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【フローニンゲンからの便り】18421-18425:2026年3月26日(木)

  • 7 時間前
  • 読了時間: 12分


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タイトル一覧

18421

母校一橋大学とエディンバラ大学のつながり

18422

今朝方の夢

18423

今朝方の夢の振り返り

18424

交互実践の効能

18425

学習のリズム

18421. 母校一橋大学とエディンバラ大学のつながり


昨日ふと考えてみると、自分がこれから進学しようとしているエディンバラ大学と、母校である一橋大学のあいだに、思いがけない思想的な回路が通っているように感じられた。一橋大学において事実上の校是とされる「キャプテンズ・オブ・インダストリー」という言葉は、19世紀イギリスの思想家であるトーマス・カーライルの著作『過去と現在(Past and Present (1843))』に由来するものであるが、この言葉は単なる産業的成功者を意味するのではなく、社会全体を導く倫理的責任を担う指導者像を示している点に本質があるように思われる。そしてそのカーライルが学び、さらには学長として関わった場所こそがエディンバラ大学であるという事実は、単なる歴史的偶然以上の重みを持って迫ってくる。この繋がりを考えるとき、自分の中では二つの時間軸が重なり合うような感覚がある。一つは、一橋大学で培われた近代的な経済・社会思想の文脈であり、もう一つは、これからエディンバラで接続されていくであろう西洋思想の源流である。カーライルという人物は、その両者を橋渡しする存在のように見えてくる。彼の思想は産業社会への批判と倫理的再構築を志向していたが、その精神は一橋大学において「社会に資する知」の理念として受け継がれてきたとも言えるであろう。さらに興味深いのは、この繋がりが単に制度や歴史のレベルにとどまらず、自分自身の進路とも奇妙に響き合っている点である。これまで成人発達理論や仏教思想を通して「人間はいかに成熟するか」という問いを追究してきたが、カーライルの言う「キャプテン」とは、外的な成功者というよりも、内的に成熟し責任を引き受ける主体であるようにも読める。その意味では、一橋大学で触れてきた理念と、エディンバラでこれから深めようとする思想的探究は、別々の道ではなく、一つの連続した探究の軌跡である可能性がある。こうして振り返ると、自分は無意識のうちに、思想の系譜に導かれるようにして次の場所へ向かっているのかもしれないと感じる。過去に学んだ場所と、これから学ぶ場所とが、一人の思想家を媒介として結びついているという事実は、自分の歩みが偶然の連続ではなく、ある種の構造を持って展開していることを静かに示しているようである。このような縁に気づいたとき、単に新しい環境に移るというよりも、むしろ一つの思想的な円環の中を進んでいるかのような感覚が生じるのである。そしてその円環の中で、自分はこれから、過去と現在をつなぐ新たな意味づけを、自らの研究を通して試みていくことになるのだろうと感じている。フローニンゲン:2026/3/26(木)06:28


18422. 今朝方の夢 

         

今朝方は夢の中で、カフェとアンティークな店が融合している場所にいた。そこのカフェでアンティークな品々を眺めながら、サッカー日本代表のある中心選手と話をしていた。彼はこの間大きな怪我を負ってしまったが、どうやら無事に回復に向かっているらしく、彼の表情は明るかったので安堵した。彼もまたアンティークなものに関心があるらしく、目を輝かせて品々を眺めていた。そこでふと、先日行われた代表戦の最中に起こった奇妙な話を聞かせてくれた。彼がその話をした途端にタイムスリップし、私は彼の視点を通じてフィールドに立っていた。彼は試合中に、フィールドのセンターサークルあたりにある植物を見つけた。どうやらそれは桃の木らしく、彼は植物にも造詣が深かったので、一瞬でそれがわかったらしい。フィールドの真ん中にあった桃の木の根っこは、選手が足を引っ掛けてしまう危険性もあったが、彼は審判に新しい木をここに植えることを主張した。すると審判を含め、その場にいた選手たちも速やかに同意し、桃の木を新しく植えることになった。それはすぐさま大きくはならないだろうが、自分の脳裏にはそれが立派に育った姿が想像され、確かにそれは試合において邪魔かもしれないが、何かとても大切なシンボルとしてこれからも長らく愛されて行くだろうと思った。


次に覚えているのは、見慣れない居酒屋の宴会の席にいた場面である。そこでは前職時代の上司と数人の知人がいた。周りが楽しくお酒に酔っている中で、私たちは素面の状態で真面目な話をしていた。具体的には、学術研究の話だったり、お互いの勉強法の話だったりをしていた。今朝方はその他にも夢を見ていたような気がするが、内容についてはあまり覚えていない。見知らぬ若い女性と楽しげな会話をしていた場面があったことをぼんやりと覚えている。彼女のは身体運動に関して造詣が深く、体の気持ち良い動かし方について自分にいくつか面白いことを教えてくれていた。フローニンゲン:2026/3/26(木)06:39


18423. 今朝方の夢の振り返り  

           

今朝方の夢は、自分の内面でいま進行している「古い価値の再編集」と「未来の中心軸の植樹」を映しているのかもしれない。カフェとアンティークの店が融合している場所とは、くつろぎと鑑賞、現在の生活感覚と過去から受け継がれた価値とが一つに溶け合う心の空間を象徴しているように思われる。そこで日本代表の中心選手と語り合っていたという場面は、自分の中核にある「高い基準」「社会的に鍛え抜かれた能力」「公的舞台で戦う力」が、傷を負いながらもなお回復しつつあることを示しているのかもしれない。相手の表情が明るかったことは、自分の中心的な力が損なわれたのではなく、むしろ試練を通して再統合されつつあるという安心の徴であろう。その人物がアンティークに心を奪われていたことは興味深い。競争と速度の象徴であるサッカー選手が、古びた品の時間の厚みに魅了されているのである。これは、自分の中で成果や効率だけでは測れない価値、すなわち歴史、蓄積、風格、手触りのある知性への感受性が強まっていることを暗示しているのかもしれない。前へ進む力が、古いものを捨てるのではなく、それを美として読み替える段階に来ているのであろう。その後、選手の視点に入ってフィールド中央に立つ場面は、自分が傍観者ではなく、まさに人生の試合の中心へと移行しつつあることを示しているように見える。しかもセンターサークルに桃の木があるという異様な光景は、極めて象徴的である。試合とは本来、合理性、ルール、機能性に支配された場である。そのど真ん中に桃の木が生えているということは、自分の人生の中心に、成果主義や効率では説明しきれない生成、成熟、美、さらには祝福の原理が立ち現れてきたことを意味するのかもしれない。桃は古来、生命力、瑞兆(ずいちょう)、再生、長寿、あるいは境界を越える果実として読まれてきた。その根が足を引っ掛ける危険を孕んでいるという点は重要で、自分にとって本当に大切なものは、社会的競争の観点から見ればしばしば「邪魔」に映る可能性を示しているのだろう。それにもかかわらず、その木を排除せず、新しい木を植えることを審判も選手も受け入れたという流れは、自分の内面の諸部分がすでにその価値を承認し始めていることを示すのかもしれない。すぐに大木にはならなくとも、将来立派に育つ姿を自分がはっきり想像していたことは、いま始めている営みが短期的成果のためではなく、長く愛される象徴を育てる仕事であるという予感の現れであろう。試合に邪魔であってもなお守りたいもの、それこそが人生の深層では中心に置かれるべきものなのかもしれない。居酒屋の宴会の場面は、外側は賑やかでも、自分の意識は酔わずに芯を保っている状態を表しているように思われる。前職の上司と真面目に研究や勉強法を語っていたことは、過去の社会経験がすでに単なる職歴ではなく、知的資源として再編されつつあることを示すのであろう。周囲が酔っている中で素面でいるという構図は、同調よりも明晰さを選ぶ自分の姿勢の象徴かもしれない。さらに、身体運動に詳しい若い女性は、理知に偏りがちな自己に対し、身体の快さや自然な動きを回復させる案内役として現れたのではないか。頭だけでなく、身体の知もまたこれからの道に必要であるという無意識の補足であろう。この夢が人生において示している意味は、自分がいま、競争の中心に立ちながらも、その中央に「育てるべき木」を植えようとしている段階にあるということであるらしい。効率を超えてなお残したい象徴、傷を経たのちに回復する中心性、過去の蓄積と身体知を統合する姿勢こそが、自分の今後の人生を支える本当の核になっていくのかもしれない。フローニンゲン:2026/3/26(木)07:33


18424. 交互実践の効能 

         

仏教研究の文献読解とクラシックギターの練習を短時間で交互に行う方法を毎日採用している。それは、単なる時間配分の工夫にとどまらず、認知科学的にも極めて合理的な学習設計であると考えられる。自分の中で起こっているのは、同一領域の反復ではなく、異質な認知モードの交替による再構成的学習である可能性が高い。文献読解は、概念理解・抽象化・意味ネットワークの構築といった高次の言語的処理を要求する活動である。一方、クラシックギターの練習は、運動制御・感覚統合・時間的精度といった身体的・非言語的処理を中心とする。この二つは神経的にも異なる回路を主に用いるため、一方の活動で使用された認知資源が、もう一方の活動によって過度に干渉されにくいという特徴を持つ。その結果、いわゆる精神的疲労が単調に蓄積するのではなく、機能的に分散されることになる。さらに重要なのは、この交替が記憶の定着プロセスに与える影響である。ある内容を学習した直後に別の性質の活動へ移行すると、最初の情報はワーキングメモリから長期記憶へと移行する過程、すなわち記憶の固定化(コンソリデーション)が進行しやすくなると考えられる。もし同種の作業を連続して行えば、干渉が生じ、情報は上書きされやすい。しかし異種の活動に切り替えることで、最初の学習内容は「一時的に手放されつつも保持される」という状態に入り、むしろ記憶痕跡が強化される可能性がある。また、このリズムは注意制御の観点からも有効である。人間の集中力は持続的に一定ではなく、時間とともに低下する傾向があるが、20分や30分といった適度な長さで区切ることで、注意資源が枯渇する前に活動を切り替えることができる。これにより、それぞれのセッションが常に比較的高い集中状態で行われることになり、結果として学習の質が維持される。さらに、両者のあいだには間接的な相互強化の可能性も見出される。ギターの練習における微細な身体感覚への注意や時間的精度の調整は、文献読解における注意の精緻さや思考のリズム感にも影響を与えうる。一方で、文献読解を通じて培われる構造把握や意味の階層化の能力は、音楽のフレージングや構造理解にも転移する可能性がある。このように、異なる領域での学習が互いに「差異化」と「相互連結」を通じて統合されていく点に、この方法の本質があると言える。総じて、この交互学習は、疲労の分散、記憶の固定化、注意の最適化、そして異領域間の転移という複数のメカニズムを同時に活性化する構造を持っている。したがって、単純な長時間集中よりも、むしろ短時間の高密度なセッションを交互に積み重ねる方が、結果として深い理解と持続的な技能の獲得につながる可能性が高いと言えるだろう。フローニンゲン:2026/3/26(木)09:31


18425. 学習のリズム

             

先ほど改めて、自分が続けている学習のリズムについて考えていた。仏教研究の文献を20分ほど読み、そのあとにクラシックギターを30分ほど弾く。この交互の流れは感覚的に効果があると感じていたが、どうやらそれは単なる気分の問題ではないようである。文献を読んでいるとき、自分の頭の中では言語的な構造が組み上がっていく。概念を整理し、関係づけ、意味の層を重ねていく作業である。一方でギターを弾いているときは、まったく異なる回路が動いているように感じる。指先の微細な感覚、時間の流れ、音の連なりに注意が向かい、言葉はほとんど介在しない。この切り替えが、単なる休憩以上の意味を持っているのではないかと思うようになった。調べてみると、異なる種類の課題を交互に行うことで学習効果が高まるという研究があるらしい。同じことを続けるよりも、あえて種類を変えることで、記憶がより強く残るというのである。確かに、文献を読み続けていると、どこかで集中が鈍り、理解も浅くなる。しかし一度ギターに移ると、頭の使い方そのものが変わり、そのあと再び文献に戻ると、不思議と新しい視点で内容を捉えられることがある。さらに興味深いのは、この切り替えが記憶の定着にも関係している可能性である。文献を読んだ直後に別の活動へ移ることで、その内容が頭の中で整理され、長く残りやすくなるらしい。同じ種類の情報を続けて入れると干渉が起きやすいが、言語から音楽へと移ることで、その干渉が弱まるという構造である。実際、ギターを弾いている最中に、さきほど読んだ内容がふと整理されるような感覚を覚えることがある。こうして考えると、自分がやっていることは単なる「読書とギターの両立」ではなく、むしろ異なる認知モードを往復することで、学習そのものを深める試みなのかもしれない。しかも音楽は、ただの気分転換ではなく、記憶や認知を支える働きも持っているという。このリズムは、思っていた以上に理にかなっているように感じる。今の実感としては、理解とは一直線に積み上がるものではなく、むしろ一度離れることで深まるものなのだろうということである。書物を読むこととギターを弾くこと、そのあいだを行き来する中で、自分の中の理解が少しずつ形を変えながら定着していく。その流れに身を任せること自体が、学ぶという営みの本質に近いのかもしれない。フローニンゲン:2026/3/26(木)10:25


Today’s Letter

Donation is a powerful practice for purifying attachment. Giving material things, knowledge, or anything else selflessly brings me profound benefits on the path to realization and enlightenment. Groningen, 3/26/2026

 
 
 

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