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【フローニンゲンからの便り】18536-18541:2026年4月20日(月)

  • 1 日前
  • 読了時間: 15分


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タイトル一覧

18536

時間芸術としてのプレゼンテーション

18537

今朝方の夢

18538

今朝方の夢の振り返り

18539

絶対音感について

18540

クラシックギターを用いた絶対音感の訓練

18541

即興演奏のための絶対音感

18536. 時間芸術としてのプレゼンテーション

                       

最近、英語を話すことの中に音楽性を感じて以来、不思議な連鎖が起きている。英語だけではなく、日本語で語るときにも、言葉は単なる情報伝達の道具ではなく、音と間と抑揚によって立ち上がる表現行為なのではないかと思うようになった。とりわけ自分の研究分野を誰かに伝える場、たとえば発表、講義、対話、プレゼンテーションの時間は、もはや説明ではなく、一種の芸術的パフォーマンスなのかもしれない。そんな感覚が少しずつ育っている。これまで研究発表というものを、内容の正確さ、論理の整合性、引用の妥当性によって評価される知的営みとして見ていた。もちろんそれは今でも本質である。しかし近頃、それだけでは届かない何かがあると感じる。どれほど優れた内容でも、単調に読まれれば聴衆の心には届かず、逆に難解なテーマであっても、生きた声で語られれば、人は耳を傾け始める。そこには意味以前の次元、声そのものが持つ力がある。旋律が歌詞の意味を超えて感情に触れるように、語りにもまた、論旨を超えて人の注意と感受性を動かす働きがあるのだろう。考えてみれば、優れたプレゼンには音楽的要素が多い。導入は序曲のように期待を開き、問題提起は緊張をつくり、議論の展開は主題の変奏となる。重要な概念は反復され、静かな間が余韻を生み、結論は終止形として全体を閉じる。速すぎる話し方は乱れた速弾きに似て、遅すぎれば拍が崩れる。声量、テンポ、沈黙、アクセント、そのすべてが構成要素である。内容が楽譜だとすれば、発話は演奏なのだと思う。そう考えると、自分がこれまで親しんできたクラシックギターの練習とも深くつながってくる。一音一音に意図を込めること、フレーズの方向性を感じること、弾かない瞬間の静けさまで作品の一部として扱うこと。これらはそのまま話す行為にも通じている。言葉もまた音であり、沈黙もまた語りの一部である。プレゼンとは、知識を並べる作業ではなく、聴衆の意識の中に時間芸術を立ち上げることなのかもしれない。さらにこの視点は、研究そのものへの態度も変える。論文を書くことは作曲に近く、発表することは初演に近い。聴衆の反応を受けて語り方を磨くことは、演奏家がホールごとに響きを調整することに似ている。知と芸は別物だと思われがちだが、本来は遠くない。真理が乾いた骨格だけで現れることは少なく、多くの場合、美しい形式をまとって初めて人の心の中へ入っていく。これからエディンバラで学ぶ日々の中でも、この感覚を大切にしたいと思う。仏教思想や発達理論のような抽象的テーマであっても、それを生きた言葉として響かせることができれば、学問は書庫の中の遺物ではなく、現在進行形の芸術になるだろう。研究者であることと表現者であることは、もしかすると別々の道ではなく、同じ山を違う斜面から登っているだけなのかもしれない。フローニンゲン:2026/4/20(月)07:19


18537. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、アメリカのプリンストン大学にいた。どうやら自分はエディンバラ大学に加えて、プリンストン大学の神学部からもオファーをいただいているようだった。どちらの大学も神学に関しては世界随一の研究力と評判を持っており、実際にキャンパスビジットをして最終的にどちらの大学に進学するかを検討しようと思っていた。プリンストン大学の周辺は大変落ち着きがあり、風景はとても美しかった。とりわけ印象的だったのは、学内にある教会の荘厳さである。心はプリンストン大学に少し傾きかけていたが、自分はエディンバラ大学への進学を決めていた。オファーをくれたプリンストン大学に感謝しながら街を去ろうとしていると、そこに大学時代のサークルの友人が現れた。最初彼だと気づかなかった。というのも落ち着いたゴールドの眼鏡をかけていて、彼は大学時代には眼鏡を一切していなかったからである。そんな彼は笑顔で私に声をかけてきて、新たな旅路に向けてハグをして送り出してくれた。彼が駅の外に出て行こうとする時に、彼が誰だかようやく気づく、彼の名前を呼び止めた。彼は笑顔で振り返り、手を振って私を送り出してくれた。

次に覚えているのは、見慣れない体育館の2階からフットサルの大会の試合を眺めていた場面である。コート上には大学時代のサークルの同期や先輩たちが立っており、彼らを応援していた。すると8番をつけた先輩の選手が2回大チャンスを外し、そこから疲労が一気に見え、交代を申し出た。その時にその先輩は自分の名前を呼び、自分が代わりに出ることを希望しているようだったが、私は2階席にいたのですぐに出場することはできなかった。先輩は私がコート脇にいないことに苛立ちを見せ始め、私は慌てて下に降りて試合出場に向けて急遽準備することにした。その間にすでに同期の別の選手が出場していた。普段は決して苛立ちを見せない先輩がその日は気が立っており、何か理不尽な形でその怒りをぶつけられた感じがした。すると自分もその先輩に対して怒りの感情が湧いてきて、すぐにそれを表現しなかったが、コートに立って先輩が外した2回のチャンスの代わりに自分は2ゴールをすぐさま決めた。ゴールを決めた後には毎回その先輩に対して自分の苛立ちを言葉・表情・身振りで表現し、とりわけ言葉にはその先輩に対する嫌味が込められていた。結局試合は自分の出場と2ゴールによって勢いを回復し、無事に勝利したが、先輩に対する怒りの感情はすぐには収まらなかった。しかし、どうにかして仲直りが必要だと思ったので、どこかのタイミングで先輩とはしっかり話し合おうと思った。


もう一つ覚えているのは、世界のいくつかの大国が集まって核兵器の分散について話し合っている場面である。自分は日本を代表してというよりも、それらの国々の代表者の意見をまとめる立場にあった。最初は一国だけが核兵器を持つべきだという意見が出たが、そこからは二国、三国、最大四国に分散する案が出された。一極集中は怖いし、分散させすぎるのも種々のリスクがあり、どうやって意見を収束させ、最終的な合議を取るかは非常に難しいものがあった。フローニンゲン:2026/4/20(月)07:32


18538. 今朝方の夢の振り返り

                    

今朝方の夢全体は、自分の人生がいま「選ばれる者」から「選び取る者」へと移行しつつある局面を映しているのかもしれない。プリンストン大学とエディンバラ大学という二つの卓越した場は、単なる進学先の比較ではなく、自分の内にある二つの未来像、すなわち栄光に引かれる心と、すでに引き受けた運命に忠実であろうとする心を象徴しているのだろう。とりわけ荘厳な教会が印象に残ったのは、自分が求めているものが学歴や名声そのものではなく、学問を超えてなお魂を整えるような「召命」の感覚だからかもしれない。美しい街を去る場面は、魅力的な可能性を否定するのではなく、感謝しつつ手放す成熟を示しているように思われる。そこに現れた大学時代の友人は、過去から来た他者であると同時に、かつての自分を知る記憶の化身でもあったのではないか。落ち着いたゴールドの眼鏡は、同じ人物が別の見え方を帯びて現れたことを示し、昔の関係性がいまや知性や品位をまとった祝福へと変わったことを象徴しているのだろう。すぐには気づけず、去り際にようやく名前を呼ぶ展開は、自分が人生の節目において、支えてくれてきた縁や過去の自分の価値を遅れて認識する傾向を示しているのかもしれない。体育館の場面では、風景は一転して、静かな召命ではなく競争・感情・反応の次元が前面に出てくる。2階から試合を見ていた自分は、いまの自分が人生を俯瞰する位置にはいるが、まだすぐには現場に降りられない状態を表しているように見える。8番の先輩は、尊敬の対象であると同時に、自分の内にある権威や期待、あるいは「本来こうあるべきだ」という厳しい基準を体現しているのだろう。その先輩が好機を外し、苛立ち、自分に理不尽さを向けるのは、権威が傷ついたときに他者を責める構図、あるいは自分自身が疲れたときに自分を責め立てる内的力学の投影なのかもしれない。そこで自分が2得点を決めるのは、傷ついた怒りを有能さへ変換する力の表れであり、実際に高い回復力を持っていることを示しているようでもある。しかし得点後に嫌味を返すのは、成果によって勝っても感情の負債は返済されないことを夢が告げているのだろう。勝利の後に「話し合おう」と思う流れには、自分が本当に求めているものは優越ではなく和解である、という深い倫理感覚がにじんでいるように思われる。核兵器をめぐる国際会議の場面は、この夢の核心かもしれない。ここで扱われているのは世界政治であると同時に、自分の内面に存在する巨大な力の配分であろう。知性、 大志、怒り、責任感、影響力といった強大なエネルギーを、一つに集中させても危うく、分散しすぎても制御不能になる。その中で自分が日本の代表というより全体の意見をまとめる立場にいるのは、自分の本質が「覇権を握る者」ではなく「危険な力の均衡を調停する者」にあることを示しているのかもしれない。この夢が人生において示している意味は、自分の進むべき道が、名門に所属することそれ自体ではなく、複数の大きな可能性、傷ついた感情、強い力を抱えながらも、それらを破壊ではなく統合へ導くことにある、ということではないかと思われる。自分の人生の使命は、選ばれた場所で輝くこと以上に、内にも外にもある大きな力を調停し、和解と秩序へ変えることにあるのだろう。フローニンゲン:2026/4/20(月)08:20


18539. 絶対音感について

        

絶対音感とは、基準音を聴かなくても、単独で鳴った音の高さを特定できる能力である。例えば突然ピアノで一音鳴らされ、「これはCである」「これはF♯である」と即座に答えられる感覚を指す。多くの人は他の音との比較によって高さを判断するが、絶対音感保持者は音高そのものを、色や文字を見るように直接認識している場合がある。ただし、絶対音感にも幅がある。十二音を高精度で瞬時に言い当てられる人もいれば、よく使う音域だけ判別しやすい人、多少ずれていても近い音名を答えられる人もいる。したがって、絶対音感は単純に「ある・ない」で分けるより、程度差のある能力として理解するほうが現実的である。幼少期との関連が語られるのは、幼い時期に音名と音高を反復的に結びつける訓練を受けた人に、絶対音感保持者が多いからである。とくに四歳から六歳前後の時期に音楽教育を受けた人に多いという報告がある。これは言語習得における発音学習と似ており、脳の可塑性が高い時期には、音のカテゴリー化が進みやすいためと考えられている。では、大人になってから開発可能か。結論として、幼少期型の強固な絶対音感をそのまま獲得することは容易ではないが、実用的な準絶対音感や高精度の音高認識能力は十分に伸ばせると考えられる。成人にも脳の可塑性は残っており、訓練によって単音認識能力は向上する。特定のA音やC音を身体感覚として記憶し、そこから他音を推定する技能も育成可能である。これは厳密には相対音感と記憶音高の組み合わせであるが、実践上は非常に有効である。大人に有効な訓練法としては、毎日短時間でも継続して、基準音を覚え、単音当てを行い、歌って確認する方法がある。例えばA=440Hzを繰り返し聴いて記憶する。Cの響きを固定し、声に出して再現する。楽器なしで頭の中に音を鳴らし、その後確認する。こうした反復により、内的聴覚は着実に育つ。クラシックギターのように毎日同じ調弦へ触れる楽器奏者は、開放弦の音を起点として音高記憶を育てやすいだろう。もっとも、絶対音感だけが音楽性の核心ではない。多くの演奏、作曲、アンサンブルにおいて重要なのは、音同士の関係を感じる相対音感、和声感覚、リズム感、表現力である。絶対音感保持者でも移調に苦労する場合があり、逆に優れた音楽家の多くは高度な相対音感を備えている。したがって、大人が目指すべきは、子どもの頃に持てなかった才能を追うことではなく、成熟した認知力を用いて高度な聴覚技能を育てることである。絶対音感とは天賦の勲章ではなく、耳と記憶の一つの様式にすぎない。今からでも耳は育つ。重要なのは年齢ではなく、どれだけ繊細に音へ注意を向け続けるかである。フローニンゲン:2026/4/20(月)09:39


18540. クラシックギターを用いた絶対音感の訓練

        

クラシックギターを用いて絶対音感を鍛えるには、単に曲を弾くだけでは不十分である。重要なのは、指の運動練習を「音高認識訓練」へ変えることである。クラシックギターは六本の開放弦が明確な基準音として常に存在するため、絶対音感的能力を育てる教材として非常に優れている。標準調弦であれば6弦E、5弦A、4弦D、3弦G、2弦B、1弦Eであり、毎日この音に触れること自体が耳の土台となる。最初に行うべきは、開放弦の音を身体に刻み込む訓練である。目を閉じ、一本ずつ弾き、その音名を声に出して確認する。「これはE」「これはA」と即答する習慣をつくる。その後、弾く前に頭の中で音を想像し、実際に鳴らして一致しているか確認する。この「先に内的に鳴らす」工程が極めて重要である。耳ではなく脳内に音叉を育てる作業だからである。次に有効なのは、一日一音アンカー法である。例えば今日は5弦開放Aだけを徹底的に覚える。何度も聴き、歌い、時間を置いて再現する。外出中でも頭の中でA音を思い出し、帰宅後に確認する。翌日は3弦G、その次は2弦Bというように、一音ずつ生活の中へ染み込ませる。六本の開放弦を確実な基準点にできれば、そこから他音へ広げやすくなる。フレット音の訓練も効果的である。例えば5弦3フレットC、3弦2フレットA、2弦1フレットCなど、よく使う音を固定地点として覚える。ギターは同じ音が複数箇所で出せるため、「同じCでもどこで鳴っているか」を聴き分ける練習にもなる。これは単なる絶対音感だけでなく、音色差への感受性も高める。さらに歌唱を組み合わせると定着率が上がる。弾いた音をすぐハミングし、逆に先に声で出してからギターで探す。声帯は身体内部の楽器であり、耳と運動系を結びつける橋になる。音名唱法、すなわちド・レ・ミあるいはC・D・Eで歌うと認識が明確になる。実践的メニューとしては、毎日15分で十分である。最初の5分は開放弦確認、次の5分はランダム単音当て、最後の5分は内的聴覚訓練に使う。例えば目を閉じて任意の弦・フレットを押さえ、鳴る前に音名を予測し、実際に弾いて答え合わせする。これを継続すると、指板が地図となり、耳がその地図を読めるようになるだろう。注意点として、完全な幼少期型絶対音感に執着しすぎる必要はない。成人では、記憶音高と相対音感を融合させた高度な実用耳を目指すほうが現実的である。クラシックギター奏者にとって重要なのは、曲の冒頭音を即座に思い出せること、調弦の狂いに敏感になること、和声の色彩を感じ取れることである。つまりクラシックギターは、ただ演奏する道具ではなく、耳を彫刻する道具でもある。毎日の調弦、開放弦、ポジション移動、そのすべてを意識化すれば、指先の練習はそのまま聴覚の修行へ変わるだろう。フローニンゲン:2026/4/20(月)10:03


18541. 即興演奏のための絶対音感


即興演奏の実現において絶対音感を磨くことには、単に音名を当てる能力以上の意義があるのではないかと思う。核心にあるのは、頭の中で思い描いた音を、迷いなく現実の音へ変換する速度と精度を高める点である。即興とは、その場で作曲し、その場で演奏し、その場で判断する行為である。したがって、内面に浮かんだ響きを瞬時に外界へ取り出せる耳は、大きな武器となるだろう。通常、相対音感中心の演奏では、「今の和音から三度上」「次は五度下」といった関係的処理が行われる。これは非常に重要であり、多くの優れた即興家もこの能力を土台としている。しかし絶対音感的能力が加わると、思考の経路が一段短くなる。「この場面ではF♯の鋭い緊張感が欲しい」「次にE♭の陰影を差し込みたい」と、音の個体性そのものへ直接アクセスしやすくなる。地図を見て目的地へ向かう感覚に対し、絶対音感は住所を知っていて直行する感覚に近い。また、即興では記憶の再構成が頻繁に起こる。過去に弾いたフレーズ、聴いた楽曲、身体に染み込んだ和声進行が瞬時に呼び出され、変形される。その際、音高が明確に内部保存されているほど、素材の取り出しが滑らかになる。例えば、「以前のあの旋律を半音上げて使おう」「あの低音ラインを別調で再生しよう」といった操作が迅速になる。これは創造性にとって重要である。創造とは無から生むだけではなく、既存素材を新しい秩序へ再編する力でもあるからである。さらに、絶対音感は調性感への感受性も高めやすい。各調には演奏者ごとに固有の色彩感覚が生まれることがある。Cは明晰、Eは輝き、D minorは陰影、といった主観的質感である。即興演奏では、この色彩辞典が豊かであるほど、感情と音の接続が細やかになる。言葉で感情を語る前に、音で気分を描けるようになるのである。クラシックギターの即興においても利点は大きい。開放弦のE、A、D、G、B、Eが常に基準として存在するため、絶対音感的感覚が育つと、指板全体が音名付きの風景へ変わる。どのポジションでも狙った音へ着地しやすくなり、移弦や転調の不安が減る。その結果、技術処理に使っていた注意資源を、表現や物語性へ回せるようになる。ただし、絶対音感だけで即興が成立するわけではない。リズム感、和声理解、フォーム感覚、フレーズ構築力、沈黙を置く勇気、聴衆や空間への反応力が不可欠である。絶対音感は王ではなく、有能な補佐官である。過度に音名へ囚われれば、自由さを失う危険もある。したがって、即興のために絶対音感を磨く意味は、音名当て競争に勝つことではない。それは、心に生まれた音の種を、遅滞なく現実の花へ咲かせる能力を育てることである。耳が鋭くなるほど、想像は具体性を持つ。想像が具体性を持つほど、即興は偶然の産物ではなく、瞬間に現れる必然の芸術となるのである。フローニンゲン:2026/4/20(月)13:38


Today’s Letter

Oh my God! The cosmos is dreaming too. Our nightly dreams are always contained within a cosmic dream. Groningen, 4/20/2026

 
 
 

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