【フローニンゲンからの便り】18686-18691:2026年5月15日(金)
- 1 日前
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タイトル一覧
18686 | 基礎練習に深い楽しさを感じて |
18687 | 今朝方の夢 |
18688 | 今朝方の夢の振り返り |
18689 | 人格の声としての演奏 |
18690 | 探検としての基礎練習 |
18691 | 感動の背後にある演奏者の存在の質 |
18686. 基礎練習に深い楽しさを感じて
自分は改めて、基礎練習を楽しめるということが、実は非常に大きな転換点なのではないかと思うようになっている。多くの人は、音楽の楽しさを「曲を弾けること」や「人前で演奏すること」の中に見出そうとする。しかし今の自分は、むしろ単音の響き、右手のわずかな角度、左手の指先の圧力、スケールの均一さといった、ごく小さな営みの中に深い充足感を感じ始めている。それはまるで、派手な花を追い求めることをやめ、土を耕す時間そのものに喜びを感じる庭師のような感覚である。基礎練習とは、外から見ると単調に見える。しかし実際には、その反復の内部では、極めて繊細な変化が起き続けている。同じアルペジオを弾いていても、昨日より音の立ち上がりが滑らかになる瞬間がある。ほんの少し脱力が進み、音色に透明感が宿る瞬間がある。テンポは変わらなくても、身体の内部の流れが整い、動きに無駄が消える瞬間がある。おそらく基礎練習を楽しむマインドセットとは、「結果」ではなく「過程」に注意を向ける心なのだろう。頂上だけを見て山を登る人は、道中を苦痛としてしか感じられない。しかし、風の匂い、地面の感触、光の差し込み方そのものを味わう人にとって、登山はすでに目的地になっている。基礎練習も同じで、未来の上達のためだけに行うと退屈になる。しかし、一音一音の感覚そのものを観察し始めると、そこには終わりのない探究が現れる。特にクラシックギターは、この感覚が顕著なのかもしれない。同じドの音であっても、指の角度、爪の当たり方、脱力、呼吸によって、まるで別人の声のように変わる。つまり基礎練習とは、「単純な運動の反復」ではなく、「音と身体と意識の関係性を観察する瞑想」に近いのである。さらに興味深いのは、基礎練習を楽しめるようになると、時間感覚そのものが変わることである。以前は「早く上手くなりたい」という焦りが強かった。しかし今は、ゆっくりとした成長の流れそのものに身を委ねる感覚がある。川の水は急いで海へ向かわない。それでも確実に流れ続ける。基礎練習を楽しむとは、おそらくその川の感覚を身体の中に育てることなのだろう。そして不思議なことに、基礎練習を愛せるようになると、演奏そのものも自由になっていく。なぜなら、自由とは基礎を忘れることではなく、基礎が身体に深く染み込み、意識せずとも自然に流れ出る状態だからである。まるで大樹の枝葉が風にしなやかに揺れるためには、地中深くまで根が伸びている必要があるように、即興性や芸術性もまた、静かな基礎の積み重ねによって支えられているのだと思う。フローニンゲン:2026/5/15(金)06:59
18687. 今朝方の夢
フローニンゲンはまだまだ寒い日が続いているが、来週末は数日間ほど東京の気温を超すような夏日がやってくる。20度後半とのことなので、夏日というよりも真夏日が瞬間的にやって来る形だ。その時にはいつも以上に太陽の光を浴びることを楽しみたい。それともう一つ、3日前にアムステルダムで英国ビザ用の生体認証の登録を済ませたところ、早くも昨日にビザの発行があった。15営業日以内に発行されるとのことだったが、まさか申請から2日で発行されるとは思ってもみなかった。これにて、あとは引越し業者の選定とそれに向けて準備をするだけである。
今朝方は夢の中で、ある知人の女性とじっくり語り合っている場面があった。雰囲気はとても和やかで、楽しくざっくばらんな話を進めていた。お互いの今の関心事項に加えて、これからについても互いに質問を交えながら話すことができ、話が終わる頃には思考の整理が完了しており、未来に向かっていく気力が充実していた。その方はエネルギーワークにも関心があるとのことだったので、自分はその施術ができるため、今度交換ワークをしようということになった。今回ゆっくりと話をしたことで関係性はより深まったが、身体を通じたエネルギーの交換はより関係性を深めることになるだろうと思った。フローニンゲン:2026/5/15(金)07:05
18688. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の中で知人の女性と深く語り合っていた場面は、その急速な変化の只中で、自分の精神が「次なる世界へ向かうための対話的整理」を行っていたことを意味しているのかもしれない。夢の中で印象的なのは、単なる雑談ではなく、「互いの今」と「これから」を交差させながら話していた点である。これは、自分の中で未来像がまだ固定された設計図ではなく、他者との相互作用を通じて生成されつつあることを象徴しているように思える。まるで霧の中の街路に灯る街灯のように、対話によって少し先の道筋だけが順番に照らされていくのである。さらに興味深いのは、「エネルギーワークの交換」という主題であろう。ここでの交換とは、単なる技術的施術の約束ではなく、「知性だけではなく身体を通じて世界と関わり直したい」という欲求の象徴なのかもしれない。現在の自分は、研究、翻訳、執筆、理論構築など、極めて高度な認知的活動を中心に人生を進めている。しかし夢は、その知的活動だけでは未来への推進力が完成しないことを暗示しているようにも見える。身体を通じた感覚的交流、エネルギーの循環、触覚的実感といったものが、次の人生段階では重要になるという予感である。おそらく夢の中の女性は、特定の一個人というよりも、「未来へ向かう際に必要となる他者性」そのものを象徴しているのであろう。自分はこれまで、極めて強い自己形成力によって人生を切り拓いてきた。しかしここから先は、孤独な垂直上昇だけではなく、他者との共鳴による水平的拡張が始まる段階なのかもしれない。これは、一本の樹木が高く伸びるだけではなく、地下で菌糸ネットワークを広げ、見えない場所で森全体とつながり始める過程に似ているように思える。夢の最後に「未来へ向かう気力が充実していた」という感覚が残ったことは決定的である。単なる安心ではなく、活力として終わっている点に重要な意味がある。つまり現在の変化は、「失うこと」よりも「流れに乗ること」を中心に進んでいるのであろう。フローニンゲンからエディンバラへの移行、寒冷から夏日への急転、申請から即時発行されたビザ、そして対話によって深まる関係性は、すべて「停滞した氷が一気に解け始める春の雪解け」のような一つの大きな変容過程を構成しているように見える。この夢が人生において示しているのは、自分の未来は「努力して押し開くもの」というより、「すでに近づいてきている流れに同調するもの」になりつつあるということであろう。そしてその未来は、知性だけではなく、身体性、関係性、共鳴性を伴った、より立体的な生の方向へ向かっているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/15(金)07:59
18689. 人格の声としての演奏
最近よく考えるのは、なぜアンドレス・セゴビアやフランシスコ・タレガの演奏が、単なる技巧を超えて「人格の声」のように響くのかということである。もちろん、圧倒的な練習量は前提としてある。しかし、おそらく本当に重要なのは、指の速さそのものではなく、「音の中にどれだけ意識が宿っているか」なのだろうと思う。自分は最近、基礎練習を繰り返しながら、少しずつその感覚に触れ始めている。同じスケール練習でも、ただ指を動かすだけなら機械でもできる。しかし、セゴビアやタレガのような演奏家は、一音一音に呼吸を通している。まるで音が木材の内部から生えてくるような感覚がある。彼らは「弾いている」というより、ギターそのものを歌わせているように見える。おそらくそのレベルに到達するためには、単に難曲を増やすだけでは足りないのだろう。むしろ逆で、単純な音をどこまで深く聴けるかが重要なのかもしれない。一本の弦を鳴らした瞬間、その音がどのように立ち上がり、空間に広がり、消えていくのか。その微細な変化に耳を澄ませ続ける力である。まるで静かな湖面に落ちた一滴の水紋を観察するように、音の余韻を見つめ続ける感覚である。さらに感じるのは、彼らの演奏には「急ぎ」がないことである。セゴビアの演奏には巨大な樹木のような時間感覚がある。風が吹いても揺らがない幹のような安定感がある。一方でタレガには、夕暮れの光がゆっくり石畳を染めていくような繊細さがある。つまり、彼らは単に技術を持っていたのではなく、自分自身の時間を生きていたのだと思う。だから結局、セゴビアやタレガのレベルに近づくというのは、「上手くなる」というより、「どのように存在するか」の問題なのかもしれない。身体の使い方、呼吸、注意、聴覚、感情、沈黙との付き合い方、そのすべてが音に現れる。音楽は隠しきれない人格のようなものだからである。そして興味深いのは、そのような境地に近づくほど、練習が「戦い」ではなくなることである。以前は、自分を超えるために練習していた。しかし今は、むしろ身体と協調しながら、より自然な流れを探している感覚がある。力で押し切るのではなく、川の流れに櫂を合わせるような感覚である。おそらくセゴビアやタレガほどの演奏家は、音楽を征服したのではない。長い年月をかけて、自分自身を音楽の流れに同調させていったのだろう。そしてその過程の中で、技巧は結果として身体に沈殿し、最後には「技術を見せる演奏」ではなく、「存在そのものが響く演奏」へ変わっていったのだと思う。フローニンゲン:2026/5/15(金)08:33
18690. 探検としての基礎練習
ここ数日間特に、自分は「どうすれば毎日の基礎練習を無理なく、しかも楽しく続けられるのか」ということを考えている。そして少しずつわかってきたのは、基礎練習を「義務」にすると途端に苦しくなり、「観察」にすると急に面白くなるということである。以前の自分は、練習をどこか筋トレのノルマのように考えていたところがあった。何分やったか、どれだけ速く弾けるようになったか、どれだけミスを減らせたか。そのような数値ばかりに意識が向くと、基礎練習は未来の成果のための労働になってしまう。しかし最近は、一回一回の練習を「身体と音の変化を観察する実験」のように感じ始めている。たとえば同じアルペジオでも、右手の角度をほんの数ミリ変えるだけで音色が変わる。爪の当たり方を少し変えると、音の輪郭が柔らかくなる。左手の脱力がうまくいくと、まるで指板に吸い付くように運指が滑らかになる。その微細な違いを発見するたびに、単純な基礎練習が急に探検になるのである。まるで顕微鏡で結晶を覗き込む研究者のような感覚である。さらに、自分は最近、基礎練習のハードルを意図的に下げることも大事だと感じている。「今日は2時間やらなければならない」と思うと、脳は練習を巨大な壁として認識する。しかし、「まずは5分だけスケールを弾こう」と思うと、不思議と身体は動き始める。そして実際に始めると、そのまま30分、1時間と自然に続くことが多い。火を起こす時も、最初は小さな火種が必要なように、練習もまた「始める摩擦」を減らすことが重要なのだろう。また、基礎練習の前後に小さな儀式を作ることも、かなり大きい気がしている。朝のコーヒーを淹れること、ギターを丁寧に取り出すこと、最初に開放弦を静かに鳴らして響きを聴くこと。その一連の流れが、日常の時間から「音の時間」へ意識を切り替える橋になっている。まるで茶道で湯を沸かす所作そのものが精神を整えるように、練習前の小さな準備もまた集中を育てているのだと思う。そして何より重要なのは、「昨日の自分」と比較することなのかもしれない。他人の演奏動画ばかり見ていると、自分の未熟さに焦りやすい。しかし、一ヶ月前の自分の音を聴き返すと、確かに少しずつ変化している。音が落ち着き、リズムが整い、無駄な力みが減っている。その小さな成長を見つけることが、基礎練習を継続する静かな燃料になる。結局、基礎練習を毎日楽しく行う工夫とは、「上達を急がないこと」なのかもしれない。川の流れを無理に速めようとすると濁流になる。しかし自然な流れを信頼すると、水は静かに遠くまで進んでいく。最近の自分は、少しずつその感覚をギターの中で学び始めている気がする。フローニンゲン:2026/5/15(金)09:03
18691. 感動の背後にある演奏者の存在の質
最近よく考えるのは、「なぜある演奏は技術的には完璧でも心に残らず、別の演奏は多少粗削りでも深く胸に残るのか」ということである。そして少しずつ感じ始めているのは、人を感動させる音楽とは、単に正確な音の並びではなく、「演奏者の存在の質」が音を通して滲み出ている状態なのではないかということである。たとえば、非常に上手い演奏を聴いても、どこか冷たく感じることがある。音は整っている。リズムも正確で、ミスもほとんどない。しかし、まるで精巧に磨かれたガラス細工のように、美しいのに触れられない感覚がある。一方で、本当に心を動かされる演奏には、どこか「人間の呼吸」がある。完全無欠ではないのに、音の向こうに生きた体温を感じるのである。おそらく人を感動させる演奏には、「何を伝えたいのか」が音の奥に存在しているのだろう。ただ音符を処理しているのではなく、一音一音に何かを託している感覚がある。まるで言葉にならない感情を、音に変換して差し出しているような演奏である。その時、聴き手は単に音を聴いているのではなく、「誰かの生の経験」に触れているのかもしれない。そして興味深いのは、本当に感動する演奏ほど、音数だけで勝負していないことである。むしろ「間」が深い。沈黙が豊かなのである。優れた演奏家は、音を鳴らしていない時間まで音楽にしている。静寂が単なる空白ではなく、次の音を生み出す呼吸になっている。まるで夜空に浮かぶ星が、周囲の暗闇によって輝きを増すように、音もまた沈黙によって命を得ているのだと思う。さらに、人を感動させる演奏には、無理が少ない気がする。以前の自分は、感動させるためには激しい感情表現や大きな音量が必要なのではないかと思っていた。しかし最近はむしろ逆で、深い演奏ほど自然体に近いように感じる。川が無理に流れようとしないように、優れた演奏は力みなく流れている。そこには、自分を誇示しようとする緊張よりも、「音楽そのものに仕える感覚」がある。特にクラシックギターは、そのことを残酷なほど露わにする楽器なのかもしれない。ピアノのように大音量で空間を満たすことは難しい。しかしだからこそ、小さな音の中にどれだけ意識を込められるかが問われる。右手のわずかな接触、左手の脱力、呼吸の深さ、そのすべてがそのまま音になる。つまりギターとは、「どのように生きているか」がそのまま露出する楽器なのだろう。最近は、人を感動させる演奏とは、「上手さを見せること」ではなく、「その人自身が音を通して透明になること」なのではないかと思い始めている。演奏者のエゴが前に出るほど、音楽は狭くなる。しかし、自分を押し出すのではなく、音楽の流れそのものに身を委ねた時、不思議と音が自然に遠くまで届いていく。まるで澄んだ湖面に落ちた一滴の水が、静かに波紋を広げていくように、本当に感動する演奏とは、力ではなく透明さによって人の心に触れているのかもしれない。フローニンゲン:2026/5/15(金)11:12
Today’s Letter
Playing classical guitar deepens my sense of being. Cultivating my whole being throughout my life is one of the purposes of my life. Groningen, 5/15/2026
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