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【フローニンゲンからの便り】18298-18303:2026年3月4日(水)

  • 19 時間前
  • 読了時間: 18分


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タイトル一覧

18298

マイケル・コモンズの「階層的複雑性モデル」(その1)

18299

今朝方の夢

18300

今朝方の夢の振り返り

18301

マイケル・コモンズの「階層的複雑性モデル」(その2)

18302

『唯識論同学鈔』の英語註釈の意義

18303

唯識が持つ世界平和への貢献可能性

18298. マイケル・コモンズの「階層的複雑性モデル」(その1) 

                 

先日行われた知人のエイデン・ソーントン博士を招いたセミナーの中で、マイケル・コモンズの「階層的複雑性モデル(MHC)」の話題が挙がった。MHCとは、「人の賢さ」や「人格の深み」を測る理論というより、ある課題を解くために必要な行為の組み立ての複雑さ(order of complexity)を、段階として整理した枠組みである。マイケル・コモンズらは、ピアジェやコールバーグの発想を受け継ぎつつ、発達段階を数学的・形式的に扱えるようにしようとした。ここで重要なのは、段階が人の内面の価値を決めるのではなく、「どの程度複雑なタスクを、他人の手助けなしに、自力で一貫して遂行できるか」を観察可能な形で記述しようとする点にある。ゆえにMHCは、課題分析(task analysis)を核に据え、テスト課題やジレンマ課題を設計して、そこで発揮される操作の複雑さを判定する実験心理学的プログラムとして位置づくのである。この枠組みの魅力は、段階を「内容」ではなく「構造」で捉えようとするところにある。政治的主張が何であるか、信仰が何であるかという中身よりも、主張や信仰を支える推論が、いくつの要素を同時に調整し、どのレベルの抽象を扱い、どの程度の一貫性で組み立てられているかが問われる。したがって、知識量が多いことや語彙が豊かなことと、段階が高いことは同一ではない。むしろ、既存の高度な概念を借りて言えることと、自分の頭でその複雑さの推論を生成できることの差が、ここでは本質になる。16段階のうち、0~9は、生命の端緒から児童期をカバーしつつ、人間以外の動物行動とも連続的に並べられている。ここでの狙いは、人間中心主義への揺さぶりであり、「言語がある=高次」という短絡を避けることにもある。言語は複雑な課題を遂行する上で強力な道具であるが、複雑さそのものと同一ではない。初期の段階群は、刺激への反応が単発であるところから始まり、複数の刺激や運動を協応させる能力へと進む。0や1は、ほとんど反応の有無や量の違いへの自動反応に近い。2や3では、異なる刺激に異なる反応を返せたり、対象を認知して身体を動かす循環が成立したりする。4になると、連続した運動を積み上げ、ある達成に向けた系列行動が可能になる。ここまでの説明は、発達心理学の感覚運動期の言い換えに近いが、MHCは「段階=課題の複雑さの秩序」として扱うため、個体の脳サイズや反応速度とは独立に、同じ段階に位置づけ得る点が特徴である。5~7では、語の命名、文の組み立て、短い物語の生成へと進む。5(Nominal)は「名前が付く」ことで世界が切り分けられ、6(Sentential)は複数語を統合して命令や叙述ができ、代名詞のようなより抽象的な指示が入ってくる。7(Pre-operational)は、簡単な推論や接続語を使った連結が可能になり、複数文をまとめた段落のような単位が扱える、とされる。ここで面白いのは、段階の説明が言語能力の記述に寄りがちでありながら、同時に「非言語でも同じ複雑さは記述できる」と主張している点である。つまり説明としては言語を使うが、理論の本体は言語に閉じない、という構えである。8(Primary)と9(Concrete)では、論理的推論とルールの運用が本格化し、社会的役割の理解や、時間を通じて整合的なストーリーを保持する能力が中核になる。9の「具体的」は、抽象概念で世界を整理するというより、具体的な出来事の網の目を保ったまま、因果や役割、交渉、履歴を追跡できる状態として描かれている。ここまでを踏まえると、MHCにおける複雑さとは、情報量の多さではなく、複数要素の同時統合、系列の保持、相互関係の追跡の度合いを指すのだと理解できる。ただし、この段階表を読むときに注意すべきことがある。MHCの段階は道徳的序列ではない、という但し書きが繰り返されるのは、段階を人間の価値に直結させる誤用が起こりやすいからであろう。また、個人が「その段階だけで生きている」という記述は、現実には粗い。人は領域によって発揮される複雑さが揺れ、支援があれば二段階上の課題まで遂行できることもある。したがって、この理論は人をラベル貼りする道具というより、課題設計や学習支援、組織内コミュニケーションのすれ違いを読み解く見取り図として使う方が筋が良い可能性が高い。フローニンゲン:2026/3/4(水)06:22


18299. 今朝方の夢 

   

今朝方は夢の中で、見慣れない寺の中にいた。その寺にはセミナールームがあり、そこで偉いお坊さんの話を聞いていた。その場にはかなりの人がいて、偶然にも自分の左隣にはサッカー元日本代表の選手が座っていた。私はその方のファンでもあったため、お坊さんの公演よりもその方の話を聞きたいと思っていた。講演をしているお坊さんは本を出版し、その場にいた全員がその書籍を持っていた。単刀直入に述べると、その書籍も講演の話も全く面白くなく、手持ち無沙汰な感じで話を聞いていた。講演が終わると、参加者全員が一人一人そのお坊さんに順番に挨拶に行き、書籍の感想を伝えることになった。自分は正直伝える感想などなく、お坊さんのところに向かっていく列から一旦離れ、何と言おうか考えた。少し気味悪いほどに、他の参加者たちは軒並みお世辞を述べていた。彼らはどうやら空気に抗えず、自分の本当の考えを表明できない人たちなのだと思った。それを受けて、少なくとも自分だけは明確にその書籍も講演も面白くなかったと伝えようと思った。すると偶然にも、隣に座っていたサッカー元日本代表の選手が話しかけてくれ、今度一緒にボールを蹴ろうと述べた。私はその申し出がとても嬉しく、こちらからそれをお願いしたいぐらいだった。その方からの嬉しい申し出を受けて、自分の気持ちは明るくなり、それを受けてそのお坊さんにはとりあえず心を傷つけないようなことを伝えようと思った。しかし、本当に心を育み、悟りに近づいているお坊さんであれば、書籍と講演が面白くなかったと伝えても感情が揺さぶられることなく受け止めることができるのではないかと思った。気がつくと私は寺の庭にいた。そこで小中高時代のある友人(SS)と出会い、彼が突然ながら自分のパソコンにハッキングをし、全てのデータを消すことを述べた。彼はなぜか怒っているようで、自分は彼に何かしたかなと考えさせられた。いずれにせよ、パソコンから全てのデータを消去されると仕事上困るので、それを避けるために、彼を説得するか、ハッキングの防止手段を考えることにした。


最後にもう一つ覚えているのは、美しいレストランで朝食ビュッフェを摂っている場面である。そこで私は、サーモンとじゃがいもを組み合わせた美味しそうな食べ物を選んだ。どうやら火が取っている順番に出されるらしく、きちんと火が通っているものを選んだ。その料理を選んだ後、その上にひじきを乗せると美味しそうだと思ったので、ひじきを取りに行った。栄養豊富な朝食を摂ることによって、一日の活力がみなぎってくる予感があった。フローニンゲン:2026/3/4(水)06:33


18300. 今朝方の夢の振り返り 

       

今朝方の夢の見慣れない寺にいる場面は、精神的・知的な探究の場に身を置いている現在の状況を象徴している可能性があるように思われる。寺という場所は一般に修行や学びの空間であり、そこに設けられたセミナールームで講話を聞いているという構図は、知識や教えを受け取る立場にある自分の姿を表しているのであろう。しかしながら、その講演や書籍に対して興味を感じないという感覚は、権威や形式的な教えに対して必ずしも無条件に共鳴しない精神的態度を象徴しているのかもしれない。つまり、精神世界や学問の領域においても、肩書きや周囲の評価によって価値を判断するのではなく、自分の内側の感覚に照らして真偽を見極めようとする姿勢が夢の中に表れている可能性があるのである。周囲の参加者が皆お世辞を述べている場面は、社会的な同調圧力や空気の力を象徴しているのかもしれない。多くの人が本音を語らず、形式的な礼儀を優先している様子は、集団の中で本当の考えを表明することの難しさを示唆しているようにも見える。その中で自分だけは率直に「面白くなかった」と伝えようと考えている姿は、知的誠実さや独立した判断力を象徴している可能性がある。精神的な成熟とは、単に礼儀正しく振る舞うことではなく、真実に対して誠実であることであるという内的な信念が表現されているとも考えられる。その一方で、隣に座っていたサッカー元日本代表の選手との出会いは非常に象徴的であるように思われる。サッカー選手は身体的な実践、行動、プレーの世界を象徴している存在であり、講義という知的世界とは対照的な領域に属している。その人物が「一緒にボールを蹴ろう」と声をかけてくる場面は、思考中心の世界から行動や実践の世界への招待を意味しているのかもしれない。講義の退屈さの中で気持ちが沈んでいた状態から、その申し出によって心が明るくなるという展開は、知識だけではなく身体的・実践的な活動が人生の活力を回復させることを象徴している可能性がある。寺の庭に移動した場面は、内面的な思索から外の世界へと意識が移行する過程を示しているのかもしれない。そこで登場する旧友SSは、過去の自己や古い人間関係を象徴している可能性がある。その友人がパソコンにハッキングしデータを消そうとする場面は、自分がこれまで積み上げてきた知識や仕事、思考の成果が脅かされる不安を象徴しているのかもしれない。パソコンのデータは現代において知的資産や仕事の成果の象徴であり、それが消去される危機は、努力の蓄積が突然失われることへの無意識的な恐れを表しているようにも見える。しかし同時に、その状況に対して説得や防御策を考えようとしている点は、困難に直面しても冷静に対処しようとする精神的態度を示しているとも考えられる。最後のレストランの朝食の場面は、この夢全体の締めくくりとして非常に意味深い。サーモンやじゃがいも、さらにひじきといった栄養豊かな食べ物を選び、火の通り具合まで気にしている様子は、身体や精神に必要なエネルギーを意識的に取り入れようとしている姿を象徴しているのかもしれない。朝食は一日の始まりを支える行為であり、この場面は新しい活動や挑戦に向けた準備を意味している可能性がある。特に栄養豊富な食事を通じて活力が湧いてくる予感を抱いている点は、これから始まる人生の新しい段階への前向きな期待を表しているようにも感じられる。この夢全体を一つの流れとして見るならば、精神的権威への距離感、社会的同調への違和感、実践的な行動への招待、知的資産の保護への意識、そして新たな活力の獲得という一連の象徴が連なっているように思われる。人生における意味として考えられるのは、知識や肩書きに依存するのではなく、自分の内的な感覚と誠実さを軸にしながら、思考と行動の両方を統合して生きていく必要性を示唆しているという点であろう。つまりこの夢は、知的探究の道を歩みながらも、身体的な実践や現実的な行動を通じて人生のエネルギーを更新し続けることが重要であるというメッセージを象徴的に示している可能性があるように思われるのである。フローニンゲン:2026/3/4(水)08:30


18301. マイケル・コモンズの「階層的複雑性モデル」(その2)


MHCにおける10(Abstract)以降が、成人の発達の分岐を生む領域である。10は、具体的な出来事の連鎖を越えて、単独の抽象変数を自分で立てられる段階として描かれている。家具、愛、正義、重量のように、個々の事例から共通項を抜き出し、変数として名付け、量的に扱い、定義を更新していく。ここで鍵になるのは、他人が作った抽象語を使えることではなく、自分で抽象化の刃を生み出せることである。ゆえに、抽象段階の世界は、物語が消えるのではなく、物語が抽象概念に蝶番でつながれ、抽象がストーリーの読み方を支配し始める世界だ、と言える。他方で10の限界は、複数の抽象変数のあいだに働く一般的規則を、自分で定式化して扱うことが弱い点にある。ある変数を増やせば良いという単線的発想に寄り、トレードオフや状況依存の反転をルールとして保持しにくい。政治の例として「移民を減らす」「税を下げる」「対話を増やす」といった単一レバー操作に寄るのは、まさにこの構造を示すための装置であろう。相手が反例を出しても、変数を二つとも最大化したいという素朴な両立願望に戻ってしまう、という描写も同じ線上にある。11(Formal)は、抽象変数同士の関係を、条件付き規則として扱える段階である。比喩で言えば、変数AとBとCの関係について「この条件ではAが効くが、別条件では逆転する」といったif-thenの原理を自作できる。ここで人は「角の先を見て曲がる」ような予測が可能になり、規則に基づく計画や検証、線形モデルを操れるようになる。政治的には、単語の標語ではなく、原因と結果の連鎖として語り、例外条件を付け始める。ただし11の限界は、複数の規則同士を統合して一つのシステムとして扱う力が弱い点にある。規則Aと規則Bの干渉、フィードバック、遅延、循環因果のようなものを、原理として保持し、継続的に運用するのが難しい。「多くの大人はシステム思考を自発的には構築しない」と言う。文明内には高次の概念が溢れているので、人は教えられれば使えてしまい、誰が生成しているのかが見えにくい、という補足も置かれる。これは、知的分業の中で、少数の生成者が複雑な枠組みを作り、多数がそれを消費・運用する、という社会像を含意しているのだと思われる。12(Systematic)は、複数の形式的規則を統合して、一つの相互作用システムとして捉える段階である。変数の数を増やすというより、関係の関係、規則の干渉、条件の入れ子が全体としてどう振る舞うかを見始める。登山の比喩で言えば、崖の性質と登り手の性質という二つのサブシステムが相互作用し、その相互作用が「難易度」や「価値」を生成する、という見方である。ここでは確信よりも条件づけが増えるため、語りが技術的で長くなり、断言が減る。その結果として、周囲からは「曖昧」に見え得るが、理解は深まっている、という描写になる。この段階の落とし穴としては、世界を単一のシステム観に押し込める硬直である。工学的システム観、社会構成主義的システム観、進化論的システム観のいずれかに偏り、異なるタイプのシステムが持つ別種の論理を比較できない。「ある種の体系化が、別種の体系化を見えなくする」という警告がある。13(Metasystematic)は、複数のシステムを比較し、システム一般に共通する性質や差異を名付け、統合原理を作る段階として提示される。「alignability」のような、システム全体の性質を表すメタ概念が登場し、登山という局所テーマを離れて、市場や制度といった別システムに橋を架ける。ここで起きているのは、対象の変更ではなく、抽象階梯の上昇である。あるテーマに没入していた視界が、より高い視点から「そのテーマが成立する条件」へと移る。政治の例でも、個別イデオロギーの主張が、制度・文化・心理的安全性・対話条件など、複数システムの調整問題として再記述され、立場の差よりも構造の共通性が前面に出る。重要な点は、「MHCは認知的複雑性のモデルであり、存在論的深みや霊性的成熟そのものを測らない」という限界である。高次の抽象・統合ができても、苦や死や意味の問題をどう引き受けるか、慈悲や解脱の次元がどう深まるかは別の軸だ、という断りである。ここを混同すると、「高度な認知=高い人間性」という短絡が起こりやすい。MHCを使うなら、認知の組み立ての複雑さと、倫理・実存・修行の深まりを別変数として保持する態度が不可欠である。最後に実務的含意をまとめるなら、MHCは「誰が偉いか」を決める装置ではなく、「どの種類の問題に、どの種類の思考が必要か」を見立てる装置として有効である可能性が高い。抽象段階の議論が噛み合わないのは、相手が愚かだからではなく、単一変数で世界を操作しようとする構造に引き寄せられているからかもしれない。形式段階の議論が硬直するのは、原理がないからではなく、原理同士の干渉をシステムとして保持できないからかもしれない。体系段階の語りが長くなるのは、曖昧だからではなく、相互作用を落とさずに説明しようとするからかもしれない。こうした見立てができる点に、MHCの使いどころがあるように思われる。フローニンゲン:2026/3/4(水)09:57


18302. 『唯識論同学鈔』の英語註釈の意義

        

『唯識論同学鈔』の英語註釈は、単なる未訳文献の紹介ではなく、欧米仏教研究における理論的地殻変動をもたらしうる事業である可能性が高い。なぜなら、現代の欧米における唯識研究は、主としてサンスクリット原典、チベット語訳、あるいは中国唯識の代表的注釈(窺基・玄奘系)に依拠してきたが、日本法相唯識の展開、とりわけ教学内部での精緻な論理的再編成には十分光が当たってこなかったからである。『唯識論同学鈔』は、単なる二次注釈ではない。そこには、中国唯識の受容と再構成、そして日本的思索環境の中で深化した論理構造が凝縮されている可能性がある。特に三性説、種子論、転識得智の解釈において、どの概念が強調され、どの緊張関係が再配置されているのかを英語で可視化することは、唯識を「心理学的理論」や「観念論」として単純化する傾向への重要な修正となるであろう。欧米の研究コミュニティでは、唯識はしばしば現象学や心の哲学との対話文脈で扱われる。しかし、日本法相における論証形式や因明的精緻化は、単なる思想史的資料ではなく、理論構築の実践例である。その構造を英語で明晰に提示することは、唯識を「東アジア思想の一分派」から、「高度な論理的形而上学の体系」へと位置づけ直す契機になりうる。さらに重要なのは方法論的意義である。原典を逐語的に訳すだけでなく、術語の概念史的背景、インドから中国、そして日本への理論的変容を註釈で追跡することは、仏教研究における比較思想的アプローチの深化を促す。とりわけ、三性説を認識論と存在論の双方として読み解く枠組みや、阿頼耶識を単なる「貯蔵意識」ではなく、機能的深層構造として再定義する試みは、現代哲学との架橋を可能にするだろう。また、欧米仏教研究においては、チベット資料への依存が強い傾向があるが、日本法相の伝統は別の発展経路を示す。そこにアクセス可能な形で英語註釈を提示することは、資料的多元性を回復し、唯識理解の偏りを是正する。これは地域研究の拡張ではなく、理論的地平の拡張である。加えて、精緻な英語註釈は、唯識を量子論哲学や意識研究との対話圏に導く足場にもなるはずだ。欧米の研究者が直接参照可能な形で、日本法相の議論構造が提示されれば、唯識は単なる宗教思想ではなく、意識の構造理論として再評価される可能性がある。したがってこの事業の意義は三重である。資料的空白の補完、理論的再定位、そして比較哲学的対話の促進である。『唯識論同学鈔』を英語で精密に註釈することは、日本仏教の一文献を紹介することではなく、唯識という巨大理論体系の未開拓領域を世界知に接続することである。それは研究史における一つの橋梁建設に等しいと意義づけている。フローニンゲン:2026/3/4(水)11:43


18303. 唯識が持つ世界平和への貢献可能性

             

数日前にアメリカがイランへ攻撃を仕掛けた。昨日は、その件について親友のメルヴィンと話をしていた。唯識が世界平和に資する可能性は、単に「心が大事である」という倫理的標語にあるのではない。唯識の核心は、対立や分断の根源がどのように認識構造の内部で生成されるのかを理論的に解明している点にある。ノーベル平和賞につながるような唯識研究があるとすれば、それは思想史研究にとどまらず、現代社会の分断構造を具体的に変容させうる実装可能な枠組みを提示するものであろう。唯識は遍計所執性という概念によって、実体視や本質視がいかに投影として成立するかを示す。国家・民族・宗教・イデオロギーといった集団的アイデンティティも、究極的には認識の重層的投影の上に成立していると読める。この理論を、社会心理学や認知科学、紛争研究と接続し、「集団的遍計所執」の生成メカニズムを解明する研究が展開されれば、敵対感情や偏見の発生過程を構造的に可視化できる可能性がある。また、阿頼耶識の種子論は、暴力や差別の傾向がどのように個人と社会の両層で蓄積され、再生産されるかを説明する理論資源になりうる。ここで重要なのは、唯識を神秘主義としてではなく、深層心理的・社会的条件付けの理論として再定式化することである。教育、メディア環境、政治的言説がどのような種子を蒔き、それがどのように行為として現行化するかを実証的に研究する。さらに、その循環を断ち切るための瞑想的実践や対話的プロセスを組み込んだ介入モデルを提示する。思想と政策を接続する構造を持つ研究が必要である。三性説の枠組みも応用可能である。遍計所執を見抜き、依他起として相互依存性を理解し、円成実として非二元的視座に立つという段階的理解は、紛争解決の心理的プロセスと重ね合わせることができる。例えば、対立当事者が互いを固定化された本質として捉える段階から、関係的条件性の理解へと移行する対話モデルを構築する。この理論的基盤を唯識から明確に提示し、実践的プログラムとして国際機関や教育機関で展開できれば、思想は現実の変容力を持つ。さらに、唯識の非二元的認識論は、他者を対象化し消費する近代的主体モデルへの批判的代替案となる。環境問題や資源争奪も、主客二元の強固な前提の上に成立している。認識の再構成を通じて倫理的関係性を再設計する研究は、平和を単なる戦争不在ではなく、関係性の質の転換として捉え直す契機となるであろう。ノーベル平和賞級の意義を持つとすれば、それは唯識を普遍的宗教教義として広めることではない。認識の構造が暴力を生み出すメカニズムを理論的に明示し、その転換プロセスを教育・外交・紛争調停の実践に具体化することである。理論、実証、実践が三位一体となったとき、唯識は抽象的形而上学から、平和構築の基盤理論へと転換する可能性がある。世界平和への貢献とは、他者を消し去ることなく、他者との関係性を再定義することである。唯識研究がそこまで射程を広げたとき、その学問的営為は思想史を越えて、現実世界の緊張を緩和する力を持ちうるであろう。フローニンゲン:2026/3/4(水)14:48


Today’s Letter

I believe that our thinking ability is shaped by multiple factors. Personally, I am particularly drawn to philosophers with a musical background, perhaps because I play the classical guitar. Groningen, 3/4/2026

 
 
 

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