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【フローニンゲンからの便り】18373-18378:2026年3月17日(火)

  • 4 時間前
  • 読了時間: 16分


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タイトル一覧

18373

渡英に際するえも言われぬ不安と恐怖と向き合って

18374

今朝方の夢

18375

今朝方の夢の振り返り

18376

パズルを解く楽しみ・作る楽しみとしての学術論文の執筆

18377

学術論文の執筆を目的にした集中的な再読

18378

欧米での四つ目の修士号を前にして

18373. 渡英に際するえも言われぬ不安と恐怖と向き合って 

                       

時刻は午前4時45分を迎えた。春らしさを感じるようになったフローニンゲンは、季節の移行の節目ゆえにか、また少し肌寒い日々となっている。今の気温は5度で、今日の最高気温は11度とのことである。まだしばらく寒さが残るだろうが、最近の天候の大きな変化はなんといっても晴れの日が多くなったことである。これが何よりも嬉しい。太陽の姿を拝めるだけで、自然と内から活力が湧いてくる。それに加えて、日照時間も伸びた。今月末からは早くもサマータイムが始まる。


真摯かつ体系的に仏教の理解を深めるために昨年から今年にかけて英国の大学院に出願し、ぜひ進学したいと思っていたエディンバラ大学とロンドン大学SOASからオファーをいただいたことはとても喜ばしいことだった。両校の魅力を挙げればきりがなく、どちらに進学するか迷った挙げ句、実際にエディンバラとロンドンを改めて訪れた時の街と大学の雰囲気から、エディンバラ大学こそが理想の研究環境だと思い、エディンバラ大学への進学を決めた。進学先を決めてみると、エディンバラでの生活のイメージがどんどんと増していき、新たな挑戦と新たな生活へ希望が湧いてきた。ところが、そこから転じて、自分の内側にえも言われぬ不安と恐怖が湧いたことは大変興味深いことであった。今から10年前に、東京からオランダにやって来た時にはそうした感情は湧かなかったように思う。もしかしたら新天地への挑戦に際してそのような感情が存在していたのかもしれないが、当時の自分はそれに無自覚であり、うっすら気づいていたとしても深く向き合おうとしなかったのかもしれない。今回生じた不安や恐怖の要因は様々なものがあるが、結局は、自己への種着がその原因であることがわかった。さらには真理に疎いということが根本原因であり、結局それらの理由は仏教が指摘することに他ならなかったのである。苦しみの原因は結局、無明と自己への執着だったのだ。こうして釈迦の教えの正当性を今回改めて身をもって知り、仏教を学ぶ意義がさらに腑に落ちるものとなったのは幸いであった。エディンバラには、自我の生死決着のために行く。そうした覚悟がある。「覚悟」という言葉もまた仏教用語であり、自分の思考や在り方に徐々に仏教の教えが体現されていくのを実感している。昨日から今朝にかけて、睡眠を取って一夜が明けてみると、また少し心が軽くなったのは嬉しいことである。軽やかな心を絶えずもって、苦しみの根本原因である無明と我執の問題に引き続き打ち込んでいきたいと思う。フローニンゲン:2026/3/17(火)04:55


18374. 今朝方の夢

                            

今朝方は夢の中で、小中高時代のある親友(SI)から留学相談を受けていた。彼もまたイギリスの大学院に進学したいと兼ねてより述べており、仕事と家族との時間を取りながら勉強することの大変さを訴えていた。しかし彼のすごいところは、そうした状況にあっても日々怠ることなく勉強を継続していることであった。そうした継続力こそ最終的な成果をもたらすと自分は確信しており、彼の継続はきっと近々成果として実るだろうと思った。そこからはイギリスの大学院の出願に際して突破しなければならない英語の試験対策など、具体的な話をした。


次の夢の場面では、見慣れない三階建てぐらいの建物の中にいた。そこの一室で高校時代の友人二人と話をしていた。最初は一人の友人(HY)と話をしており、私は彼に特殊な能力の開発方法を教えていた。それはあまり多くの人には共有できない、使い方を間違えると他者に危害をもたらすような特殊な能力だった。彼とは小学校からの付き合いなので、彼の性格もよく知っており、彼にはその能力を伝授してもいいと判断した。彼にその能力を伝授している最中に、高校時代から知り合った友人が一人やって来て、さらにもう一人同じく高校から知り合った友人がやって来た。もちろん彼ら二人も性格は良かったが、まだ彼らとの深い信頼関係が構築されておらず、彼らにはその能力を伝授するのは早いと思った。しかし彼らは自分からその能力を強引に聞き出そうとしたので、私はすかさず窓からジャンプして宙に浮かんだ。すると驚いたことに、二人のうちの一人の友人がそれを見よう見まねで行い、宙に浮かんだと思いきや、彼は突然姿を消して、彼の声だけが心の中に聞こえる形となった。彼はどうやらその能力を知ることに強い関心を持っているが、今日はその日ではないと判断したようで、別の用事のために他のところに出かけていく必要があると述べた。今回の一件を受けて、自らの特殊能力はその他にもあり、それらを迂闊には人前で披露できないと思った。フローニンゲン:2026/3/17(火)05:17


18375. 今朝方の夢の振り返り

    

今朝方の夢において自分が最初に置かれている場面は、過去の親友との対話という形を取りながら、現在進行している人生の軸──すなわち「学術的飛躍とそのための持続的努力」──を鏡のように映し出しているように思われる。SIの姿は、単なる他者ではなく、自分の中にある「継続する意志」の擬人化である可能性が高い。仕事と家族という制約の中で学び続ける彼の姿に対して、自分が確信を持って肯定していることは、そのまま自分自身の現在の選択に対する内的承認を示しているのであろう。ここでは「継続こそが成果を生む」という命題が、外在化された対話を通じて再確認されていると解釈できる。言い換えれば、自分は他者に助言しているようでいて、実際には自己の進路に対して確信を深めている段階にあるのかもしれない。次の場面における三階建ての見慣れない建物は、意識の階層構造、あるいは発達段階の多層性を象徴している可能性がある。その内部で行われるやり取りは、単なる友人関係の再現ではなく、「誰に何を開示するか」という選別のプロセスとして現れているように見える。HYに対しては能力を伝授してよいと判断している点から、自分はすでに他者の成熟度や倫理的基盤を見極める基準を内面に持ち始めていると考えられるのである。この「危険性を伴う能力」とは、具体的な超能力というよりも、知識・洞察・影響力といった力のメタファーである可能性が高い。それは扱い方を誤れば他者を傷つけうるが、適切に用いれば変容をもたらす種類の力である。一方で、後から現れた二人の友人に対しては、善良であってもなお「まだ早い」と判断している。この差異は、単なる好悪ではなく、「信頼の深さ」と「構造的準備度」に基づく選別であると考えられる。彼らが強引に能力を求める場面は、現実世界においても、自分の持つ知や影響力が、十分な準備のない他者から求められる可能性を示唆しているのかもしれない。ここで自分が取った行動──窓から飛び出し、宙に浮かぶという動き──は、物理的制約からの離脱であると同時に、「次元の異なる自由度」への移行を象徴しているように見える。つまり、自分は既存の枠組みでは捉えきれない位置にすでに立ちつつあるという感覚が、このイメージとして表現されているのであろう。さらに興味深いのは、その動きを模倣した友人が姿を消し、声のみとなる点である。これは、不完全な理解のまま高次の能力に触れた結果、「身体性」や「現実的基盤」を失うことの象徴とも考えられる。すなわち、準備なき跳躍は統合を伴わず、むしろ解体を引き起こす可能性があるという警告である。この友人が「今日はその日ではない」と自ら判断して去る展開は、自分の内側にある倫理的ブレーキ、すなわち「時機を見極める知性」が働いていることを示しているとも解釈できる。全体としてこの夢は、自分が現在、「力を獲得しつつある段階」から「力をどう扱うかを問われる段階」へと移行していることを示唆しているように思われるのである。継続する努力によって得られる成果は、単なる個人的達成にとどまらず、他者に影響を与える力へと変換される。しかしその力は無差別に共有されるべきものではなく、信頼・成熟・文脈という条件のもとで慎重に扱われる必要がある。この夢は、自分がその責任をすでに自覚し始めていること、そして「教えること」「導くこと」が次の人生段階の中心課題となる可能性を示しているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/3/17(火)05:59


18376. パズルを解く楽しみ・作る楽しみとしての学術論文の執筆 

                   

学術論文の執筆、とりわけ仏教研究の論文を書く営みには、しばしばパズルを作り、同時にそれを解くような知的な楽しさが伴うと考えられる。ここで言うパズルとは、単なる娯楽としての謎解きではなく、断片的に存在する情報や概念を適切な位置に配置し、全体として意味のある構造を構築していく作業を指している。仏教研究においては、経典、論書、注釈、歴史的背景、思想的文脈など、さまざまな要素が断片として存在している。それらの断片を整理し、相互の関係を理解しながら一つの論理的構造を作り上げていく過程は、まさにパズルのピースを組み合わせていく作業に近いものである。仏教研究の場合、このパズル性は特に顕著である。例えば、一つの概念を理解するためには、複数の文献を横断的に読み、異なる時代や地域での解釈の違いを検討しなければならないことが多い。ある論書の一節が、別の文献の議論を前提としている場合もあれば、同じ語が文脈によって異なる意味を持つ場合もある。そのため研究者は、テキストの断片を一つずつ検討し、それらを相互に照らし合わせながら意味の構造を再構築していく必要がある。この作業は、散らばったピースの中から形や色の似たものを見つけ、適切な位置に配置していくパズルの作業と非常に似ている。しかし学術論文の執筆が興味深いのは、単に既存のパズルを解くだけではない点である。研究者は同時に、新しいパズルそのものを設計しているとも言える。論文を書く際には、まず問いを設定し、その問いに答えるための枠組みを構築しなければならない。どの文献を扱うのか、どの概念を中心に据えるのか、どのような論理の順序で議論を展開するのかといった決定は、すべて研究者自身によって設計される。この意味で論文とは、単に答えを提示するものではなく、問題の構造そのものを構築する営みでもある。言い換えれば、研究者はパズルの解答者であると同時に、そのパズルの設計者でもあるのだ。さらに、仏教思想の研究では概念同士の関係性を理解することが重要である。例えば、唯識思想においては、識、種子、縁起、空といった概念が複雑に関係し合っている。それぞれの概念を単独で理解するだけでは不十分であり、それらがどのような体系の中で位置づけられているのかを理解しなければならない。この作業は、パズルの個々のピースを見つめるだけではなく、全体の図柄を想像しながら配置していく作業に似ている。ある概念の意味が突然明確になる瞬間は、まるで最後のピースがはまり、全体の図柄が完成する瞬間のような知的な快感を伴うことが多い。また、論文執筆にはもう一つのパズル性が存在する。それは文章構造の設計である。学術論文では、議論を論理的に展開し、読者が理解しやすい形で配置する必要がある。そのため研究者は、どの順序で議論を提示すれば全体の構造が最も明確になるのかを考えながら文章を組み立てていく。この作業は、情報を適切な場所に配置して一つの完成した構造を作り上げるという意味で、知的な組み立て作業に近い。このように考えると、仏教研究の学術論文を書くことは、単なる情報の整理ではなく、断片的な知識を統合し、意味の構造を発見していく創造的な活動であると言える。そこには問題を設計する楽しさと、それを解決していく楽しさが同時に存在している。研究者は文献の中に散らばる断片を一つずつ拾い上げ、それらを組み合わせながら新しい理解の図柄を描き出していく。この過程そのものが、知的探究の醍醐味であり、学術研究が持つパズルのような魅力なのである。フローニンゲン:2026/3/17(火)06:44


18377. 学術論文の執筆を目的にした集中的な再読 


3月と4月の2ヶ月間と期間を定めて、手元の唯識関係の書籍の再読を集中して終わらせて、5月からは査読付き論文や修士論文に早速取り掛かり、書くことを前提とした文献読解をしていこうと思う。この方針はかなり合理的であり、研究活動のリズムという観点から見ても良い設計であると思われる。特に、一定期間を区切って「再読」に集中し、その後に「書くこと」に重点を移すという二段階の構造は、研究者が思考を整理するうえで非常に効果的な方法である可能性が高い。まず、3月と4月の2ヶ月間を再読の期間として設定することには重要な意味があると思われる。唯識思想の文献は概念体系が複雑であり、一度読んだだけでは理解の構造が頭の中に安定して形成されにくい。例えば、阿頼耶識、種子、薫習、転識得智といった概念は、個別に理解するよりも相互関係として理解されて初めて体系的な意味を持つ。そのため、再読という作業は単なる復習ではなく、概念同士の関係を再編成する作業であると考えられる。研究の初期段階でこの再編成を行っておくことは、後の論文執筆の際に大きな効果を持つ可能性がある。また、再読という作業は、研究の「基礎体力」を整える役割を持つとも言える。研究という営みは、単に新しいことを書く作業ではなく、既存の議論の構造を正確に把握することから始まる。その意味で、手元の唯識関係の書籍を集中的に再読するという計画は、知識の量を増やすというよりも、理解の精度を高める作業であると考えられる。特に唯識研究では、玄奘や窺基の体系的理解が研究の前提となることが多いため、基礎文献の再読は長期的に見ても大きな価値を持つ可能性が高い。一方で、5月以降に「書くことを前提とした読解」に移行するという発想も非常に重要である。多くの研究者は読むことに時間を費やしすぎ、実際の執筆に入るタイミングが遅れてしまうことがある。しかし研究という活動は、最終的には文章として議論を提示することで初めて成立する。したがって、読む段階からすでに「この文献はどの議論に使えるのか」「どの論点が論文の核になるのか」を考えながら読む姿勢は、研究効率を大きく高める可能性がある。この点では、読解の方法も少し変わってくると思われる。再読の段階では理解の整理が中心になるが、執筆段階の読解では引用可能な箇所や議論の位置づけを意識する必要がある。つまり、文献を「理解する対象」として読むのではなく、「議論の素材」として読むのである。この読み方に切り替わると、同じ文献でも見えてくるポイントが変わる可能性がある。さらに、この計画には時間管理の観点でも利点があると思われる。研究活動は終わりが見えにくいため、読書が無限に続いてしまう危険がある。しかし2ヶ月という期限を設定することで、再読の段階に自然な区切りが生まれる。期限を設けることによって、読書が準備段階として機能し、執筆へ移行する契機になる可能性が高い。総合的に見ると、この方針は研究のリズムを整える意味でも非常に有効であると思われる。3月と4月で思想的基盤を再整理し、5月以降に執筆中心の研究へ移行するという流れは、研究の助走と加速を分ける設計であると言える。助走の期間に体系的理解を深め、その後に文章として思考を形にする。このような二段階の研究プロセスは、修士論文や査読論文を効率的に進めるうえで十分に理にかなった方法である可能性が高い。言い換えるならば、この2ヶ月は「読む研究者」としての時間であり、5月以降は「書く研究者」としての時間になる。研究者の思考は読むことと書くことの往復によって深まると考えられるため、この明確な切り替えは、研究を前進させる強い推進力になるのではないかと思われる。フローニンゲン:2026/3/17(火)07:08


18378. 欧米での四つ目の修士号を前にして

                  

昨夜、これまでの学びの軌跡について静かに考えてみた。今回のエディンバラ大学での修士号は、欧米で取得する四つ目の修士号になる。ふと、この事実を単なる「学位の数」としてではなく、少し構造的に眺めてみたくなった。もしこれを二つの軸で捉えるとしたらどうなるだろうか。一つは修士号の数そのものの稀少性、もう一つはそれらがどれだけ一貫した学術的テーマのもとに統合されているかという質的な側面である。まず数の側面から考えると、日本人の中で欧米の修士号を四つ持つ人は、おそらく極めて少ない。海外大学院進学者の母集団の中で見ても、それはかなり珍しい部類に入るはずである。統計的に厳密な数字を出すことは難しいが、感覚的にはかなり右端に位置する点である。つまり「数」という尺度だけを見ても、一般的な分布からは大きく外れた場所にいることになる。しかし、もう一つの軸を考え始めたとき、さらに興味深い構図が見えてきた。それは、それぞれの修士号がどれだけ一つの研究テーマに向かって収束しているかという点である。複数の修士号を持つ人は決して珍しくないが、その多くはキャリアの転換や関心の変化によって分野がばらばらになっていることが多い。例えば経済学からMBAへ、あるいは政策学から教育学へというように、関心が横に広がっていく形である。それに対して、自分の場合は発達科学、教育科学、そして仏教思想という異なる領域を通りながらも、「人間の心はいかに形成され、いかに変容しうるのか」という一つの問いに収束してきたように思える。この二つの軸を重ねてみると、面白いことに、自分の位置は単に「修士号が多い」という場所にはとどまらない。むしろ、複数の学位が一つの知的テーマのもとで接続されているという意味で、ある種の構造を持った軌跡になっているように感じられる。もしこの図を想像すると、横軸は修士号の数の稀少性、縦軸は学術的一貫性である。そして多くの研究者は、修士号は一つか二つで、テーマの一貫性が高い場所に位置する。一方で、修士号が多いが分野がばらばらな人もいる。その中で、自分の軌跡は、おそらく右上の象限に近い場所にあるのではないかと感じる。そこは「数」と「一貫性」が同時に存在する領域である。このことを考えていると、四つ目の修士号という事実の意味が少し違って見えてくる。それは単に学歴が増えたという話ではない。むしろ、それぞれの学位がばらばらの終点として存在しているのではなく、一つの長い知的探究の中で互いに接続されてきた節目のようにも感じられるのだ。発達理論の研究から始まり、教育科学を通り、そして仏教思想へと進んできた道は、結果として「心の発達と変容」という問題を多角的に見つめるための準備のようにも思える。そう考えると、エディンバラ大学での修士課程は単なる四つ目の学位ではなく、これまでの軌跡が一度収束する地点なのかもしれない。ここで得られる学びは、過去の学位を並べるためのものではなく、それらを統合し、次の研究段階へ進むための土台になるのだろう。学びというものは、時に遠回りのように見える道を通る。しかし振り返ってみると、その遠回りは一つの地図の中でゆっくりと線を描いていたのかもしれない。エディンバラへ向かう今、その線がどのような形を結んでいくのかを静かに楽しみにしている。フローニンゲン:2026/3/17(火)08:17


Today’s Letter

I find myself in a harmonic cycle that deepens my inner life. I surrender to it, knowing it is essential to the fulfillment of my life. Groningen, 3/17/2026

 
 
 

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