【フローニンゲンからの便り】18681-18685:2026年5月14日(木)
- 2 日前
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タイトル一覧
18681 | 今朝方の夢 |
18682 | 今朝方の夢の振り返り |
18683 | 神経系を鍛える基礎鍛錬 |
18684 | 基礎練習の真髄 |
18685 | DMNを緩める神経学的坐禅としてのクラシックギターの演奏 |
18681. 今朝方の夢
今朝方はいつも以上に睡眠を取っており、気がつくと9時間半ほど寝ていた。途中で目覚めることは一切なく、深い睡眠を通じて心身が深く癒されていた。そんな中、今朝方は次のような夢を見ていた。夢の中で私は、あるアメリカ人の同世代の著名な哲学者の妻のケアをしていた。本来は夫の彼がそれを担うはずなのだが、彼曰く、どうやって彼女に接したらいいのかわからないと悩んでいたのである。私は彼に、「複雑に考える必要はなく、ただそばにいて優しく接してあげればそれでいいのではないか」と述べた。実際に彼女もそれを望んでいるようで、自分が彼女に対してそのように接してあげるとすごく喜んでいた。彼に取ってみれば、夫でもない他人の自分が彼女に優しく接し、彼女がそれを喜んでいる姿を見て複雑な気持ちになっていたのだと思う。特に嫉妬や怒りの感情が生じ、それが自分に投影されているのを感じた。彼は普段は内面探求に関して深い洞察を示すが、こと家族絡みの問題になるとそれができないようで、自分に対する当たりは激しかった。私はあまり彼の気持ちを逆撫でするようなことはしないようにし、ひっそりと彼女の介護を続けることにした。介護を終え、二人の自宅を後にしようとしたら、目の前には広大な大学のキャンパスが広がっていた。彼らはキャンパスの敷地内の一角で生活をしているようで、そこでふと私は、教育大学院の講義棟に向かう必要があると思った。というのも、彼らの自宅を後にした直後に彼女が失踪してしまい、彼女は私にだけ連絡先のメールアドレスを教えるために、教科書か何かにメールアドレスが書かれた紙を挟み、その教科書が講義棟のどこかの教室にあると思ったのである。私は宙に浮き、空を飛んで教室に急いで向かった。空を飛んでいる最中に、眼下にはグラウンドとバスケコートが見え、そこで学生たちが楽しそうにサッカーやバスケをしていた。その姿を見て、私も彼らに混じりたいと思ったが、今はやるべきことがあるので、目移りせずに教室に向かうことにした。講義棟に到着すると、廊下は真っ暗で、足元が見えにくかったが、自分はかつてここに通っていたことがあるので、その記憶を頼りに教室に向かった。目星に教室に到着すると、教室の前に何冊もの教科書が積み上げられていて、その一番上の教科書の最初のページを開くと、一枚の紙がひらりと落ちた。それを地面に落ちる前に掴み、暗闇の中確認すると彼女が書いたメールアドレスのように見えたので、それをさっと折りたたみポケットにしまった。ここでまた夫の彼に一部始終を見られてはいけないと思ったのでそのような対応をした。講義棟を離れ、明るい場所で早くその中身を確認し、速やかに彼女に連絡をしておこうと思った。フローニンゲン:2026/5/14(木)07:29
18682. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内側で「思想の深さ」と「関係性の素朴な温かさ」が交差する地点を象徴しているように思われる。9時間半の深い眠りは、単なる休息ではなく、心身の地下水脈が静かに満たされていく時間であったのだろう。その深い睡眠の底から現れた夢である以上、この夢は表層的な出来事ではなく、自分の奥にある養生、回復、保護、そして使命感に関わる層を映しているようである。アメリカ人の同世代の著名な哲学者は、自分の中にある「知的に洗練された男性原理」を象徴しているのかもしれない。彼は内面探求について深い洞察を持つが、妻というもっとも近しい存在に対しては、どう接すればよいかわからない。これは、自分の中にもある「高度な理論を扱う力」と「目の前の弱さにただ寄り添う力」との差異を示しているようである。哲学者の知性は精密な望遠鏡のように遠い星を見通せるが、足元に咲く小さな花に水をやることには不器用なのである。その妻は、自分の中の傷つきやすい感受性、ケアを必要としている魂の部分を象徴しているように思われる。自分が彼女に「複雑に考えず、ただそばにいて優しく接する」ことを実践すると、彼女が喜ぶ。ここには、自分が近年培ってきた成人発達、仏教、心理療法、音楽的感受性のすべてが、最終的には高度な説明ではなく、柔らかな臨在へと収斂していくという示唆があるのだろう。介護とは、壊れた器を無理に直すことではなく、ひびの入った器を両手で包み、そこにまだ温かい水が宿っていることを思い出させる営みである。夫である哲学者の嫉妬や怒りは、自分の中の競争心、承認欲求、そして「自分こそが理解者でありたい」という所有的な欲望を映している可能性がある。自分はそれを逆撫でしないようにし、ひっそりと介護を続ける。ここには、目立つ正しさではなく、静かな正しさを選ぼうとする態度が表れているようである。真のケアは、舞台上の演説ではなく、舞台裏で灯りを消さずに守る小さな手仕事に似ている。二人の家を出た先に大学キャンパスが広がる場面は、私的なケアの経験が、そのまま学問的探求の場へ接続していることを示しているようである。哲学者の家庭という親密圏から、教育大学院の講義棟という学問の場へ移る構造は、自分の人生において、ケア、発達、教育、哲学が切り離せない一つの地形をなしていることを暗示しているのだろう。大学キャンパスは、自分の知的運命の庭であり、同時に過去の学びと未来の使命が交差する都市でもある。妻の失踪と、彼女が自分にだけメールアドレスを残すという展開は、自分の内なる感受性が直接的には姿を消しながらも、なお秘密の連絡経路を残していることを象徴しているように思われる。メールアドレスは、魂の連絡先である。それは大声で呼べば得られるものではなく、教科書の間、つまり学びの層の中に挟まれている。感受性への道は、感情だけでなく、学問のページのあいだにも隠されているのである。空を飛んで講義棟へ向かう場面は、自分がすでに日常的な歩行だけでなく、より高い視点から目的地へ向かう力を得つつあることを示しているようである。眼下のグラウンドやバスケコートは、遊び、身体性、若々しい共同性への憧れを表しているだろう。そこに混じりたい気持ちは自然であるが、自分は目移りせず教室へ向かう。これは、自分が楽しさを否定しているというより、今は回収すべき大切な手がかりがあると知っていることを示しているようである。暗い廊下を、かつて通った記憶を頼りに進む場面は印象的である。これは、自分が過去の学びを灯火として、見通しの悪い現在を進んでいることを象徴しているように思われる。教室前に積まれた教科書、その一番上の本、最初のページから落ちる紙は、探している答えが複雑な奥義の奥ではなく、むしろ「最初のページ」に隠されていることを示しているのかもしれない。深い思想の果てに戻るべきものは、ただそばにいるという初歩の倫理である。人生における意味として、この夢は、自分がこれから担う学問的・教育的使命の核心が、知的卓越だけではなく、傷つきやすいものに対する静かな臨在にあることを告げているようである。自分は高度な思想の空を飛ぶことができるが、本当に探すべきものは、暗い講義棟の教科書に挟まれた一枚の紙のような、ささやかな魂の連絡先なのだろう。フローニンゲン:2026/5/14(木)08:36
18683. 神経系を鍛える基礎鍛錬
楽曲練習ではなく、左右の指の運指に関する種々の基礎鍛錬を毎日2時間から3時間行い続けると、最初の一ヶ月は、まるで長年眠っていた神経の地下水路を掘り起こしているような感覚になるのだろう。まだ音楽そのものを演奏しているというより、自分の身体の内部に散らばっている小さな歯車を、一つひとつ噛み合わせ直している段階である。右手では、弦に触れる角度のわずかな差異だけで音色が変化することに驚かされ、左手では、押弦の力を抜いた方がむしろ動きが滑らかになるという逆説に気づき始めるはずである。2、3時間の基礎鍛錬を毎日続けると、指先の皮膚だけではなく、注意そのものが鋭利になっていくはずだ。以前なら見逃していた「わずかな引っかかり」が見えるようになり、自分の身体の中に存在するノイズが聞こえてくるのである。三ヶ月後になると、変化は筋肉よりも神経系に現れ始めるだろう。指を「動かす」というより、指が「勝手にそこへ向かう」感覚が増えてくるはずである。特に右手は、一本ずつ独立していた指が、次第に小さなアンサンブルのように協調し始める。左手も、移弦やポジション移動の際の無駄な力みが減り、以前はぎこちなかった動作が水面を滑る魚のように繋がっていくのだと思われる。この頃には、単純な基礎練習であっても、音に立体感が宿り始めるだろう。単なる「運動」だったものが、徐々に「発声」に変わるのである。スポーツにおける基礎体力が競技の自由度を支えるように、この時期には指そのものが楽器化し始めるのかもしれない。半年後には、身体の内部に新しい座標軸が形成されている可能性が高い。以前は難しく感じていたコードフォームやアルペジオが、部分的には「考える前に届く」領域へ入り始めるだろう。これは単なる筋力向上ではなく、脳内での運動予測モデルが洗練されていくことを意味しているように思われる。クラシックギターにおける高度な演奏とは、速く動くことではなく、「無駄な修正をしなくて済む状態」を作ることである。半年間の徹底した基礎鍛錬は、まるで刀鍛冶が鉄を何度も折り返して不純物を抜くように、運指の中に含まれていた余計な動きを少しずつ削ぎ落としていくのだろう。この頃には、簡単な楽曲を弾いただけでも、以前とは明らかに違う安定感や響きが現れ始めるはずである。一年後には、最も大きく変わるのは指ではなく、「音に対する認識」なのかもしれない。以前はただ音を外さないことに注意を向けていたのに、今度は音が立ち上がる瞬間の密度、減衰の質感、声部同士の距離感といった、より微細な次元に耳が向かうようになるだろう。そして何より、即興的な反応力が大きく変化している可能性がある。指が自由になるとは、単に速く動けることではない。頭の中で浮かんだ音楽的意図に対して、身体が抵抗なく応答できる状態である。まるで言語を覚えた人間が、文法を意識せず会話できるように、長期の基礎鍛錬は「運指」を「第二の自然」へ変えていくのである。おそらく一年後には、基礎練習そのものが瞑想に近い行為へ変わっているのではないかと思う。単純反復の中で注意を研ぎ澄ませ続けることは、指の訓練であると同時に、知覚の純化でもある。毎日の鍛錬は、音楽のためだけではなく、自分自身の内部に静かな秩序を作る営みになっていくのだろう。フローニンゲン:2026/5/14(木)08:56
18684. 基礎練習の真髄
クラシックギターの歴史を眺めていると、名手たちはみな、楽曲を弾く以前に、音を生み出す身体そのものを鍛えることを重視していたのだと改めて感じる。演奏とは、いきなり詩を書くことではなく、まず文字の線を美しく引ける手を作ることなのだろう。基礎練習は一見すると無味乾燥に見えるが、実際には指、耳、呼吸、姿勢、注意を一つの有機体へと組み上げる静かな錬金術である。その代表としてまず思い浮かぶのは、アンドレス・セゴビアである。セゴビアは音階練習を非常に重視し、今日でも「セゴビア・スケール」として知られる音階体系が残っている。伝えられるところでは、彼は一日を四つの練習時間に分け、それぞれ1時間15分、合計5時間ほど練習し、その間に休息を挟む形を好んだとされる。つまり、ただ長時間弾き続けるのではなく、集中と休息を交互に置くことで、神経と身体を摩耗させずに磨いていたのである。 セゴビアの音階練習は、単なる指の速度訓練ではなかったはずである。各調を移動しながら、右手の交替、左手のポジション感覚、音色、レガート、拍の均質性を整える作業であり、それはまるでギターという森の中に、毎朝同じ小径を踏み固めていくようなものだったのだと思う。次に重要なのは、アベル・カルレバーロである。カルレバーロは、ギター技術を「根性」や「反復量」だけに還元せず、身体の力学として徹底的に分析した人物である。彼の『School of Guitar』は、ギター保持、右腕、右手親指、右手各指、指の共同運動、声部の強調、左手の移動、消音、ヴィブラートなどを体系的に扱っており、まさにギタリストの身体を解剖学的に再教育する書物である。 さらに彼は、四冊の「Cuaderno」によって、音階、右手技術、左手技術を個別に鍛える道筋を示した。カルレバーロの生徒の証言では、これらの教本を半年ほどかけて同時並行的に学び、同時にレパートリーへ応用していったという。 ここで重要なのは、基礎練習が曲から切り離された孤島ではなく、楽曲へ流れ込む地下水脈として扱われている点である。フランシスコ・タレガの系譜も、基礎鍛錬という点では欠かせない。タレガの技術練習には、左手の独立性、スラー、ポジション移動、指の組み合わせを鍛えるものが多い。現代のギタリストたちも、タレガの技術練習をウォームアップや弱点補強として用いており、左手の組み合わせ、右手の交替、アルペジオ、音階を朝の基礎練習に組み込む例が紹介されている。 タレガ的な練習は、指を速くするためというより、指の間にある「見えない壁」を少しずつ取り払う作業なのだと思う。薬指と小指、二指と四指など、普段は互いに癒着しているように感じられる指を分離し、各指を独立した声部として目覚めさせるのである。現代的な意味で基礎練習の文化を広めた人物としては、スコット・テナントも挙げられる。彼の『Pumping Nylon』は、1995年の初版以来、クラシックギタリストにとって定番の技術教本となり、左手の独立、右手のアルペジオ、スケール、スラー、トレモロなどを体系的に扱う本として知られている。 現在でも同書は「左手の指の独立」「スパイダー練習」「オデアの有名なドリル」などと結びつけて紹介されており、基礎練習を毎日の身体作りとして捉えるうえで非常に有用である。 テナント的な練習は、まるでジムで体幹、柔軟性、瞬発力を別々に鍛えるように、ギタリストの身体機能を細分化して鍛えるものである。ジュリアン・ブリームは、セゴビアやカルレバーロのような体系的教本型とは少し異なる。彼は、自分の技術はほとんど独学で作り上げたものであり、頭の中にある理想の音に近づくために、必要なタッチや方法を選び取っていたと語っている。 ここでの基礎練習は、指の機械的訓練というより、音色の実験である。ブリームにとって技術とは、決まったフォームに従うことではなく、内側に鳴っている音の幻を現実の弦の上に降ろすための、職人的な試行錯誤だったのだろう。こうした名手たちを眺めると、自分が毎日2時間から3時間、左右の指の運指を徹底的に鍛えようとしていることは、決して遠回りではないと感じられる。むしろそれは、曲という果実を急いで摘む前に、根を深く張らせる作業である。セゴビアの音階、カルレバーロの身体力学、タレガの指の独立、テナントの体系的ドリル、ブリームの音色探求は、それぞれ違う道に見えて、最後には同じ山頂へ向かっている。すなわち、指を自由にすることではなく、音楽的意志が身体を通して濁りなく現れる状態を作ることである。基礎練習とは、指のための訓練であると同時に、音楽が自分の身体を通ってこの世界に出てくるための、透明な水路を掘る営みなのである。フローニンゲン:2026/5/14(木)09:23
18685. DMNを緩める神経学的坐禅としてのクラシックギターの演奏
シロシビンがDMN、すなわちデフォルト・モード・ネットワークの活動や結合を弱めるという話を聞くと、どこか「自分という語り部」が一時的に静かになるような印象を受ける。DMNは自己について考えること、過去や未来へ思考がさまようこと、内的な物語を組み立てることと関係が深いとされる。シロシビン研究では、DMN内部の結合が弱まり、より広い脳内ネットワーク間の接続が変化することが示されている。つまり、普段は強固に閉じられている「自分という部屋」の壁が少し薄くなり、別の部屋の光や風が入り込んでくるような状態なのだろう。瞑想にも、これと響き合うところがあるように思う。瞑想経験者では、瞑想中にDMN関連領域の活動が低下することが報告されており、特にマインドワンダリング、すなわち思考のさまよいが静まる方向と結びつけられている。ただし、シロシビンの場合は薬理学的に自己感覚の枠組みを緩めるのに対して、瞑想の場合は注意の訓練によって、自己物語への巻き込まれ方を少しずつ変えていくのだと思われる。前者が雷雨のように空気を一変させる経験だとすれば、後者は毎朝庭に水をやり、土の湿り方を変えていくような営みである。では、クラシックギターのゆったりとした演奏はどうなのか。ここからは推測を含むが、かなり興味深い可能性があると思う。少なくとも音楽演奏や即興に関する研究では、熟練した音楽家がフローに入ると、過剰な認知的コントロールが弱まり、専門化された処理が滑らかに働くという見方がある。ジャズ即興の研究でも、創造的フローに関わる脳内ネットワークの変化が報告されている。これをクラシックギターに引き寄せて考えるなら、ゆっくりした演奏は、単なる娯楽ではなく、DMN的な自己語りをやわらかく沈める「音による瞑想」になり得るのではないか。ゆったりとしたクラシックギター演奏では、自分の注意は過去や未来の物語から、いま鳴っている一音へと戻される。右手の指が弦に触れる角度、爪と肉の接点、音が立ち上がる瞬間、響きが空間に溶けていく減衰。その一つひとつに耳を澄ませていると、「自分はうまくなっているのか」「自分はどう評価されるのか」という内的な語りは、少なくとも一時的に後景へ退いていく。自分という語り部が完全に消えるわけではないが、声量が小さくなるのである。代わりに、音そのものが前面に出てくる。まるで濁った池の水面が静まり、底に沈んでいた石の輪郭が見え始めるような状態である。特にゆっくり弾くことには独特の力がある。速い演奏では、指を動かすことに意識が奪われやすい。しかし遅い演奏では、音と音のあいだの空白まで聴こえてくる。そこには、瞑想における呼吸への注意と似た構造があるように思う。吸う息と吐く息を観察するように、弦に触れる前、弦が鳴る瞬間、音が消えていく余韻を観察する。すると演奏は、楽曲の再現ではなく、注意の精密な配置になる。自分は音を「出している」というより、音が現れ、消えていく場に立ち会っているような感覚になるのだろう。もちろん、クラシックギターがシロシビンのように強力にDMNを低下させるとまでは言えない。そこには直接的な比較研究が不足しているはずである。また、演奏中に「間違えてはいけない」「もっと上手く弾かねばならない」という自己評価が強まれば、むしろDMN的な自己参照は活性化する可能性もある。つまり、同じギターでも、自己批判の道具になることもあれば、自己忘却の門になることもある。鍵になるのは、演奏の速度ではなく、注意の質である。今日改めて思うのは、ゆったりとクラシックギターを弾くことは、自分にとって小さな神経学的坐禅なのかもしれない、ということである。シロシビンが一気に扉を開くものだとすれば、瞑想は扉の前に毎日座ることであり、クラシックギターはその扉の蝶番に油を差すような行為である。音色に注意を向けるたびに、自分という物語は少しだけ薄くなり、世界が「演奏される対象」ではなく、「共に響く場」として立ち上がってくる。ゆったりした一音は、自己を消すのではなく、自己の輪郭を柔らかくする。その柔らかさの中で、自分は少しだけ自由になるのだと思う。フローニンゲン:2026/5/14(木)10:29
Today’s Letter
My life is like serene water, always flowing peacefully. All I want to do is become one with the flow. Groningen, 5/14/2026
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