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【フローニンゲンからの便り】18027-18033:2026年1月13日(火)



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タイトル一覧

18027

日々のスケール練習について

18028

今朝方の夢

18029

今朝方の夢の振り返り

18030

真如と純粋経験

18031

12フレット以降のポジション

18032

意識科学と量子力学の接続

18033

改めて量子場について

18027. 日々のスケール練習について  


夕食後のスケール練習においては、1日1つのスケールに集中する方が理にかなっているのではないかと思う。特に4つのポジションを用いて練習する場合、この方針は技術的にも認知的にも、そして時間帯の特性という点でも合理性が高い。まず前提として、夕食後という時間帯は、脳と身体が拡張よりも統合に向かいやすい状態にある。日中に比べて瞬発的な集中力は下がる一方で、同じ情報を繰り返し扱い、意味づけを深める力は保たれている。この時間帯に複数のスケールを切り替えながら練習すると、指の配置、調号、開放弦の扱い、音の重心といった要素が頻繁に入れ替わり、技術練習が「判断作業」にすり替わってしまう。結果として、指は動いていても、音や感覚が身体に沈殿しにくくなる。一方、1日1つのスケールに絞り、4つのポジションを丁寧に辿る練習では、同一の音階構造を異なる位置関係で何度も経験することになる。これは単なる反復ではなく、同じ意味を別の文脈で言い直す作業に近い。主音の位置、開放弦の有無、ポジションごとの音色の違いを感じ取りながら弾くことで、そのスケールは指の形としてではなく、ギター全体に広がる一つの地形として認識されていく。特に4つのポジション練習では、頭の混乱が起きやすい。これは能力不足ではなく、むしろ情報量が多いことによる自然な反応である。ここで複数スケールを同時に扱うと、混乱は増幅され、注意が「間違えないこと」に奪われやすくなる。夕食後の練習として重要なのは、間違いを減らすことではなく、同じ構造の中に長く滞在することである。1つのスケールに集中すれば、「次はどの音か」を考える負荷が減り、その分、音の均質性、タイミング、右手のタッチといった本質的な要素に意識を向ける余地が生まれる。また、1日1スケール方式は、記憶の定着という点でも有利である。同じスケールを夕食後に集中的に扱うと、就寝中の記憶整理の過程で、その情報が優先的に統合されやすい。翌日ギターを手に取ったとき、前夜に練習したスケールの感覚が指に残っていると感じられるなら、それはこの方法が機能している証拠である。複数スケールを薄く広く触った場合、この「翌日に残る感覚」は得にくい。さらに、1日1スケールは心理的にも持続しやすい。今日はこのスケール、と明確に決まっていることで、練習開始時の迷いが減り、短時間でも「やり切った」という感覚を得やすい。夕食後の練習は、量よりも質、そして翌日に疲労を持ち越さないことが重要であり、その点でもこの方法は適している。総じて言えば、夕食後に4つのポジションでスケール練習を行うのであれば、複数のスケールを切り替えるより、1日1つを深く掘り下げる方が、技術・感覚・記憶のすべてにおいて効果が高いと言えるだろう。この積み重ねは即効性はないが、数週間、数か月と続けるうちに、「どのポジションにいても同じスケールを話している感覚」が育ってくる。その感覚こそが、実際の楽曲や即興において、迷いの少ない演奏を支える静かな土台となるのである。フローニンゲン:2026/1/13(火)06:09


18028. 今朝方の夢

       

今朝方は夢の中で、見慣れない教室風の部屋の中で国語の試験を受けようとしていた。教壇に立っていたのは元大学教授の知人の研究者で、その方が試験を取り持っていた。私は席について問題を解き始めようとしたのだが、その瞬間にふと、レポート課題が未提出だったことを思い出した。その提出期限はちょうどこの試験に取り組んでいる時間であり、試験を受けるかレポートを提出するかを迷った。少し考えて出した結論は、試験もレポートも放棄し、国語の単位を取得することをやめ、学校を退学するというものだった。この学校では自分の好きな事を好きなだけ没頭して探究することができず、大変窮屈な思いをしていた。そんな学校に通うのは、人生の貴重な時間の無駄だと思ったし、仮に大学に行きたければ大検もあるため、キッパリとこの学校を辞めることにした。その決断を固めた時に、すっと肩の荷が降りて、心が晴れやかになった。


次の場面は、かつて通っていた中学校の教室で、そこで給食の炊き込みご飯を食べていた。それは栄養豊富なキノコがふんだんに使われており、大変美味で、納豆と合わせておかわりすることにした。給食の時間はもう終わりかかっており、係の女性友達が片付けを始めていたが、残すのは勿体無かったので自分がおかわりをすることで平らげることにした。この場面の直後に現れたのは、母方の祖母と母と一緒に近場に日帰り旅行に出かける場面である。祖母は車椅子が必要だったので、自分がそれを押していくことにした。駅に到着しかけた時に、自分の携帯がスマホではなくガラケーであり、地図のアプリがダウンロードされていないことに気づいた。それだと時間通りに目的地までちゃんと辿り着けるが不安であり、祖母を母に任せて、試しに自分一人で地図なしでそこに向かってみることにした。祖母と母には先に目的地に向かってもらうことにし、自分は一人地図を持たずに目的地に向かっていく挑戦を決意した。


最後に覚えているのは、実際に通っていた高校の廊下の端にある広いトイレに行こうとしている場面である。今から全員で外出の予定となっており、生徒たちはトイレを済ませるためにトイレは混雑していた。スリッパがもうほとんどなくなっている中で、自分は組み合わせの違うスリッパを履くことにした。仕切りのない形で壁に向かって用を足すような仕組みになっており、壁から水が流れて来るような形になっていた。その水にかからないようにしながら用を足し始めたところで夢が終わった。フローニンゲン:2026/1/13(火)06:22


18029. 今朝方の夢の振り返り

                                 

氷点下の世界も一旦中休みとなり、早朝に小鳥の声が聞こえて来て大変嬉しく思う。この寒さから抜けるのももう少しの辛抱である。


今朝方の夢全体は、自分がこれまで身につけてきた制度的な評価軸や他者基準の学びから距離を取り、自分固有の時間感覚と探究の仕方へと移行しつつある過程を象徴しているように思われる。冒頭の見慣れない教室と国語の試験は、言語・思考・表現といった根幹的能力が、いまだ「試されるもの」「単位として測られるもの」として配置されている状態を示している可能性がある。教壇に立つ元大学教授の研究者は、知的権威や正統な学知の象徴であり、自分が長らく参照してきた評価の眼差しの具現であるとも考えられる。その場でレポート未提出を思い出す展開は、形式的な課題遂行と実質的な学びの乖離に対する違和感を示しているように思われる。試験とレポートの二者択一を超えて、両方を放棄し退学を選ぶ決断は、外部から与えられたカリキュラムそのものを降りるという内的決断を象徴している可能性が高い。大検という代替ルートを思い浮かべている点からは、学び自体を否定しているのではなく、学び方の主導権を自分に取り戻そうとする意志が感じられる。この選択によって肩の荷が降りる感覚が生じたことは、義務や評価から解放されたときに初めて呼吸が深くなる感覚を、自分がすでに知っていることを示しているようである。次の中学校の給食の場面は、評価や競争とは無縁の、身体に直接届く学びと滋養の象徴と考えられる。炊き込みご飯やキノコ、納豆といった発酵や大地性を感じさせる食物は、時間をかけて育まれる知や経験を暗示している可能性がある。給食の時間が終わりかけているにもかかわらず、おかわりをして食べ切ろうとする姿勢は、過去の経験や基礎的な養分を、今あらためて自分のものとして統合しようとする動きを表しているように思われる。祖母と母との日帰り旅行は、血縁と世代をまたぐ時間軸の中での自分の位置を示していると考えられる。車椅子を押す役割は、支え手としての成熟を象徴する一方、ガラケーで地図が使えないという状況は、最新のツールや明確な指針を失った状態での不安を示している可能性がある。その不安の中で、自分一人が地図なしで先行する決断は、他者を守るためにまず自分が未知へ踏み出すという主体的試行の象徴であり、内的コンパスへの信頼が芽生えつつあることを示唆しているように思われる。最後の高校のトイレの場面は、集団行動に入る直前の浄化と調整の象徴であると考えられる。スリッパの組み合わせが揃っていないことは、完全には整っていない自己状態を示しつつも、それを受け入れて進む柔軟さを表しているようである。仕切りのない構造や水を避けながら用を足す行為は、境界の薄い状況の中で、自分なりの距離感と身の置き方を探っている状態を象徴している可能性がある。この夢が人生において示している意味は、自分が外部の制度や道具、評価に依存した生き方から、身体感覚と内的指針を基盤とする生き方へと静かに舵を切り始めているということではないかと思われる。過去の学びを養分として引き受けつつ、未知の道を自分の足で確かめに行く段階に、すでに入っていることをこの夢は示唆しているように思われる。フローニンゲン:2026/1/13(火)08:06


18030. 真如と純粋経験 

                             

果たして真如は純粋経験と同じものとみなしていいのだろうかということについて考えていた。真如を純粋経験と同一のものとみなしてよいかという問いは、仏教形而上学と近代日本哲学の接点に生じる、きわめて示唆的な問題かと思う。結論から言えば、両者は深い共鳴関係にあるものの、無条件に同一視することには慎重であるべきだと考えられる。その理由を、立場の違いと重なり合う射程の双方から整理してみたい。まず真如とは、唯識や中観において、あらゆる分別や虚妄な構成を離れた存在の真実相を指す概念である。それは対象として把握される「もの」ではなく、主客分離以前の在り方、あるいはすべての現象がそのように現れている根拠的様相であるとされる。重要なのは、真如が認識の対象ではなく、認識を含めた一切の成立を可能にしている地平そのものである点である。したがって真如は、言語化や概念化を本質的に拒むが、同時に現象から切り離された超越的実体でもない。一方、純粋経験とは、西田幾多郎が『善の研究』において提示した概念であり、主観と客観、思惟と対象が分かれる以前の直接的経験を指す。そこでは「見る自分」と「見られるもの」がまだ分離しておらず、ただ経験そのものが自己充足的に成立している。この意味で純粋経験は、近代哲学が前提としてきた主観中心主義を根底から揺さぶる試みであり、分別以前の経験的事実を哲学の出発点に据える点で、仏教思想と驚くほど近い位置に立っている。このように見ると、真如と純粋経験はともに、主客未分の次元を指し示している点で本質的な共通性を持つと言える。特に、真如が「あるもの」として把握されるのではなく、現象が現象として成立しているその在り方であるのと同様、純粋経験もまた、反省的意識によって対象化される以前の即自的な経験である。この重なりにおいて、純粋経験は真如を近代哲学の言語で言い換えたものだ、と理解したくなる誘惑は確かに強い。しかし同時に、両者の差異も見逃してはならない。第一に、純粋経験はあくまで「経験」という語を用いて語られており、意識や生の直接性という文脈に強く結びついているのに対し、真如は経験に限定されない。真如は、迷いの経験も悟りの経験も等しく貫いているのであり、経験されるか否かに依存しない。言い換えれば、純粋経験は真如が顕現した一つの相である可能性はあるが、真如そのものを尽くしているとは言い切れない。第二に、仏教において真如は、修行と智慧の文脈の中で語られる概念である点が重要である。真如は、単に立ち返れば常に与えられている心理的事実ではなく、無明による歪曲が滅したときに明らかになる現実の在り方である。これに対し、純粋経験は、日常的経験の中にも潜在的に含まれているものとして語られ、必ずしも解脱論的な転換を前提としていない。この点で、真如は存在論的・解脱論的含意を強く持ち、純粋経験は主として認識論的・現象学的射程を持つと言える。以上を踏まえるならば、真如と純粋経験は同一であるというよりも、異なる伝統において同一の深層次元を指し示そうとした、相互に照応する概念であると理解するのが妥当であろう。純粋経験は、真如が分別以前にどのように「生きられうるか」を示す一つの哲学的記述であり、真如は、純粋経験が依って立つ存在論的根拠を、修行の文脈から徹底化した概念である。その意味で両者は重なり合いながらも、完全に重ね合わせることはできず、むしろ相互に照らし合うことで、それぞれの射程がより深く理解される関係にあると考えられる。フローニンゲン:2026/1/13(火)08:27


18031. 12フレット以降のポジション 

                 

手持ちのスケール本には、12フレット以降のポジションまで掲載されているが、12フレット以上のポジションはとても演奏しにくい。最初は12フレットまでの練習に留めておくのが賢明だろうかと考えていた。結論から言えば、最初の段階では12フレットまでのポジションに練習を留めておく判断は、きわめて賢明だろう。それは逃げでも妥協でもなく、クラシックギターという楽器の構造と、身体学習の順序を正しく踏まえた戦略的な選択である。まず前提として、12フレット以降のポジションが演奏しにくいのは、技術不足というより楽器構造上の必然である。12フレットを境に、フレット間隔は急激に狭くなり、弦の張力感も変化し、音色も明確に変わる。左手はより垂直性と精密さを要求され、右手は弦長の短さゆえに、わずかなタッチの違いが音量や音質に直結する。つまり、12フレット以上は「同じ動作の延長」ではなく、別の精度レベルを要求される領域なのである。このことから考えると、基礎段階で12フレット以上に頻繁に入ることは、技術形成の観点から必ずしも効率的ではない。なぜなら、まだ確立していない基本フォームや音色感覚のまま高精度領域に足を踏み入れると、演奏しにくさを「力」や「無理な角度」で補おうとしがちになり、その結果、癖や緊張を身体に刻み込んでしまう危険があるからである。特に左手の親指位置や手首の角度は、この領域で一度崩れると、後から修正するのが難しい。一方、12フレットまでのポジションには、クラシックギター演奏の基礎要素がほぼすべて含まれている。主要なスケール、和音、アルペジオ、バッハや古典派作品の大半は、この範囲で成立している。音色のコントロール、ポジション移動の滑らかさ、右手の均質性といった重要な技術も、12フレット以内で十分に、しかも安全に磨くことができる。この範囲を「狭い」と感じる必要はなく、むしろ最も密度の高い訓練空間と捉える方が適切だろう。さらに、学習段階という観点から見ても、まずは12フレットまでで音階やポジションの地図を完全に身体化することには大きな意味がある。どのポジションにいても主音の位置が即座に分かり、同じスケールを複数の位置で迷いなく弾ける状態になって初めて、指板全体が「一つの連続体」として認識される。その連続体の感覚が確立されていない段階で12フレット以上に進むと、指板は分断された領域として知覚されやすくなり、結果として混乱や不安を生みやすい。では、12フレット以上はいつ扱うべきかと言えば、それは必要に迫られたときである。特定の楽曲で高音域が求められる場合や、音色の変化を意識的に使い分けたい段階に入ったとき、その都度、限定的に取り入れるのが自然である。最初から網羅的に練習しようとする必要はない。むしろ、基礎が固まった後に触れた方が、「なぜ弾きにくいのか」「どこを調整すれば安定するのか」を冷静に観察できるだろう。総じて言えば、12フレットまでに練習を留めるという判断は、基礎を軽視するどころか、将来12フレット以上を安全かつ自由に扱うための準備期間なのである。まずはこの範囲で、音・動き・感覚を徹底的に一致させる。その一致感が揺るぎないものになったとき、12フレット以上のポジションは「難所」ではなく、「自然な延長」として静かに開かれてくるだろう。フローニンゲン:2026/1/13(火)09:35


18032. 意識科学と量子力学の接続

                               

意識科学と量子力学はどのように接続可能だろうか?両者の歴史を比較しつつ、両者の架橋を試みる研究を二つ目の博士研究として行いたいという思いが依然としてある。意識科学と量子力学はいずれも、近代科学が前提としてきた素朴実在論を根底から揺さぶってきた学問領域であり、その歴史的展開を比較すると、両者がきわめて相補的な問いを抱えてきたことが見えてくる。両者を架橋する試みは、単なる学際研究にとどまらず、自然観そのものの再編を要請する挑戦であると考えられる。量子力学は20世紀初頭、古典物理学では説明不可能であったミクロ領域の現象を扱う中で成立したが、その核心には「観測」という不可避の問題があった。量子状態は観測されるまでは確定せず、観測行為によって初めて一つの結果として現れるという構造は、物理理論でありながら、認識主体を完全に排除できないという点で特異である。このため量子力学は、数学的には極めて成功している一方で、「現実とは何か」「測定とは何か」という問いを未解決のまま残してきた。一方、意識科学の歴史を振り返ると、こちらもまた困難な対象を扱ってきたことがわかる。近代以降の科学は、客観的・第三者的記述を重視する中で、主観的経験としての意識を周縁化してきた。しかし神経科学や認知科学が発展するにつれ、脳内プロセスをどれほど精密に記述しても、「なぜ経験が伴うのか」という問い、いわゆる意識のハード・プロブレムが回避できないことが明らかになった。ここでもまた、記述可能な構造と、経験そのものとの間に深い断絶が生じている。この二つの歴史を比較すると、量子力学は「物質が客観的に存在する」という前提を、意識科学は「意識は物質から派生する」という前提を、それぞれ内側から崩してきた学問であると言える。両者は異なる方向から出発しながらも、「観測」「経験」「現象の成立条件」という共通の問題圏に収斂してきたのである。この点に、両者を接続する理論的必然性があると考えられる。両者の架橋を試みる研究において重要なのは、意識を単なる脳内副産物として扱う立場や、量子論を安易に神秘化する立場を避けることである。むしろ、量子力学が示す「観測によって現象が成立する」という構造を、意識科学における「経験の生成条件」という問題と照応させ、両者をより抽象度の高い枠組みで再記述する必要がある。その際、情報、関係性、プロセスといった概念が、物質と意識を媒介する鍵となる可能性が高い。二つ目の博士研究としてこの架橋を試みる意義は、意識を物理世界の例外として隔離するのでも、物理法則に強引に還元するのでもなく、「現象がいかにして現れるか」という根源的問いを、物理と意識の双方から統合的に扱う点にある。意識科学と量子力学の接続は、未完成の二つの学問を補完し合う作業であり、その先には、主体と世界、観測者と被観測者を分断しない新たな自然観が開かれている可能性があると言えるのではないかと思う。フローニンゲン:2026/1/13(火)10:04


18033. 改めて量子場について 

                       

量子場とは結局何なのだろうか?それは物理的なものなのだろうか、それとも非物理的なものなのだろうか。それは阿頼耶識的なものなのだろうか?そのようなことを改めて考えていた。量子場とは結局何なのかという問いは、現代物理学の技術的問題にとどまらず、「物理的とは何か」「存在とは何か」という形而上学的問題に直結している。量子場理論において、量子場は粒子よりも基礎的な存在として位置づけられ、電子や光子といった粒子は、場の局所的な励起状態として理解される。したがって、古典的な意味での「物体」がまず存在し、それが運動するという世界像は、量子場理論においては根本的に転倒していると言える。では、この量子場は物理的なものなのだろうか。量子場は数学的には厳密に定式化され、実験的予測も極めて高い精度で検証されている点で、物理理論としては疑いなく成功している。しかし一方で、量子場は空間のあらゆる点に遍在し、真空状態においてすら零点エネルギーを持つとされる。そのような存在は、日常的な意味での「物質」や「実体」とは大きく異なっており、物理的であると同時に、もはや素朴な物理性を超えた存在であるとも言える。ここで重要なのは、「物理的か非物理的か」という二分法自体が、量子場の本性を捉え損ねている可能性である。量子場は感覚的に捉えられる実体ではなく、測定や相互作用を通してのみ現象化する潜在的構造として理解される。この点で量子場は、「現象を生み出す可能性の場」であり、完成された物そのものというより、生成の条件に近い存在であると考えられる。この理解を踏まえると、量子場を阿頼耶識的なものとして捉える比喩には一定の哲学的説得力が生じる。阿頼耶識は、具体的な経験や表象が生起する以前の深層的基盤として構想され、そこに蓄えられた種子が条件に応じて現行の経験を生み出すとされる。量子場もまた、粒子や相互作用が顕在化する以前の基盤として機能し、観測や相互作用という条件のもとで、具体的な現象として現れる。この構造的類似は偶然とは言い切れない。ただし、量子場をそのまま阿頼耶識と同一視することは慎重であるべきである。阿頼耶識は本質的に認識と不可分の次元を含んでおり、経験の連続性や主体性と結びついて論じられる。一方、量子場はあくまで物理理論の中で定義された構造であり、直接的に経験や意味を内包するわけではない。両者は同一ではなく、むしろ「現象が生起する深層的基盤」という抽象度の高いレベルで相似的であると理解する方が妥当であろう。結論として、量子場は単なる物理的実体でも、単なる非物理的存在でもなく、「現象が成立する前提条件としての場」である可能性が高い。その意味で、量子場を阿頼耶識的な構造として捉える視座は、物理と意識を断絶させずに統一的に理解するための有力な哲学的架橋となり得る。量子場とは、世界が現れる以前の、生成の地平そのものを指し示す概念であると考えられる。フローニンゲン:2026/1/13(火)10:37


Today’s Letter

Pure experience does not fully coincide with the realm of truth, yet it opens a gateway to it. As I immerse myself in playing the guitar, I find myself increasingly able to remain in that realm. Groningen, 1/13/2026

 
 
 

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