top of page

【フローニンゲンからの便り】18692-18696:2026年5月16日(土)

  • 5 時間前
  • 読了時間: 12分


⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

18692

音の内部に秩序と重力を与えること

18693

今朝方の夢

18694

今朝方の夢の振り返り

18695

身体の可能性の探究

18696

無意識下で進む神経の配線工事

18692. 音の内部に秩序と重力を与えること

                                     

ブランダン・エイカー氏の助言は、単なる「音量調整」の話ではなく、「音楽の中に階層構造を生み出す感覚」について語っているのだと思う。多くの人は、コードを「同時に鳴る複数の音」として捉える。しかし実際の音楽では、コードは単なる塊ではない。その内部には、複数の声部が生きている。まるで一枚の絵画の中に、前景、中景、背景があるように、和音の内部にも焦点の違いが存在しているのである。自分も最近、ギターを弾きながら、この「全部を均等に鳴らそうとする癖」に気づき始めている。基礎練習をしていると、音を揃えること、均一にすることに強く意識が向く。それ自体は重要である。しかし、均一性だけを追求すると、音楽が平坦になる。すべての音が同じ重みを持つと、聴き手の耳はどこに焦点を合わせればいいかわからなくなる。まるで全員が同時に話している会議のように、情報はあるのに方向性が消えてしまう。エイカー氏が述べている「一つの音だけを少し前に出す」という感覚は、非常に繊細である。ここで重要なのは、「力を入れる」のではなく、「意図を与える」ことである点だろう。強く弾くことと、存在感を与えることは違う。ほんの少し右手の動きに方向性を与えるだけで、その音が光を帯び始める。まるで舞台照明が一人の役者を静かに照らすように、和音の中の一音が物語を持ち始めるのである。たとえば同じCコードでも、トップノートを際立たせれば旋律的な響きになる。一方でベース音を強調すると、急に土台感や推進力が生まれる。中声部を浮かび上がらせると、和音の内部に隠れていた感情が現れる。つまり、同じコードでも、「どこに意識を宿すか」によって、音楽の意味そのものが変化するのである。これは実は、クラシックギターの本質にも深く関わっているように思う。ギターはピアノほど音量差を極端につけられない。しかし逆に言えば、ごく小さなニュアンスの違いがそのまま音楽の表情になる。だからこそ、ギターでは「どの音を歌わせるか」という意識が極めて重要になるのだろう。さらに興味深いのは、この話が音楽だけではなく、人間の注意の使い方そのものに似ていることである。人生でも、すべてを同じ重要度で扱うと、意識は散漫になる。しかし、本当に大切なものに静かに焦点を合わせると、全体の風景が変わる。音楽における声部の階層とは、ある意味で「注意の哲学」なのかもしれない。最近、自分は基礎練習の中で、単に音を並べるのではなく、「どの音が今、語るべきなのか」を探し始めている。すると、不思議なことに、単純なアルペジオですら急に立体的に感じられる。音楽が白黒の設計図から、奥行きを持った空間へ変わるのである。おそらく、ここから本当の表現が始まるのだろう。単に正しく弾くのではなく、音の内部に秩序と重力を与えること。和音を「鳴らす」のではなく、その内部に小さな宇宙を構築すること。それが、機械的な演奏から抜け出し、音楽が生き始める瞬間なのだと思う。フローニンゲン:2026/5/16(土)06:03


18693. 今朝方の夢

                          

今朝方は夢の中で、形のない車を運転していた。それはまるで「エアカー」とでも形容できるものだった。それを運転して交差点で停車しようとすると、うまく停車することができず、同じように近くでエアカーを運転していた母に助けを求めた。母は微笑みながら停車方法を教えてくれたが、それを試してもじわじわと車が前進してしまい、完全に停車することができなかった。後ろからそれを見ていた父は、何をしているんだという呆れた表情で自分を馬鹿にしてきた。自分は父のそうした態度にキレてしまった。というのも自分は今日初めてエアカーを運転したのだから運転がままならないのも当たり前であり、同時に自分は真剣に運転していたからである。怒りが込み上げると不思議と車は止まり、車から降りて父のところに駆けつけて父を殴り飛ばした。そのような場面があった。


もう一つ覚えているのは、見知らぬ日本人女性と学術研究についてお互いに脳内で話している場面である。場所はエディンバラで、ちょうどエディンバラ大学の図書館にしかない貴重な古書を借りたところで、その書籍の話に触れた。彼女も同意していたが、そうした貴重な古書が所蔵されているあたりにエディンバラ大学の凄さを実感し、さすが世界の名門大学であると思った次第である。そこからも彼女とはテレパシーかのように脳内で楽しくお互いの研究について話し合った。フローニンゲン:2026/5/16(土)06:10


18694. 今朝方の夢の振り返り

                              

今朝方の夢は、「まだ形になっていない未来の自己」を操縦し始めた時に生じる不安定さと、その過程で露呈する家族的力学、そして知的共同体への移行を象徴しているように思われる。特に印象的なのは、車が「エアカー」であった点である。通常の車は重量と輪郭を持ち、地面との摩擦によって制御される。しかし夢の中の車は形が曖昧で、まるで空気そのものを運転しているかのようであった。これは、自分が今まさに固定された道ではなく、未踏の抽象的領域へ進み始めていることを示しているのかもしれない。エディンバラ大学への進学、研究者としての歩み、思想と哲学を横断する営みは、既存の舗装道路というより、空中回廊を飛ぶような営みである。そこでは従来の感覚だけでは停止も旋回も難しいのであろう。興味深いのは、停車できないことである。前進そのものではなく、「止まれない」という点に夢の核心があるように感じられる。つまり自分の内側には、既に動き始めた知的欲望や変容への推進力があり、それが惰性のように前へ滑っていくのであろう。母は微笑みながら助言を与えるが、それでも車はじわじわ進む。この場面は、優しさや理解だけでは、人間の深層的な変化を完全には制御できないことを象徴しているのかもしれない。人生の重大な転換期では、どれほど周囲が支えても、主体そのものが新しい運動法則を身体化しなければならないのである。一方で父は、その不器用さを理解しない。ここには「成果が出る前の未熟さ」に対する社会的視線が凝縮されているように見える。まだ飛行機の離陸法を学んでいる最中なのに、既に完璧な操縦を要求されるような理不尽さである。しかし夢の中の自分は、その嘲笑に激怒する。しかも怒りが頂点に達した瞬間、不思議と車が停止する。この構造は象徴的である。本来、怒りは制御不能を意味する感情であるはずなのに、この夢では逆に停止をもたらしている。おそらくこれは、自分が初めて他者の評価から切り離された瞬間を示しているのであろう。父の視線に従属している限り、エアカーは滑り続ける。しかし怒りによってその視線を断ち切った瞬間、自分自身の重力を取り戻したのかもしれない。父を殴る場面は暴力衝動そのものというより、「内面化された嘲笑の権威」を破壊する象徴儀礼に近いように思われる。その直後に現れるエディンバラの場面は、この夢全体を知的成熟の物語へ転換している。先ほどまでの夢が「親の世界」での葛藤なら、後半は「研究共同体の世界」への参入である。しかも会話は口ではなく、脳内で直接行われる。これは、表面的なコミュニケーションを超えた深い知的共鳴への憧れを示しているのだろう。真に成熟した対話とは、言葉を投げ合うことではなく、互いの思考構造そのものが共振することである。エディンバラ大学の古書は、その共鳴を媒介する「知の遺跡」のような役割を果たしている。過去の思想家たちの沈黙した声が、時代を超えて現在の研究者同士を結びつけているのである。この夢全体は、自分が「親の評価軸から離陸し、知的共同体へ移行する過渡期」にいることを示しているように思われる。空気でできた車とは、まだ輪郭を持たぬ未来の自己であり、その操縦は不安定で当然なのであろう。しかし重要なのは、完全停止の技術よりも、その不安定な乗り物に乗り続ける勇気なのかもしれない。人生における意味とは、おそらく「理解されない未熟さ」を耐え抜きながら、自分だけの飛行法則を獲得していくことにあるのだろう。フローニンゲン:2026/5/16(土)07:00


18695. 身体の可能性の探究

     

最近、クラシックギターの右手について練習しながら、ふと面白いことを考えていた。クラシックギターでは通常、右手の小指はほとんど使わない。基本はp・i・m・aの四本であり、小指は空中に浮かせていることが多い。しかし逆に言えば、「使われていない指」が一本存在しているということでもある。そしてもし、この小指が他の指のように自由自在に独立して動くようになったら、一体どのような世界が開かれるのだろうかと想像していた。もちろん、伝統的クラシックギターの奏法には合理性がある。小指は短く、独立性が低く、解剖学的にも薬指と強く連動している。そのため、無理に使おうとすると全体のフォームが崩れやすい。だから歴史的には「使わない」という選択が洗練されてきたのだろう。しかし最近、自分はギターを単なる再現芸術としてではなく、「身体の可能性の探究」として見るようになっている。すると、使われていない小指は、まるで未開拓の土地のように見えてくる。もし右手小指が完全に独立し、自然なコントロールを持てるなら、単純に考えても音楽的可能性は大きく広がる。まず、アルペジオのパターンそのものが変わる。現在のクラシックギターでは、四本指の循環によってある種の制約が生まれている。しかし小指が加われば、より長い連続パターンや、より滑らかな分散和音が可能になるかもしれない。まるで四気筒エンジンにもう一つシリンダーが増えるように、運動のリズムそのものが変わるのである。さらに興味深いのは、声部表現への影響である。ブランダン・エイカー氏の助言を通じて、「コード内部の声部の階層」に強い関心を持っている。もし小指が使えれば、高音部専用の独立した声部をさらに繊細に扱える可能性がある。たとえばa指が旋律を担い、小指がその上にさらに装飾的な声部を加えるような感覚である。するとギターは、単なる六弦楽器というより、小さな室内オーケストラに近づいていくのかもしれない。また、身体感覚としても面白い。小指を訓練しようとすると、単に一本の指だけを鍛えることにはならない。脳内の運動マッピングそのものが細分化されていく感覚がある。特に右手は、音色、タイミング、力加減、角度を同時に制御しているため、小指の独立性を高めることは、結果的に右手全体の繊細さを押し上げる可能性がある。まるで使われていなかった小さな回路を通電させることで、システム全体の解像度が上がるような感覚である。ただ一方で、最近感じるのは、「可能性を増やすこと」と「音楽が深まること」は必ずしも同じではないということである。人間は指が五本ある。しかし、あえて四本だけで長い歴史を築いてきたクラシックギターには、ある種の美学がある。その制約の中で、セゴビアやタレガは宇宙のように豊かな音楽を作り出してきた。つまり本質は、「指を増やすこと」そのものではなく、「限られた条件の中でどれだけ深い表現を生み出せるか」にあるのかもしれない。それでも、小指の可能性を想像すること自体には大きな意味がある気がしている。それは単なる技巧への欲望ではなく、「身体にはまだ眠っている可能性がある」という感覚につながっているからである。まるで未使用の部屋が家の奥に存在していることに気づくように、小指の存在は、自分の身体と音楽がまだ完成していないことを静かに教えてくれている気がする。フローニンゲン:2026/5/16(土)08:32


18696. 無意識下で進む神経の配線工事

                        

ここ数日、左右の運指トレーニングを毎日3時間ほど続けているだけなのに、朝いつもの楽曲を弾き始めた瞬間、自分でも驚くほど指が滑らかに動いていた。まるで昨日まで細い山道だった場所に、突然舗装された高速道路が現れたかのようである。以前は意識しながら越えていたポジション移動や弦移動が、今朝は半ば自動的に流れていった。頭で命令してから指が動くのではなく、音楽そのものが先に流れ、その後を指が自然についていくような感覚であった。おそらくこれは、脳と身体のあいだに新しい神経回路が急速に形成され始めているためなのだろう。クラシックギターの演奏は、単に筋肉を鍛える行為ではなく、「神経の配線工事」に近い。特に左右の運指を徹底的に反復すると、脳は無駄な命令を減らし、より短い経路で指を動かそうとする。最初はぎこちなかった動きが、ある瞬間から急に統合されるのは、その配線が一定の臨界点を超えたからなのかもしれない。興味深いのは、技術の向上が「力感」ではなく「脱力感」として現れていることである。以前は難しい部分になるほど腕や肩に力が入り、どこか押し切る感覚があった。しかし今朝は、むしろ余計な力が抜け、指先だけが静かに機能していた。これは、運動学習が初期段階の意識的制御から、より深い身体化へ移行し始めている兆候なのだろう。鳥が最初は羽ばたきを必死に学びながら、やがて気流に乗ることを覚えるように、身体が少しずつ「演奏される身体」へ変わり始めているのである。また、毎日3時間という反復そのものが、自分の時間感覚にも影響を与えている気がする。単なる練習ではなく、音に触れ続ける生活が始まると、脳は日常の中でも運指を無意識に整理し続けるらしい。睡眠中に神経回路が再編成されることはよく知られているが、まさに朝の変化は、その夜間の再構築の結果なのだろう。昨日までできなかった動きが、翌朝突然できるようになる現象は、まるで地下で静かに根を張っていた植物が、朝になって一気に芽を出すようである。そして何より面白いのは、自由度が増してきている感覚である。指が動かない時は、楽譜に追いつくことで精一杯になる。しかし指が滑らかに動き始めると、今度は音色や呼吸やフレージングに注意を向ける余裕が生まれる。つまり技術とは、単なる速さや正確性ではなく、音楽を感じるための空間を身体の中に作ることなのだろう。数日前までは、左右の運指トレーニングは地味な基礎工事のように思えた。しかし今は、その基礎が少しずつ音楽的自由へ変換され始めているのを感じる。毎日の反復は単純作業ではなく、脳と身体の深部で静かに進行している変容の儀式なのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/16(土)09:03


Today’s Letter 

Making full use of the unconscious is key to facilitating our learning. I rely on it every day, and through doing so, my guitar skills continue to develop day by day. I will continue to explore the realm and potential of the unconscious. Groningen, 5/16/2026


 

 
 
 

コメント


bottom of page