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【フローニンゲンからの便り】17978-17983:2026年1月4日(日)



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タイトル一覧

17978

静かな自己調律

17979

今朝方の夢

17980

今朝方の夢の振り返り

17981

定を深めること

17982

指番号の有無

17983

無数の良縁と自らの良縁性に思いを巡らせて

17978. 静かな自己調律     

         

数日前にブランダン・エイカー氏から受け取ったメールの中で、「パフォーマンス・モード」と「プラクティス・モード」の違いについて言及があった。それは、単なる練習法の違いではなく、学びそのものに対する姿勢の転換を示している。多くのギタリストは、曲を練習しようとすると無意識のうちに冒頭から最後まで通して弾こうとする。しかしそれは、実は「上達する練習」ではなく、「できていない自分を確認する作業」になりやすい。そこには焦りや緊張が生まれ、身体は防御的になり、ミスを再生産する回路が強化されてしまう。彼が提案するのは、練習を極限まで細分化することである。1小節だけを取り出し、それを一つの世界として扱う。他の小節の存在はいったん忘れ、リズム、運指、音の並びを丁寧に理解する。テンポは極端に遅くてもよい。一音一秒であっても構わない。重要なのは速さではなく、「身体が納得しているかどうか」である。ここで形成されるのは、思考ではなく運動の記憶であり、信頼できる感覚である。彼が強調するように、音楽の半分はリズムであり、もう半分は音程である。そしてそれらを支える構造が運指である。ゆっくり正確に反復することで、身体は「正しい動き」を学習し、緊張のない状態で再現できるようになる。これは単なる反復ではなく、神経系に対する精密なプログラミングである。そして重要なのは、「簡単に感じられるまで先へ進まない」という姿勢である。難しいまま繰り返すことは、上達ではなく誤りの固定化である。正確で、かつ容易であると感じられたとき、初めて次へ進む資格が生まれる。その積み重ねは、レンガを一つずつ積むように、確かな構造を形作っていく。ここで区別されるのが、パフォーマンス・モードとプラクティス・モードである。前者は試す場であり、後者は育てる場である。多くの人は演奏しながら練習しようとするが、それでは土台が育たない。真の練習とは、ゆっくり、小さく、注意深く行うものであり、その時間こそが後の自由さと安定を生む。この考え方は音楽に限らない。学問、仕事、人生のあらゆる営みに通じている。焦って成果を出そうとすると、かえって遠回りになる。だが、基本を丁寧に耕し続ければ、ある日それが自然に統合され、大きな流れとなって現れる。エイカー氏の言葉が示しているのは、「うまくやろうとすること」よりも、「正しく育てること」への信頼である。そこには、急がず、比べず、しかし確実に前へ進むという、成熟した学びの姿がある。音楽とは、音を操る技術ではなく、時間をかけて自分自身を調律していく営みなのだと、静かに教えてくれているのである。フローニンゲン:2026/1/4(日)06:32


17979. 今朝方の夢 


今朝方は夢の中で、見慣れない土地にいた。そこは確かに見慣れない場所だったのだが、自分はその辺りの地理に明るかった。大学時代のクラスメートの友人が自転車を押しながらふと現れ、彼もまた今から自分が行こうとしている集会所に向かっているようだった。それは海岸沿いの岬の上にあった。彼をそこまで案内しよう思い、まずはその岬を示すべく、道を進んで海に出た。彼に岬の方を指差しながら、自分は宙に浮いて、その場所を鮮明に見ようと思った。彼は私が宙に浮かんだことを驚いていたので、その能力は別に不思議なものではないと笑いながら説明した。すると彼は自分が宙に浮かんだことに対して、突然海の中に飛び込んで泳ぎ始めた。どうやら宙に浮かんで進んだ場所まで彼も自力で行ってみたかったようだった。ところが急に彼は海底に引き摺り込まれて消えた。彼の名前を大声で呼んでも返事がなく、心配になり、彼を救助しようと思った。すると岬の方の建物の中できらりと光るものを見た。おそらく彼は海底からそこに拉致されたのだと思った。その建物まで飛んでいき、上空から彼の居場所を探った。左手を建物にかざし、彼の生命エネルギーを感じようとしたが、何も反応はなかった。幾分不気味な雰囲気が漂っており、これは集会所の友人たちを集めて救出に向かった方が賢明だと考えた。なので集会所の方に向かって飛び始めると、途中に立派な学校の図書館があり、それは窓ガラスが開放的で、窓ガラスがなく外に向かって開かれている場所もあった。そこから貴重な蔵書がたくさん見えた時、その図書館に足を運びたいと思ったが、まずは友人の救出が先だと先を急いだ。大掛かりな機械がたくさん動いている工事現場を通過しようとした時に、飛行する体力が落ちてきていることに気づいた。どんどん高度が下がり、このままではまずいと思った時に夢の場面が変わった。

次に覚えているのは、60歳代のある日本人の著名な学者の先生と3人の若手の学者と私とで、現代の日本社会の病理に関してそれぞれの専門分野から意見交換することを見慣れない部屋の片隅で行っていた。壁にはそれぞれが最近出版した書籍の表紙のカバーが貼られていて、それらを眺めながら意見交換をしていた。先生が最後に私に意見を求めた時に、壁に貼られている書籍の後に出した成長疲労社会の書籍について言及しながら、現代社会における成長に関する病に関する考察を紹介し始めると、先生は黙って納得の表情を浮かべながら話に耳を傾けていた。フローニンゲン:2026/1/4(日)06:46


17980. 今朝方の夢の振り返り 

     

今朝方の夢は、自分がすでに未知の領域に踏み込みながらも、内的にはその地理を把握している状態を象徴しているように思われる。見慣れない土地でありながら道に明るいという逆説は、外形的には未踏であっても、長年の思索や実践によって内側ではすでに準備が整っている段階を示している可能性がある。大学時代の友人は、過去の学習経験や同時代的な知的共同体の象徴であり、その友人を岬へと導こうとする自分の姿は、すでに獲得しつつある視座を他者と共有しようとする欲求を表しているように思われる。宙に浮かぶ能力は、理論的抽象化やメタ的視点の獲得を象徴している可能性が高い。それを当然のものとして説明する態度は、その能力がもはや特別なものではなく、自分の中で日常化していることを示唆している。一方で、友人が同じ場所へ行こうとして海に飛び込み、海底に引きずり込まれる場面は、同じ目的地を目指していても、用いる方法や認識の次元が異なれば危険が生じるという暗示であるように思われる。海は集合的無意識や未分化な情動の領域を象徴し、そこに直接飛び込むことは、媒介を欠いた没入の危うさを示している可能性がある。岬の建物に拉致されたという直感や、生命エネルギーを探知しようとしても反応がない場面は、自分一人の力や認識だけでは救えない問題の存在を示唆しているように感じられる。そのため集会所の仲間を集めようとする判断は、知的・実践的共同性への回帰を意味していると思われる。途中で現れる開放的な図書館は、知の蓄積と探究への強い誘惑を象徴しているが、それを後回しにする選択は、今は学問そのものよりも、社会的・人間的課題への応答が優先される局面にあることを示している可能性がある。工事現場と飛行能力の低下は、大規模な社会システムの只中で理論的飛翔を続けることの消耗を暗示しているようである。後半の場面で、年長の著名な学者と若手研究者たちと対話する光景は、自分がすでに学問的対話の場において発言権を持ち始めていることを象徴しているように思われる。書籍の表紙が壁に貼られているのは、知的成果が可視化され、歴史の一部として位置づけられつつあることの暗示であろう。成長疲労社会について語り、年長の学者が黙って耳を傾ける場面は、自分の問題提起が単なる若手の意見ではなく、時代の核心に触れているという内的確信の表れである可能性がある。この夢全体が示す人生における意味は、自分が理論的飛翔と社会的責任、知的探究と他者救済の間でバランスを取る段階に入っているという示唆であるように思われる。高く飛ぶ力を持ちながらも、それを独り占めせず、共同体の中で使い直すことが、今後の生の課題であることをこの夢は語っているのではないだろうか。フローニンゲン:2026/1/4(日)08:02


17981. 定を深めること


唯識においては、智慧を得るためにまず定、すなわち集中力を高めることが大切にされる。ギターの練習や仏教の学習においても集中力は大事である。それが想像を超えた力を生み出し、知識と技術の高度な習得につながる。今の自分は45分ギターを演奏して15分ほど仏教書を読むというサイクルを繰り返している。何かこれ以外に集中力を高める工夫がないかを考えていた。唯識において智慧(般若)へ至る道は、まず「定(サマーディ)」、すなわち心の散乱を鎮め、一点に集中する力を養うことから始まるとされる。これは単なる注意力の強化ではなく、心の動きを澄ませ、対象と深く結びつくための内的条件を整える営みである。自分が実践している「45分のギター演奏+15分の読書」というリズムは、まさにこの定を生活の中で育てる高度に洗練された方法であり、すでに相当高い水準にあると言えるかもしれない。しかし、さらに集中力を深め、質的転換をもたらすための工夫はいくつか考えられる。第一に重要なのは、「集中の前段階」を明確に意識することである。集中は意志によって直接生み出されるものではなく、環境と心身の準備が整ったときに自然に立ち現れる。例えばギターを手に取る前に、30秒ほど呼吸に注意を向け、身体感覚を静かに観察するだけでも、心の散乱は大きく収束する。唯識的に言えば、これは第六意識の粗い働きを鎮め、末那識の自己執着を一時的に緩める作用を持つ。その結果、対象に対する「純粋な知覚」が立ち上がりやすくなる。第二に、「集中の質」を一段階深める方法として、意図的に遅さを取り入れることが挙げられる。ギター練習においては、すでにゆっくり弾くことを重視しているが、そこに「音が生まれる直前の沈黙」に意識を向けると、集中は質的に変化する。音を出す行為そのものよりも、音が生まれる直前に心を留めることで、注意はより精緻になり、無意識の雑音が沈静化する。これは禅で言う「未発の一念」に近く、定が慧へと転じる入口でもある。第三に、ギターと仏教書の間に「橋」を架ける工夫も有効である。例えば、演奏後すぐに読書へ移るのではなく、「いま身体はどのような状態か」「集中はどこに宿っているか」を数十秒言語化せずに感じ取る。その上で経典を読むと、言葉が単なる概念ではなく、体験の延長として理解され始める。唯識でいう「聞・思・修」の連続性が、ここで実感を伴って立ち上がるだろう。第四に、集中力を高めようとしすぎないことも重要である。集中は目的ではなく、結果である。意志の力で集中を引き出そうとすると、かえって緊張が生まれ、心は狭くなる。むしろ「今の状態を正確に知る」ことに専念する方が、結果として集中は深まる。この態度は、阿頼耶識の深層に働きかけ、無理のない変容を促す。さらに、集中の質を支えるもう一つの要素として、「余白」を意識することが挙げられる。すべてを意味や成果で満たそうとせず、あえて何もしない時間を短く挟むことで、心は自ら秩序を回復する。この余白があることで、集中は持続可能なものとなる。総じて言えば、集中力とは鍛え上げる対象というより、整える環境から自然に立ち現れる性質である。ギターと仏教という二つの実践は、すでに深いレベルで響き合っている。そこに呼吸、沈黙、身体感覚、余白といった要素を静かに加えることで、集中は努力を超えた次元へと移行するはずだ。そこでは、学ぶ主体と学ばれる対象の境界が薄れ、知と行が一つの流れとして結晶化していく。その状態こそ、唯識が指し示す「定より慧へ」という道程の、現代的な実践形態であると言えるであろう。フローニンゲン:2026/1/4(日)08:12


17982. 指番号の有無 

       

今手持ちの楽譜の中に、指番号が記されているものとそうではないものがある。結論から言えば、しばらくは指番号が記されている楽譜を中心に練習する判断は、きわめて賢明なのではないかと思う。それは甘えでも近道志向でもなく、技能習得の段階構造に即した合理的な選択だと言える。指番号が付いている楽譜が練習しやすい最大の理由は、認知的負荷が大幅に下がる点にある。演奏中、脳は同時に多くの処理を行っている。音程の把握、リズムの維持、左右の手の協応、音色や強弱への注意などである。そこにさらに「どの指で押さえるか」という判断まで即興的に加えると、処理が分散し、結果として全体の質が下がりやすい。指番号は、この判断をあらかじめ外部化し、演奏者を意思決定の負担から解放してくれる。これは補助輪のようなものであり、未熟さの証ではなく、学習を加速させるための設計である。また、指番号は単なる運指の指示ではなく、その楽曲における合理性の集積でもある。多くの場合、指番号は演奏の流れ、ポジション移動の滑らかさ、音の持続、フレーズの自然さなどを総合的に考慮して決められている。特に初級から中級にかけては、これらの判断基準がまだ身体化されていないため、指番号を通して「こうすると弾きやすい」「こうすると音楽が流れる」という感覚を体で学ぶことができる。つまり、指番号は答えであると同時に、思考様式の教材でもある。一方で、指番号がない楽譜を避け続けるべきかというと、そうではない。重要なのは時期である。基礎的な運指感覚、ポジション移動の距離感、指の独立性が十分に育っていない段階で、白紙の楽譜に向かうと、演奏は試行錯誤の連続になり、音楽以前に指探しの練習になってしまう。この段階で無理に自立を目指すと、効率が落ちるだけでなく、不要な力みや癖が定着する危険もある。したがって、今は指番号つきで深く練習する時期と捉えるのが適切だろう。ただし、同じ指番号つき楽譜でも、使い方には一段深い段階がある。ただ従うだけで終わらせず、「なぜこの指なのか」を問い続けることである。実際に別の指で試してみて、音のつながり、移動のしやすさ、響きの違いを比較する。そうすると、指番号は命令ではなく、対話の相手になる。このプロセスを経ることで、いずれ指番号がなくても、自分で合理的な運指を設計できるようになるはずだ。理想的なのは、練習の大半を指番号つき楽譜で行いながら、補助的に指番号なしの短い曲や一節に触れることである。そこで完璧さを求める必要はない。目的は演奏の完成ではなく、「自分で考える感覚」を少しずつ育てることにある。こうした併用は、依存と自立の間に健全な橋をかける。総じて言えば、指番号がついている楽譜で練習することは、音楽的自立を先延ばしにする行為ではなく、むしろ確実に近づける行為である。基礎期においては、判断を減らし、音と身体の関係を深く味わうことが最優先である。その土台が十分に固まったとき、指番号のない楽譜は「不親切な壁」ではなく、「自由の入口」として立ち現れてくるだろう。フローニンゲン:2026/1/4(日)09:55


17983. 無数の良縁と自らの良縁性に思いを巡らせて   

     

世親、玄奘、貞慶、良遍等々、これらの偉大な学僧、そして名の知らぬ無数の学僧の誰一人が欠けても今の自分の唯識研鑽は成立しなかったことを思うと、深い感謝の念と畏敬の念が自ずから立ち現れてくる。自分という存在もまた無数の縁によって成り立っているだけではなく、自己という存在は誰かの縁になっていることを忘れてはならない。他者にとっての良縁であり続けられるように精進あるのみである。


世親、玄奘、貞慶、良遍といった学僧の名を思い浮かべるとき、そこに立ち現れるのは単なる歴史的人物の列挙ではなく、思索と実践が連綿と受け渡されてきた一つの生きた流れである。世親が体系化した唯識の思考は、玄奘によって翻訳と注釈の精度を獲得し、思想としての骨格を整えられた。その後、日本においては、貞慶や良遍といった学僧たちが、自らの時代的課題と向き合いながら、教義を単なる知識ではなく、思索として、そして信として深めていった。これらの営みが一つでも欠けていたならば、今日の自分が触れている唯識は、同じ形では存在しなかったであろう。しかし、ここで思い至るべきは、名の残る学僧だけがこの流れを支えてきたのではないという点である。写経に携わった無名の僧、講義を聞き続けた弟子、疑問を投げかけた学生、日々の修行の中で教えを咀嚼し続けた実践者たち。そうした無数の名なき存在の積層の上に、現在の唯識理解は成立している。自分が今、文献を読み、思索を重ねることができているのは、天才的な数人の功績だけではなく、沈黙の中で教えを支え続けた多数の縁によるものであると考えられる。この視点に立つと、「自分」という存在の在り方もまた、唯識的に照らし返される。自己とは、独立して自存する実体ではなく、無数の縁が一時的に結節した働きの総体である。過去の学僧たちの思索が縁となり、書物が縁となり、教師や対話の相手が縁となって、現在の自己の思考が形づくられている。したがって、自己を誇る理由も、逆に卑下する理由も、本質的には存在しない。ただ縁に支えられて、今この地点に立っているにすぎないのである。同時に、ここで重要なのは、自己が「縁によって成り立っている存在」であると同時に、「誰かにとっての縁となっている存在」でもあるという自覚である。自分の言葉、態度、研究、沈黙さえも、意図せずして他者の思索や生き方に影響を与える可能性がある。かつての学僧たちが、自らが遠い未来の誰かの縁になることを知っていたとは限らない。それでも彼らは、眼前の問いに誠実に向き合い、理解を深め、伝えるべきことを伝え続けた。その結果として、今の自分がある。ゆえに、「他者にとっての良縁であり続けたい」という願いは、倫理的な理想というより、縁起を理解した者にとっての自然な帰結であるように思われる。良縁であるとは、他者を導く指導者になることだけを意味しない。安易な断定を避けること、思索を曖昧にしないこと、理解できないものを急いで切り捨てないこと。そうした一つ一つの姿勢が、他者にとっての思考の余白となり、静かな支えとなりうる。精進とは、自己完成を目指す競争ではなく、縁の質を高めていく不断の調律である。過去から受け取った縁を濁らせることなく、次へと手渡す。その連鎖の一環として自分が生きていると理解したとき、感謝と畏敬は感情としてではなく、生の姿勢として定着していく。唯識の研鑽とは、まさにその姿勢を理論と実践の両面から深めていく営みであり、自分自身がまた、誰かの静かな支点となることを目指す歩みなのである。フローニンゲン:2026/1/4(日)11:00


Today’s Letter

The water in the ocean of my consciousness is serene and peaceful. It gives me tremendous vitality to create something meaningful for society. This sense of identification with the creative ocean should be nurtured further. Groningen, 1/4/2026

 
 
 

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