【フローニンゲンからの便り】18057-18062:2026年1月18日(日)
- yoheikatowwp
- 2 日前
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タイトル一覧
18057 | 瞑想実践としての日々のクラシックギター練習 |
18058 | 今朝方の夢 |
18059 | 今朝方の夢の振り返り |
18060 | 発達心理学・死生学・仏教の架橋 |
18061 | 死生学について |
18062 | 死生観の構造と発達心理学 |
18057. 瞑想実践としての日々のクラシックギター練習
日々のクラシックギター練習を、単なる技能向上の作業ではなく、瞑想実践に近い営みとして行うためには、まず「何を達成するか」よりも「いま何が起きているか」に注意の重心を移す必要があるであろう。多くの場合、練習はテンポ、正確性、音量、曲の完成度といった未来志向の目標に引きずられがちである。しかし瞑想的実践においては、結果は副産物であり、中心に置かれるのは現在進行中の身体感覚と意識の状態である。第一に重要なのは、練習に入る前の入り口を明確にすることである。ギターを構える前に、数回ゆっくりと呼吸し、足裏の接地感、背骨の立ち上がり、肩や顎の緊張を観察する。ここで緊張を排除しようとするのではなく、あるものとして知る姿勢が重要である。この段階で既に、評価や修正ではなく、気づきが中心となる。次に、音を出す瞬間そのものを観察対象とする。右手の指が弦に触れる直前の微細な準備動作、爪と弦が接触する瞬間の抵抗感、音が空間に立ち上がり、減衰していく過程を、あたかも初めて聴く音のように味わうのである。うまく鳴ったかどうかではなく、「どのように鳴ったか」「身体は何を感じたか」に注意を向け続けることで、演奏は次第に反応的な行為から観照的な行為へと変わっていくだろう。また、ミスや雑音が生じた瞬間こそ、瞑想的練習の核心であると言える。失敗に対して即座に苛立ちや自己評価が生じるとき、その心的反応自体を一つの音や感覚と同列に観察する。指が滑った事実、音が濁った事実、そしてそれに続く心の動きが、一連の現象として立ち現れては消えていく様子を捉えるのである。ここでは直すことよりも理解することが優先される。さらに、練習単位を意図的に小さく区切ることも有効である。数小節、あるいは一音だけを素材として扱い、その反復の中で生じる微細な変化を味わう。これは時間を短縮するためではなく、意識の密度を高めるための工夫である。同じ音であっても、毎回異なる感覚が伴うことに気づくとき、演奏は固定的な再生ではなく、生起し続ける出来事となる。このような練習を続けていくと、上達と瞑想は対立するものではなく、むしろ同じ方向を指していることが見えてくる可能性がある。余計な力みや思考が手放されるにつれ、音は自然に整い、集中は深まり、演奏そのものが一種の静かな坐禅のような場となる。クラシックギターを弾くという行為は、音楽を通して自己を磨く修行であると同時に、いま・ここに留まり続けるための、生きた瞑想の場になり得るのである。フローニンゲン:2026/1/18(日)05:45
18058. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、小中高時代のある親友(SI)と一緒に彼の家の車庫に取り付けられているバスケットゴールを使って、1on1を楽しんでいた。彼から久しぶりに1on1をしようという申し出があり、二人ともバスケからは随分と離れていたので、感覚が鈍っていることが心配されたが、確かにお互いの全盛期の動きとは違えど、それでも十分にバスケを楽しめるほどだった。やはり一度体が覚えたことは長く体が覚えてくれているのだと実感した。1on1の試合は結局自分が2対1で勝利したのだが、バスケットボールがラグビーボールのように楕円形をしており、さらに大きさも大きかったので、ドリブルが大変なだけではなく、特にシュートが大変だった。通常のフォームではシュートを放つことができず、工夫をしながらシュートを打つ必要があった。それはそれで楽しく、彼とバスケをして良かったと改めて思った。二人とも爽快な笑顔で1on1を終えた。
次の場面では、これまた小中高時代のある友人(HY)が登場し、彼がサッカーの試合のデビューを飾る試合を観戦していた。ところがその試合というのが奇妙なもので、サッカーコートは家のフロアで、彼の姿はフロアに置かれた一つのガラスコップだった。フロアに散りばめられたガラスコップがどうやらプレイヤーのようで、ボールは氷の塊で、ガラスコップたちが氷の塊にぶつかりながらゴールを目指していた。そしてゴールというのが実は存在せず、フロア上ではガラスコップがわちゃわちゃと動いていたのである。ただし、彼の声だけは自分の耳に届いていて、どうやら彼がゴールを決めたとのことだった。こうして彼はデビュー戦に後半から出場しながらチームを勝利に導くゴールを決めたのであった。
最後の夢の場面では、母方の祖母の家に向かう路面電車の中にいた。私はスーツケースを持参しており、祖母の家に行くのは自分にとって小旅行であった。路面電車の中は混雑はしておらず、ただしどの席にも人が座っていた。私の近くには年配の家族が四人座っていた。彼らのうちの二人もまたスーツケースを持っており、降りるときに自分のスーツケースと間違えないようにしなければいけないと思った。彼らは全員65歳を超えているようで、穏やかな表情を浮かべて話をしていた。祖母の家に近づいてきたので、そこで降り、一瞬視界に入ったコンビニで何か飲み物を買って行こうかと思ったが、なるべく早く祖母の家に行こうと思ってコンビニ行くのはやめた。フローニンゲン:2026/1/18(日)06:03
18059. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、自分の人生における「身体化された記憶」「形式の変容」「世代を超える移行」という三つの層が、時間軸をずらしながら重なって現れている象徴的構造であるように思われる。最初の1on1の場面に登場する親友とのバスケットボールは、競争そのものよりも、共有された時間と身体感覚の再接続を象徴している可能性が高い。長く離れていたにもかかわらず、身体がなお覚えている動きが残っていたという実感は、過去に真剣に生きた経験が、現在の自分の深層に沈殿していることを示しているように思われる。ボールが通常とは異なる楕円形で大きかったという点は、かつてと同じ方法では対応できない現実条件を示唆しているようである。それでも工夫しながらシュートを放ち、それ自体を楽しめていたことから、制約の変化を創造的な遊びへと転換する柔軟性が、今の自分には育っていると考えられる。勝敗よりも、爽快な笑顔で終わったことが強調されている点からも、達成より関係性、結果より過程への価値転換が起きていることが読み取れる。次のサッカーの場面は、さらに抽象度が高い。友人がガラスコップとして現れ、ゴールも存在せず、氷の塊がボールであるという世界は、現代的な評価軸の不在や、意味が外形的に把握できない状況を象徴している可能性がある。視覚的には混沌としており、何が起きているのか分からないにもかかわらず、声だけははっきり届き、「ゴールを決めた」という結果だけが伝えられる。この構造は、成果が必ずしも可視的な形で現れなくても、本質的な達成は確かに起きているという感覚を示しているように思われる。後半から出場して勝利に貢献したという設定は、人生のある段階からでも十分に意味ある役割を果たせるという暗黙の肯定とも解釈できる。最後の路面電車の場面では、時間は一気に未来志向へと移行する。祖母の家という行き先は、血縁や原点、そして生の循環を象徴する場所である可能性が高い。スーツケースを持っていることから、この訪問は単なる日常ではなく、一つの段階的移行を伴う旅であると考えられる。年配の家族と同じ空間に座り、彼らの穏やかな表情を目にしている点は、自分が無意識のうちに老いと成熟の側へ視線を向け始めていることを示唆しているようである。コンビニに立ち寄る誘惑を断ち、祖母の家へ急ぐ選択は、即時的な快楽よりも、根源的なつながりや意味を優先する姿勢の表れと解釈できる。以上を総合すると、この夢は、自分が過去に培った身体的・関係的資源を再評価しつつ、変化した条件の中で新たなやり方を受け入れ、可視化されない成果や遅れて訪れる役割を肯定しながら、次の世代的・存在論的地点へと静かに移行しつつあることを示しているように思われる。人生における意味としては、若さや形式に縛られず、変容を前提とした成熟の旅路に入っていることを、自分自身に穏やかに告げる夢であった可能性が高い。フローニンゲン:2026/1/18(日)07:50
18060. 発達心理学・死生学・仏教の架橋
ある事柄をきっかけに、人間発達と死への探究に関心が向かい始めている。発達心理学、死生学、仏教を架橋するような研究に取り組みたいという思いが静かに湧き上がっている。とりわけ死生学の分野は前々から関心があったが、まだ探究を本格的に進めていなかった。これら三つの分野を架橋させることで、自己の救済だけではなく、他の多くの人にも癒しがもたされる可能性がある。発達心理学・死生学・仏教という三領域を架橋する探究は、単なる学際研究ではなく、「生きるとは何か」「成熟とは何か」「死は人生のどこに位置づけられるのか」という根源的問いに対する統合的応答を試みる営みであると言える。発達心理学は、人間が時間の中でどのように意味世界を再構成していくのかを精緻に描き出してきた学問である。とりわけ成人期以降の発達理論は、自己が単に適応的・機能的に成熟するだけでなく、価値・時間・関係性・自己境界の捉え方そのものを変容させていく過程を示している。しかし多くの発達理論は、暗黙の前提として「生が継続する世界」を想定しており、死そのものを発達の内在的契機として十分に扱ってきたとは言い難い。一方、死生学は死を中心に据えながら、生の意味やケア、喪失、終末期の経験を探究してきたが、発達という時間的・構造的視点が十分に組み込まれているとは限らない。死はしばしば突発的な出来事、あるいは人生の終点として語られるが、実際には「死への理解の仕方」そのものが人の成熟段階によって大きく異なる。この点において、発達心理学と死生学の架橋は、死を一回的な出来事ではなく、発達とともに姿を変える意味構造として捉え直す可能性を開く。ここに仏教思想を接続することは、理論的にも実践的にも決定的な意義を持つ。仏教は無常・苦・無我という枠組みを通して、生と死を二項対立としてではなく、相互依存的なプロセスとして捉えてきた伝統である。生は常に死を内包し、死は生の否定ではなく変容であるという理解は、発達心理学が描く自己変容のプロセスと深く共鳴する。また、仏教における修行や観想は、死への直視が恐怖の増大ではなく、執着の緩和と慈悲の深化をもたらしうることを示している。この三分野を架橋する探究は、自己の救済にとどまらない射程を持つ。なぜなら、死への不安や意味喪失は個人の内面問題であると同時に、社会的・文化的に共有された課題でもあるからである。発達的視点を持つことで、「今この人は、どのような意味世界の中で死を捉えているのか」を丁寧に理解することが可能となり、仏教的洞察を媒介として、それを言語化・実践化する道が開かれる。その結果、教育、臨床、終末期ケア、さらには日常的な生の問い直しにおいて、多くの人に静かな癒しと方向づけをもたらす可能性が生まれる。この探究の方向性は、死を特別なテーマとして切り離すのではなく、人間発達の最も深い地平に位置づけ直す試みである。生の成熟とは、死を遠ざけることではなく、死を含んだかたちで生を引き受ける力の生成である。その力を理論と実践の両面から照らし出すことこそが、この架橋的研究の核心的意義であると言える。フローニンゲン:2026/1/18(日)09:34
18061. 死生学について
死生学とは、人間が「生きること」と「死ぬこと」をどのように理解し、受け止め、意味づけてきたのかを総合的に探究する学際的領域である。単に死の瞬間や死後を扱う学問ではなく、生の全体構造の中に死をどのように位置づけるのか、そして死への意識が生の質や価値観にいかなる影響を与えるのかを問う点に、その核心がある。近代以降、医学や科学技術の発展によって死は管理・延命・回避の対象となり、日常生活から徐々に隔離されてきた。その結果、死は「語られにくいもの」「考えるべきではないもの」として周縁化されやすくなったが、死生学はこの沈黙そのものを問題化する。死が不可避である以上、それを思考の外に置くことは、生の意味を部分的にしか捉えていない状態であると考えるからである。死生学が扱うテーマは多岐にわたる。終末期医療や緩和ケア、看取りの倫理、喪失と悲嘆のプロセス、自死の問題、宗教的・文化的な死生観、さらには死をめぐる物語や象徴表現まで含まれる。これらはいずれも、死を単なる生物学的現象としてではなく、意味と関係性の出来事として捉え直す試みである。死は個人の出来事であると同時に、家族や共同体、社会全体の関係性を再編成する契機でもある。死生学の重要な特徴の一つは、「死への態度」が固定されたものではなく、人生の段階や経験によって変化するという視点である。幼少期の死の理解、成人期における死への不安や距離感、老年期における死の受容や統合は、それぞれ質的に異なる。この点において、死生学は発達的視点と親和性が高く、死を人生の終点としてのみ捉えるのではなく、発達過程に内在する意味生成の一要素として捉える可能性を持っている。また、死生学は「よく死ぬこと」と同時に「よく生きること」を問い直す学問でもある。死を意識することは、必ずしも悲観や恐怖を強めるとは限らない。むしろ、有限性の自覚は、時間の使い方、人との関わり方、価値の優先順位を再構成し、生をより密度の高いものへと変容させうる。この意味で死生学は、人生の質を高めるための実存的学問であるとも言える。さらに、死生学は治療や教育、対人援助の現場と深く結びついている。終末期ケアやグリーフケアにおいては、死を「敗北」や「失敗」として扱うのではなく、その人なりの生の物語が完結していく過程として尊重する視点が不可欠となる。死生学は、そうした現場において言語化しにくい感情や価値観を支える理論的・哲学的基盤を提供する役割を果たしてきた。総じて死生学とは、死を特別な異常事態として切り離すのではなく、生の内部に組み込み直す知の営みである。死を考えることは、生を暗くすることではなく、生をより深く引き受けるための契機となりうる。死生学は、人間が有限な存在であるという事実から目を逸らさず、その有限性の中でいかに意味と関係性を紡ぎうるのかを静かに問い続ける学問なのである。フローニンゲン:2026/1/18(日)10:30
18062. 死生観の構造と発達心理学
自己や他者の死に対する苦しみは、死そのものから直接生じているというよりも、「死がどのような意味を持つものとして理解されているか」という、現段階の死生観の構造から生じている可能性が高いのではないかと思う。発達心理学の観点に立てば、人は生涯を通じて世界理解の枠組みを更新し続ける存在であり、死に対する理解もまた固定的ではなく、発達とともに変容していく意味構造の一部であると考えられる。発達心理学が示してきた重要な知見の一つは、人間の苦しみの多くが出来事そのものではなく、その出来事を解釈する枠組みと自己同一性のあり方から生じるという点である。死に対する恐怖や喪失の痛みもまた、「死とは絶対的な断絶である」「死は自己の完全な消滅である」「死は意味の破綻である」といった理解構造の中では、極めて強烈な苦しみとして経験されやすい。ここでは、死は生の外部にある否定的事象として位置づけられている。しかし発達的視点から見れば、こうした死生観は人間理解のある段階に固有のものであり、最終形ではない可能性がある。自己を独立した実体として捉え、時間を直線的に理解し、価値を成果や継続性に置く段階では、死は必然的に「奪われるもの」「失われるもの」として経験される。この段階における苦しみは、病理ではなく、その発達段階においては自然な反応であるとも言える。発達が進むにつれて、人は自己をより関係的・過程的に捉え始め、意味が単一の出来事に閉じないことを理解し始める。このとき死は、絶対的な否定ではなく、生のプロセスの中に組み込まれた一つの転換として再定位されうる。さらに成熟した段階では、生と死を対立項としてではなく、相互に規定し合う全体的な流れとして捉える死生観が立ち現れてくる可能性がある。このような意味構造においては、死は恐怖の対象であり続けながらも、同時に深い受容と静けさを伴うものとなりうる。ここで重要なのは、「死の苦しみを取り除く」ことではなく、「今の死生観が絶対ではない」ことを示す支援のあり方である。発達心理学の知見を用いれば、現在の苦しみを否定せず、その苦しみがどのような意味構造から生じているのかを言語化し、そこから次なる死生観への移行可能性をそっと示すことができる。これは説得や教化ではなく、意味世界の拡張を支える伴走である。このような支援が可能になれば、人は死に関する苦しみから解放されるというよりも、別の理解の仕方へと成熟していくことができるだろう。死をどう理解するかは、その人がどのような存在として世界に立っているかの反映である。ゆえに死生観の発達を支えることは、人間存在そのものの成熟を支える営みであり、自己だけでなく他者への深い癒しをもたらす可能性を秘めていると言える。フローニンゲン:2026/1/18(日)11:00
Today’s Letter
I value and cherish kindness and gentleness the most. These qualities probably come from my mother. They are the most important gifts I have received from her. Groningen, 1/18/2026

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