【フローニンゲンからの便り】18889-18894:2026年6月18日(木)
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タイトル一覧
18883 | 答えの必要のない問いの大切さ/修士論文の着実な進展 |
18884 | 今朝方の夢 |
18885 | 今朝方の夢の振り返り |
18886 | 出発と帰還の重力/理論書の手放し |
18887 | ヒュームの思想と唯識思想 |
18888 | 帰郷の道を開く清水としての文化箏の音色 |
18889. 和的な響きをもたらすクラシックギター
数日前に文化箏を平調子にした余韻の中で、ふとクラシックギターも平調子的な響きにできるのだろうかと考えていた。箏の音は、弦ごとに定められた音が空間に放たれ、余韻が水面の波紋のように広がっていく。一方、クラシックギターはフレットを持ち、和音や旋律を自在に動かせる楽器である。そのため、箏そのものにはならない。しかし、平調子の音列をギターの上で選び取り、開放弦や低音をうまく響かせれば、そこには確かに和的な風景が立ち上がるように思われる。平調子の魅力は、単に日本的な音階であるという点に尽きない。そこには、明るく解決していく西洋的な長調とも、暗く沈み込む短調とも異なる、陰影を含んだ余白がある。たとえばEを基準にすれば、E、F、A、B、Cのような音を中心に旋律を作るだけでも、音の間に独特の間が生まれる。階段を一段ずつ上るというより、飛び石を静かに渡っていくような感覚である。その飛び石のあいだに、沈黙や呼吸や風が宿る。クラシックギターでは、通常のチューニングのままでも、この音列を選んで弾くことができる。6弦の開放Eを低く鳴らし、その上にF、A、B、Cを置いていくと、低音が地面のように支え、旋律がその上に細い煙のように立ち上がる。文化箏の音が湿った庭に降る雨のようだとすれば、ギターの平調子的な響きは、木の家の縁側に吹き込む夕風のようである。箏ほど水分を含まず、もう少し乾いた木質の響きがある。しかし、その乾きの中にこそ、侘びた美しさがある。変則チューニングによって、開放弦そのものを平調子の構成音に近づけることもできるだろう。そうすれば、弦を押さえなくても和的な響きの土台が生まれる。だが、ギターは箏と違って弦の張力に敏感であり、無理に高く調弦すれば楽器に負担がかかる。その意味では、まず通常チューニングのまま、使う音を絞る方がよいように思う。音を足すのではなく、音を減らすことで世界が深くなる。この発見は、音楽だけでなく、生活や学問にも通じる。自分はこれまで、クラシックギターに対して西洋音楽の楽器として向き合ってきた。しかし、ギターという木の箱は、弾き手の選ぶ音によって、スペインの乾いた大地にも、日本の夕暮れにも、古い寺の石段にも変化しうる。楽器そのものに国籍が固定されているわけではない。音階、間、余韻、触れ方によって、楽器は別の風土をまとい始めるのである。これは、自分の身体や知性にも似ている。外側の形式は同じでも、内側で鳴らす調べを変えれば、世界の響き方は変わる。ふと考えていたのは、文化箏とクラシックギターを別々の楽器として扱うだけでなく、両者のあいだに一本の細い橋を架けることだった。文化箏が自分の感覚の奥に和的な水脈を開いたのだとすれば、クラシックギターはその水脈を木の響きへと翻訳してくれるかもしれない。箏の平調子で得た感覚を、ギターの指板上で再発見すること。それは、異なる楽器のあいだで同じ魂の方言を探すような営みである。人この気づきは、自分が一つの楽器、一つの文化、一つの形式に閉じ込められる必要はないことを教えてくれているように思う。文化箏の平調子が開いた和的な響きは、クラシックギターにも移植できる。もちろん同じ花は咲かない。しかし、別の土壌に植え替えられた種は、その場所ならではの色を帯びて芽を出す。これから自分は、箏の湿り気とギターの木質感を往復しながら、自分自身の内側にある日本的な響きを少しずつ育てていくのだろう。フローニンゲン:2026/6/18(木)06:42
18890. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代の2人の親友(SI & NK)と見慣れない部屋で話をしていた。話の内容は音楽のことであったり、今お互いに探究していることだった。すると突然、部屋のドアからぬっと大男が現れた。見るとそれはアメリカの思想家ケン・ウィルバーだった。普段は明るい表情を浮かべることが多いウィルバーだが、どういうわけか彼の表情は無表情で、少し陰鬱とした雰囲気を放っていた。そんな彼が私のところにやってきて、「自分の思想をモチーフにしたこの漫画を日本語に翻訳してほしい」と英語でポツリと述べた。見るとそれはアメリカおよび世界的に大人気のコミックで、すでに50巻まで発売されており、そこから最後の巻まで日本語に翻訳することを求めてきたのである。これまでは誰か別の翻訳家が翻訳を進めてきたのだろうと察し、何か事情があってその翻訳家の代わりに自分に依頼してきたのだろうと考えた。イラストをこちらで描くわけではなく、単にセリフを翻訳していくだけなので、それほど大変ではないと思ったし、何よりもその漫画が面白いと思ったことと、ウィルバーからの依頼だったということもあって、快諾をした。彼は私の快諾に対して喜ぶこともせず、黙って部屋から出て行こうとした。その時に、締切についてもう一度確認すると、9/16から開始して12/11が締め切りとのことだった。ここから出版社を探し、そして翻訳を進めていくことを考えると、時間はあまりないと思ったが、自分ならこの仕事を無事に完遂させることができるだろうと思った。すると驚いたことに、気づけばその漫画の世界の中にいた。その漫画の物語が少し進行したところで突然、ドラゴンボールの主人公を含め、有名なキャラクターが登場し、懐かしさと共に、ここから物語がどのように進展していくのかワクワクした。
次に覚えているのは、数人の日本人と協力して、英語で学術論文を執筆している場面である。その中には、メディアによく出ている有名な若い経済学者がいて、彼は論文執筆にまるで無関心かのような素振りを見せていた。人によって執筆に対する思いがバラバラの中、自分は熱量高く論文の執筆を率先して行なっていた。フローニンゲン:2026/6/18(木)06:53
18891. 今朝方の夢の振り返り
自分の人生のドラマは、この宇宙のドラマである。自分は自らの人生の、そして宇宙のドラマの語り部として、毎日日記を綴り続ける。
今朝方の夢は、自分の過去・思想・創造性・学術的使命が、一つの物語装置の中で再配置されていることを象徴しているように思われる。小中高時代の親友SIとNKが登場する場面は、自分の原初的な自己感覚、すなわちまだ肩書きや研究領域に分かれる以前の、素朴で親密な自己の土壌を表しているのだろう。見慣れない部屋は、これから移行しようとしている新しい知的空間であり、そこでは音楽と探究が自然に語られている。つまり、自分の現在の関心が、過去の友情の層と静かに接続されているのである。そこに無表情で陰鬱なケン・ウィルバーが現れることは興味深い。ウィルバーは、自分にとって統合理論、発達、意識探究の象徴であるはずだが、この夢では輝かしい師というより、未完了の課題を携えた影の使者のように現れている。これは、自分がかつて深く影響を受けた思想体系に対して、単に憧れる段階を終え、それを別の言語、別の文化、別の物語形式へと翻訳し直す責任を引き受けつつあることを示しているのかもしれない。彼が喜ばず、黙って去るのは、承認ではなく委託だけが残されていることの象徴である。師は祝福するためではなく、荷物を渡すために来たのである。50巻以降を翻訳するという設定も重要である。これは、自分がゼロから物語を始めるのではなく、すでに大きく展開してきた思想史や探究史の続きを担うという感覚を表しているのだろう。漫画という形式は、思想が抽象概念としてではなく、キャラクター、戦い、冒険、変身として生きられることを示している。思想は論文の棚に置かれた鉱石ではなく、ページをめくるたびに動き出す生き物なのである。9月16日から12月11日という締切は、エディンバラでの新生活と研究開始の時間感覚と響き合っているように思われる。限られた期間の中で、出版社を探し、翻訳を進め、物語を完成に近づけるという流れは、これから自分が学術的にも生活的にも、新しい環境で成果を形にしていくことへの予感であろう。時間は少ない。しかし、自分なら完遂できるという感覚が夢の中にあることは、自分の深層がすでに次の課題を引き受ける準備をしていることを示しているのかもしれない。漫画世界の中に入り、ドラゴンボールの主人公たちが現れる場面は、思想が知的翻訳を超えて、身体化された冒険へと変わる瞬間である。ドラゴンボールは、修行、変身、仲間、戦い、限界突破の象徴である。自分の探究もまた、ただ静かに考えるものではなく、気を練り、型を磨き、新たな段階へ跳躍していく武道的な営みとして感じられているのだろう。懐かしさとワクワク感は、幼少期の物語的想像力が、現在の哲学的探究に再び火を灯していることを示しているように思われる。後半の英語論文執筆の場面は、夢の前半と対になっている。前半では思想を漫画として翻訳し、後半では学術論文として英語で表現している。つまり、自分には二つの翻訳課題があるのだろう。一つは、思想を多くの人に届く物語へ変換すること。もう一つは、思想を国際的な学術言語へ鍛え上げることである。有名な若い経済学者が無関心に見えるのは、名声や外的評価だけでは本当の熱量は生まれないことの象徴かもしれない。周囲の温度がばらばらであっても、自分だけは火種を守り、炉に風を送り続けているのである。この夢全体は、自分が過去の友情、ウィルバー的統合理論、漫画的想像力、英語論文執筆、そして新たな研究生活を、一つの大きな炉の中で溶かし合わせようとしていることを示しているのだろう。自分はもはや単なる読者でも、翻訳者でも、研究者でもなく、異なる世界を橋渡しする物語的鍛冶師になろうとしているのかもしれない。人生における意味は、受け取った思想をそのまま保存することではなく、それを自分の声・言語・物語・研究へと変容させ、次の世界に手渡していくことである。2026/6/18(木)07:57
18892. 宇宙に開かれた静かな庵で
どうやら自分にとっては、和的な響きの中に深い癒しがあるようだ。文化箏を平調子にして鳴らしたとき、その音は単に耳に届いたのではなく、身体の奥にある古い水脈に触れたように感じられた。西洋音楽の整然とした響きが、建築物のように空間を組み立てていくものだとすれば、和的な響きは、霧の中から山の稜線が静かに現れるように、心の内側に風景を立ち上げていくものなのかもしれない。和的な響きには、どこか余白がある。音と音の間に、語られないものが残されている。そこには、完全に満たすことよりも、少し欠けたまま響かせる美しさがあるように思う。平調子の響きに触れていると、心が無理に明るくなろうとしない。むしろ、寂しさや懐かしさや静けさを、そのまま包み込んでくれる。癒しとは、必ずしも傷を消すことではなく、傷が置かれていてもよい場所を心の中に作ることなのだと感じる。文化に根ざした響きとは、単なる音階や楽器の問題ではないのだろう。それは、自分の身体が長い時間をかけて受け継いできた感覚の地層に触れるものである。たとえ自分が長く海外で暮らし、さまざまな思想や音楽に触れてきたとしても、身体の奥には、幼い頃から知らず知らずに浴びてきた日本語の抑揚、寺社の鐘の残響、祭りの笛、雨音、畳の静けさ、夕暮れの湿度のようなものが眠っているのかもしれない。和的な響きは、それらを一つひとつ呼び覚ます鍵のように作用するのであろう。特に面白いのは、和的な響きが、自分を過去へ閉じ込めるのではなく、むしろ未来へ向けて整えてくれることである。懐かしさは、後ろ向きの感情のように見えるが、実際には心の根を潤す働きを持っている。根が乾いていれば、枝葉はどれほど外に伸びようとしても脆くなる。自分にとって和的な響きは、根に水をやる音なのだと思う。フローニンゲンからエディンバラへ、さらには仏教研究の道へと進もうとする今、外側の環境は大きく変化しつつある。その変化の中で、自分の深い根がどこにあるのかを思い出させてくれるものとして、和的な音が立ち現れているのかもしれない。癒しというものも、単にリラックスすることとは違う。癒しとは、分断されていたものが静かにつながり直す出来事である。思考と身体、過去と現在、日本と欧州、学問と生活、孤独とつながり。それらが、一本の絹糸のような響きによって結ばれていく。文化箏の音を聴いていると、世界に向かって拡散していた意識が、自分の内側にある小さな庵へ帰ってくるような感覚がある。その庵は狭い場所ではなく、むしろ宇宙に開かれた静かな中心である。おそらく、自分はこれまで、知的探究によって世界を理解しようとしてきた。しかし今、音を通じて世界に触れるという別の回路が開かれつつある。言葉は意味を運ぶが、音は存在の温度を運ぶ。和的な響きは、自分にとって、思想になる前の仏教、概念になる前の縁起、論文になる前の祈りのようなものなのかもしれない。そこでは、何かを説明する必要がない。ただ一音が鳴り、余韻が広がり、その余韻の中で心が少しずつほどけていく。人生における意味として、この気づきは、自分が文化的な根を再発見しながら、新しい土地へ向かおうとしていることを示しているように思う。和的な響きは、過去への退行ではなく、未来へ進むための内的な調律である。自分はこれからも欧州で学び、英語で考え、世界思想の中で仏教を探究していくことになるだろう。しかし、その歩みを本当に支えるのは、遠くへ行けば行くほど深く響いてくる、自分の内なる日本的な音色なのかもしれない。癒しとは、その音色に耳を澄ませ、自分という楽器をもう一度静かに調弦し直すことなのである。フローニンゲン:2026/6/18(木)08:23
18893. 音と戯れ、響きの中で縁起を学ぶための即興演奏
文化箏もクラシックギターも、一日の中で何度か、純粋に響きと身体を動かす運動を楽しむかのように即興演奏をすることには、思っている以上に大きな意義があるように感じられてきた。練習という言葉を用いると、どうしても上達、正確さ、課題克服、作品完成といった方向へ意識が向かう。しかし即興には、それとは異なる質の時間が流れている。そこでは、音を正しく出すというよりも、音と戯れる。楽器を支配するというよりも、楽器に触れながら、自分の身体がどのように響きに応答するのかを観察する。まるで水辺に手を入れ、波紋がどのように広がるのかを楽しむような営みである。文化箏の場合、平調子の和的な響きが、心の奥にある静かな感覚を呼び覚ましてくれる。弦に触れた瞬間、音は単なる高さや長さではなく、余韻をまとった風のように広がっていく。即興であれば、楽譜に縛られず、その余韻の行き先を追いかけることができる。音が鳴り、消え、また次の音が生まれる。その間にある沈黙もまた、演奏の一部になる。文化箏の即興は、音を積み上げるというより、静寂の池に一つずつ小石を落としていくようなものなのかもしれない。一方で、クラシックギターの即興には、身体の運動としての楽しさがある。右手の指が弦に触れ、左手が指板の上を移動し、音が木の胴体を通じて返ってくる。その循環の中で、身体は少しずつ楽器と対話し始める。特定の曲を練習しているときには、どうしても正誤の感覚が強くなるが、即興では失敗という概念が柔らかくなる。思いがけず出た音も、次の音への入口になる。つまずきさえも、道端に咲いた小さな花のように、そこから別の道筋を開いてくれる。即興を通じた遊びがもたらすものは、自由だけではない。むしろ、自由の中にある秩序への感覚である。完全にでたらめに弾いているように見えても、身体は次第に、心地よい動き、自然な音のつながり、響きの重心を探し始める。これは、知性が概念で考える前に、身体が世界の秩序を探っている状態なのだろう。音楽的な即興は、思考よりも先に生まれる知性の運動であり、身体が響きの中で縁起を学ぶような営みである。また、一日の中で何度か即興演奏をすることは、生活の中に小さな呼吸の場を作ることでもある。集中して文章を書き、研究を進め、翻訳をし、実務をこなしていると、意識はどうしても直線的になる。目的地へ向かう矢のように、前へ前へと進もうとする。しかし即興演奏を挟むと、その直線が一度ほどけ、円を描き始める。音を出すことは、時間を効率化するのではなく、時間に湿り気を取り戻すことなのだと思う。乾いた土に霧が降りるように、心身が少しずつ潤っていく。遊びには、深い発達的意味があるようにも思う。遊びとは、何かの役に立たない時間ではない。むしろ、まだ名前のない可能性が芽を出すための余白である。子どもが遊びを通じて世界の法則を学ぶように、大人もまた、遊びを通じて自分の未知の側面に出会う。即興演奏において、自分は演奏者であると同時に、聴き手であり、観察者であり、時には音に導かれる者でもある。そこでは、自我が少しだけ緩み、音の流れそのものが次の行為を教えてくれる。この意味で、文化箏とクラシックギターの即興は、自分にとって二つの異なる入口なのかもしれない。文化箏は、和的な響きの奥にある静けさへと自分を導く。クラシックギターは、指と弦と木の共鳴を通じて、身体的な躍動へと自分を開く。静けさと運動、余韻と律動、内省と遊戯。それらが一日の中で交互に訪れることによって、生活全体が一つの音楽的な呼吸を持ち始める。この気づきは、自分が音楽を単なる技能習得の対象としてではなく、存在を調律する営みとして受け取り始めていることを示しているように思う。即興とは、完成された曲を弾く前の未熟な遊びではなく、むしろ人生そのものに近い。先の見えない中で一音を出し、その響きを聴き、次の一音を選ぶ。その繰り返しの中で、自分という楽器は少しずつ整えられていく。文化箏とクラシックギターを通じた日々の即興は、音を奏でる練習であると同時に、自由に生きるための静かな稽古なのである。フローニンゲン:2026/6/18(木)08:34
18894. 平穏な夏日に思うこと
時刻はゆっくりと正午を迎えようとしている。とても穏やかで、夏休みの感覚が内側を満たしている。今日はとても暖かく、久しぶりに半袖半ズボンで過ごしている。夏休みのような懐かしい気持ちに浸りながら、仕事上のオンラインミーティング、論文執筆、クラシックギターの演奏、Youtubeチャンネルのための動画の作成など、午前中も精力的に働いていた。それら全ての営みが、仕事を超えて、生の充実感を増すための不可欠な存在に思えてくる。
早朝より、武満徹氏のクラシックギター用の曲集を聴いている。自分が向かう方向性の一端がそこにあると感じる。夏の雰囲気に、武満氏の音楽世界が調和していく。両者の溶け込むあわいに自分は佇んでいる。厳密に選別された音を通じて自己表現・世界表現をする日はいつになるだろうか。かつて作曲実践をしていたことの意義が、クラシックギターと文化箏における即興演奏に大変活きていることを実感する。今後ピアノの演奏を始めた際には、そこでまた即興演奏をする際に、作曲理論は活かされるだろう。そう考えてみると、これまでのいかなる学びも実践も無駄ではなかったことがわかる。それはまるで植物の根のように、菌類の菌糸のように、自分の目には見えないところで広大なネットワークを形成しているかのようである。それを縁起とも呼ぶ。今の自分の日々の感覚も考えも、そして実践も学習も何もかも、全て目には見えない縁起的ネットワークに支えられている。全てはそこから生じ、そこに還っていく。そしてその生成と帰還がネットワーク全体をさらに豊かなものにする。ゆえに自分の学びと実践は決して無駄ではなく、むしろコスモスの進化に参与するものとなる。
もはや自己や世界を知ること以上に、自己と世界を味わうことに関心がシフトしている。「探究」という言葉の代わりに、何か相応しい言葉を見つけなければいけない。いや、それはいつか自然と降ってくるだろう。「自己参与・世界参与」、はたまた「リアリティとの全合一」など、いくつか言葉が降ってくる。いずれにせよ、ここからの仏教研究もクラシックギターを含めた音楽実践もまた、すべて自己と世界を味わい尽くすためのものになる。それらは決して何かを知るためのものではなく、知ることを超えて、「なるためのもの」となる。フローニンゲン:2026/6/18(木)11:58
Today’s Letter
Shared illusions can become our social reality. What I always seek to protect is my own inner reality, which cannot be destroyed by collective delusions. Groningen, 6/18/2026


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