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【フローニンゲンからの便り】17973-17977:2026年1月3日(土)


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タイトル一覧

17973

足先を温める習慣

17974

今朝方の夢

17975

今朝方の夢の振り返り

17976

人間讃歌

17977

繰り返しの力と主体の変化

17973. 足先を温める習慣   

                   

年が明けて、寒さがグッと厳しくなってきた。特に来週は氷点下の日が多く、ここからしばらくは寒さと共に歩みを進めていく日々となるだろう。そうした日々を抜けた先に、また生命踊る時期がやって来る。そこでは新たな自己を目撃することになるだろう。足元から冷える日が増えているので、足元を温める工夫を最近よく行なっている。足先を温めることは、単なる冷え対策にとどまらず、身体全体の調和を整える上で非常に本質的な意味を持っている。とりわけ起床直後だけでなく、昼食後や夕食後といった生活の節目にぬるま湯で足を温める行為は、自律神経・血流・消化・精神状態のいずれにも穏やかな作用をもたらすと考えられる。まず、足先は身体の中でも特に血流が滞りやすい部位であり、冷えは全身の循環低下の象徴とも言える。足を温めることで末梢血管が拡張し、血液がスムーズに循環し始めると、体幹部にも温かさが波及する。これは単なる局所的な温感ではなく、全身の緊張がほどけていくプロセスである。特に自律神経の観点から見ると、足を温める行為は副交感神経を穏やかに優位にし、心身を「回復モード」へと導く働きを持つ。起床直後に入浴しながら足を温めることは、睡眠状態から覚醒状態への移行を穏やかに整える効果がある。朝は交感神経が自然に高まる時間帯であるが、冷えた身体のまま急激に活動を始めると、緊張が過剰になりやすい。ぬるま湯で足を温めることで、覚醒を促しつつも過剰な緊張を和らげ、身体が一日のリズムへと自然に移行していく。これは単なる目覚まし以上に、身体と意識の接続を穏やかに回復させる行為である。昼食後に足を温めることにも独自の意味がある。食後は消化のために内臓へ血流が集まりやすく、同時に眠気や集中力の低下を感じやすい時間帯である。このとき足を温めると、末梢と中枢の血流バランスが調整され、消化を助けながらも頭部の重さが軽減される。結果として、午後の活動への再起動が穏やかに行われ、だるさを引きずりにくくなる。これは、身体を無理に覚醒させるのではなく、自然な循環を整えることで活力を引き出す方法である。夕食後の足浴は、さらに深い意味を持つ。日中に蓄積された緊張や感覚刺激を静かに鎮め、睡眠へと移行する準備を整える働きがある。足を温めることで身体の重心感覚が下がり、意識が頭部から下方へと降りてくるような感覚が生まれる。これは思考過多の状態から、身体感覚へと注意が戻る過程でもある。その結果、入眠がスムーズになり、睡眠の質そのものが高まる傾向がある。また、足裏には多くの感覚受容器が集中しており、そこを温めることは身体全体の自己調整機能を呼び覚ます作用を持つ。東洋的に言えば、足元を温めることは「気を下ろす」行為であり、過度に上に昇った意識や緊張を鎮める働きがある。現代的に言い換えれば、過剰な認知活動から身体感覚への再接地を促す行為である。人生全体で見れば、足を温めるという行為は、速さや効率を求める日常の流れに対し、あえて立ち止まり、身体の声を聴くための小さな儀式とも言える。日々の中で自分の足元を温めることは、自分の基盤を確かめ、今ここに戻る行為である。その積み重ねが、心身の安定だけでなく、思考の明晰さや感受性の回復にもつながっていく。足を温めるという素朴な行為は、実は生き方そのものを穏やかに整える知恵なのだと思う。フローニンゲン:2026/1/3(土)05:50


17974. 今朝方の夢 

                         

今朝方は夢の中で、両親と昼食の弁当を何にするかを話し合っていた。父がスーパーでの買い物のついでに昼食を買って来てくれるとのことで、そのスーパーの弁当屋にあるメニューから食べたいものを選ぶことにした。大半のものが肉が入っていたので、それらをさけ、自分は健康に良さそうなひじきご飯弁当を選ぶことにした。しかしそこでふと、近所の弁当屋の方がメニューが豊富で、そこに自分で買いに行った方がいいかもしれないと思った。さらにその時に、大学入試に向けた勉強が10月まで忙しく、ちょっとした時間も勉強に使いたいと思ったが、そんな中でも自分はたいして勉強はしておらず、ギターの練習を含めた趣味に多くの時間を使っていた。入試に向けた勉強は10月までで終わりとなるので、そこまでは勉強に力を入れようと思ったが、入試のための勉強は面白みに欠け、やはりやるなら趣味の延長線上にある自分自身の興味関心に合致した探究だと思った。すると、そう言えば自分はもう日本の大学を卒業していて、入試に向けた勉強をしなくていいとわかって深い安堵感を得た。


次に覚えているのは、アメリカの西海岸の街の駅の中にいた場面である。ちょうど列車から下車したところだったが、目的地はもう少し先であることに気づいた。自分はなぜこの駅で降りたのか不明で、駅名とその雰囲気にまるで誘われるようにして降りてしまったとしか言いようがなかった。購入していた切符もこの駅までのものだった。次の列車がいつ来るのかを調べると、比較的早く来るようだったので安心した。目的地では午後5時から数人の知人と会う約束になっていた。早く出発したおかげで、次の次の列車に乗っても十分に間に合う時間だった。目的地までの切符を買い直そうと思ったが、もう次の列車がやって来たようだったので、慌てて再び階段を上がってプラットホームに向かった。なんとか無事に列車に乗り込むことができ、切符は目的地についてから差額を支払えばいいと思った。


最後にもう一つ覚えているのは、父と一緒に盲目の年配の女性の話を聞いている場面である。話の中で、靴下のエピソードに関心を持ち、初めて靴下に触れた体験について教えてもらった。目の見える私たちからすると、靴下という物を眺め、それに「靴下」という名称を付与する形でそれを認識する。その方は目が見えないということもあって、どのように靴下の存在を認識したのかについて関心があったのである。その方が語るエピソードは大変感動的で、まるで自分も目が見えない中で初めて靴下と出会ったかのような感覚を呼び覚まされ、父と共に思わず感動で涙がこぼれてきた。そうした温かい気持ちの中目覚めた。フローニンゲン:2026/1/3(土)06:02


17975. 今朝方の夢の振り返り

   

今朝方の夢全体は、選択・移行・認識という三つの層が静かに重なり合いながら、自分の現在地と生き方の方向性を映し出しているように思われる。最初の弁当を選ぶ場面は、一見すると日常的で些細な出来事であるが、実際には価値判断の象徴である可能性が高い。父が用意してくれる選択肢の中から、多くの人が選びやすい肉中心の弁当ではなく、健康を意識したひじきご飯弁当を選んだ点は、自分が短期的な満足や即時的な欲求よりも、長期的な調和や持続性を重んじる姿勢を内面化していることを示唆しているように思われる。しかし同時に、近所の弁当屋の方が選択肢が豊富であり、自分で買いに行くという別の可能性を思い浮かべた点は、与えられた枠組みの中で最善を選ぶだけでなく、自ら行動範囲を広げることでより納得のいく選択ができるのではないかという問いを含んでいるように感じられる。そこに重ねられる入試勉強のエピソードは、義務としての努力と、内発的な関心に基づく探究との緊張関係を表していると考えられる。時間が限られているという観念の中で、実際には趣味やギターの練習に心が向いているという自己認識は、社会的に要請される「やるべきこと」と、自分が本当に生き生きと関われる活動とのずれを示しているようである。そして、日本の大学をすでに卒業しており、その入試勉強自体が不要であると気づいた瞬間の深い安堵感は、外部から刷り込まれた課題や過去の不安が、実は現在の自分にはもはや適用されない幻想であった可能性を示しているように思われる。ここには、自分がすでに次の段階に進んでいるにもかかわらず、過去の試練をまだ背負い続けていたことへの気づきが含まれているようである。次の西海岸の駅の場面は、人生の移行期や方向転換を象徴しているように感じられる。目的地とは異なる駅で降りてしまったにもかかわらず、それが駅の雰囲気に誘われた結果であり、完全な誤りではなかったという感覚は、合理的な計画だけでは説明できない直感的な選択の重要性を示唆しているようである。切符がその駅までしかなかったという事実も、当時の自分がそこまでの地点しか明確に想定していなかったこと、すなわち人生設計が段階的であり、先の全てを見通していなくても進めるという在り方を象徴しているように思われる。次の列車が比較的早く来ると知って安心する場面や、時間的余裕があることに気づく描写は、多少の寄り道や迷いがあっても、根本的な約束や目的には十分間に合うという深層的な安心感を表しているようである。切符の差額は後で支払えばよいと考えた点も、成長や選択には後から引き受けるべき責任や調整が伴うが、それは致命的な障害ではないという成熟した感覚を示しているように思われる。最後の盲目の年配の女性のエピソードは、この夢の中で最も深い認識の転換を象徴しているように感じられる。視覚によって対象を把握し、名称を与えることで世界を理解するという通常の認識様式に対して、触覚を通じて初めて靴下という存在に出会う体験は、概念以前の世界との直接的な接触を示しているようである。その語りに強く心を動かされ、まるで自分自身が同じ体験を追体験したかのように感じた点は、理解とは情報の獲得ではなく、他者の経験に共鳴し、自己の認識の枠組みが揺さぶられることによって深まるという事実を示唆しているように思われる。父と共に涙を流したという描写も、知的理解を超えた情動的・存在論的な共有が成立した瞬間を象徴しているようである。この夢が人生において示している意味は、自分がすでに過去の課題や他者から与えられた基準を超え、寄り道や直感を含み込みながら、自らの関心と感受性に根ざした道を歩み始めているという確認であるように思われる。そして最終的には、目的地に到達すること以上に、世界をどのように認識し、どのような深さで他者や事物と出会うかが、自分の生を豊かにしていく核心であることを、この夢は静かに告げているように感じられる。フローニンゲン:2026/1/3(土)07:53


17976. 人間讃歌  

                 

人間讃歌。これまで人間として人生を生きていく中で、色々なことがあったが、それらが今、ドラマの一つ一つのシーンであるかのように懐かしく思い出され、全てを受け止めている自分がいる。達観。これは元々は仏教用語である。人間存在と人生に関する達観が深まりゆく中で、人間として生きていくことの喜びをさらに深め、その喜びを他者にも味わってもらえるようにしたい。そこに自分の使命があるように思う。人間讃歌という感覚は、単なる楽観でも自己肯定でもなく、時間の厚みを引き受けた者にだけ立ち上がる静かな歓喜であると思われる。過去の出来事が、いまやドラマの場面のように懐かしく再生されるということは、出来事そのものが美化されたというより、出来事を抱える器が大きくなったという徴だろう。痛みも失敗も、人生という作品の粗さを与え、粗いからこそ光が当たる。達観とは、人生を遠くから眺めて冷たく片づけることではなく、近づいても燃え尽きず、離れても逃げない距離感を獲得することなのだろう。仏教語としての達観は、本来「透徹して観る」ことである。つまり、見たいものだけを見るのではなく、見たくないものを含めて、因縁の網の目として経験を観る態度である。ここで重要なのは、達観が感情の否定ではない点である。むしろ、感情が生起しては滅する流れを理解するほど、感情に溺れずに味わえるようになる。悲しみは悲しみとして、喜びは喜びとして、透明度が上がる。すると人生は「出来事の連なり」から「意味の織物」へと変わり、記憶は傷の記録ではなく、成熟の年輪として手触りを帯びてくる。そのとき立ち上がる喜びは、刺激や成功の快楽ではなく、存在そのものの肯定に近い。呼吸していること、誰かと目が合うこと、何かを学び続けられること、失ってもなお歩けること。そうした根源的な喜びは、条件に依存しにくいぶん、深いところで持続する。だからこそ「この喜びを他者にも味わってもらいたい」という願いが自然に生まれる。ここには、自己救済が他者救済へとひらく構造がある。自分の苦しみを通過して得た透徹が、他者の苦しみを軽くする光になりうるからである。使命感が生まれる瞬間は、しばしば個人的な物語が普遍的な物語に接続される瞬間でもある。自分の人生の一場面一場面が、誰にでも起こりうる人間存在の縮図として感じられ始める。すると、語り方が変わる。説得ではなく共鳴へ、評価ではなく承認へ、正しさの提示ではなく、見え方の転換の手助けへ。ここで求められるのは、人を変える力ではなく、人が自分の足で立ち直る余白を守る力である。達観が深まるほど、他者を急がせない慈しみが育つのも、そのためだろう。さらに深い次元では、人生の喜びを他者に味わってもらうとは、幸福を配ることではなく、幸福に触れる感受性を回復することだと思われる。忙しさや恐れや比較は、感受性を鈍らせる。そこで必要なのは、経験を一度味わい直す技法である。日常の小さな出来事を、概念ではなく体験として取り戻す。音楽を聴くとき、仕事をするとき、書物を読むとき、誰かと話すときに、心がどこへ向かい、どこで硬直し、どこで柔らかくなるのかを丁寧に観る。そうした実践が、人生を再び生き生きとしたものにする。結局のところ、人間讃歌とは、人間の弱さを否定せず、それでもなお生きる力に敬意を払う態度である。達観とは、諦めではなく、人生の全体を抱きしめられる視野の獲得である。そして使命とは、他者の人生を自分の理想に合わせることではなく、他者が自分の人生を肯定できる瞬間を増やすことなのだろう。そう考えると、自分が深めているのは生の喜びそのものではなく、喜びが生まれる条件――理解、余白、共鳴、そして慈しみ――であり、その成熟がそのまま他者への贈り物になっていくのだと思われる。フローニンゲン:2026/1/3(土)09:40


17977. 繰り返しの力と主体の変化 

 

クラシックギターの練習において、同じ曲を何度も繰り返し、しかも速度を落として丁寧に弾いていると、ある瞬間ふと「できるようになっている自分」に気づくことがある。意識的に何かを変えたわけではないのに、指の動きが滑らかになり、音の粒立ちが揃い、全体の流れが自然に感じられるようになる。その変化は劇的ではなく、むしろ静かで控えめであるが、確実に内側で何かが育っている感覚を伴う。この「知らず知らずのうちに変わっている」という体験こそ、反復の持つ本質的な力であると思われる。繰り返しとは単なる反復作業ではない。同じことをしているようでいて、実際には毎回わずかに異なる身体状態、注意の向き、感覚の深さの中で行われている。つまり、反復とは固定化ではなく、微細な差異を含み続ける運動である。ゆっくりとしたテンポで丁寧に弾くという行為は、音と身体と意識の関係を細部まで照らし出し、これまで見過ごされてきたズレや可能性を静かに浮かび上がらせる。その結果として、技術は「獲得される」のではなく、「熟していく」のである。この感覚は、唯識の学習における読解のあり方とも深く響き合っている。唯識の文献は一読して理解できるものではなく、むしろ繰り返し読むことによって、その都度異なる意味層が立ち現れてくる。初読では概念として理解していたものが、再読では体験的な手応えを帯び、さらに読み重ねるうちに、自身の思考や生き方そのものと静かに結びついていく。この変化は、知識が増えたというよりも、読む主体そのものが変容していることの現れである。唯識が説く「薫習」という概念は、まさにこの過程を言い表している。繰り返し触れることで心の深層に種子が植えられ、やがて条件が整ったときに自然と芽吹く。ギターの練習においても、ある日突然できるようになる現象は、意識下で積み重ねられた無数の微細な経験が、ある臨界点を越えた結果である。努力していないように感じられる瞬間ほど、実は深い蓄積が働いている。重要なのは、成果を急がず、理解を所有しようとしないことである。早く上達したい、早く分かりたいという欲求は自然であるが、それが強すぎると、学びは表層化しやすい。ゆっくりと繰り返す中で、理解が自ずと沈殿していくのを待つ姿勢が、結果として最も深い到達をもたらす。これは技術の話であると同時に、生の姿勢そのものでもある。人生もまた、同じ問いを何度も異なる地点から眺め直す過程である。昨日は見えなかった意味が、今日ふと立ち現れることがある。クラシックギターの練習と唯識の読解は、そのことを静かに教えてくれる。反復とは停滞ではなく、深まりである。ゆっくりと、しかし確かに、自らの内側が耕されていく。その営みそのものが、すでに成熟への道程なのである。フローニンゲン:2026/1/3(土)16:21

 
 
 

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