【フローニンゲンからの便り】18426-18430:2026年3月27日(金)
- 5 時間前
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タイトル一覧
18426 | エディンバラ大学とロンドン大学のオファーに関して |
18427 | 今朝方の夢 |
18428 | 今朝方の夢の振り返り |
18429 | 演奏における緊張について |
18430 | 読書とギターのリズム |
18426. エディンバラ大学とロンドン大学のオファーに関して
時刻は午前6時半を迎えた。この時間帯はもう明るく、最近は午前5時半ぐらいから小鳥の鳴き声が聞こえるようになった。こうしたことを見ても、春の到来を感じる。ただし気温に関してはまだ低く、今の気温は0度である。昨日はまた冬に戻ったかのような寒さがあり、今日もその寒さを幾分引き継いでいる。週間予報を眺めると、まだ肌寒い日が続くようだが、来週末に関しては15度を超える日もある。こうした春の本格的な到来に足並みを揃えて、自分も新天地のエディンバラに向けて着々と準備を進めている。学術研究のギアが一段上がり、エディンバラに到着してから速やかに研究に打ち込めるように、フローニンゲンにいる段階で研究の量と質を上げている。実際に引越しをするのは今からちょうど5ヶ月後だが、毎週日曜日の夕方に1時間ほど時間を取って、エディンバラに持っていく書籍の分別を始めている。これが自分にとっては良い気分転換になっているし、それを超えて、断捨離を通じた精神の整理のような現象が起きているのが興味深い。それは多分にサイコセラピー的な効能をもたらしている。端的には、心の治癒がもたらされているのである。これまでの引越しに際してはそれほど多く書籍を処分しなかったので、今回毎週末大掛かりな書籍の処分をしてみると、その思わぬ効能に気づく。この分別の過程で持っていかないと決め、寄付やリサイクルに出すと決めた書籍を再読すると、その書籍を目にするのが最後かもしれないという気持ちから、集中力高く再読できることも興味深い。
今日は正式にエディンバラ大学のオファーを受理し、ロンドン大学SOASのオファーをお断りする。両校からオファーを得てしばらく経ち、様々な観点から吟味した結果、エディンバラ大学に進学することにした。大学の雰囲気、指導教官とのマッチング、プログラムの内容、街の性質等々、様々な事柄を考えた上での判断である。SOASからいただいたオファーを断るのは申し訳ない気持ちがするが、感謝の念を持ってオファーを断り、エディンバラ大学からいただいたオファーを感謝の念と共に受諾する。オファーの受諾後は、ビザの申請手続きを始められるのなら早めに始めてしまおうと思う。実際にビザが降りてから、最終的にいつオランダを出発し、エディンバラに行くかを決めることができる。フローニンゲン:2026/3/27(金)06:44
18427. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、画家の知人が現れていた。その方と私は、見知らぬ学校の教室にいた。そこは一見すると見慣れない感じがあったが、教室にいてしばらくすると、母校の感覚があり、すぐに馴染んだ。教室ではお互いにスーツを着ており、黒板を前にして楽しげに話をしていた。すると教室に数人の人がやって来た。その中には小中高時代のある友人(HY)がいて、知人の方に挨拶をした。そこからその方を主役にして、画家としてのキャリアの変遷を苦労したことややりがいを含めて話してもらった。教室にやって来た数人の人たちはその方の話に引き込まれており、真剣かつ楽しそうに話を聞いていたので何よりだった。太陽光により教室の温度が上がっていて、気づけばその方も私もスーツが汗でびっしょりと濡れていた。お互いの発汗量は尋常ではなく、自分はスーツを脱いで、日の当たる場所に干しておくことにした。そこからもその方の楽しい話は続いた。
この場面の後もまた同じくその画家の知人が現れていた。今度はその方のかつての実家が歯科クリニックになっていて、その方が歯科助手として仕事をしていた。2階の2つの部屋がクリニックとして使われていたが、1つの部屋だけはその方の思い出のものが置かれていて物置になっていた。私は検診まで時間があるようだったのでその部屋に勝手に入り、色々と物を眺めた。すると、壁にその方とその方の母親がツーショットで正装した姿で映った写真があった。おそらくそれは卒業式か何かの写真なのだろう。2人の顔はどういうわけかボヤけていてはっきりと見ることはできなかったが、2人は親子ゆえにやはり雰囲気は似ていると思った。そこから場面が展開し、神社の境内に場面が映った。その由緒正しき神社である2人の芸能人のコンビが長らく司会進行を努める番組の撮影が行われることになっていて、その知人の方がゲストの1人だった。いざ番組が始まると、私は目撃者の意識状態を通じてその番組を楽しく眺めていた。フローニンゲン:2026/3/27(金)06:56
18428. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、「自己の内的資源が、異なる文脈の中で再配置され、統合へと向かう過程」を象徴している可能性が高い構造であると考えられる。まず、画家の知人と教室にいる場面は、創造性と学習の統合を示唆しているように思われる。教室は制度的・知的枠組みの象徴であり、そこに画家という創造的存在が現れることは、知的探究と美的直観が同一の場に収斂しつつある状態を意味している可能性がある。最初は見知らぬ教室でありながら、やがて母校のように馴染むという移行は、自分の現在の学びや研究環境が、いずれ内面化され「自分の場」として再構成される過程を象徴していると解釈できる。これは、異質な環境が次第に自己の一部となるプロセス、すなわち発達的同化と調整の動態を表しているとも言えるだろう。スーツを着て黒板の前にいるという状況は、自己が社会的役割と専門性を帯びた存在として立っていることを示唆する。そこに旧友HYが現れることは、過去の自己と現在の自己が同一空間に共在することを意味し、時間的連続性の再編が起きている可能性がある。そして画家の語るキャリアの物語に人々が引き込まれる様子は、自分自身の内なる「語りうる人生」が、他者を惹きつける力を持ち始めている兆候とも考えられる。太陽光によって教室が過熱し、汗でスーツが濡れる場面は、心理的エネルギーの過剰な活性化、あるいは成長に伴う負荷の象徴である可能性がある。スーツを脱いで干すという行為は、社会的役割や形式を一時的に外し、より本来的な自己へと回帰する調整行為として読める。ここには「形式から本質へ」という微細なシフトが含まれているように思われる。次の歯科クリニックの場面では、空間の性質が「教育」から「治療」へと移行している点が重要である。歯科は身体の一部を整える場所であり、象徴的には「言語・表現・咀嚼=意味の処理能力」に関わる領域であると解釈できる。その知人が歯科助手として働いているという設定は、創造性が今度は「他者の調整やケア」に従事している側面を示している可能性がある。物置となった部屋に入り、過去の記憶や写真を見る場面は、無意識の貯蔵庫へのアクセスを意味しているように思われる。特に母親との写真がぼやけている点は、起源的関係性やアイデンティティの根源が、まだ完全には意識化されていないことを示唆している可能性がある。ただし雰囲気が似ていると感じる点から、完全な断絶ではなく「輪郭だけは掴まれている状態」であると考えられる。そして神社の場面への転換は、象徴的に極めて重要である。神社は聖性や超越的秩序の象徴であり、これまでの個人的・心理的プロセスが、より大きな文脈へと接続される段階を意味している可能性がある。そこに芸能人のコンビによる番組という「公共的な物語空間」が重なり、さらに自分は目撃者としてそれを眺めている。この構造は、「主体として関与する段階」から「観照者として全体を見渡す段階」への移行を示唆しているように思われる。すなわち、経験の中に没入する自己から、それをメタ的に捉える自己への発達的転換である。全体を通して見ると、この夢は、創造性・学習・治癒・起源・公共性といった複数の次元が、段階的に展開されながら一つの連続した流れとして統合されていく過程を描いていると考えられる。教室での対話、過熱と脱衣、記憶の探索、神社での観照という流れは、自己が「表現する存在」から「調整する存在」、さらに「理解する存在」へと変容していくプロセスの象徴である可能性が高い。この夢が人生において示唆している意味は、自分がこれまで培ってきた知的・創造的資源が、単なる個人的能力にとどまらず、他者や社会、さらにはより大きな意味秩序の中で再配置されつつあるという点にあると考えられる。そして最終的には、出来事の当事者であることと同時に、それを俯瞰する観照者として生きるという二重の在り方へと向かっていることを示している可能性がある。フローニンゲン:2026/3/27(金)08:07
18429. 演奏における緊張について
ブランダン・エイカー氏の助言の核心は、「緊張を消す対象として扱う限り、それは強化されるが、その意味を再解釈することで表現のエネルギーへと転化される」という点にある。多くの演奏者は、本番前の緊張を欠陥や準備不足の徴候とみなし、それを排除しようとする。しかしこの態度そのものが、身体と注意の分断を生み、かえって過剰な自己監視と筋緊張を引き起こす。ここで重要なのは、緊張は誤りではなく、「その行為が自分にとって意味を持っている」という生体的応答であるという理解である。身体は重要性に対してエネルギーで応答する。このエネルギーが「危険の兆候」と誤解されると不安へと転化され、「表現の資源」として理解されるとプレゼンスへと変わる。熟達者は、感覚が消えるのを待たない。むしろそれを排除せず、注意を「感覚の制御」から「音楽の方向」へと移す。このとき、緊張そのものは消失しなくとも、その鋭さ—すなわち自己への収縮的な力—が失われ、エネルギーは外向きの流れを得る。ここで起こっているのは、感情の消去ではなく、流れの再配分である。内側へ向かえば疑念となり、外側へ向かえば表現となる。したがって課題は「感じないこと」ではなく、「感じながらも流すこと」である。この視点は、緊張を対象化して操作しようとする従来のメンタルコントロールとは異なり、むしろ注意の配置そのものを再編する実践であると言える。すなわち、「自分の状態をどう変えるか」ではなく、「その状態をどこへ通すか」が問題となる。そしてこの転換を阻むのが「誤解」である。ケア—すなわち大切に思う心—自体は問題ではない。それを不安として解釈してしまう認知的枠組みこそが、演奏を硬直させる。結局のところ、演奏とはエネルギーを必要とする行為であり、緊張はその前提条件である。したがって目指すべきは、緊張の消失ではなく、その意味の精密な理解と方向づけである。緊張を敵として排除するのではなく、媒介として活用する。この転換が成立したとき、残るのは不安ではなく、集中と存在感である。フローニンゲン:2026/3/27(金)09:24
18430. 読書とギターのリズム
今、読書とギターを25分ずつ行うというシンプルなリズムについて、少し丁寧に観察しながら実践している。結論から言えば、この均等な時間配分は思っていた以上に「安定性」に優れており、自分の集中の揺らぎを抑える装置のように機能していると感じた。まず印象的だったのは、開始と終了のリズムが揃うことによる心理的な軽さである。読書もギターも25分で区切られると、「あとどれくらい続けるか」という余計な判断が不要になる。その結果、目の前の作業に対する没入のハードルが下がるように思われる。特にギターにおいては、この25分という単位が非常に適合的で、集中のピークが来たところで自然に終わるため、疲労による精度低下を回避しやすい。いわば、最も良い状態のまま練習を終えることができる感覚である。読書に関してもほぼ同じような肯定的な感覚を持っている。さらに興味深いのは、読書とギターを交互に行うことで生じる認知モードの切り替えである。読書では言語的・概念的なネットワークが主に使われるのに対し、ギターでは身体感覚や運動制御のネットワークが前面に出てくる。この切り替えの間に短い休止を挟むと、直前の読書内容が頭の中で再編成されるような感覚があった。まるで表に出ていないところで整理が進み、その結果として次の読書がよりスムーズに始まる。この現象は、おそらく記憶の定着や再構成に関わるプロセスなのだろう。今のところ感じているのは、25分ずつというリズムは「深さを最大化する設計」ではなく、「集中を持続させ、総量を積み上げる設計」であるという点である。深く潜るためにはもう少し長い時間が必要になる場面もあるが、その代わりに、このリズムは崩れにくく、長時間にわたって安定したパフォーマンスを維持することができる。したがって、この方法は単独で完結するものというよりも、他の時間設計と組み合わせることで真価を発揮するのだろう。例えば、最初の数サイクルで読書にやや長めの時間を取り、しっかりと概念の核に触れたうえで、その後は25分ずつのリズムに移行して反復を重ねる。このように段階的に設計することで、理解の深さと学習の持続性の両方を確保できるように思われる。時間をどう区切るかという一見単純な問題が、実は思考の深さや記憶の質に直結しているという事実は興味深い。今日の実践を通じて、学習とは内容だけでなく、そのリズムをいかに設計するかによって大きく変わるのだという感覚が、少し具体的に掴めてきた。フローニンゲン:2026/3/27(金)10:28
Today’s Letter
A beautiful mind is inherently peaceful. Serenity is its essential nature, from which all positive qualities arise. Groningen, 3/27/2026


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