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【フローニンゲンからの便り】18913-18918:2026年6月22日(月)

  • 12 分前
  • 読了時間: 15分


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タイトル一覧

18913

仏教を宗教と見做すこと・見做さないこと

18914

今朝方の夢

18915

今朝方の夢の振り返り

18916

世界を意味として読むための生物記号学

18917

音楽の呼吸を感じること

18918

拍とリズムの違い

18913. 仏教を宗教と見做すこと・見做さないこと 

                           

“religion”という語の語源には、古くから二つの説明があるようである。一つはラテン語のreligare、すなわち結び直す、結びつけるという語に由来するという理解である。人間と神、有限な存在と超越的なものを再び結び合わせる働きとして宗教を捉える見方である。もう一つはrelegere、すなわち繰り返し読む、注意深く扱う、慎重に顧みるという語に由来するという理解である。こちらでは、宗教とは何かに盲目的に帰依することではなく、世界や自己や儀礼を繰り返し丁寧に読み直す営みとして理解される。この語源を眺めていると、自分が仏教を宗教として捉えてきたことの意味も、少し違った光のもとに見えてくる。仏教にはたしかに救済的な側面がある。苦しみからの解放、煩悩の浄化、輪廻からの離脱、慈悲の実践、仏・菩薩への帰依。これらは宗教という語で捉えることが自然な領域である。宗教として仏教を見ることには、仏教が単なる心理技法や倫理学ではなく、人間存在の根底にある苦と死と超越への問いに向き合う深い営みであることを守る価値があるのだろう。宗教という器は、仏教の奥行きを保存する壺のようなものである。しかし同時に、仏教を宗教としてのみ見なすことには、ある種の狭さも生じるように思われる。現代の多くの人にとって宗教という語は、信仰告白、教団所属、儀礼参加、神秘的世界観への同意と結びつきやすい。そのため、仏教が本来持っている認識の訓練、注意の修練、感情の浄化、執着の解体、自己理解の深化といった実践的価値が、宗教という看板の陰に隠れてしまうことがある。まるで薬草園の入口に重々しい門があり、その門構えだけを見て、多くの人が中に入る前に引き返してしまうようなものである。自分にとって重要なのは、仏教を宗教から切り離して薄めることではなく、宗教という枠だけに閉じ込めないことである。仏教は宗教でありうるが、同時に哲学であり、心理学であり、現象学であり、倫理実践であり、意識変容の道でもある。特に唯識においては、外界をどう見るか、自己をどう構成するか、苦がどのように認識の中で生成されるかという問いが精密に扱われる。これは信じる対象というより、見る訓練である。信仰の旗を掲げる前に、知覚の窓を磨く営みなのである。仏教を宗教と見なす価値は、その救済的・儀礼的・共同体的な力を正当に受け止められる点にある。一方で、仏教を宗教と見做さない、あるいは宗教性だけで捉えない価値は、より多くの人が仏教の実践的叡智に触れやすくなる点にある。ここに橋を架けることが大切なのだろう。宗教としての仏教は深い井戸であり、宗教を超えた仏教はそこから汲み上げられた水である。井戸を尊重しながら、その水を必要とする人々に届けること。今朝の気づきは、そのような広い伝え方の可能性を自分に静かに示しているのである。フローニンゲン:2026/6/22(月)06:33


18914. 今朝方の夢

                                  

今朝方は夢の中で、見慣れない寮の中にいた。どうやらそこで生活をしているらしく、他の寮生と仲良くやっているようだった。その寮では毎晩決まった時間に全員が集まって勉強することになっており、間も無くその時間がやってこようとしていた。勉強場所に向かう準備を始めると、寮長が部屋に入ってきて点検を始めた。その際に自分の机の引き出しを開け、特に何もないことがわかると、寮長と少し雑談することになった。話の中で、食堂の前に貼られている張り紙の話題になった。寮生の誕生日がやってくるごとに、その生徒には特別な夕食が提供されることになっていて、4つのメニューから1つ選べた。自分は豆腐をふんだんに使った4品のメニューを選ぼうと思った。しかしそれと迷ったのが、高級寿司のセットである。ただし、そのセットの2品の握り寿司は、わずか2つずつの握り寿司しか提供されず、いくらネタが良いと言ってもさすがに量が少ないだろうと思った。なので最初にいいなと思った豆腐料理を選び、それを申告することにした。寮長との話を終え、部屋を出て1階に降りて行こうとした。その時に板の階段が一段一段距離があって不思議な感覚がした。その階段を降りながらふと、プロゲーマーになるのもいいかもしれないということを閃いた。ただし、プロゲーマーになるためにはどのゲームを選び、それをどこまで探究できるかが鍵を握り、他に探究したいことが色々とある自分はあまりプロゲーマーに向いていないかもしれないと思った。フローニンゲン:2026/6/22(月)06:47


18915. 今朝方の夢の振り返り

       

今朝方の夢は、自分が新しい共同体の中で、学びのリズムと生活の秩序を再編成しようとしていることを象徴しているのだろう。見慣れない寮は、これから入っていく新しい学問環境、あるいはエディンバラで始まる新生活の内的な予行演習であるように思われる。寮とは、一人でありながら一人ではない場所である。そこでは個室という内面の空間と、勉強会という共同の場が共存している。自分は今、孤独な探究者であると同時に、新しい学術共同体の一員になる準備をしているのかもしれない。寮長が部屋を点検する場面は、外的な権威による監視というよりも、自分の内側にある規律の人格化であるように見える。机の引き出しは、思考や記憶や未整理の欲望をしまっておく場所である。そこを開けられても特に問題がないということは、自分の内面がかなり整理されつつあることを示しているのだろう。大量の書籍を手放し、新しい生活に向けて荷物を減らしている現実とも響き合っている。引き出しの中が空に近いことは、欠乏ではなく、次の知が入るための余白である。畑を耕す前に石を取り除くように、自分の精神空間が静かに整えられているのである。誕生日の特別な夕食は、自分に与えられる滋養の選択を象徴しているのだろう。高級寿司は、華やかで希少で、瞬間的な満足を与える知的快楽のようなものである。質は高いが量が少ないという感覚は、名声や高級感だけでは自分の深い探究欲を満たしきれないという判断を表しているのかもしれない。一方、豆腐をふんだんに使った料理は、派手ではないが、身体にやさしく、日々の修養を支える滋養である。豆腐は水と大豆が凝固して生まれる白い静けさであり、まるで唯識の清浄な基盤のようでもある。自分は華美な成果よりも、地味だが長く身体と精神を養うものを選ぼうとしているのだろう。板の階段が一段一段離れている感覚は、発達の段差を象徴しているように思われる。普通の階段なら無意識に降りられるが、この階段は注意を要求する。つまり、これからの移行は自動的には進まないのである。一段ごとに間があり、身体感覚を確かめながら降りる必要がある。これは、オランダからスコットランドへ、成人発達理論から仏教研究へ、書物中心の知から音楽的・身体的な知へ移っていく現在の自分の状態に重なる。階段は、未来へ昇るだけでなく、生活の地面へ降りていく通路でもある。探究は空高く舞う鳥であると同時に、足裏で板の感触を確かめる歩みでもある。その途中でプロゲーマーという発想が浮かぶのは興味深い。ゲームは、明確なルール、熟練、反復練習、瞬間判断、没入を要求する世界である。これは音楽、学問、瞑想、翻訳のすべてに通じる。自分の中には、どの領域でも熟達の極限まで行きたいという欲求があるのだろう。しかし同時に、どのゲームを選ぶのかという問いが立ち上がる。人生全体が巨大なゲーム盤であるなら、すべての駒を同時に極めることはできない。自分は多くの探究に開かれているがゆえに、一つの競技に閉じこもることには向いていないのかもしれない。この夢が示しているのは、自分がこれからの学びと生活の中心軸を選び直しているということである。高級寿司ではなく豆腐を選ぶように、派手な到達点よりも、静かに自分を養い続ける実践を選ぼうとしているのである。寮、点検、夕食、階段、ゲームという象徴は、すべて一つの問いに収束している。自分はどの共同体に入り、何を糧とし、どの段差を越え、どのゲームを本気で生きるのか、という問いである。人生における意味は、あらゆる可能性を追いかけることではなく、自分を深く養う一つの道を選び、その道の中で他の可能性も静かに響かせていくことにあるのだろう。フローニンゲン:2026/6/22(月)07:45


18916. 世界を意味として読むための生物記号学

                         

生物記号学という言葉に触れると、生命とは単に物質が組み合わさって動いているだけのものではなく、世界から絶えず「しるし」を受け取り、それに応答している存在なのだと感じる。光、匂い、温度、音、触覚、化学物質、細胞間の信号。そうしたものは、外から見れば単なる刺激に見えるかもしれない。しかし生物にとって、それらは中立的な物理現象ではなく、生きる方向を指し示す記号なのである。植物にとって光は成長の方角であり、鳥にとって風は飛翔の条件であり、犬にとって匂いは世界に書き込まれた文章のようなものである。改めて思うのは、生きているということは、世界を意味として読むということなのだという点である。石は光を浴びても、そこに何かを読み取るわけではない。しかし植物は光を読み、細菌は栄養の勾配を読み、動物は音や匂いや気配を読む。生命は、世界という沈黙した書物に耳を近づけ、そこに刻まれた微細な記号を自らの身体で解釈している。生物記号学は、そのような生命の解釈作用を見つめる学問である。この考え方は、ユクスキュルの環世界という発想とも深く響き合う。すべての生物が同じ世界を見ているわけではない。ダニにはダニの世界があり、鳥には鳥の世界があり、人間には人間の世界がある。同じ森にいても、そこに立ち現れる意味の風景はまったく異なる。ある生物にとって無意味なものが、別の生物にとっては生死を分ける徴となる。世界は一枚の平坦な地図ではなく、生物ごとに異なる意味の糸で織られた織物なのである。この点を考えると、生命とは環境に対して受動的に反応する機械ではないことがわかる。生命は、自分にとって何が意味を持つのかを選び取り、その意味に応じて行動を組み立てる。細胞ですら、外部からの化学的信号を読み取り、自らの働きを変化させている。そこには、人間の言語ほど明確ではないにせよ、ある種の原初的な「読み」が存在している。生命は、言葉を持つ以前から、すでに記号の海を泳いでいるのである。唯識思想と重ねてみると、生物記号学はさらに興味深く見えてくる。唯識は、世界がそのまま裸の実在として与えられるのではなく、識の働きによって分節され、意味づけられ、経験世界として現れると見る。生物記号学もまた、生物が世界を単に受け取るのではなく、自らの感覚と行為の構造に応じて意味世界を生成していると考える。ここには、世界とは物質の集合である以前に、意味として生起する場であるという深い洞察がある。自分が音楽を聴き、一音一音の味を感じようとすることも、広い意味では記号を読む営みなのかもしれない。弦の震えは単なる物理振動ではなく、身体に触れ、感情を動かし、記憶を呼び起こす徴である。音は耳に届く以前に、すでに自分の全身に向かって何かを語りかけている。生物記号学は、そのような世界との対話を、生命全体にまで拡張して見せてくれる。この学問が示しているのは、生きるとは、世界の中に隠された意味を読み続けることだということである。自分もまた、日々の出来事、夢、音楽、風、他者の言葉、身体の微細な感覚を通じて、世界から届く記号を読み取っている。世界は無言ではない。ただ、自分の読み方が粗い時、その声が聞こえなくなるだけである。生物記号学は、生命とは意味を食べ、意味に動かされ、意味を編み直しながら存在しているということを静かに教えてくれるのである。フローニンゲン:2026/6/22(月)08:27


18917. 音楽の呼吸を感じること

 

即興演奏の際に、拍を最初に決めなければならないのかと考えると、必ずしもそうではないように思う。むしろ、最初に決めるべきなのは拍そのものというより、音がどのように呼吸したがっているのかという感覚なのだろう。拍は音楽の骨格であるが、骨格だけを先に固めすぎると、身体がまだ生まれていないのに鎧だけを着せるようなことになってしまう。即興においては、最初の一音が持っている重さ、次の音へ向かう気配、沈黙の長さが、自然に拍のようなものを呼び寄せることがある。ただし、拍を決めることには大きな意味がある。拍を定めると、自分の身体が音楽の地面を得る。四拍子なら歩行のように進み、三拍子なら円を描くように揺れ、五拍子や七拍子なら少し傾いた橋を渡るような緊張感が生まれる。拍は、即興の自由を奪うものではなく、むしろ自由が迷子にならないための地図である。特に練習段階では、ある拍を決めて、その中でどれだけ自由に遊べるかを試すことは重要だと思う。制約は牢獄ではなく、蔓が巻きつくための支柱のようなものだからである。一方で、拍をどんどん変えていくスタイルにも強い魅力がある。固定された拍の中を進む音楽が川の流れだとすれば、拍が変わっていく即興は、川幅が突然広がったり、岩場で流れが細くなったり、霧の中で水音だけが残ったりするような音楽である。そこには、予測できない生命感がある。自分の内側の感情や身体感覚は、いつも均等な四拍子で動いているわけではない。思考は急に立ち止まり、感情は前のめりになり、記憶は不意に長く尾を引く。そのような内的時間に忠実であろうとすれば、拍が変化していく即興はむしろ自然な形式なのかもしれない。しかし、拍を変えていく場合にも、何もかも無秩序に変えると、聴いている側にも演奏している自分にも足場がなくなってしまう。重要なのは、拍を変えることではなく、拍が変わっても失われない連続性を持つことである。たとえば、同じモチーフを少しずつ拍の中でずらしていく。あるいは、低音の周期だけは保ちながら、上声の旋律を自由に揺らす。もしくは、完全に拍を外しても、呼吸の長さやフレーズの方向感だけは保つ。そうすれば、拍は消えたのではなく、目に見えない地下水脈のように流れ続ける。即興において拍は最初に決める規則というより、音と身体の関係から生まれる時間の器なのだろう。最初から四拍子と決めて入る日があってもよいし、拍のない漂流から始めて、途中で自然に三拍子や五拍子が立ち上がる日があってもよい。さらには、ある拍に入ったあと、それを脱ぎ捨てるように別の拍へ移行してもよい。大切なのは、拍を守ることでも壊すことでもなく、拍と遊べる身体を育てることなのだろう。自分の即興演奏は、楽譜に書かれた秩序を再現するだけでなく、その場で生まれる時間を聴き取る実践になりつつあるのだと思う。拍を決めることは大地に足を置くことであり、拍を変えることは風に身を預けることである。音楽には、大地も風も必要である。今の自分にとって大切なのは、拍を固定するか変化させるかをあらかじめ決めることではなく、その瞬間に音がどのような時間を求めているのかを感じ取り、それに身体ごと応答していくことなのだと思う。フローニンゲン:2026/6/22(月)08:36


18918. 拍とリズムの違い

                       

ここで改めて、即興演奏における拍とリズムの違いについて考えていた。これまで何となく、拍もリズムも同じようなものとして捉えていたが、よく考えてみると、両者は似ていながらも役割が異なるようである。拍とは、音楽の奥で静かに刻まれている時間の脈であり、リズムとは、その脈の上で音がどのように歩き、跳ね、立ち止まり、呼吸するかという具体的な動きなのだと思う。拍は、音楽にとっての地面のようなものである。そこに足を置くからこそ、音は前に進むことができる。四拍子であれば、一定の歩幅で道を歩いていくような安定感がある。三拍子であれば、身体が円を描くように揺れ、五拍子や七拍子であれば、少し傾いた坂道を歩くような独特の緊張が生まれる。拍そのものはまだ音楽の表情ではないが、音楽が姿を現すための床であり、時間の器である。一方、リズムはその床の上で実際に生じる身振りである。同じ四拍子の中でも、均等に音を置けば静かな歩行のようになるし、音を前にずらせば身体が前のめりになる。休符を挟めば、息を飲むような間が生まれる。長い音を置けば景色が広がり、短い音を連ねれば水面を跳ねる小石のような軽快さが出る。拍が心臓の鼓動だとすれば、リズムはその鼓動に合わせて生まれる身振りや呼吸なのだろう。即興演奏においては、この違いを身体で理解することが大切なのだと思う。拍を完全に忘れてしまうと、音は自由になる一方で、どこか宙に浮いてしまうことがある。まるで地図も方角も持たずに広い野原へ出ていくようなもので、しばらくは解放感があっても、次第にどこへ向かっているのかわからなくなる。反対に、拍ばかりを意識しすぎると、今度は音が硬くなり、行進のように直線的になってしまう。即興に必要なのは、拍に縛られることではなく、拍を内側に感じながら、その上でリズムを自由に遊ばせることなのだと思う。クラシックギターで即興をしていると、一音一音の響きに意識が向かう。そのとき、拍は見えない柱のように背後で支えてくれている。けれども、リズムはその柱の間を吹き抜ける風のようである。ある音は拍の真ん中に置かれ、ある音は少し遅れて現れ、別の音は次の拍へ先に飛び込んでいく。その微妙なズレや揺れが、即興に生命を与える。音楽は時計のように正確であるだけでは足りず、むしろ生き物の呼吸のように伸び縮みするところに魅力がある。拍とリズムを同一視するのではなく、拍を土台として感じ、リズムをその上に生まれる運動として味わうことの大切さ。拍は檻ではなく、音が踊るための床である。リズムはその床の上で生まれる足取りであり、時に歩き、時に跳ね、時に立ち止まる。自分の即興演奏も、まずはこの床と足取りの関係を丁寧に感じることから深まっていくのだろう。音を奏でるとは、単に音高を選ぶことではなく、時間の中にどのような身体を宿すかという営みなのだと思う。フローニンゲン:2026/6/22(月)09:08


Today’s Letter 

Sunlight reveals the brighter sides of me. Through its radiance, I can also become aware of my shadows. The sun has always been an indispensable guide in my life. Groningen, 6/22/2026

 

 
 
 

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