【フローニンゲンからの便り】18014-18019:2026年1月11日(日)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
18014 | 圏論と唯識の共鳴 |
18015 | 今朝方の夢 |
18016 | 今朝方の夢の振り返り |
18017 | 圏論と華厳の共鳴 |
18018 | ジュリオ・サグレラスの教則本をやり込むこと |
18019 | スケール練習の継続の先に |
18015. 今朝方の夢
今の気温はマイナス7度と途轍もなく寒い。今日の最高気温もマイナス2度までしか上がらないが、一応寒さの峠は今日を持って通り越せるようだ。
今朝方の夢の中で、見知らぬ数回建てのビルにいた場面があった。二階あたりを歩いていると、複数の部屋があり、部屋のドアには窓がついていて、そこから中を覗くと、そこには複数の女性だけがそれぞれの部屋にいた。どうやらコンセプトを変えて、女性たちが色々なコスチュームを着ており、部屋の中で待機しているようだった。窓から中を覗いた後、そのフロアを後にしようとすると、一つのドアが開き、中からナース服の小柄な女性が出てきた。そして私に声を掛けてきた。部屋に入ることを促すわけでもなく、挨拶を交わし、自分はその場を後にすることにした。
次に覚えているのは、中学校時代のバスケ部のメンバーと共に県大会に出場している場面である。当初は初戦敗退かと思っていたが、その予想が良い方向に裏切られ、チームは三回戦まで勝ち進んだ。一回戦と二回戦で勝利したこともあり、チームは思いがけないほどに勢いに乗っていた。三回戦の相手は強豪であったが、ひょっとしたら勝てるかもしれないという期待が高まっていたのである。ふと二回戦の最後の数秒間の場面が思い出された。私たちのチームは残り数秒まで二点差で負けていた。誰もが勝利を諦めかけていた時に、試合終了直後にスリーポイントシュートを自分が放った際に相手からファウルを受けた。そこで得られた三本のフリースローを一本もミスすることなく全て決めたらこちらの勝利だった。多大なプレッシャーがかかる中、自分はプレッシャーを一切感じることなく、ゾーンの状態に入っており、三本のフリースローを全て決めた。最後のシュートが決まった後に初めて自分が全てのシュートに成功したことを実感した。その瞬間、チームメイトたちが大喜びで自分の元に駆け寄ってくる姿が見えた。フローニンゲン:2026/1/11(日)07:01
18016. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、複数の層を持つ自己の内的構造が、異なる様相で立ち現れていることを象徴している可能性がある。最初の場面に現れる見知らぬ数階建てのビルは、自分の中にすでに存在しているが、まだ十分に探索されていない心的空間全体を表しているように思われる。二階という位置は、基礎的な衝動や生活欲求からは一段上にあり、しかし純粋な理想や超越の領域には至っていない、中間的な意識の層を示唆しているのかもしれない。そのフロアに並ぶ複数の部屋と、窓越しに見えるコスチュームをまとった女性たちは、関係性、欲望、役割、あるいは可能性としての自己像が、多様な形で「待機」している状態を象徴しているように感じられる。直接部屋に入らず、あくまで窓越しに眺めている点からすると、自分はそれらを衝動的に選び取る段階にはなく、距離を保った観察者として関わっている状態にあると考えられる。ナース服の小柄な女性が一人だけ外に出てきて挨拶を交わす場面は、ケア、調整、回復といった性質を持つ側面が、自分の側から能動的に接触してきた象徴である可能性がある。しかし部屋に入ることを促されず、そのまま立ち去る選択をしていることから、その役割や関係性もまた、今は深入りすべき段階ではないと無意識が判断しているようにも読める。後半のバスケットボールの場面は、前半とは対照的に、過去の具体的な経験と身体感覚が前面に出ている。中学時代の仲間と共に戦う姿は、原初的な協働性や信頼、努力の記憶が、現在の自己の中でも生きていることを示しているのかもしれない。初戦敗退と思われた状況から勝ち進む展開は、自分自身が過小評価している力や可能性が、実際には持続的に機能しうることを象徴しているように思われる。とりわけ、極度のプレッシャーがかかる場面で、緊張や恐怖を感じることなくゾーンに入り、結果として三本すべてのフリースローを成功させた体験は、意図的努力を超えた集中状態、すなわち自己が最も自然に力を発揮できるモードを示唆していると考えられる。シュートがすべて決まった後に初めて成功を実感するという遅れは、行為の最中には自己評価や結果への執着が消え、純粋な遂行だけが残っていたことを示している可能性がある。そこにチームメイトが駆け寄る場面は、個の達成が同時に関係性の中で祝福される経験、すなわち自己実現と他者との共鳴が一致する瞬間を象徴しているように映る。この夢全体を人生の文脈で捉えるならば、自分は現在、多様な可能性や関係性を前にしながらも、衝動的に選択するのではなく、静かに距離を取りつつ見極めている段階にあり、その一方で、本当に必要な局面では、考えや不安を超えて力を発揮できる深層の自己をすでに備えていることを、この夢は示唆しているのかもしれない。フローニンゲン:2026/1/11(日)08:09
18017. 圏論と華厳の共鳴
華厳思想と数学の圏論のあいだにも、唯識の場合と同様、直接的な影響関係を超えた深い構造的共鳴を見出すことができる。両者は時代も目的も異なるが、「世界を要素の集合としてではなく、関係の全体構造として捉える」という点において、極めて近い直観を共有しているように思われる。華厳思想の核心は、言うまでもなく華厳経に象徴される「法界縁起」の世界観である。そこでは、一つひとつの事物(事法)は孤立して存在するのではなく、他のすべての事物と相互に包摂し、映し合い、妨げ合うことなく共存していると理解される。「一即一切・一切即一」「事事無礙」という表現が示すのは、部分と全体、個と宇宙が固定的な階層関係にあるのではなく、相互に内在し合う関係網として世界が成り立っているという徹底した関係主義である。この華厳的世界観を理解する際に鍵となるのは、「もの」よりも「関係」が一次的であるという転倒である。事物は独立した実体としてまず存在し、それから関係を結ぶのではない。むしろ、無数の関係が同時に成立している場そのものが法界であり、事物とはその関係網の特定の結節として仮に名づけられたものにすぎない。この発想は、存在論的実体を極限まで解体した結果として現れるものである。ここで圏論に目を向けると、驚くほど似た構造が見えてくる。圏論では、対象そのものの内的性質よりも、対象間を結ぶ射と、その合成が重視される。対象は射の束として定義され、他との関係抜きには意味を持たない。さらに、ある対象がどのような対象であるかは、「それが他の対象とどのような射を持ち、どのように合成されるか」によって特徴づけられる。ここでは、対象は固定された点ではなく、関係の網の中でのみ輪郭を持つ存在である。華厳の「一法は一切法を含み、一切法は一法に即する」という見方は、圏論的に言えば、ある対象がその周囲の射の全体構造を通してのみ理解される、という考え方と対応しているように思われる。単一の事物を取り出しても、それはすでに全体構造を内包しており、全体はまた個々の関係の重なりとして具体化している。ここには、部分と全体を分離できないという徹底した非二元性がある。さらに、華厳思想が説く「無礙」とは、差異の消去ではない点も重要である。事物はそれぞれ異なる位置と役割を持ちながら、相互に妨げ合わない。これは、圏論において異なる対象や射が、それぞれ固有の役割を保ったまま、全体として一貫した構造を形成している姿と重ねて理解することができる。統一とは画一化ではなく、差異を保持したまま成立する整合性なのである。また、華厳が描く世界は静的な配置ではなく、無限に展開し続ける動的な網である。インドラ網の比喩に示されるように、どの一点を取っても、そこには他のすべてが映り込み、その映り込みもまた無限に反射していく。この動的・再帰的な構造は、圏論が扱う自己参照的構造や、関係の合成によって新たな関係が生まれ続ける点と、強い類似性を持っている。もちろん、圏論は厳密な形式体系であり、悟りや解脱を目的としない。一方、華厳思想は修行と世界観の転換を通じて、生の在り方そのものを変容させることを志向する。しかし、「実体ではなく関係を基礎に据える」「全体と部分を分断しない」「差異を保ったまま統一を考える」という認識の転換において、両者は同じ方向を向いている。このように見ると、華厳と圏論の関連性とは、単なる比喩的類似ではなく、世界をどう理解するかという深層の構造的直観の共有であると言える。古代インド・中国で練り上げられた華厳の法界観と、現代数学が到達した関係中心の思考は、異なる言語を用いながら、同じ地平を照らしているのである。フローニンゲン:2026/1/11(日)08:37
18018. ジュリオ・サグレラスの教則本をやり込むこと
昨年のイギリス旅行の際にロンドンで購入したジュリオ・サグレラスの教則本が本当に素晴らしく、連日それをやり込んでいる。この教則本に特化し、それを徹底的にやり込んだ場合、到達する状態は派手さよりも基礎の密度において際立ったものになると予測される。サグレラスの教材は、即効性のある技巧習得よりも、ギターという楽器と身体・聴覚の関係を静かに整えていく構造を持っているため、その効果は時間とともに指数関数的に現れる可能性がある。1年後の状態としてまず挙げられるのは、左手のフォームと右手の基本奏法がほぼ無意識化していることである。Book 1からBook 3を集中的に反復していれば、開放弦からポジション移動までの感覚が均質化し、音の粒立ちが安定してくる。難曲は弾けなくとも、単音・和音・分散和音のいずれにおいても音が出る理由を身体で理解している段階に入るだろう。この時点では、演奏は質素だが、崩れにくく、再現性が高い。3年後になると、サグレラスの真価がより明確に現れるだろう。反復によって培われた基礎が、初見演奏や譜読み速度の向上として結実し、バッハや古典期作品に自然に接続できる状態になる可能性が高い。特に、レガート、ポジション移動時の音量バランス、低音と旋律の分離といった点で、意識的な調整がほとんど不要になる。この段階では、テクニックそのものよりも「どの音をどう鳴らすか」という音楽的判断に注意を向けられるようになり、練習が作業から対話へと質的転換を遂げることが期待される。5年後には、サグレラス的基礎が一種の「母語」になっている状態が想定される。新しいエチュードや楽曲に取り組んでも、基礎練習に立ち返る必要がほとんどなく、どの技術的課題も既存の感覚の延長として処理できる。演奏は過剰に技巧的ではないが、音の密度、間の取り方、フレーズの自然さにおいて一貫した品格を備えるようになるだろう。この段階に至ると、サグレラスの教則本そのものを弾いていなくても、その「身体化された思想」がすべての演奏を下支えしている状態になる。重要なのは、サグレラスをやり込んだ結果として得られるのが「曲のレパートリー」ではなく、「崩れない演奏構造」であるという点である。これは短期的な成果としては見えにくいが、5年という時間軸で見れば、他の方法で積み上げた演奏者との差は決定的になる可能性が高い。サグレラスに特化するという選択は、近道ではないが、長期的には最も遠くまで連れて行ってくれる道であると予測される。そう思って毎日この教則本を弾き込んでいきたいと思う。フローニンゲン:2026/1/11(日)08:49
18019. スケール練習の継続の先に
夕食後にスケール練習を行い、クラシックギターで頻出するいくつかのキーのスケールを身体が覚えるまでやり込んでいくことには、技術面だけでなく、認知や音楽理解の次元にまで及ぶ複合的な効能があると考えられる。第一に挙げられるのは、左手の運指と右手のタッチが「判断」を介さずに連動する状態が形成される点である。スケールを十分にやり込むと、指板上の位置関係が視覚的・概念的な情報ではなく、距離感や重心移動といった身体感覚として内在化される。その結果、楽譜を読んだ瞬間に「どの指でどこを押さえるか」を考える必要が減り、音楽的判断に使える注意資源が増える。この省エネルギー化は、難曲に取り組む際やテンポが上がった場面で、演奏の安定性を大きく左右するだろう。第二に、頻出キーに限定してスケールを徹底的に行うことは、音階と和声の関係を直感的に理解する基盤を作る。クラシックギターでは、開放弦の関係から特定のキーが構造的に現れやすいが、それらのスケールを日常的に身体化していると、和音の響きや転調の流れが「理屈」ではなく「予感」として感じ取れるようになる。これは即興のためだけでなく、バッハや古典派作品を演奏する際のフレージングや和声感の自然さにも直結する。第三に、夕食後という時間帯にスケール練習を置くこと自体にも意味がある。食後は交感神経の高ぶりが落ち着き、過度な緊張が抜けやすい。その状態でスケールを一定のテンポで丁寧に行うと、練習が単なる運動ではなく、半ば瞑想的な行為へと変化する可能性がある。音と指の動きに意識を向け続けることで、日中の思考の残滓が整理され、演奏に必要な集中の質が深まる。このような集中は、速さや派手さとは無縁であるが、結果として音の粒立ちや音色の均質性を高める。第四に、スケールを覚え切るまで続ける経験は、技術習得に対する信頼感を育てるだろう。スケールは単調であるがゆえに、継続によってのみ効果が現れる。その単調さを越えて「ある日ふと楽になる」瞬間を何度も経験すると、曲練習においても短期的な成果に一喜一憂せず、プロセスそのものに身を委ねる姿勢が養われるはずだ。これは演奏技術だけでなく、学習全般に対する態度にも影響を及ぼす。総じて、頻出キーのスケールを夕食後に徹底してやり込むことは、指の独立性や運動精度を高めるだけでなく、音楽的予測力、集中の質、そして長期的成長への信頼を同時に育てる営みであると言えるだろう。スケールが単なる準備運動から、音楽的思考の基礎構造へと変わるとき、演奏全体の密度と自由度は静かに、しかし確実に変化していくことが期待される。フローニンゲン:2026/1/11(日)12:15
Today’s Letter
Music soothes my whole being. It is a fundamental source of nourishment for me. I could not imagine my life without it. Groningen, 1/11/2026


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