【フローニンゲンからの便り】18379-18384:2026年3月18日(水)
- 7 時間前
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タイトル一覧
18379 | 人生の新たな章の幕開けに向けて/サッカーを題材にした書籍の原稿のドラフト |
18380 | 今朝方の夢 |
18381 | 今朝方の夢の振り返り |
18382 | 理解を伴った練習 |
18383 | 父から嬉しい知らせを受けて |
18384 | 何かを諦めるという尊い意思決定 |
18379. 人生の新たな章の幕開けに向けて/サッカーを題材にした書籍の原稿のドラフト
時刻は午前5時半を迎えた。この時間帯はまだ真っ暗だが、もう30分したら夜が明け始める。夜明けに関して言えば、自分は今学術研究上の夜明け前にいるように思える。フローニンゲン大学を卒業して以降、学術機関に所属することなく一人在野の研究者として長らく探究を進めてきた。そこでは自由な研究が広く深く行えて、今となっては非常に希少な時間を過ごしたと思っている。その期間は気づけば8年ほどになっていた。そうした自由な研究生活の中でふと、指導教官や同僚たちとの対話を通じて、さらには膨大な文献にアクセスできる環境の中で体系立てて探究を深めたいという思いが湧き上がることがしばしばあった。端的には、在野の研究の限界に直面していたのである。そこから何度かアメリカの大学院に出願をしたが、その際にはことごとくご縁がなく、今年晴れてエディンバラ大学に進学することになった。そのことにただただ深く感謝するばかりである。スコットランドの首都エディンバラは、街全体がユネスコの世界遺産に登録されており、非常に風光明媚な街であると前回の訪問の際に感じた。ロンドン大学もまた魅力的な研究環境を提供していたが、自分はロンドンのような大都市にはあまり惹かれておらず、静かで落ち着いた雰囲気のエディンバラを新たな探究拠点として選んだ。博士課程もそのままエディンバラ大学に進学するかもしれないし、英国内の他の大学やアメリカの大学に進学する可能性もある。ここからまだまだ色々な都市で生活することになるだろうが、エディンバラという街で過ごす何年かの間は、きっと良き出会いに恵まれ、人生の思い出の一ページに深く刻まれるだろう。
昨日、成人発達理論をビジネスの世界だけではなく、スポーツの世界でも知ってもらうため書き進めていたサッカーを題材にした書籍の原稿のドラフトを書き終えた。実際にはドラフト自体はしばらく前に書き終えていたので、今回が最初の加筆修正だったと述べるのが正確だろう。ここから二週間ほど原稿を寝かせ、二回目の加筆修正を行ったら編集者の方に原稿を見せたいと思う。まだ企画会議にすらかけていないのだが、W杯イヤーの今年中に本書を世に送り出せたらと思う。仏教研究と並行して、成人発達理論に関しても旺盛な執筆活動をこれからも行っていきたい。フローニンゲン:2026/3/18(水)05:48
18380. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない学校の校舎の中にいた。その校舎は、茶室を含め、普通の学校にはない様々な設備を備えていて、それらを見て回ることが楽しみだった。自分はその学校の生徒でありながらも、まだ校内にどのような設備があるのかを完全に把握しておらず、散策を楽しんでいた。しばらく散策をして教室に戻ると、教室ではみんな真剣にテストの問題を解いていた。自分もそこに加わることにし、ゆったりとした気分で問題を解き始めた。すると、教室内が暑かったのでズボンを脱いでいることに気づき、さすがに教室内ではズボンを履いておこうと思った。膝の上に置いていたズボンを椅子に座った状態で履こうとすると、足が引っかかってうまく履けなかった。なのでここは一度椅子から立ち上がってズボンを履く必要がありそうだと思ったが、自分が立ち上がった瞬間に周りの生徒に自分がズボンを履いていないということがバレてしまうと思った。いかに周りに気付かれずにズボンを履くかを考えたが、少なくとも一瞬椅子から腰を浮かさなければならないと思ったので、それをサッと行うことにした。すると確かにズボンの大部分を履けたが、まだ完全ではなく、中途半端な格好になってしまった。少し気持ち悪いが、とりあえずテストの問題を全て解いてからにするか、あるいはキリが良いところまで問題を解いてから残りのズボンを履こうと思った。
今朝方はその他にも夢を見ていたように思うが、それらの夢についてはもう覚えていない。全体として穏やかな世界が広がっていたことだけは覚えている。感覚としてとても優しく、心が穏やかな状態の自分が夢の中に存在していた。エディンバラ大学への進学が決まった今、夢の世界も様々な整理を進め、これから夢の世界は変貌を見せるだろう。フローニンゲン:2026/3/18(水)05:58
18381. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分が「新たな知的環境への移行期」に立ちながら、その内部構造を探索しつつ、自身の在り方を再編成している過程を象徴している可能性が高い。見慣れない学校の校舎にいるという状況は、既に所属しているが、まだ完全には内面化されていない新しい制度的・知的空間を示唆しているのかもしれない。エディンバラ大学への進学が決まっている現在の文脈を踏まえると、この校舎は単なる教育機関ではなく、「次の知的自己が展開される場」の原型的イメージである可能性がある。しかもその校舎には茶室などの通常とは異なる設備が含まれている点から、この新しい環境は単なる西洋的学知の場ではなく、自身がこれまで探究してきた仏教思想や瞑想的実践と統合される空間として表象されているのかもしれない。つまりこれは、異なる知の体系が共存する「統合的知性の場」の予感である可能性がある。その校舎を散策し、まだ全貌を把握していない状態を楽しんでいる自分は、未知に対する不安よりも、探索そのものを価値として受け取る認知的態度を体現しているように見える。これは、ダイナミックスキル理論の観点から言えば、既存スキルの安定的運用から、新たなスキル構造の構築へと移行する際の「探索的変動」の状態に相当する可能性がある。一方で、教室に戻ると他の生徒たちが真剣にテストを解いている場面は、探索のフェーズから評価・遂行のフェーズへの切り替えを象徴していると考えられる。自分もそこに自然に加わり、しかもゆったりとした気分で問題を解き始める点は、競争や不安ではなく、内的安定に基づくパフォーマンス志向を示しているようである。この点は、自己の発達段階が「外的評価への依存」から「内的基準による遂行」へと移行している兆候である可能性がある。しかしながら、ズボンを履いていないことに気づく場面は、この安定した遂行状態の中に潜在する「未統合の自己側面」を象徴している可能性がある。ズボンは社会的自己の外的整合性、すなわち「他者から見られる自己の形式」を意味しているのかもしれない。それを脱いでいるという事実は、探索や内的集中の過程において、社会的規範や外的整合性が一時的に後景化している状態を示唆しているようである。そして、周囲に気づかれずにズボンを履こうとする試みは、「内的変容を遂げつつも、それを社会的文脈の中でいかに適切に統合するか」という課題を象徴している可能性がある。完全に履ききれず中途半端な状態に留まる点は、まさにその統合プロセスがまだ進行中であることを示しているのだろう。つまり、内的にはすでに変容が始まっているが、それを外的形式として完全に体現するには、まだ時間とプロセスが必要であるという状態である。さらに興味深いのは、その中途半端な状態に対して強い不安や羞恥ではなく、「少し気持ち悪いが、とりあえず問題を解き続ける」という選択をしている点である。これは、完全性や整合性を待ってから行動するのではなく、不完全な状態を含んだまま前進する能力、すなわち「発達の非線形性を受容する姿勢」を示している可能性がある。夢全体に漂う穏やかで優しい感覚は、この一連のプロセスが葛藤的というよりも、むしろ自然な展開として進行していることを示唆している。つまり、自分の中で起きている変化は、強制や不安によるものではなく、内的必然性に導かれたものである可能性が高い。総じて、この夢は「新たな知的・存在的ステージへの移行において、探索・遂行・統合という三つのプロセスが同時並行で進んでいる状態」を象徴しているのかもしれない。そして人生における意味としては、完全に整った状態を待つのではなく、不完全さを抱えたまま次の課題に取り組み続けることそのものが、より高次の自己構造を形成していく鍵であることを示唆しているのである。フローニンゲン:2026/3/18(水)07:59
18382. 理解を伴った練習
ブランダン・エイカー氏は、楽器練習において多くの人が無意識に行ってしまう「とりあえず何度も弾く」という習慣の危険性を指摘している。この助言の核心は、練習の目的は「音を出す回数を増やすこと」ではなく、「理解を先に作ること」であるという点にある。多くの演奏者は、新しい曲に出会うとまず楽器を手に取り、最初から最後まで弾こうとする。これは自然な反応であり、実際に弾いていると努力している感覚も生まれる。しかし、この方法には重大な問題がある。理解が伴わない反復は、正しい演奏だけでなく、誤りや迷いも同時に固定してしまうからである。人間の神経系は、正しい動きと誤った動きを区別して記憶するわけではない。単純に「繰り返された運動」を強化する傾向がある。そのため、曖昧な理解のまま何度も弾くと、躊躇や指の迷い、リズムの揺れといった要素まで一緒に身体に定着してしまう。こうして作られた運動パターンは、後から修正するのが非常に難しい。エイカー氏が「Learning happens before fluency」と述べているのは、この神経学的な原理を踏まえている。流暢さは練習の結果として現れるが、学習そのものはその前段階で起きる。つまり、最初に行うべきことは「滑らかに弾くこと」ではなく、「何をしているのかを理解すること」である。ここでいう理解とは、単に楽譜を読むことではない。音楽構造、運指、リズムの仕組み、フレーズの方向性、さらには身体の動きの設計まで含まれる。言い換えると、演奏とは身体運動であると同時に、知的な設計作業でもあるのだ。この観点から見ると、練習の初期段階は非常に重要である。エイカーは「その段階で明確さ、意図、コントロールについての決定がなされる」と述べている。最初の段階で、どの指を使うのか、どの音を強調するのか、どのテンポで練習するのかといった決定が行われる。もしこの段階を急いでしまうと、後になって問題が顕在化する。例えば、速く弾けるようにならない、ある部分で必ずミスをする、音楽が不自然に聞こえるといった問題である。これらは練習量の不足ではなく、初期設計の不備から生じていることが多い。この助言は、楽譜の読み方にも関係している。エイカー氏は、「曲がどう聞こえるかを心配する前に、その曲が自分に何を要求しているのか理解するべきだ」と言う。つまり、まず考えるべき問いは「うまく弾けるかどうか」ではなく、「この曲はどんな動きと理解を必要としているのか」である。例えば、あるフレーズがアルペジオ構造なのか、対旋律なのか、和声進行を支える音なのかを理解すれば、演奏の動きは自然に決まってくる。理解が先に成立すると、身体はそれに従って動きやすくなる。この考え方は、練習を「反復作業」から「問題解決」に変える。演奏とは単に指を動かすことではなく、音楽という構造を解読し、それを身体運動として再構築する過程である。したがって、最初の段階では手を動かすよりも、譜面を観察し、構造を理解し、動きを設計する時間が重要になる。理解が深まれば、演奏は驚くほど容易になる。エイカー氏が、「Playing comes easily once learning has already taken place」と述べるのはそのためである。この助言は、クラシックギターの練習だけでなく、広く学習一般にも当てはまる。理解を伴わない反復は、努力の量に比例して成果が増えるわけではない。むしろ、曖昧な状態を固定してしまう危険がある。逆に、最初に十分な理解を作ると、後の反復はその理解を身体に定着させる作業になる。演奏が滑らかになるのは、理解が完成した後である。つまり、上達の速度を決めるのは練習量ではなく、練習の初期段階でどれだけ深く理解できたかなのである。フローニンゲン:2026/3/18(水)10:00
18383. 父から嬉しい知らせを受けて
昨日、父がアコースティックギターを始めたという知らせを受け、どこか静かな喜びが胸の奥に広がった。長年、新日鐵で鉄と向き合ってきた父が、今度は「音を出す鉄」に触れることになったという事実には、単なる偶然以上の象徴性があるように思われるのである。スチール弦という選択は、素材としての鉄を熟知してきた人生の延長線上にありながら、それをまったく別の形で響かせる試みであるようにも感じられる。自分が演奏しているクラシックギターにおけるナイロン弦の音が、どちらかといえば内側へと沈み込み、思索を深めるような性質を持つのに対して、アコースティックギターのスチール弦は、より外へ、より遠くへと音を放射する力を持っているように思われる。弾いた瞬間に立ち上がる鋭いアタックと、空間を満たしていく豊かな倍音は、まるで金属そのものが振動しながら世界に働きかけているかのようである。父がこれまで扱ってきた鉄もまた、形を変え、力を受け、世界の構造を支えてきた存在であったことを思えば、その鉄が今度は「響き」として立ち現れることには、一種の連続性があるのかもしれない。さらに興味深いのは、アコースティックギターという楽器が持つ身体性である。コードを一度かき鳴らすだけで、リズムと和声とエネルギーが同時に空間へ放たれるその感覚は、クラシックギターのように音を精密に編み上げていく営みとは異なり、より直接的で、より開放的であるように思われる。また、アコースティックギターは歌とともにある楽器であり、生活の中に自然に入り込んでくる性質を持っている。譜面を精緻に読み解くこと以上に、その場の感覚で音楽を立ち上げることができるという点において、音楽が再び日常へと回帰する契機にもなりうる。父にとってこの選択は、新たな技術習得というよりも、これまでの人生の素材を別の次元で再構成する試みであるようにも思われるのである。自分がナイロン弦で内省の音を紡いでいる一方で、父はスチール弦で外へと響く音を生み出そうとしている。この対比は、単なる楽器の違いではなく、それぞれの人生の重心や時間の流れ方を映し出しているようにも感じられる。鉄を扱ってきた人間が、最後にその鉄を「響かせるもの」として手に取るということは、どこか円環的であり、また一つの完成に向かう過程であるのかもしれない。そう考えると、この出来事は単なる趣味の開始ではなく、人生の素材が音として結実していく過程の始まりであるように思われるのである。フローニンゲン:2026/3/18(水)10:43
18384. 何かを諦めるという尊い意思決定
自分はこれまでの人生で新たな挑戦を美徳としていたが、きっぱりと何かを諦めるという意思決定もまた尊重されるべきものなのではないかと考えるようになった。これまでの人生においては、新たな挑戦を選び続けることこそが価値ある態度であると思ってきた節がある。未知の領域へ踏み出すこと、まだ手にしていない可能性に向かって自らを投げ出すこと、その運動そのものが成長であり、自己の拡張であると感じていた。実際、その姿勢によって多くの経験と機会が開かれてきたことも確かである。しかし最近になって、別の種類の意思決定の重みが静かに意識の中に浮かび上がってきたのである。それは、「何かをあえて手放す」という選択である。これまでの価値観の中では、諦めることはどこか消極的で、あるいは可能性を閉ざす行為のように感じられていたかもしれない。しかし、すべてを追い続けることが必ずしも最善ではないのではないかという感覚が、次第に明確になりつつあるのである。考えてみれば、有限な時間とエネルギーの中で生きる以上、すべてを選び取ることは原理的に不可能である。何かを選ぶということは、同時に無数の選択肢を選ばないということであり、その意味では、人生は常に「選択」と「放棄」の連続であるとも言える。にもかかわらず、これまでは選ぶことにばかり意識が向き、手放すことの意味については十分に考えてこなかったのかもしれない。むしろ、きっぱりと諦めるという行為は、逃避ではなく、構造的な集中を可能にする積極的な決断であるとも考えられるのである。曖昧に持ち続ける選択肢は、可能性として残る一方で、意識とエネルギーを分散させる。対して、明確に手放されたものは、意識の外へと退き、その分だけ残された選択に対して深く関与する余地を生み出す。この意味において、諦めることは単なる減少ではなく、むしろ密度の増大であるとも言えるのではないか。さらに言えば、何を諦めるかという判断には、自分が何を本当に重視しているのかという価値の序列が反映される。すべてを追い求める段階から、何を残し何を手放すかを選び取る段階へと移行することは、ある種の成熟の表れである可能性もある。そこでは、「できるかどうか」ではなく、「それが自分にとって本当に意味があるかどうか」という問いが中心に据えられるようになる。こうして考えると、挑戦し続けることと、きっぱりと諦めることは対立するものではなく、むしろ同一の構造の両面であるようにも思われる。どちらもまた、自分の人生の輪郭を引き受けるための意思決定であり、その都度、自分の立っている位置と向かう方向を明らかにする行為である。今はまだ、この感覚を完全に言語化できているわけではないが、少なくとも「諦める」という言葉に対する見方は変わりつつあるように思うのである。それはもはや後ろ向きな選択ではなく、限られた時間の中で何を最も大切にするかを定める、静かで強い決断なのではないだろうか。フローニンゲン:2026/3/18(水)16:01
Today’s Letter
Now I have come to see a positive meaning in giving things up. This sense of positivity arises from the maturation of my psyche, which enables me to perceive value in letting things go. Groningen, 3/18/2026


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