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【フローニンゲンからの便り】18878-18882:2026年6月16日(火)

  • 4 日前
  • 読了時間: 14分


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タイトル一覧

18878

エディンバラでの生活に想いを馳せて/存在の身軽さ

18879

今朝方の夢

18880

今朝方の夢の振り返り

18881

音色を超えて、「音味」を大切にして

18882

カントの観念論とシェリングの観念論の違い

18878. エディンバラでの生活に想いを馳せて/存在の身軽さ  

                   

時刻は午前5時半を迎えた。昨日の朝は雲がかかっていたが、今朝は見事な朝焼けが見える。午前5時前に外に出て、いつものようにタバタ式トレーニングを行った。ここ最近は垂直跳びをメニューに組み込むことを好んでいて、8から9のメニューの中で15回1セットの垂直跳びを2回ほど行っている。現在仮契約が済んだエディンバラのアパートメントが正式に契約まで進み、実際に生活を始めると、そこには2種類のジムが建物内にあり、片方のサイクリングマシーンとローイングマシンは毎日お世話になるだろう。サイクリングマシーンでタバタ式トレーニングを行い、ローイングマシンでゾーン2のエクササイズを行っていきたい。2日に1回か、3日に1回をゾーン2のエクササイズに充てるようにしたいと思う。早朝に運動を行い、そこから冷水シャワーを浴びて今に至るため、まだ体は温かいが、外の気温は9度と低い。6月も半ばを迎えたが、まだ室内では長袖長ズボンを着て過ごしている。とりわけ先週から今日にかけては、かなり寒い日が続いていた。ところが今週末からは夏日がやって来るという予報が出ている。見ると30度に達する日もあるようなので、気温の変化には気をつけたいと思う。大変興味深いのは、フローニンゲンは基本的に夏でも過ごしやすいが、突発的に30度前後の夏日がやって来る一方で、エディンバラはそうした日がほとんどないようだ。実際のところ、今週末にはフローニンゲンは夏日を迎え、気温が変動しているが、エディンバラの最高気温は一定して20度前後である。18度から21度のレンジを推移するという、フローニンゲン以上に涼しい環境があるようだ。


こうして少しずつエディンバラでの生活に想いを馳せるというのは、自然な流れなのだろう。フローニンゲンで汲み取れるものは全て汲み取ったという達成感。それが満ち潮のように自分の内側で満ち満ちている。それと呼応して、自己の存在の器からフローニンゲンへの感謝の念が溢れている。そんな中、毎日書籍の断捨離をせっせと進めている。これが実に爽快である。1000冊以上の書籍を手ばすことになりそうで、手放す書籍が1階に積み重なっていくと、それらの書籍への感謝の念と共に、一種のカタルシスが生じる。これから自分は再び本格的に学術世界に足を踏み入れ、学者としての仕事をしていく。しかしこれからは、本当に必要な書籍だけを購入することにし、基本的には大学の図書館やデータベースを活用して文献調査をしていく。ここからの人生において、自分はまだ生活拠点を変えるだろうから、書籍をできるだけ所有せず、身軽でいたい。それは心身の身軽さにも繋がっているのではないかと思う。それは存在の軽薄さをもたらすものではなく、むしろ存在の根っこに養分をもたらすために必要な身軽さだと言えるだろう。上には重石を乗せず、養分が地面に浸透していくように、必要な文献がしっかり根に届くためにする自分なりの新たな工夫である。この新たなあり方に対して、今、一羽の小鳥が祝福の美しい鳴き声を清澄に上げ始めた。フローニンゲン:2026/6/16(火)05:58


18879. 今朝方の夢 


柔らかな朝日が世界を優しく包んでいる。そんな中、小鳥の鳴き声が世界に染み渡っている。それは至高の音楽で、この世界に彩りと平穏さをもたらしている。この世界の中で音楽が奏でられている瞬間に立ち会っている。いや、その逆かもしれない。音楽の中でこの世界が奏でられているのである。そんな気さえする。


今朝方は夢の中で、高校時代に過ごしていた社宅の中で父と数学の問題について意見交換をしていた。自分はすでにその問題の解答を出していて、確かに難所もあったが、自分の実力からすると最後まで辿り着けたというのは妥当だった。一方父は、意外と序盤で苦戦しているようで、つまづいている箇所を尋ねてこちらから助言を施した。父は私の助言をもとに方針が閃いたようで、そこからはまた自力で問題と向き合ってみると述べた。キッチンに行って冷蔵庫から飲み物を取ろうとすると、そこにはアルコール飲料が多く、自分はもうアルコール飲料は飲まないと決めているので、お茶か何かないかと探した。すると後ろのテーブルで母と叔父が食事をしていて、こちらに話しかけてきた。一緒に食事をしようという誘いだったが、今はまだ引き続き数学の問題と向き合いたいのでその誘いを断った。


次に覚えているのは、見慣れない屋外のバスケットコートにいる場面だ。そこは小高い住宅地の中にあり、早朝に丘の上の方からバスケットボールが地面に跳ねる音が聞こえていたのでそこに向かった。後輩の姉と遭遇し、彼女から丘の上のバスケットコートで後輩たちが朝から練習をしているとのことだったのでそこに行ってみた。到着すると、後輩たちが3対3、あるいは4対4ぐらいの人数で朝練をしており、自分もそこに混ぜてもらうことにした。すると、大学時代のクラスメートを含め、背の高い同級生が次々とやって来たのである。後輩たちはまだ中学生だったので体格差があり、いざ試合を始めてみると、随分と遠慮しているように見えた。なので私は後輩たちに、遠慮はいらないということを伝え、彼らが普段通りのプレーができるように促した。自分はその試合の中で、シュートの感覚は鈍っていたが、驚異的なジャンプ力を発揮し、頭がリングを超えるどころか、足先がリングを超えるぐらいのジャンプをしてシュートを放つことができていた。フローニンゲン:2026/6/16(火)06:26         


18880. 今朝方の夢の振り返り

             

柔らかな朝日と小鳥の声から始まる今朝方の世界は、自分の内側で、世界が「解くべき問題」から「響きとして立ち現れる場」へと変わりつつあることを示しているのかもしれない。朝日は意識の更新であり、小鳥の鳴き声は、思考よりも先に世界を整える微細な知性の象徴であるように思われる。自分が音楽の中で世界が奏でられていると感じている点は、世界を対象として眺めるのではなく、世界そのもののリズムの内側に自分が含まれているという非二元的な感覚を表しているのだろう。今朝方の夢における高校時代の社宅で父と数学の問題を解いている場面は、過去の家族的基盤と知的探究が交差する場面であると思われる。父が序盤でつまずき、自分が助言を与えるという構図は、かつて導かれる側だった自分が、今や導く側へと静かに移行していることを象徴しているのではないか。数学の問題は、人生の構造的課題であり、論理、忍耐、見通し、そして難所を越える力の象徴である。父が助言を受けた後、自力で向き合おうとする姿は、自分の中の父性的な力が、外部の権威ではなく、内面化された知恵として再編成されていることを示しているのかもしれない。冷蔵庫にアルコール飲料が多く並んでいる場面は、過去の習慣や無意識的な慰めへの誘いを象徴しているように思われる。自分がそれを選ばず、お茶のようなものを探す姿は、刺激ではなく清明さを、酩酊ではなく醒めた滋養を求める現在の姿勢を表しているのだろう。母と叔父から食事に誘われる場面も、家族的な温かさや共同性への呼びかけであるが、自分はそこで数学の問題を優先する。この選択は、情緒的な結びつきを拒絶しているというより、今は自分の課題に深く潜る時期であることを夢が告げているのかもしれない。屋外のバスケットコートの場面では、夢の舞台が室内の知的空間から、丘の上の身体的・社会的空間へと移行している。丘の上から聞こえるボールの音は、まだ見ぬ可能性が自分を呼ぶ鼓動のようである。後輩たちの朝練は、若い力、未成熟な可能性、これから伸びていく生命の象徴であり、そこに自分が加わることは、過去の経験者として若い力を萎縮させずに活性化する役割を担うことを意味しているのだろう。背の高い同級生たちが現れ、後輩たちが遠慮する場面は、世代差、能力差、経験差が生む心理的な圧力を映しているようである。そこで自分が遠慮はいらないと促すのは、権威や実力差によって場を支配するのではなく、相手の本来の力が出るように空間を整えるリーダーシップの象徴であると思われる。これは、教育者、研究者、実践家としての自分の現在の課題とも響き合っているのではないか。最後に、自分が驚異的なジャンプ力でリングをはるかに超える場面は、身体能力の誇示というより、垂直方向への意識の跳躍を表しているのだろう。シュート感覚は鈍っているが、ジャンプ力は異様に高いという点が重要である。細かな技術はまだ調整中であっても、存在そのものを高次へ持ち上げる力はすでに備わっている。これは、鳥が枝から空へ移る瞬間のように、過去の地面を蹴りながら、別の高度へ入っていく徴候である。人生における意味は、自分が過去の家族的基盤と知的探究を統合しながら、若い可能性を萎縮させず、自らもさらに高く跳躍していく段階に入っているということなのだろう。フローニンゲン:2026/6/16(火)06:55


18881. 音色を超えて、「音味」を大切にして


毎日のクラシックギターの練習において、一音一音の「味」を感じるようにするというのは、単に音を正確に出す訓練を超えて、音と自分の関係性を深めていく営みであるように思う。音色という言葉は、どちらかといえば耳で捉えられる音の表情を指している。しかし「音味」という言葉には、もっと身体的で、舌や皮膚や内臓まで巻き込むような感覚がある。ある音が甘いのか、渋いのか、澄んでいるのか、土の香りを含んでいるのか。そのように音を味わう時、ギターは単なる楽器ではなく、世界の微細な滋味を汲み上げる井戸のような存在になっていく。一音を味わう練習は、演奏を急がない練習でもある。曲を進めること、速く弾くこと、間違えないことに意識が奪われると、音は通過点になってしまう。しかし、一音を果実のように手に取り、その重み、香り、余韻を確かめるように弾いてみると、音は目的地そのものになる。右手の指が弦に触れる角度、爪と肉の比率、弦を離す瞬間のわずかな速度、左手が弦を押さえる圧の濃淡。そのすべてが、音味を変える調味料のように働いていることに気づくのではないかと思う。この練習の効能は、まず注意の粒度が細かくなる点にあるだろう。大まかに「良い音」「悪い音」と判断するのではなく、音の中に含まれる微細な層を聴き分けるようになる。すると、演奏は評価の対象ではなく、観察の対象になる。今日の音は昨日より硬いのか、身体がこわばっているのか、心が先へ急いでいるのか。音は鏡のように、自分の内側の状態を映し出す。ギターの一音は、小さな水面であり、そこに心の風紋が現れるのである。また、音味を味わうことは、身体を静かに整える効果も持っているように思う。強く弾けば良い音が出るわけではなく、弱く弾けば繊細になるわけでもない。必要なのは、弦との対話である。力を押しつけるのではなく、弦がどのように鳴りたがっているのかを感じ取る。これは、人や世界との関わりにも通じている。相手を操作するのではなく、相手の響き方を聴きながら、自分の働きかけを微調整していく姿勢である。さらに、一音一音を味わう練習は、即興演奏の土台にもなるだろう。即興とは、音を次々に出すことではなく、今生まれた音の余韻を聴き、その余韻が次の音を呼び出すのを待つことである。一音の味を十分に感じられないまま次の音に進むと、即興は言葉数の多い独り言になってしまう。しかし、一音の奥行きを味わえるようになると、沈黙さえも音楽の一部になり、次の音は自然に立ち上がってくる。まるで茶を一口含んだ後、その余韻の中で季節の気配がほどけていくようである。今日からの練習では、うまく弾くこと以上に、よく味わうことを大切にしてみたい。一音の中に小さな宇宙があり、その宇宙に耳を澄ませることが、演奏者としての自分を深く育てていくのだろう。音楽は遠くにある完成形ではなく、今この一音の中にすでに宿っている。クラシックギターの練習とは、その一音の中に眠る滋味を、毎朝少しずつ舌先ならぬ指先で確かめていく修養なのだと思う。フローニンゲン:2026/6/16(火)08:30


18882. カントの観念論とシェリングの観念論の違い 

           

ふと、カントの観念論とシェリングの観念論の違いについて考えていた。両者はいずれも、世界を素朴に外側に存在する物質的対象の集まりとして見ることを超えようとした思想家である。しかし、その超え方には大きな違いがある。カントは、人間が世界をどのような条件のもとで経験しているのかを厳密に問うた。シェリングは、その問いをさらに押し広げ、自然と精神がどのような根源から生まれてくるのかを問おうとした。カントが認識の建築家であるなら、シェリングは宇宙的生成の詩人であるように思われる。カントにとって、私たちが経験している世界は、物自体そのものではない。世界は、空間と時間という感性の形式、そして因果性や実体性といった悟性のカテゴリーを通して現れる。つまり、人間は世界をそのまま裸の姿で見ているのではなく、自分たちの認識構造を通じて整理された現象として見ているのである。ここでカントは、人間の認識が届く範囲と届かない範囲を慎重に区別する。自分たちは現象を知ることはできるが、物自体を知ることはできない。そこには、知性に対する厳しい節度がある。この意味で、カントの観念論は、世界をすべて心の産物とする思想ではない。むしろ、何かが与えられていることは認めながら、それが人間に現れるためには、必ず人間の認識形式を通らなければならないと考える。カントの哲学は、巨大な地図に限界線を引く営みに似ている。ここまでは理性が歩いてよい。しかし、その先を実在の名で断定してはならない。そう静かに警告しているようである。一方、シェリングの観念論は、カントが残した分裂を乗り越えようとする。カントにおいては、現象と物自体、自然と自由、主体と客体のあいだに緊張が残る。シェリングは、その緊張の背後に、より深い同一性を見ようとする。自然は単なる対象ではなく、精神がまだ眠っている姿であり、精神は自然が自らに目覚めた姿である。ここでは、自然は死んだ機械ではなく、内側から生成し、自己を高め、やがて意識へと花開く生命的な過程として理解される。この違いはとても大きい。カントにとって哲学の中心には、何を知りうるのかという問いがある。シェリングにとっては、自然と精神はどのように一つの根源から分化し、再び統一へ向かうのかという問いがある。カントは認識の条件を分析する。シェリングは存在の生成を語る。カントは解剖学者のように認識の骨格を示し、シェリングは植物学者のように自然と精神が同じ根から伸びる様子を描いているように感じられる。また、芸術の位置づけにも違いがある。カントにおいて美的経験は、想像力と悟性の自由な調和として理解される。美は、人間の判断力に関わる重要な経験である。しかし、シェリングにおいて芸術はさらに大きな意味を持つ。芸術は、主観と客観、自由と必然、意識と無意識が一つに結晶する場所である。哲学が概念によって追い求めるものを、芸術は直観によって示す。シェリングにとって芸術作品は、絶対者が一瞬だけ姿を現す水面のきらめきのようなものなのだろう。こうして見ると、カントの観念論は限界を定める思想であり、シェリングの観念論は限界の背後にある根源的統一を探る思想であると言える。カントは、認識の窓枠を明らかにした。シェリングは、その窓の向こうに広がる自然と精神の深い呼吸を聴こうとした。どちらが優れているというより、両者は異なる仕方で近代哲学の大きな問題に向き合っているのである。唯識思想との関係で言えば、カントは、経験世界が認識構造によって条件づけられているという点で響き合う。私たちは世界をそのまま見ているのではなく、認識の形式を通じて見ているという洞察は、唯識の問題意識と重なる部分がある。一方、シェリングは、主観と客観の分裂以前に、より深い根源的な生成や同一性を見ようとする点で、唯識の深層識への関心に近づくようにも思われる。ただし、唯識はそれを巨大な絶対者として実体化するのではなく、主客の構成そのものを空として見抜き、識を智慧へと転じる方向へ進む。この比較は、自分が世界を見るときに、二つの態度を同時に持つことの大切さを示しているように思う。カントは、自分の認識には条件と限界があることを教えてくれる。シェリングは、その限界の内側にも、自然と精神が響き合う深い生命の流れがあることを感じさせてくれる。自分の知性は、カントのように慎重に境界を見極めながら、シェリングのように世界の生成の音楽にも耳を澄ませていく必要があるのだろう。フローニンゲン:2026/6/16(火)08:50


Today’s Letter 

I cherish the taste of each sound when I play classical guitar. Each sound encapsulates a microcosm. Every note reflects its own universe. Groningen, 6/16/2026

 

 
 
 

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