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【フローニンゲンからの便り】18436-18439:2026年3月29日(日)

  • 22 時間前
  • 読了時間: 9分


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タイトル一覧

18436

エディンバラ大学での研究生活に向けた準備期間の過ごし方

18437

今朝方の夢

18438

今朝方の夢の振り返り

18439

二つのモード

18436. エディンバラ大学での研究生活に向けた準備期間の過ごし方 

                     

時刻は午前7時半を迎えた。この時間はもう明るい。今日から欧州はサマータイムに入り、1時間ほど時間が進んだ。なので昨日であればこの時間帯は6時半である。今の気温は2度とまだ低い気温が続くが、太陽の光の様子はすでに春のそれを感じさせる。


一昨日に正式にエディンバラ大学のオファーを受理したところ、昨日早速大学公式のメールアドレスをいただいた。エディンバラ大学はMicrosoft Outlookを使っており、メールアドレスに加えて、そのソフト全般が使えるようになったので、これからの学術生活は便利になるだろう。一応今使っているGmailからもエディンバラ大学のメールアドレスでメールを送信できるように今日の午後にでも設定しておこうと思う。オファーを受理し、メールアドレスをもらったことによって、エディンバラ大学での研究生活のイメージがまた一段と増してきた。ビザの発行の都合上、エディンバラに引っ越すのはおそらく8月末になるだろう。それまでまだ5ヶ月も時間があるので、エディンバラ大学に行ってからの研究をスムーズなものにしていくために、今から研究のギアを入れ替えていこうと考えている。イギリスの大学院に行くことを見据えて数ヶ月前から唯識の関連文献を読み返すことを丹念に行なっていた。それを通じて、当面の研究に本当に必要な文献とそうでないものが分別でき、研究に必要な文献についてはさらに繰り返し読み込んでいくということを行なっている。これを通じて知識の下地を強固なものにしたいと考えており、こうした読書は4月一杯まで続けていく。結局のところ読書はアウトプットによって真に理解が深まっていくので、5月からは査読付き論文のドラフトの続きに取り掛かり、さらには修士論文のドラフトの執筆も早速手掛けていきたい。5月から8月末まで執筆を続ければ、数本の査読付き論文のドラフトと15,000字の修士論文のドラフトを完成させることができるのではないかと思う。それができれば非常に良い滑り出しである。昨日、エディンバラ大学で深くお世話になるであろう先生の1人である森里先生から受講予定の仏教哲学のコースシラバスを送っていただき、早速中身を見ると、まだ入手していない文献がいくつかあったので、引越し前ではあるが、それらを明後日ぐらいには注文し、届き次第目を通していきたい。その他にもポール・フュラー博士とアビゲイル・マクベイン博士のコースも履修する予定なので、二人にもコースシラバスを送ってもらうことをお願いし、持っていない文献を購入して、フローニンゲンにいる間に全ての文献に目を通しておく。さらにそれだけではなく、それら3人の先生のコースの最終評価はファイナルペーパーのみで決まるらしいので、ファイナルペーパーについても構想を練り、ドラフトを執筆していこうと考えている。当面はまず、唯識に関する書籍とこの2週間で読み進めた良遍の思想に触れた66本の論文を再読していくことに力を入れていきたい。書いてあったことを想起することを意識して、しっかりと記憶に定着していく読書を心がけていく。フローニンゲン:2026/3/29(日)07:44


18437. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、西日本のある最難関高校の入試問題を見知らぬ数人の男性たちが解いている様子を目撃者の意識で眺めていた。その高校は実際には中学入試の方が圧倒的に難しいのだが、それでも高校入試の問題も十分に難易度が高かった。国数英の3科目の問題を眺めてみると、確かに難しそうだったが、英語に関しては当然ながら自分にとっては簡単な問題に移り、国語に関しても取り組みやすそうであった。その名門高校の入試問題は、翌日に新聞でも取り上げられるのが恒例で、解説と講評のコラムは人気があった。試しにコラムを読んでみると、確かにそれは大人の自分にとっても学びになるような内容が書かれてあって感銘を受けた。コラムを読み終えた後、目撃者の意識では無くなっていることに気づき、自分はその場にいて新聞を手に取っていたことに気づいた。目の前には2人の女性がテーブル席でお茶を飲んでおり、2人も新聞を読みたいかもしれないと思って、2人に新聞をそっと渡した。


次に覚えているのは、大学時代のゼミの友人たちと公認会計士の資格試験に向けた勉強について話し合っていた。それに加えて、ちょうど大学の期末試験も控えており、そちらの試験勉強の進捗度合いについても共有し合っていた。その場には3人ほど友人がいて、そのうちの1人が会計士試験の勉強が特にうまく進んでいないと少し嘆きながら述べた。それに対して他の友人と私は彼に励ましの言葉をかけ、そしてそれだけではなく、予想問題を全員で作ることを通じて、お互いのノウハウを全て出し惜しみせずに共有し合うことにした。これでチーム一丸となってどちらの試験も全員突破できるのではないかと思った。フローニンゲン:2026/3/29(日)08:00


18438. 今朝方の夢の振り返り

                   

今朝方の夢は、自分の中にある「評価される側としての自己」と「評価する側としての自己」とのあいだで生じている構造的転換を象徴しているように思われる。冒頭において、自分は難関高校の入試問題を「目撃者の意識」として眺めている。この位置は、まるで舞台の観客席に座りながら、他者の試練や努力を冷静に分析している状態に近いものであると考えられる。しかしここで重要なのは、その試験が「本来は中学入試の方が難しい」という認識である。これは、形式的には高度に見える課題であっても、すでに自分にとっては通過済みの段階である可能性を示唆しているように思われる。英語や国語が容易に感じられた点もまた、自分の認知的・言語的スキルが既にその枠組みを超えていることを象徴していると解釈できる。さらに興味深いのは、入試問題そのものではなく、それを解説する新聞のコラムに感銘を受けている点である。問題を解く側ではなく、それを意味づけ、再構成し、他者に伝達する側に価値を見出している構図が浮かび上がる。これは、自分の関心が「解答者」から「解釈者」へとシフトしている兆候である可能性が高い。そしてその後、「目撃者の意識ではなくなり、新聞を手に取っている自分」に気づく場面は、この転換が観察的段階から主体的段階へ移行したことを示しているように思われる。つまり、自分はもはや外側から評価する存在ではなく、その知を手に取り、分かち合う存在へと移行しつつあるのである。目の前の2人の女性に新聞をそっと渡す行為も象徴的である。これは知識や洞察を独占するのではなく、自然に共有する姿勢を表していると考えられる。この振る舞いは、競争的な試験の世界観とは対照的であり、むしろ協働的・分有的な知のあり方への志向を示唆している。続く場面では、大学時代の友人たちと資格試験と期末試験という二重の課題に向き合っている。ここでは、先の場面とは異なり、自分は完全に当事者として関与している。そして特に印象的なのは、進捗が遅れている友人に対して励ましを与えるだけでなく、予想問題を協働で作成し、ノウハウを出し惜しみなく共有するという選択である。これは、知識を競争のための資源として扱うのではなく、共同体の中で循環させるものとして捉える認識の現れであるように思われる。個々の達成よりも、全体としての成功を志向する意識が強く表出している。この2つの場面を貫く構造は、「個人的達成から共同的生成への移行」として理解できる。最初の場面では、すでに乗り越えた試験を俯瞰し、その意味を再解釈する立場にいる。後半では、その知を用いて他者と協働し、未来の成果を共に創り出そうとしている。この流れは、自分の発達が単なる能力の向上にとどまらず、知の扱い方そのものの変容を含んでいることを示唆しているように思われる。人生における意味としては、自分はもはや「試験に合格する者」という段階を超え、「試験という枠組みを再定義し、他者とともに新たな価値を生み出す者」へと移行しつつあるのではないかと考えられる。その意味でこの夢は、競争を前提とした成長モデルから、共創を前提とした成熟モデルへの内的転換を告げるものである可能性がある。フローニンゲン:2026/3/29(日)08:19


18439. 二つのモード

       

ブランダン・エイカー氏の助言は、演奏における本質的な断絶、すなわち「練習モード」と「本番モード」の認知的構造の違いを鋭く言語化したものであると解釈できる。ここで語られているのは単なる心構えではなく、注意の向きと意識の階層に関する問題である。練習においては、注意は意図的に狭められる。音の粒立ち、指の角度、タイミングの微細なズレといった要素に対して分析的に介入し、誤りを検出し、修正を加える。この過程は、いわば「技術の構築段階」であり、意識が監督者として機能する必要がある。ここでは、演奏はまだ自動化されておらず、統制される対象である。しかし本番において同じ認知様式を持ち込むと、それは機能不全を引き起こす。分析的注意が作動すると、意識は身体の運動に介入し続け、結果として運動の流れが分断される。音楽は連続体であるにもかかわらず、注意が細部に分解してしまうことで、全体的な流れが失われるのである。この状態は、心理学的には「過剰モニタリング」と呼ばれる現象に近く、熟達した技能が意識によって阻害される典型例である。ここでエイカーが強調するのが、「信頼への移行」である。練習によって構築された技術は、本番においては監督されるべきものではなく、委ねられるべきものである。すなわち、意識は「制御者」から「観客」へと役割を変える必要がある。この転換が起こらない限り、演奏は常に中途半端な状態に留まり、流れ(flow)に入ることができない。また、「音楽的コミュニケーションは検査ではなくコミットメントに依存する」という指摘は重要である。ここでいうコミットメントとは、音そのものに対する全的な関与であり、結果の正確さを逐一確認する態度とは対極にある。検査は過去の誤りを基準に現在を評価するが、コミットメントは現在の瞬間に完全に参与する。この違いが、表現の自然さと直接性を生み出す条件になる。さらに、「時間が落ち着く」という表現は、リズム感が外的な制御から解放され、内在的な時間感覚に委ねられる状態を指していると考えられる。分析的意識が介入している間、時間は常に「管理される対象」であるが、それが退くと、時間は経験されるものへと変わる。ここにおいて初めて、音楽は生きたものとして立ち上がる。最終的に提示されている「ある時点で練習をやめ、演奏を始める」という転換は、量的な変化ではなく質的な跳躍である。それは連続的な延長ではなく、意識のモードを切り替える決断である。この切り替えは自然には起こらず、意図的に行われる必要があるとされている点に、この助言の実践的な核心がある。要するに、この助言は、技術の習得と表現の発現が異なる認知状態に依存していることを明確にし、その間にある「手放し」の瞬間こそが演奏の成立条件であることを示しているのである。フローニンゲン:2026/3/29(日)11:03


Today’s Letter

Recollecting what I have read is an effective way to build durable memories. Beyond simply reading texts, this approach is one of the most effective ways to accumulate knowledge. Groningen, 3/29/2026

 
 
 

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