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【フローニンゲンからの便り】18020-18026:2026年1月12日(月)



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タイトル一覧

18020

ジュリオ・サグレラスの教則本の続編を発見して

18021

今朝方の夢

18022

今朝方の夢の振り返り

18023

ジュリオ・サグレラスの教則本と即興演奏

18024

真如と意識の関係

18025

夕食後のスケール練習

18026

レストストロークを優先して鍛えること

18020. ジュリオ・サグレラスの教則本の続編を発見して     

 

現在、ジュリオ・サグレラスの教則本を毎日弾き込んでいる。偶然にも続編のものがあることに気づいた。今取り組んでいるBooks 1–3を最低1年は徹底的にやり込んでから、4–6に進む判断をするのが、サグレラス体系を最も生かすタイミングなのかもしれない。ただし、それは年数ではなく、身体化の度合いによって決めるべきであり、ここを見誤るとBooks 4–6は宝の持ち腐れにも、逆に過剰負荷にもなりうる。まず前提として、“Julio S. Sagreras Guitar Lessons”は、段階的に技巧を積み上げる教則本というより、同一原理を深度を変えて反復させる体系である。Books 1–3は初級・中級というラベルが付されがちだが、実際には「全巻を貫く身体操作の文法」を徹底的に刷り込むための基礎層であり、ここが甘いまま先に進むと、後半で要求される精度に耐えられないだろう。Books 1–3を1年間やり込む意味は、単に曲や練習番号を一通り終えることではない。重要なのは、左手のポジション移動時に無駄な緊張がなく、右手のタッチが音色と音量の両面で安定し、単音・和音・分散和音のいずれにおいても「なぜその音がそう鳴るか」を説明できる状態に到達しているかどうかである。この段階に達していれば、Books 1–3はもはや「練習帳」ではなく「母語」になっているはずだ。一方、Books 4–6およびAdvanced Techniqueは、内容的にまったく別物である。ここでは新しいテクニックが次々に追加されるというより、既存の基礎に対して極めて厳密な精度と持続性が要求される。音の均質性、レガートの純度、運指の合理性、そして何より「長い時間にわたって同じ質を保つ力」が問われるため、Books 1–3が身体に沈殿していない状態で入ると、練習が消耗戦になりやすい。したがって、購入・着手の適切なタイミングは次のように考えるのが現実的である。Books 1–3を1年ほど継続した時点で、初見で簡単なエチュードを崩れずに弾ける、バッハやカルカッシの初級曲に技術的不安を感じなくなっている、練習中に「指をどう動かすか」より「音楽的判断」に意識が向く時間が増えている——この三点が揃っていれば、Books 4–6への移行は自然な深化になるだろう。逆に言えば、Books 4–6は次の段階へ進むための教材ではなく、すでに形成された基礎を精錬するための拡張層である。早く買ってしまうこと自体が悪いわけではないが、十分にやり込む前に手を出すと、心理的に「先に進んでいる感」だけが生じ、基礎の反復密度が下がる危険がある。総じて言えば、1–3を少なくとも1年、できれば数十回か循環させたうえで、4–6を必要になったと感じた瞬間に導入するのが理想である。その瞬間とは、「もう基礎練習では物足りない」ではなく、「基礎はできているはずなのに、音の質にまだ納得できない」と感じ始めた時である。その違和感こそが、サグレラス後半巻を開く合図なのである。フローニンゲン:2026/1/12(月)06:16


18021. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、母と会話をしている場面があった。母が少し悲しげかつ不安な表情を浮かべていたので、どうしたのかと尋ねてみると、何やら投資詐欺にあったらしかった。幸いにも金額はそれほど大きなものではなかったが、そのショックを受けているようだった。しかも詐欺を働いた相手が自分の知人だったことには驚かされ、その知人を法的に訴えることを考えた。しかし母は事を大きくしたくないという思いがあるようで、裁判に持ち込むことには消極的だった。そうすると頭の中でぐるぐると自己反省が起こり、それがやり切れない感情を生んでいるようで、母のそうした姿を見ているのが辛かった。一方で、今回の事柄は母にとって一つの教訓になるであろうから、そうした学びとしての価値を有していることを柔らかく伝えた。結局母は、その知人が誰かについては名前を明らかにしなかった。かつてその知人を含めて、数人の知人と母と一緒にポーカーか何かができる場所に出かけて遊んでいた時に投資話を持ちかけられていたそうだった。

その他に覚えている場面としては、見慣れない外国の街の中心部のアパートの一階の部屋で生活をしている場面があった。辺りが静まり返り、暗くなった夜に帰宅をし、ドアを開け、ドアを閉めようとした時に、どのようにドアに鍵をかけたらいいのかを迷った。そういえば、ドアにはいくつかの窪みがあり、そこにチェーンをかけて戸締りをすることを思い出した。近所は兎角物騒な場所ではなかったが、どのような人がいるかは分からず、厳重に鍵をかけることにした。その時に、窪みにチェーンを引っ掛けてちゃんとしまっているかを確かめるためにドアを何度か開け閉めしていたところ、その音がうるさかったらしく、どこからか苦情の声が聞こえてきた。最終的には厳重に鍵がかかり、安心して部屋の奥へと入っていった。


最後に見ていた夢の場面は、小川が流れている道路の上でサッカーのドリブル練習をしていた場面である。フェイントを巧みに織り交ぜながら、架空の相手が目の前にいることを想定して、一対一の練習をしていた。その時に、姿は見えないのだが、二、三人ほどの友人もそこにいて、彼らの声を聞きながら練習に励んでいた。フローニンゲン:2026/1/12(月)06:30


18022. 今朝方の夢の振り返り

         

今朝方の夢全体は、自分が「信頼・境界・実践」という三つの次元を同時に生き直している過程を象徴しているように思われる。第一の場面で母が投資詐欺に遭ったという出来事は、単なる金銭的損失ではなく、信頼が裏切られる可能性そのものを示唆しているようである。しかも相手が自分の知人であるという点は、世界が必ずしも善意だけで成り立っていないという現実認識が、血縁という最も近い関係を通して浮上してきたことを象徴しているのではないかと推測される。母が法的手段を避け、事を荒立てたくないと考える姿勢は、被害者でありながらも調和や関係性を優先しようとする態度を表しているようであり、それを見つめる自分の内側で起こる自己反省の渦は、「守れたのではないか」「もっと先に忠告できたのではないか」という責任感の変形である可能性がある。その一方で、出来事を教訓として捉え直そうとする姿勢は、痛みを単なる損失ではなく、成熟への素材へと変換しようとする自分の価値観を反映しているようにも思われる。母が最後まで相手の名前を明かさない点は、真実が常に完全な形で開示されるわけではないという、人生の不可解さを象徴しているのかもしれない。第二の外国の街の場面は、自分が未知の環境の中でどのように自己を守るかというテーマを描いているように感じられる。見慣れない街、夜、静けさという要素は、外界が中立的でありながらも潜在的な不確実性を孕んでいる状態を表しているようである。ドアの鍵のかけ方に迷うという行為は、適切な境界設定の仕方を模索している心理の表象であり、チェーンを何重にも確認する動作は、過剰とも言える慎重さと安全への希求を示している可能性がある。苦情の声が聞こえる場面は、自分が身を守ろうとする行為が、他者からは過剰あるいは迷惑として受け取られる不安を象徴しているようにも思われる。それでも最終的に鍵がかかり、奥へと入っていく流れは、自分なりの防衛の形を確立し、内的な安心の領域へ退くことができたことを示唆しているようである。最後のサッカーの場面は、これらの緊張とは対照的に、流れの中での能動性と遊びを象徴しているように見える。小川の流れる道路という場所は、日常と自然、秩序と即興が交差する場であり、そこで一対一の練習をしている姿は、現実の対人関係や課題に対するシミュレーションである可能性がある。見えない友人たちの声は、直接姿を見せなくとも、自分を支え、励ます関係性が周囲に存在していることの暗示であるように思われる。フェイントを交えたドリブルは、力で突破するのではなく、状況を読み、柔軟にかわして前進する生き方の比喩であるとも考えられる。これら三つの場面を総合すると、この夢は、信頼が揺らぐ痛みを引き受けつつ、適切な境界を学び、その上でなお軽やかに人生を運ぶ技術を磨いている自分の姿を映し出しているように思われる。人生における意味としては、世界の不確実性を否定するのではなく、それを前提にしながらも、学びと防衛と遊びを統合して生きる成熟への過程を示唆しているのではないかと推測される。フローニンゲン:2026/1/12(月)08:10


18023. ジュリオ・サグレラスの教則本と即興演奏

          

ジュリオ・サグレラスの教則本1–3を徹底的にやり込むことは、一見すると即興演奏とは距離があるように見えるが、実際には即興のための最も堅牢な基盤を静かに形成する訓練であると言える。即興とは自由に弾くことではなく、瞬間ごとに成立可能な音の選択肢が身体の中にどれだけ蓄えられているかに依存する行為であり、その蓄積を最も効率よく行うのが、“Julio S. Sagreras Guitar Lessons”の1–3なのではないかと思う。まず重要なのは、サグレラス1–3が育てるのは「フレーズ」ではなく運動と音の対応関係だという点である。単音練習、和音、分散和音、ポジション移動といった素材は、即興に使えるメロディそのものではない。しかし、これらを反復することで、左手の配置と右手のタッチがほぼ自動化され、「この指の形なら、この響きが出る」という因果関係が身体化されていく。この段階に至ると、即興時に意識を指の制御ではなく、音の流れや方向性に向けられるようになる。即興技術を高めるためのやり込み方として、第一に重要なのは、サグレラスの練習を常に“音楽的に”行うことである。すべての練習を一定テンポ・一定強弱で消化するのではなく、クレッシェンドやディミヌエンド、アーティキュレーションの変化を意識的に加える。これは即興における「表情の選択」を先取りする行為であり、音型は同じでも意味が変わることを身体に教える。第二に、限定条件付きの自由化が有効である。例えば、サグレラスの単音練習を特定のポジションに固定し、その範囲内で順序を入れ替えて弾いてみる。あるいは、和音練習の構成音を意識し、低音だけを即興的に変えてみる。これは楽譜を離れつつも、完全な自由には出ない練習であり、即興に必要な「制約の中での創造」を自然に養うだろう。第三に、調性感の内面化が重要である。サグレラス1–3をやり込むと、自然にハ長調やイ短調など基本的な調に長時間滞在することになる。このとき、音階練習として処理せず、「今どこに帰ろうとしているか」「どの音が安定しているか」を常に感じ取りながら弾くことで、即興時の“帰着点の感覚”が育つ。即興が散漫になる最大の原因は、指は動いているが、調の重力を感じていないことである。第四に、即興を練習の延長として挿入することが効果的である。サグレラスの練習を終えた直後に、同じポジション・同じ音域・同じ調で、1~2分だけ自由に音を出す。これは新しい技術を使う即興ではなく、今やったことをほどく時間であり、練習と即興の間に橋を架ける役割を果たす。総じて言えば、サグレラス1–3をやり込むことで即興が高まるかどうかは、楽譜を守るか破るかではなく、楽譜をどれだけ身体の内部に沈殿させられるかにかかっている。即興とは無から生まれるものではなく、沈黙のうちに反復された基礎が、ある瞬間に言葉を持ち始める現象である。サグレラスを深くやり込むほど、即興は「特別な技術」ではなく、「自然な発話」に近づいていくだろう。フローニンゲン:2026/1/12(月)08:29


18024. 真如と意識の関係 

           

真如と意識の関係は、唯識思想においてきわめて繊細な位置づけを与えられている問題である。直観的には、あらゆる存在が真如に貫かれている以上、意識もまた真如の一部であると考えたくなる。しかし唯識の立場からすると、「意識=真如」と単純に同一視することはできず、むしろ両者の関係は「不一不異」という逆説的な構造として理解されるべきである。まず真如とは、認識の対象として把握される一つの「もの」ではなく、あらゆる法の究極的あり方、すなわち分別を離れた実相を指す概念である。真如は生滅せず、増減せず、主観と客観、能取と所取のいずれにも還元されない。一方、意識とは、因縁によって生起し、対象を分別し、時間的連続性の中で変化し続ける働きである。この点だけを見れば、真如と意識は明確に異なる次元に属しているように見える。しかし唯識では、阿頼耶識を含む八識のすべてが「依他起性」に属し、しかもその依他起性は、究極的には円成実性、すなわち真如を離れては成立しないとされる。阿頼耶識は業の種子を蔵し、現象世界を展開させる基盤であるが、それ自体が固定的実体として存在するわけではない。阿頼耶識もまた縁起的存在であり、空であり、その空性の側面から見たときに、真如に貫かれていると言えるのである。この意味で、意識は真如から切り離された別個の実体ではなく、真如を基盤として仮に現れている働きであると理解される。ただし、ここで注意すべきなのは、「真如に貫かれている」ことと「真如そのものである」ことは同義ではないという点である。意識は常に分別を伴い、主客構造を含み、迷悟の差別を生じさせる。たとえ阿頼耶識が最も深層の意識であったとしても、それが識である限り、なお無明と習気の影響を受ける可能性を含んでいる。したがって、意識をそのまま真如と同一視すると、真如までが生滅変化し、染汚されるかのような誤解を招くことになる。唯識が採る微妙な立場は、意識は真如を「離れて存在するわけではない」が、「真如そのものでもない」というものである。修行と智慧の完成において、識は転じて智となり、分別的構造が止滅する。そのとき現前するのが真如であるが、それは「意識が真如に変わった」というよりも、「意識としてのはたらきが静まり、真如が遮られずに顕現した」と表現する方が適切であろう。したがって、意識を真如の一部と呼ぶことは、比喩的・説明的な文脈では一定の妥当性を持つかもしれないが、厳密には不十分である。より正確には、意識は真如を基盤として仮に展開する縁起的過程であり、真如はその過程を常に底から支えつつも、いかなる過程にも還元されない究極相であると言うべきである。この緊張関係こそが、唯識における真如と意識の関係の核心である。フローニンゲン:2026/1/12(月)09:27


18025. 夕食後のスケール練習

           

夕食後のスケール練習を、まずはクラシックギターに頻出するキーに限定するという判断は、技術的にも認知的にもきわめて理にかなっていると言えるだろう。とりわけ夕食後という時間帯は、集中力が一日のピークを過ぎ、身体も副交感神経優位に移行しつつあるため、「拡張」よりも「定着」に適した時間である。その時間帯に扱う素材は、広く浅くではなく、狭く深くである方が学習効率が高いはずだ。クラシックギターのレパートリーを俯瞰すると、頻出する調はある程度はっきりしている。ハ長調、ト長調、ニ長調、イ短調、ホ短調、ホ長調、時にヘ長調やラ長調といったキーは、バッハ、古典派、ロマン派、近代作品に至るまで反復的に登場する。これらの調は、開放弦との親和性が高く、運指が合理的で、和声感覚も掴みやすい。そのため、これらに限定してスケール練習を行うことは、単なる運指練習ではなく、実際の楽曲と直結した身体的語彙を増やす行為になるだろう。また、スケール練習の本質は、すべてのキーを均等に網羅することではなく、「あるキーに長時間滞在し、その内部構造を身体で理解すること」にある。頻出調を繰り返し練習することで、主音への帰着感、導音の緊張、属音の安定といった調性感の力学が自然に内面化される。これは、譜読みや即興、さらには暗譜においても大きな支えとなる。夕食後の穏やかな時間帯にこうした感覚を育てることは、脳にとっても過度な負荷にならず、長期記憶として定着しやすいだろう。さらに重要なのは、頻出キーに絞ることで、スケール練習が作業化しにくくなる点である。すべてのキーを順番に回そうとすると、「今日は何調か」という管理が前面に出てしまい、音そのものへの注意が薄れる。一方、限定されたキーを日替わりや週替わりで扱えば、「今日はト長調の音色」「今日はイ短調の重力」といった具合に、毎回の練習に明確な焦点が生まれる。これは夕食後の時間帯に特に重要であり、漫然と指を動かすことを防いでくれる。加えて、夕食後のスケール練習は、翌日の演奏や練習への橋渡しとして機能するだろう。頻出キーを扱っていれば、翌日に取り組むエチュードや楽曲の中に、前夜に弾いた音階の感覚がそのまま流れ込む。この「前日の残響」がある状態で練習に入れることは、技術の分断を防ぎ、学習を連続的なものにするはずだ。総じて言えば、夕食後のスケール練習をクラシックギターに頻出するキーに限定することは、時間帯の特性、楽器の構造、レパートリーの現実を同時に踏まえた、非常に洗練された選択なのではないかと思う。それは効率を追い求めた近道ではなく、音楽的文脈の中で身体を育てる遠回りのように見える正道である。この積み重ねは、数週間では目に見えなくとも、数年後には「どの曲を弾いても違和感なく音に入れる」という、静かながら決定的な差として現れてくるであろう。それを期待しながら今夜もまたスケール練習に励みたい。フローニンゲン:2026/1/12(月)09:54


18026. レストストロークを優先して鍛えること 

                                   

結論から述べると、クラシックギターのスケール練習では、まずはレストストローク(アポヤンド)を中心に行う方が合理的だろう。そのうえで、一定の段階に達した後にフリーストローク(ティラランド)へと展開していくのが、長期的に見て最も安定した技術形成につながる。その理由の第一は、レストストロークが「音の芯」を最も明確に体得させる奏法である点にある。スケール練習の本質は、単に指を速く動かすことではなく、一音一音を同質の密度と方向性で並べることである。レストストロークでは、弦を弾いた指が隣の弦に止まるため、指の動きに必然的な終点が生まれる。この終点意識が、右手の軌道を安定させ、結果として音の粒立ちと音量の均一性を育てる。特に学習初期や基礎固めの段階では、音が弱くなったり、指が空中で迷ったりする問題を、レストストロークは自然に矯正してくれる。第二に、レストストロークは身体感覚を通して「正しい力の使い方」を教えてくれる。フリーストロークは一見軽やかで自由に感じられるが、実際には非常に繊細なコントロールを要求する奏法であり、基礎が不十分な状態で用いると、指先だけで弦をこするような不安定なタッチになりやすい。一方レストストロークでは、指の付け根から自然な重みを伝える感覚が得やすく、過剰な力みや不足を自覚しやすい。スケール練習においてこの「適正な重さ」を身体に覚えさせることは、その後のあらゆる奏法の土台となる。第三に、音楽的観点から見ても、レストストロークは旋律性の訓練に適している。クラシックギターにおいてスケールが実際に使われる場面の多くは、主旋律や内声の明確化である。レストストロークは音が前に出やすく、フレーズの方向性や歌わせ方を意識しやすい。そのため、スケール練習を単なる運動としてではなく、「歌う練習」として行うことができる。これは後にフレーズ練習やバッハ作品の演奏に直結する重要な資質である。ではフリーストロークは不要なのかと言えば、決してそうではない。フリーストロークは、レストストロークで培った安定性を前提として初めて真価を発揮する奏法である。音量のコントロール、複声部の分離、アルペジオへの接続など、実際の楽曲ではフリーストロークが不可欠な場面は多い。しかし、基礎段階でいきなりフリーストロークのみでスケールを練習すると、「軽いが浅い音」「速いが不揃いな音列」に慣れてしまう危険がある。したがって理想的な順序としては、スケール練習の初期~中期はレストストロークを主軸にし、音の均質性・重心・方向性を確立する。その後、同じスケールをフリーストロークで弾き、レストストロークで得た感覚をどこまで保てるかを確認する。この移行が自然に行えるようになった時、フリーストロークは単なる「軽い奏法」ではなく、意図をもって選択できる表現手段となるだろう。総じて言えば、スケール練習におけるレストストロークは「骨格を作る工程」であり、フリーストロークは「その骨格に可動性を与える工程」である。まず骨を作らずに動きを求めれば、形は崩れる。ゆえに、最初はレストストロークで深く、次にフリーストロークで広く――この順序こそが、クラシックギターにおける堅牢で自由なスケール技術への最短ではないが、最も確実な道なのだと思う。フローニンゲン:2026/1/12(月)10:21


Today’s Letter

Waking reality is no different from dream reality: both possess the same vividness and apparent reality, while simultaneously being illusory. Groningen, 1/12/2026

 
 
 

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