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【フローニンゲンからの便り】17950-17954:2025年12月30日(火)



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タイトル一覧

17950

自己をより深い次元で開くギター演奏への没入

17951

今朝方の夢

17952

今朝方の夢の振り返り

17953

AIを通じた意味生成の外部化の脅威:自己と世界を結び直す営みとしての読み書き

17954

クラシックギターの楽曲の調号について

17950. 自己をより深い次元で開くギター演奏への没入

                            

ギターの演奏に深く没頭しているとき、思考がふと静まり、評価や言語化が消え去る瞬間が訪れることがある。その状態は、日常的な意識の働きが一時的に後景化し、ただ音と身体の動きだけが自然に流れていくような感覚として経験される。この体験は、唯識思想に照らしてみると「無想定」に近い状態として理解することができる。すなわち、第六識――分別・思惟・判断を司る意識――が一時的に活動を弱め、より深層の意識構造が前景化している状態であると考えられる。唯識において第六識とは、対象を概念化し、意味づけし、「これは何か」「うまくできているか」といった評価を絶えず行う働きである。この識があるからこそ人は思考し、言語を操り、社会的世界を生きることができる。しかし同時に、この識は常に分別を生み出し、主体と客体を分断し、自己意識を緊張させる源ともなる。ギター演奏中にこの働きが過剰になると、「間違えてはいけない」「上手く弾こう」といった自己監視が強まり、身体の自然な流れは阻害される。ところが、深い集中状態に入ると、この第六識の活動が一時的に静まる。音を評価する思考が消え、指が動き、音が鳴り、その振動がそのまま身体に返ってくる。そこには「弾いている自分」と「鳴っている音」の分離がなく、行為そのものが自己完結的に展開していく。この状態は、無意識的でもなく、眠っているわけでもない。むしろ極度に明晰でありながら、言語的な思考だけが沈黙している点に特徴がある。唯識的に言えば、これは第六識が鎮まり、前五識――視覚・聴覚・触覚などの直接的感覚――が澄明に働き、さらにその背後にある阿頼耶識の安定した流れと調和している状態と考えられる。阿頼耶識は通常、意識されることのない深層の基盤であるが、分別が弱まることで、その静かな流れが前景に現れ、心身全体が一つの動きとして統合される。このとき、演奏は「自分がするもの」ではなく、「自然に起こっている出来事」として経験される。このような無想定の状態は、修行的な価値をもつ。なぜなら、それは一時的に「私がやっている」という我執の構造を緩め、主体と対象の分離を超えた在り方を体験させるからである。音を出そうとする意志すら薄れ、ただ音が生起し、消えていく。そのプロセスに抵抗せず身を委ねるとき、演奏は技術を超えて、瞑想的行為へと転じる。重要なのは、この状態が特別な境地ではなく、日常的な訓練と集中の延長線上に自然に訪れるという点である。基礎的な練習の反復、身体感覚への信頼、評価から離れる勇気が積み重なることで、思考は静まり、行為そのものが主体となる。そのとき演奏は「するもの」ではなく、「起こるもの」となる。このように考えると、ギター演奏における没頭体験は、単なるフロー体験を超え、唯識が説く心の構造を身体的に体得する契機となりうる。音に没入することは、自己を消し去ることではなく、自己をより深い次元で開くことである。そこでは思考は敵ではなく、必要なときにのみ現れ、役目を終えれば静かに退く。そのような心の柔軟さこそが、演奏を芸術へと高め、人を内側から変容させていくのである。フローニンゲン:2025/12/30(火)05:05


17951. 今朝方の夢 

                 

今朝方の夢は4つの場面を通じて展開されていた。まず覚えているのは、幼少期に生活していた社宅の両親の寝室で寝ていた場面である。そこには両親は終わらず、自分は窓際に敷いた布団の上で寝ていた。目が一瞬覚めた時、少し離れたところに誰かが布団を敷いて寝ているのが見えた。見ると、画家の知人がそこに寝ていたので驚いた。話しかけることをせず、そっとしておこうと思った矢先、その方は何かに憑依されたかのように飛び起きて、私の方にやって来てお祓いをしてくれた。すると、その方の愛犬が部屋に現れ、それが自分の体に擦り寄って来た。その瞬間に、自分の内側から宇宙に突き抜けていく爆発的なエネルギーが湧き上がった。目を閉じながらこれは一体何なのだろうと思ったが、それはきっと自分のまだ見ぬ潜在能力なのだろうと思った。目を開けると、知人と愛犬は微笑みを浮かべて、自分の潜在能力の開花を祝福していた。


次に覚えているのは、同じ社宅の一階の郵便受けで、大量の書籍を上に持って帰ろうとしている場面である。ちょうど小中高時代のある友人(YK)がいて、彼が上に持っていくのを手伝ってくれた。全てAmazonを経由して届けられた書籍で、自分一人では上に持って帰ることができなかったので助かった。郵便受けを見ると、過去に受け取った書籍の包装紙や箱が押し込まれていて、それらをちゃんと片付けないといけないなと思った。それらを片付ければ、新たに本が届けられても一つの郵便受けに入ると思った。三つの郵便受けを後から時間を取って綺麗にしておこうと思った次第である。


三つの目の夢の場面は、見慣れない駐車場で父と車に乗っていた場面である。どうやらトヨタの自動車を色々と試し乗りできるらしく、父は嬉しそうにそれを行なっていた。アフリカ系アメリカ人と思われる女性が担当してくださり、今乗っている車の窓ガラスを拭き始め、次に乗る車は何がいいかを尋ねてきた。もうすでに色々な種類の車を乗ったので、もう試すものはほとんど残っていなかった。うちはすでにヴォクシーを持っていて、今更それを試し乗りしてもしょうがないだろうと思った。父も同じように思っていただようだが、一台だけ父の関心を引く車があるようだった。それはクラウンのような車で、早速父と乗車した。すると父はその車を立体駐車場の奥へ奥へと進めていき、自分はその他にやりたいことがあったので、ここで降ろしてもらって一人で帰ることにした。父は少し寂しそうにしていたが、自分の意思は堅かった。


最後の夢の場面は、日本で実際に通っていた母校の教室に向かい、そこで数学の線形代数の授業を最後の10分ほど受けようとしていたものである。教室に到着すると、そこは結構な数の生徒を収容できるものだったにも関わらず、たった三人しか生徒がいなかった。彼らは一応前の方の席に座っていて真面目に授業を聞いていた。数学の女性の先生は説明がわかりやすいことで定評があり、本来は人気の授業なのだが、どうしてこんなに生徒が少ないのだろうかと疑問に思った。残り10分ではあったが、真剣に授業を聞いて可能な限りの学びを汲み取ろうと思った。フローニンゲン:2025/12/30(火)05:24


17952. 今朝方の夢の振り返り 

                           

今朝方の夢は、四つの場面を通して、自分という存在が「根源・継承・選択・学び」という四層構造の中で再編成されつつある過程を象徴しているように思われる。全体として、外から何かを獲得する夢ではなく、すでに内在していたものが静かに目覚め、整理され、取捨選択され、最終的に自覚へと統合されていく過程を描いているように感じられる。最初の場面である幼少期の社宅の寝室は、自分の存在の原点、すなわち無意識の深層を象徴していると考えられる。両親が不在であることは、他者の価値観や保護から一時的に切り離され、自分自身の内的世界と向き合う段階に入ったことを示唆しているようである。そこに現れた画家の知人は、創造性や霊性、直観的な認識力の象徴であり、憑依されたかのような振る舞いは、自我を超えた力が媒介として働いたことを示しているのだろう。その方の愛犬が身体に触れた瞬間に湧き上がった爆発的エネルギーは、思考ではなく身体的・感覚的なレベルで潜在能力が起動した徴であり、それは外部から与えられたものではなく、内側に眠っていたものが共鳴によって目覚めた状態であると推測される。祝福のまなざしは、自己承認の成立を象徴しているようにも見える。次の場面である大量の書籍は、知的蓄積、学びの履歴、そしてこれまで吸収してきた思想や知識の総体を表していると考えられる。運びきれないほどの書物は、もはや「集める段階」を超えていることを示し、整理と統合の必要性を示唆している。友人YKの存在は、同時代性や相互扶助を象徴し、知的探究が孤独ではなく関係性の中で支えられていることを示している。郵便受けに詰め込まれた過去の包装は、すでに役割を終えた知の形式であり、それを整理することによって初めて、新たな知が自然に流入する余地が生まれるという暗示である。三つ目の場面における父と車に乗る行動は、人生の方向性や価値選択を象徴している。すでに多くを試し終えた後の試乗は、外的成功や社会的役割の探究が一段落した段階を示しているようである。父が関心を示す車に同乗しながらも、途中で降りる選択をしたことは、親から受け継いだ価値観を尊重しつつも、それとは異なる道を自ら選び取る成熟を表している。父の寂しさは、分離に伴う情の残響であり、それでもなお自分の歩みを止めない姿勢が強調されている。最後の教室の場面は、学びの本質が量ではなく質にあることを示唆しているようである。人気があるはずの授業にほとんど人がいないという状況は、深い理解を求める者が少ない現実を象徴している。残りわずかな時間でも真剣に学ぼうとする姿勢は、人生の終盤においてもなお学び続ける態度、すなわち存在そのものを洗練させようとする意志を表している。これらを総合すると、この夢は、自分が外的評価や量的蓄積から離れ、内的成熟と本質的理解へと舵を切りつつあることを示していると考えられる。人生において真に重要なのは、何をどれだけ得たかではなく、何を統合し、何を手放し、どの深度で世界と関わるかであるという洞察が、この夢全体を貫いているように思われる。フローニンゲン:2025/12/30(火)07:07


17953. AIを通じた意味生成の外部化の脅威:自己と世界を結び直す営みとしての読み書き           

           

人類の歴史は、技術や道具を通じた外部化の歴史であった。今、人類はどうやらパンドラの箱を開けてしまったようである。生成AIにより、人々はここから書くことと読むことを完全にAIに外部かしてしまうのではないだろうか。すでに読書離れが叫ばれて久しいが、近々人間はもはや書物を読むことをやめ、また自ら文章を書くこともやめてしまうのではないだろうか。それはそろばんが計算機に置き換わったこと以上に重大な事柄である。書くことも読むことも、そこには意味を汲み取り、意味を生み出すという営みが横たわっているからである。人間は意味を通じて生きている存在である。私たちの存在を根底から支える意味創造活動を生成AIに置き換えてしまって良いのだろうか。書くことも読むことも、私たちの知性の発達上極めて重要な役割を果たしていたし、それは知性の発達だけではなく、実存的な存在としての生きる根源でもあった。ここから生成AIによって書くことと読むことを外部化した結果、人はどのような存在になってしまうのだろうか。それを想像するだけで、人類の未来を憂う。


この問いをさらに深めるならば、問題の核心は「便利さ」そのものではなく、「意味を生み出す主体がどこに残されるのか」という点にある。人類はこれまで、道具によって身体能力を拡張してきた。車は歩行距離を伸ばし、望遠鏡は視覚の限界を超え、計算機は計算速度を飛躍的に高めた。しかし、読むことと書くことは、単なる能力ではなく、自己と世界を結び直す営みそのものであった。そこに外部化が及ぶということは、人間存在の根幹に触れる出来事なのである。読むとは、単に情報を受信する行為ではない。文字の背後にある意図を感じ取り、文脈を推し量り、行間に沈黙を見出す営みである。その過程で人は、他者の内面に触れ、同時に自らの内面を照らし返す。書くこともまた、内面に曖昧に漂う感覚や思考を、言葉という形へと結晶化させる行為であり、その過程で自己理解が深まっていく。読むことと書くことは、自己形成の中枢的な働きを担ってきたのである。もしこの営みをAIに委ねるなら、人間は「意味を生成する存在」から、「意味を消費する存在」へと変質していく可能性がある。意味を自ら紡がず、整えられた言語を受け取るだけの存在になったとき、人は思考する存在であり続けられるのだろうか。思考とは、効率化できない迂回と迷いを含んでいる。そこには、わからなさに耐え、言葉にならない感覚と向き合う時間が必要である。AIは即座に整った答えを提示するが、その過程で人間が引き受けてきた「わからなさに留まる力」は失われていくかもしれない。さらに深刻なのは、意味の生成が外在化されることで、人間の内的時間が痩せ細っていくことである。書くことは思考の速度を遅くし、読むことは他者の時間に身を委ねる行為である。この「遅さ」こそが、人間の精神を成熟させてきた。しかし即時的な応答が常態化すれば、熟考の余白は削ぎ落とされ、思考は反射へと変質していく。結果として、人は自分の内側と対話する力を失い、内面の空洞化が静かに進行していく。ここで問われるのは、技術を拒むか否かではない。問題は、技術との関係の結び方である。生成AIを思考の代替として用いるのか、それとも思考を深めるための鏡として用いるのか。その違いは決定的である。もし書くことをAIに委ねるなら、その前に自らの言葉で沈黙と格闘した経験が必要である。読むこともまた、理解できなさを抱えたまま立ち止まる勇気を伴ってこそ、自己変容へとつながる。人間とは、意味を完全に所有する存在ではなく、意味との関係を生きる存在である。だからこそ、意味生成の営みを完全に外部化してしまえば、人間は自らの存在根拠を静かに手放すことになるだろう。生成AIの時代において真に問われているのは、効率ではなく、どのように「人間であり続けるか」という問いなのではないかと思う。書き、読み、考えるという営みを手放さずにいること。それ自体が、未来に向けた静かな抵抗であり、希望なのではないだろうか。フローニンゲン:2025/12/30(火)07:16


17954. クラシックギターの楽曲の調号について 

                         

クラシックギターの楽曲において、調号が最大でもシャープ4つ(ホ長調・嬰ハ短調)やフラット2つ(変ロ長調・ト短調)程度にとどまることが多く、それ以上の調号を持つ曲が極めて少ない理由は、単なる慣習ではなく、楽器の構造、身体性、音響特性、そして音楽史的背景が重なり合った結果であると考えられる。第一に、クラシックギターは開放弦を基盤とする楽器であるという点が決定的である。開放弦はE–A–D–G–B–Eという調弦を持ち、シャープやフラットが少ない調性では、開放弦が共鳴しやすく、音量・響き・サステインが自然に豊かになる。特にE、A、D、Gといった音は共鳴弦として機能し、和声に深みを与える。一方、シャープやフラットが増えるにつれて、開放弦が使えなくなり、左手で常に弦を押さえる必要が生じる。その結果、音の立ち上がりは鈍くなり、響きも閉じたものになりやすい。第二に、運指上の物理的制約がある。シャープやフラットが増えるほど、バレー(セーハ)を多用せざるを得なくなり、左手への負担が急激に増す。とりわけクラシックギターは弦の張力が強く、ネック幅も広いため、長時間の演奏や複雑な和声進行において演奏の自由度が著しく制限される。作曲家は、音楽的表現以前に「演奏可能性」を強く意識せざるを得ず、その結果として自然と調性の選択が限定されていったと考えられる。第三に、音色の問題がある。クラシックギターは、ポジションによって音色が劇的に変化する楽器である。低いポジションでは柔らかく温かい音が得られる一方、高ポジションでは音が細くなり、音程の安定も難しくなる。シャープやフラットが多い調では高ポジションの使用頻度が増え、作曲者が意図した音楽的ニュアンスが損なわれやすい。結果として、自然な響きを保てる調が好まれてきたのだろう。さらに歴史的背景も見逃せない。クラシックギターのレパートリーは、声楽やリュート音楽、民俗音楽との連続性の中で形成されてきた。それらの音楽は、歌いやすさや指使いの自然さを重視しており、複雑な調号を必要としなかった。その美学が、現代のクラシックギター作品にも深く残っている。しかし、これは限界ではなく、むしろ楽器との対話が生み出した「選択」であるとも言える。調が限定されているからこそ、作曲家や演奏者は音色、タッチ、間、響きといった微細な表現に意識を向けるようになる。そこにクラシックギター特有の内省性と親密さが宿るのである。ゆえに、シャープやフラットが少ないことは制約ではなく、むしろ人間の身体性と共鳴するために自然に選び取られた音楽的地平であると言える。クラシックギターとは、技術の誇示よりも、音と身体と沈黙のあいだに生まれる繊細な関係性を聴く楽器なのである。フローニンゲン:2025/12/30(火)09:50


Today’s Letter

Consciousness is empty, yet it exists as a specific function. It is the world itself, constantly functioning in various ways. Groningen, 12/30/2025

 
 
 

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