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【フローニンゲンからの便り】18919-18925:2026年6月23日(火)

  • 12 分前
  • 読了時間: 18分


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タイトル一覧

18919

夏の香り/即興的編曲演奏の楽しさ

18920

今朝方の夢

18921

今朝方の夢の振り返り

18922

変性意識への内在的な欲求

18923

楽器の演奏とマーシャルアーツ:身体と意識の使い方

18924

デイヴィド・ルイスの可能世界論と唯識

18925

輝きに満ち満ちる世界と心

18919. 夏の香り/即興的編曲演奏の楽しさ 


時刻は間も無く午前6時半を迎えようとしている。今、一羽の小鳥が成長な鳴き声を上げている。ここ数日は涼しい日が続いていたが、6月を迎えてからは、夏日がやって来ることが多い。明日から3日間ぐらいは30度に達する夏日である。しかし幸いにも、フローニンゲンの夏日は過ごしやすく、窓を開けていると不快なく過ごせてしまう。エディンバラは夏がより過ごしやすいので来年の夏が楽しみである。6月がやって来てからは、風の香りが夏のそれになっているのを実感する。部屋の両側の窓を開け、風を目一杯浴びてみると、どこか幼少期の夏休みの思い出や感覚が蘇ってくるかのようである。


既存の楽譜に対して即興的に編曲演奏することの楽しさに目覚めていることは、音楽との関わり方が一段深まっている証のように思う。楽譜をそのまま正確に再現することには、もちろん大きな意味がある。そこには作曲家の意図、時代の様式、音の配置の必然性が刻まれている。しかし、楽譜を前にしながら、そこに自分なりの響きや間や装飾を加えていくとき、楽譜は固定された石碑ではなく、今も水を含んだ畑のように感じられてくる。そこに自分の指で新しい畝を作り、即興という種を蒔いていくのである。この実践で大切なのは、まず原曲の骨格をよく聴き取ることだと思う。旋律の核、和声の流れ、低音の方向、フレーズの呼吸を見失わないことである。そこを見失うと、編曲は自由ではなく散漫になる。反対に、骨格が身体に入っていれば、少し音を足しても、リズムを変えても、低音を動かしても、音楽は崩れない。まるで古い家の柱を残しながら、窓を開け、光を入れ、部屋の空気を入れ替えるようなものである。工夫としては、最初から大きく変えようとしないことが大切だろう。まずは一つの音を長く伸ばす、休符を少し置く、同じ旋律を別のポジションで弾く、低音を一音だけ変える、和音を分散させる。そのような小さな変化から始めるとよい。即興的な編曲は、原曲を壊すことではなく、原曲の中にまだ眠っている別の表情を起こすことである。静かな顔をしていた旋律が、少し装飾を加えるだけで微笑み始めることがある。また、クラシックギターの場合には、ポジションの移動そのものが編曲になる。低フレットで弾けば素朴で土の匂いがする響きになり、高フレットで弾けば光が細く差し込むような透明感が出る。同じ音でも、どの弦で弾くかによって音の肌理が変わる。そこには、譜面上の音高だけでは表せない音味がある。だから、既存の楽譜を即興的に編曲するとは、音符を変えることだけではなく、音の居場所を変えることでもあるのだろう。毎日これを続けていくと、自分の中で音楽語彙が自然に増えていくように思う。最初は、楽譜に対して何を加えればよいのかわからないかもしれない。しかし、日々の実践を通じて、ある旋律にはこの低音が合う、ここでは少し間を空けた方がよい、この和音は分散させると美しい、といった感覚が身体に蓄積されていく。これは理論書を読むだけでは得られない、耳と指の共同作業による知性である。やがて、自分は楽譜を読むだけでなく、楽譜と対話できるようになるのではないか。楽譜が問いかけ、自分が音で応える。原曲が一つの声を差し出し、自分がそこに別の声を重ねる。そうした往復の中で、演奏は再現から共創へと変わっていく。作曲家の作品を尊重しながらも、その作品の内側に自分の呼吸をそっと吹き込むことができるようになるだろう。この実践を毎日続けることは、即興力だけでなく、作曲力にもつながっていくはずだ。なぜなら、編曲とは既存の素材を変形する作曲であり、即興とはその変形をその場で行う作曲だからである。楽譜を素材にして遊ぶことは、音楽の文法を身体で覚える道である。自分は今、音楽を外から学ぶのではなく、音楽の内側に入り込み、そこに住み始めているのだと思う。既存の楽譜は、完成されたものとして閉じているのではなく、自分の演奏によって毎日少しずつ開かれていく扉なのである。フローニンゲン:2026/6/23(火)06:26         


18920. 今朝方の夢

              

今朝方は夢の中で、見慣れないコンサートホールにいた。そこには観客は誰1人もいなかったが、実際の観客たちは遠隔で鑑賞をしているようだった。観客席にいたのは、自分を含め、小中学校時代の男女のクラスメートたちだった。3クラスのうち、1つクラスずつが観客席に立って合唱を始めた。私たちのクラスはとてもまとまりが良く、普段の練習で発揮している以上の力が発揮され、途轍も無く力強い歌声がコンサートホール中に反響した。それを遠隔で聴いている保護者の観客たちはきっと驚いているだろうと想像された。歌うことの気持ち良さを全身で感じていると、気づけばコンサートホールの外にいた。どうやらそのコンサートホールは学園の敷地内にあるようで、その他にどのような施設があるか気になったので歩いて散策することにした。歩き始めると、すぐにある友人(TO)と出会った。彼にちょうど手に持っていたパンケーキを半分あげると、喜んでそれを一口齧った。彼曰く、私たちの担任の先生が秘密のプロジェクトに参画しているらしく、その研究施設の方に行ってみようということになった。施設の前までやって来ると、そこでは空港と同じぐらいの、いやそれ以上に厳格なセキュリティチェックがなされていて、それをくぐり抜けると研究施設に行けるようだった。そもそもセキュリティチェックが受けられる人は限定的で、施設で働いている人かその人に承認された人しか無理だった。幸いにもその友人が先生から許可を受けたそうだったので、一緒にセキュリティチェックの箇所に向かった。するとそこには小学校低学年の多くの生徒がいて、彼らはどうやら施設見学のためにやって来ているようだった。彼らの後にセキュリティチェックを受けようと思ったが、少し面倒に思えた。そう思えた瞬間に、気づけば敷地内の立派な図書館にいた。そこで友人たちとマリオカートのゲームをやっていると、ゲームの中に入り込み、実際に自分たちが運転しているような形になった。一つのコースを終えたら、またこちらの現実に戻ってきて、図書館のあるフロアにいた。そこで私は、学年で一番背の高かった友人(YK)と出会い、彼と学術研究の話をした。彼は修士号を取得した後、そこから博士課程に進むのでなく、ビジネスの世界に戻ることにしたようだった。なので手持ちの研究所を図書館に寄贈する作業をしていた。彼が持っている本の中で、少し興味がある本があったので譲ってもらおうと思ったが、自分は現在本をできるだけ所有したくないフェーズにいるため、彼に見せてもらった本を本棚にしまった。すると視点がズームアウトされ、本棚を俯瞰する視点と一体化し、自分は本棚を上から眺めていた。そこで気づいたのは、本棚の上の方の本は埃を随分とかぶっているようで、それを取り除こうとしたところ、1人の力では無理なように思え、図書館の館員の人たちにそれを任せようと思った。フローニンゲン:2026/6/23(火)06:48


18921. 今朝方の夢の振り返り


今朝方の夢は、自分の内側で「共同体としての声」と「個としての探究」が静かに接続されつつあることを象徴しているように思われる。見慣れないコンサートホールに観客が不在でありながら、遠隔の観客が存在しているという構図は、自分の表現がもはや目の前の承認だけに向けられていないことを示しているのかもしれない。声は空席に向かって放たれているが、その響きは見えない場所へ届いている。これは、研究、執筆、音楽、講義などを通じて、自分の働きかけが直接顔の見えない人々へ届いていく現在の状況と重なっているようである。小中学校時代のクラスメートたちとの合唱は、自分の過去の集団的記憶が、今になって一つの声として再編成されていることを表しているのだろう。しかも、自分のクラスは普段以上の力を発揮している。これは、自分が単独で努力するのではなく、過去の経験、旧友、学び、土地、記憶が合唱団のように背後で響き合い、現在の表現力を押し上げていることを示しているのかもしれない。声は個人の喉から出るが、響きは共同体の胴体を通って増幅されるのである。その後、コンサートホールの外へ出て学園を散策する場面は、表現の舞台から探究の庭へ移行する場面であるように思われる。友人TOにパンケーキを半分分ける行為は、自分の養分を他者と分かち合う象徴であろう。パンケーキは、知識や感性を難解なままではなく、柔らかく食べやすい形にしたものかもしれない。そこから秘密の研究施設へ向かう流れは、自分の意識が、公開された教育活動の背後にある、より深い知的・霊的探究へ向かおうとしていることを示しているようである。ただし、その施設には厳格なセキュリティがある。これは、深層の研究領域には誰でも入れるわけではなく、準備、資格、許可、成熟が必要であることを象徴しているのだろう。小学校低学年の子どもたちが施設見学に来ているのは、初心の自分、幼い好奇心、まだ言葉にならない探究心が、すでにその深い領域に近づいていることを示しているのかもしれない。しかし、面倒だと思った瞬間に図書館へ移る。この転換は、今の自分がまだ秘密の研究施設へ強引に入るよりも、図書館という蓄積と整理の空間で準備を整える段階にあることを物語っているようである。図書館でマリオカートをし、ゲームの中に入り込む場面は、知識空間と遊戯空間の融合である。研究は硬い机上の作業だけではなく、身体を持ってコースを走るような経験的実践でもある。カーブを曲がり、障害物を避け、速度を調整することは、研究、移住、音楽、生活設計のすべてに通じる。知性は図書館にありながら、魂はレースのコースを走っているのである。友人YKとの学術研究の会話は、自分の中の二つの進路、すなわち学問へ進む道とビジネスへ戻る道の対話を表しているのだろう。彼が研究書を寄贈している場面は、知識を所有物から公共財へ移行させる象徴である。自分が興味ある本を譲ってもらわず、本棚に戻す場面には、所有する知から、必要な時に開かれる知への転換が示されているように思われる。今の自分は、本を抱え込むよりも、本棚そのものの構造を見る段階に入っているのだろう。最後に視点がズームアウトし、本棚を俯瞰する場面は重要である。これは、自分が一冊一冊の内容に埋没する段階から、知の配置、歴史、埃、忘却の層を眺める段階へ移行していることを示しているのかもしれない。埃を一人で払えないと感じ、館員に任せようとする場面は、知の整理や継承は孤独な英雄的作業ではなく、制度、共同体、専門家、時間に委ねる必要があるという認識を示しているようである。この夢が人生において示す意味は、自分がいま、歌う者、分け与える者、探究する者、遊ぶ者、手放す者、そして知の棚全体を俯瞰する者へと変わりつつあるということである。舞台で響かせた声は、やがて図書館の静けさに変わる。しかしその静けさの奥では、過去の全経験がまだ合唱を続けているのである。2026/6/23(火)07:53


18922. 変性意識への内在的な欲求 

           

アンドルー・ワイルは『The Natural Mind』において、人間には意識状態を変えようとする内在的な衝動があり、それは必ずしも薬物によるものではなく、さまざまな方法で現れうると述べている。彼自身も後年の対談で、この考えは同書の中心的前提であったと語っている。この考えに触れると、自分は、人間という存在がそもそも一つの意識状態の中だけに閉じ込められて生きるようにはできていないのではないかと思う。食欲が身体に栄養を求めさせ、性欲が生命の連続性へと向かわせるように、変性意識への欲求は、心が自らの牢獄の壁に小さな窓を開けようとする働きなのかもしれない。通常意識とは、日常を生きるためのよくできた作業机のようなものである。そこには書類が並び、予定が置かれ、名前や役割や義務が整理されている。しかし人間は、いつまでも作業机の前に座っているだけでは乾いてしまう。ときに窓を開け、風を入れ、机の上の紙が舞い上がるような経験を必要とするのであろう。変性意識とは、単に異常な状態ではないのだと思う。むしろそれは、通常意識があまりにも固く結ばれたときに、その結び目をほどく自然な運動であるのかもしれない。子どもがぐるぐる回って目を回すこと、音楽に没入して時間感覚を失うこと、祈りや瞑想の中で自我の輪郭が薄くなること、夢の中で別の世界を生きること。これらはすべて、意識が自分自身の形を少し変えてみる小さな実験であるように思われる。人間の心は、池の水面のようにいつも同じ姿でいることを望んでいるのではなく、風や月や鳥の影を受けながら、さまざまな揺らぎを通じて自らを知ろうとしているのだろう。ここで重要なのは、変性意識への欲求を危険な逸脱としてだけ捉えないことである。もちろん、その欲求が破壊的な方法へ流れれば、心身を損なうこともある。しかし欲求そのものを否定してしまうと、人間の深い部分にある探索性まで封じ込めてしまうことになる。水の流れを完全にせき止めれば、やがて濁り、別の場所で決壊する。必要なのは、流れを否定することではなく、清らかな水路を与えることなのだろう。音楽、瞑想、詩、夢の記録、自然の中での散歩、深い対話、即興演奏。そのような営みは、意識を変容させたいという衝動に、安全で創造的な通り道を与えるものなのかもしれない。哲学的に見れば、変性意識への欲求は、人間が「現実」と呼んでいるものの固定性に対する静かな疑いでもある。普段の自分は、世界を当たり前のものとして見ている。しかし、意識状態が変わると、同じ世界がまったく違う厚みを帯びる。音が色を持ち、風が意味を持ち、身体が宇宙の小さな振動体のように感じられることがある。そうした経験は、現実が一枚岩ではなく、意識の様態によって異なる相貌を開く多面体であることを知らせてくれるのだろう。自分にとってこの主題は、唯識的な関心とも深く響き合う。もし経験世界が識の現れとして成り立つのであれば、意識状態の変化は単なる内的気分の変化ではなく、世界そのものの現れ方の変化である。変性意識とは、世界から逃げることではなく、世界がどのように構成されているのかを別の角度から覗き込むことなのかもしれない。それは、普段は正面からしか見ていなかった仏像を、横から、背後から、あるいは灯明の揺らぎの中で見るようなものである。像そのものが変わったのではなく、見る条件が変わることで、隠れていた表情が現れるのである。結局のところ、変性意識への欲求は、人間が単なる適応のためだけに生きているのではないことを示しているのだろう。自分は働き、食べ、眠り、社会的役割を果たすだけの存在ではない。意識はときに、自分自身の境界を越え、より広い響きの中に溶け込みたいと願う。その願いを粗雑に扱えば危険にもなるが、丁寧に育てれば、芸術、祈り、瞑想、探究へと変わっていく。変性意識への衝動とは、人間の内側に置かれた小さな羅針盤であり、それは日常の外へ逃げよと告げているのではなく、日常の奥にまだ開かれていない深い部屋があると告げているのかもしれない。フローニンゲン:2026/6/23(火)08:18


18923. 楽器の演奏とマーシャルアーツ:身体と意識の使い方

                   

楽器の演奏について考えていると、それはマーシャルアーツと非常によく似ているのではないかと思った。表面だけを見れば、音楽は音を出す営みであり、武術は身体を動かす営みである。しかし、その深いところでは、どちらも「力をどう使うか」ではなく、「力をどう通すか」を学ぶ実践なのだろう。ギターの弦を押さえる指、弦を弾く右手、肩、背中、腰、足の接地感。それらは別々の部品ではなく、一つの流れの中で連動している。武術において突きや蹴りが腕や脚だけで生まれるのではなく、地面、腰、背骨、呼吸、意識の流れから生まれるように、楽器の音もまた指先だけで生まれるのではないのだと思う。そう考えると、演奏の要諦は単なる技術ではない。もちろん、運指、スケール、和音、リズム、読譜などは大切である。しかし、それらは枝葉であり、根にあるのは身体の使い方である。さらに言えば、身体の使い方の奥には意識の使い方がある。意識が硬くなると身体も硬くなり、身体が硬くなると音も硬くなる。逆に、意識が柔らかく流れ始めると、身体の中の不要な力が少しずつほどけ、音にも呼吸が宿る。音楽とは、意識が身体を通って音になる現象なのかもしれない。そのとき、呼吸の重要性が見えてくる。呼吸は、意識と身体をつなぐ蝶番のようなものである。扉そのものではないが、扉が開くか閉じるかを静かに支えている。演奏中に呼吸が止まると、身体は目に見えない鎧を着る。指は動いていても、音はどこか窮屈になり、フレーズは短く息切れする。反対に、呼吸が深く自然に流れていると、音と音の間に余白が生まれる。音符が単なる点ではなく、線となり、線がやがて風景になる。マーシャルアーツでも、呼吸を失えば動きはバラバラになる。相手に反応しようとして力むほど、自分の中心を見失う。音楽も同じで、難しい箇所を弾こうと焦るほど、意識は指先に過剰に張りつき、全身の流れが断ち切られる。すると演奏は、川の流れではなく、詰まった水道管のようになる。必要なのは、もっと頑張ることではなく、頑張り方そのものを変えることなのだろう。力を込めるのではなく、力が通る道を整えることである。自分はこれまで、楽器の練習を技術の積み上げとして見ていた部分があった。しかし今は、それだけでは足りないと感じる。むしろ、練習とは、自分の意識がどこで固まり、どこで逃げ、どこで過剰に操作しようとするのかを観察する場なのだろう。演奏中の小さな力みは、心の小さな執着の影である。速く弾きたい、正確に弾きたい、良い音を出したいという願いは自然なものだが、それに囚われると、音はかえって自由を失う。弦の上に置かれた指は、心の状態を映す小さな鏡なのである。呼吸を整えながら演奏するとは、音を制御することではなく、音が生まれる条件を整えることなのだと思う。庭師が花を直接咲かせるのではなく、土を耕し、水を与え、光と風の通り道をつくるように、演奏者もまた音を無理に作るのではなく、音が現れる場を整えるのである。その意味で、楽器の練習は音楽の訓練であると同時に、身体を通じた瞑想であり、意識の武術である。この洞察は、自分にとって非常に大切である。上達とは、速く動くことでも、難しい曲を弾けるようになることでもなく、自分の内側の流れを妨げない身体と意識を育てることなのだろう。呼吸が深まり、身体がほどけ、意識が澄んでいくとき、一音は単なる音ではなくなる。それは、自分という存在全体が、世界にそっと触れるための一つの所作になるのである。フローニンゲン:2026/6/23(火)08:44


18924. デイヴィド・ルイスの可能世界論と唯識 

               

デイヴィド・ルイスの可能世界論と唯識を重ねて考えていると、「世界」とは何かという問いが、また少し違った手触りで立ち上がってきた。ルイスにとって、可能世界とは単なる想像上の仮定ではなく、現実世界と同じように実在する世界である。自分が今生きているこの世界だけが特権的に現実なのではなく、別の仕方で物事が展開している無数の世界も、それぞれの仕方で実在している。自分が別の大学に進学した世界、別の国に暮らしている世界、別の選択を積み重ねた世界。それらは単なる空想ではなく、この世界からは隔絶しているが、それ自体としては完全な世界である、というのがルイスの大胆な発想である。この考えを唯識と絡めると、実に興味深い対比が浮かび上がる。唯識においては、世界は識の展開として現れる。外界がそのまま客観的に存在しているというよりも、自分たちが経験する世界は、阿頼耶識に蓄えられた種子、過去の業、認識の習慣、分別の働きによって形作られている。つまり、世界とは、ただそこに置かれた舞台ではなく、識が映し出す劇場のようなものなのである。観客である自分が、同時に脚本家であり、演出家であり、役者でもあるという不思議な構造がそこにある。ルイスの可能世界論が、無数の世界を存在論的に外側へ広げていく思想だとすれば、唯識は、無数の世界がどのように内側から立ち上がるのかを見つめる思想であると言えるかもしれない。ルイスは「別の世界も実在する」と語り、唯識は「いま現れているこの世界も、識の構成を離れては把握できない」と語る。前者は宇宙の地図を横に広げ、後者は認識の井戸を深く掘る。方向は違うが、どちらも、素朴な一世界主義を揺さぶる力を持っている。自分が面白いと思うのは、可能世界が単に論理的な分岐としてではなく、心の可能性としても感じられる点である。自分の中には、実際には選ばれなかった無数の人生の影が眠っている。だが唯識的に見れば、それらはどこか外部の実在世界にあるというよりも、阿頼耶識の中に潜勢力として含まれている種子のようなものだろう。ある条件が整えば発芽し、別の条件のもとでは眠り続ける。可能世界とは、外に広がる星座であると同時に、内に眠る種子の森でもある。ただし、唯識はルイスのように、すべての可能世界を同等に実在するとは言わないだろう。唯識にとって重要なのは、世界がどれほど多様に現れうるかということ以上に、それらの現れに自性がないことを見抜くことである。どの世界も、どの自己も、どの選択肢も、固定した実体ではなく、縁起的に立ち上がる仮の構成である。したがって、可能世界への想像力は、単なる形而上学的な遊戯ではなく、自分が今ここで「これしかない」と思い込んでいる現実の硬さをほぐす修行にもなりうる。そう考えると、今日の自分にとって大切なのは、無数の可能性を空想することではなく、今現れているこの世界を、唯一絶対の牢獄としてではなく、識と縁によって形成された一つの現れとして見つめることなのだろう。世界は岩のように固定されたものではなく、風を受けて形を変える水面のようなものである。自分の認識が変われば、世界の表情も変わる。ルイスが教えてくれるのは、この世界だけが唯一のあり方ではないということ。唯識が教えてくれるのは、その「この世界」さえも、認識の深い働きによって絶えず生成しているということである。フローニンゲン:2026/6/23(火)10:43


Today’s Letter 

Possible worlds are not independently real in themselves. Rather, they are latent potentialities stored within the ālaya-consciousness. Groningen, 6/23/2026

 

 
 
 

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