験も大きい。西洋音楽では半音が導音や倚音として解決を予告する場面が多く、耳は半音をまだ終わっていない音として学習しているらしい。そのため、解決を与えずに放置すると、宙吊りにされた感覚が残るのである。低音域で二音を同時に鳴らすと濁りは強くなり、高音域では鋭い光のように感じられることもある。つまり不気味さは音程だけで決まらず、音域、長さ、音色、強弱、前後の文脈によって姿を変えるのである。半音は、音楽の中の傷口のようなものかもしれない。小さいのに、そこから緊張が滲み出す。しかし、その傷口があるからこそ、解決した瞬間の静けさが深く感じられる。今日あらためて思ったのは、不協和音とは秩序の敵ではなく、秩序を欲しがる耳の叫びなのだということである。フローニンゲン:2026/8/2(日)10:15


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