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【フローニンゲンからの便り】17943-17949:2025年12月29日(月)



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タイトル一覧

17943

三オクターブのEメジャー・スケール練習

17944

今朝方の夢

17945

今朝方の夢の振り返り

17946

ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その1)

17947

ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その2)

17948

ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その3)

17949

関係性の中で育まれる贈与の連鎖としての人生

17943. 三オクターブのEメジャー・スケール練習 

       

ブランダン・エイカー氏が紹介する昨日言及したウォームアップは、一見すると単純な三オクターブのEメジャー・スケール練習であるが、その内実はきわめて本質的であり、ギター演奏における身体感覚・認知・音楽性を統合的に鍛えるための優れた方法論であると言える。単なる指の運動ではなく、「指板全体を一つの空間として把握する感覚」を育てる点に、この練習の真価がある。まず重要なのは、「音名」ではなく「ポジション」で考えるという発想である。多くの学習者は音を一音ずつ追いかけるが、それでは視野が局所化し、指板全体の構造を身体で理解することが難しい。2ポジションから始まり、6ポジション、9ポジションへと移行するこの練習は、手の居場所を明確に意識させ、音が自然に指の下へ収まっていく感覚を育てる。これは暗記ではなく、空間把握としての理解であり、ギターを「点の集合」ではなく「連続した地形」として捉える感覚を養う。右手においては、レストストロークとm–iのシンプルな交互運動が指定されている点が重要である。複雑な奏法を排し、音の芯と支えを感じ取ることに集中することで、音色の密度と安定感が生まれる。レストストロークは弦に対する接触感覚を明確にし、音を「置く」感覚を育てるため、結果として弱音でも輪郭のある音が出やすくなる。ここでは速さよりも、音の質と持続感が重視されている。ポジション移動に関しては、「静かで、滑らかで、統合された動き」が強調されている。腕全体を一つのユニットとして使い、不要な力を一度解放してから次の位置に落ち着くという考え方は、緊張を最小化し、再現性の高い動作を可能にする。これは単なるテクニックではなく、身体知の洗練であり、長期的に演奏を続けるための基盤でもある。テンポ練習についても、メトロノームを用いて一音一拍から始める点が重要である。遅さは不完全さを露呈させるが、同時に最も誠実な教師でもある。二音、三連符、十六分音符へと進むのは、あくまで余裕が生まれてからであり、「できる速さ」ではなく「美しく制御できる速さ」が基準となる。この姿勢は音楽的成熟そのものを象徴している。三オクターブのスケールがもたらす最大の恩恵は、ネック全体が一つの有機的構造として身体化される点にある。音域間の断絶が消え、低音から高音までが一つの呼吸の中で結ばれるとき、演奏者は楽器に導かれるような感覚を得る。結果として、コントロール感、安心感、そして音楽的自由度が大きく向上する。この練習は短時間でも効果が高く、日々のウォームアップとして取り入れることで、演奏全体の質を底上げする。指の運動を超えて、身体・感覚・意識を統合する行為として、このスケール練習は極めて本質的であると言える。ギターという楽器を「部分の集合」ではなく「ひとつの生命体」として感じ取るための、静かで深い入口なのである。フローニンゲン:2025/12/29(月)05:39


17944. 今朝方の夢

            

今朝方は夢の中で、見慣れない教室の中にいた。そこには高校時代のクラスメートがいて、どうやら何か数学の問題を解いているようだったので、自分もその問題に取り掛かった。最初の問題は、直角三角形が絡む問題で、驚くほど簡単に問題が解けた。ほぼ秒殺だったこともあり、逆にこんなに簡単に解けていいのかと少々疑問になり、もう一度問題を読み直した。すると先生が今は社会の時間だと生徒たちに告げ、数学の問題集をみんなサッと閉じて、社会の問題集を広げた。自分の机の引き出しにはそれがなかったので、教室の片隅にある自分の蔵書群のところに行くと、洋書の山が崩れそうになっていたので、本を積み直し、安定させた。そうすると、社会の問題集が偶然にも見つかり、席につこうとした。すると、小中高時代のある女性友達(KE)が自分に結婚する意思があるのかどうかを突然尋ねてきた。彼女はすでに別の男性と結婚しており、自分が彼女と結婚するかどうかではなく、一般的な話をしているようだった。もちろん生涯結婚しないと決めているわけではないので、その気はあると伝えようとしたが、そのまま黙って席に戻ることにした。


その他にも何か夢を見ていたように思うが、随分と記憶が薄れている。何か久しぶりに知人に会ってその再会を喜んだような場面があったことを朧げながら覚えている。そこでも知人と結婚という言葉は出なかったにせよ、家族を作ることに関して話題に挙がっていたような気がする。フローニンゲン:2025/12/29(月)05:49


17945. 今朝方の夢の振り返り

          

今朝方の夢の中の見慣れない教室にいるという舞台設定は、すでに「学び直し」の位相に自分が立っていることを示しているのかもしれない。高校時代のクラスメートがいるのに教室が見慣れないというずれは、過去の人間関係や記憶を材料にしつつ、課題そのものは「今の自分」に合わせて組み替えられている、という合図である可能性が高い。最初に直角三角形の問題がほぼ秒殺で解けたのは、論理の筋道を立てて最短距離で答えに到達する力が、すでに身体化していることの象徴であろう。直角三角形は「基準となる直角」と「そこから展開する比」の世界である。つまり、揺れやすい現実の中に、一本の確かな軸を立てれば、景色が一気に整理される、という感覚である。ところが、あまりに簡単に解けたために問題文を読み直す。ここには、答えが出る速さよりも「問いの設定そのもの」を吟味しようとする自分の慎重さが出ているのかもしれない。解けることより、解く価値のある問いかどうかを確かめたいのである。しかし先生が「今は社会の時間だ」と告げることで、夢は数学(形式・普遍)から社会(関係・制度)へと急旋回する。これは、自分の強みである抽象的思考だけでは完結しない領域へ、注意が移されている徴であろう。机の引き出しに問題集がなく、教室の片隅にある自分の蔵書群へ向かう展開は、自分が「教科書を配られる側」ではなく「自分の知の倉庫から必要なものを取り出す側」になっていることを示すのかもしれない。しかも洋書の山が崩れそうで、それを積み直して安定させる。これは知識が増えたぶん、秩序づけを怠ると全体が崩れるという感覚、あるいは学術的蓄積を「倒れない形」に再編し直す必要性の表象であろう。そして整えた結果として、社会の問題集が偶然見つかる。「外の世界の問い」は、知の整理を通して初めて手に取れる、という構図である可能性がある。その直後に、既婚の女性友達(KE)が結婚する意思を問う。ここで重要なのは、相手が誰かではなく、質問が「意思」という形で投げられている点である。結婚はロマンではなく、制度でもなく、意思決定として提示される。数学から社会へ移った流れの中で、家族形成という最も社会的で具体的なテーマが、試験問題のように差し出されるのであろう。ところが自分は答えようとして黙り、席に戻る。これは拒絶というより、軽々しく答えたくない慎み、あるいは「答える前に、自分の生活全体の配置を確かめたい」という保留の身振りかもしれない。夢の中で言葉にしなかったことは、現実でもまだ言葉になり切っていない問いであることが多い。記憶が薄れた再会の場面も、家族の話題に触れかけている。つまりこの夢は、知の速度と精度を誇示する物語ではなく、知が整ったあとに避けて通れない「関係の設計」に自分が向き合い始めている、というサインなのかもしれない。数学は自分の内部で完結しやすいが、社会は他者と制度の網の目の中でしか成立しない。夢は、その移行を教室という一つの空間で一気に見せたのであろう。人生における意味は、答えを出す力が成熟した今、自分の知と生活を「倒れない形」に積み直し、その上で、家族や共同性といった社会的現実に対しても、自分の言葉でゆっくり責任ある返答を準備していくことにある、という示唆である可能性が高い。フローニンゲン:2025/12/29(月)07:25


17946. ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その1) 

                                   

今日は共著の執筆に向けて、知人の鈴木規夫さんとの対談の第三回目が行われる。今日のテーマは、「ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築」というものだ。ここで扱う「ポスト構造主義的転換」とは、発達理論がそれまで暗黙に前提としてきた人間観――すなわち「人間は内側に安定した構造を持ち、その構造が段階的に積み上がっていく」という見取り図――を解体し、より動的で関係的な人間観へと置き換える知的転回である。ここで言うポスト構造主義は、文学理論の狭義の潮流というよりも、心理学・教育学・発達科学において「固定的構造」「普遍段階」「単線的上昇」という枠組みを疑い、変動・多元・文脈・生成を中心に据える総体的な方向性を指すものである。成人発達理論は、この転換を経てはじめて、現実の人間が示す揺らぎ、矛盾、退行、飛躍、そして領域ごとの差を理論の中に正面から組み込めるようになったのである。この転換の出発点にあるのが、ピアジェ理論への批判である。ピアジェは「発達=認知構造の質的転換」を段階として描き、発達研究の骨格を築いたが、同時にその段階図式は、現実の発達の姿をしばしば過度に整然と描きすぎるという問題を抱えていた。第一に、段階は普遍的に進行すると想定されがちであるが、実際には文化・教育・課題経験の差により、発達の現れ方は大きく変動する。第二に、段階は一度獲得されれば安定的に維持されるかのように理解されやすいが、人間のパフォーマンスは体調やストレス、環境、関係性によって大きく揺れる。第三に、段階は全領域にわたって同じ水準で進行するかのように誤解されやすいが、現実には「論理は高度だが倫理が未熟」「抽象思考は強いが関係性は脆い」といった非同期性が常態である。こうした“生の人間”の複雑さを捉えるために、新ピアジェ派の理論が登場するのである。新ピアジェ派の代表格が、カート・フィッシャーである。フィッシャーが提示したダイナミックスキル理論の核心は、発達を「段階」ではなく「スキルの階層(skill hierarchy)」として捉え、しかもそのスキルは文脈の中で構築されるという点にある。ここで重要なのは、発達が“頭の中に完成した構造が保存される”というイメージではなく、“具体的課題に取り組む中で、その場その場で統合されて立ち上がる構成物”として捉え直されることである。フィッシャーは、同じ人が同じ領域でも、支援があるときには高次のスキルを示し、支援がないときには低次のスキルにとどまるという事実を重視した。この見方は、発達を個人の固定的属性としてではなく、個人と環境の相互作用が生み出す「現象」として理解する方向へ、理論の重心を移動させる。この点をさらに徹底したのが、ポール・ヴァン・ギアートらが展開したダイナミックシステムアプローチである。ダイナミックシステムアプローチの視点では、発達は直線的に上昇するのではなく、複数の要因が相互に絡み合いながら、ある時は急に進み、ある時は停滞し、ある時は退行するという「非線形的」なプロセスとして理解される。ここでは、発達の“平均像”よりも、日々の変動や揺らぎそのものが意味を持つ。揺らぎは誤差ではなく、システムが新しい安定状態へ移行する前兆として解釈される。つまり、発達のカギは、なめらかな上昇曲線ではなく、「揺れながら別の秩序へ自己組織化する過程」にあるという理解が成立するのである。この転換が意味するのは、発達理論の対象が「安定的構造」から「生成的プロセス」へと移ったということである。従来の段階論が好んだのは、整った建築物のように階層が積み上がる人間像であった。だが新しい潮流が描くのは、天候や土壌や他の生物との関係によって形を変える生態系のような人間像である。人間は、内側に完成形が格納されている存在ではなく、環境との関係の中で、その都度、自分を組み立て直しながら生きている存在である。ここに「構造物としての人間観」から「エコシステムとしての人間観」への転換の核心がある。フローニンゲン:2025/12/29(月)07:35


17947. ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その2) 

 

このテーマで鍵となる概念が「文脈依存性」である。文脈依存性とは、能力がその人の内側に固定的に存在するのではなく、課題、状況、関係性、文化的道具、身体状態などとの相互作用の中で立ち上がるという理解である。例えば、同じ人でも、信頼できる他者が同席して問いを整理してくれるときには複雑な統合的思考が可能になる一方、評価不安が高い場面では急に思考が単純化することがある。この違いを「本当の能力が出た/出ない」と解釈するのではなく、そもそも能力は文脈と切り離せないと捉えるところに新しさがある。発達とは、文脈から切り離された“素の能力”が成長することではなく、適切な支援や環境を足場にしながら、より高度なスキルが安定的に再現されるようになるプロセスなのである。ここで批判の対象となるのが「重心型モデル」である。重心型モデルとは、人には基本的に「この人の発達段階はここだ」という代表値があり、多少の揺れはあっても最終的にはその代表値で人を説明できるという発想である。これは実務的には便利であり、人材開発や教育設計で多用されてきた。しかし、このモデルは二つの深刻な問題を抱える。第一に、重心という代表値が、実際の発達の多様性や領域差を覆い隠してしまうことである。人間は一つの水準で生きているのではなく、領域ごとに異なる複雑性で世界に応答している。第二に、重心のラベルが、本人や周囲の認識を固定化し、発達の可能性を逆に狭める危険である。ラベルは理解のための道具であるはずが、いつの間にか評価の烙印になり、その人の未来像を先取りしてしまうのである。ポスト構造主義的転換は、この固定化に抗い、人間を「変化し続ける存在」として理解することを要求する。この点と深く関わるのが「能力の領域限定性と発達の多元化」である。領域限定性とは、発達があらゆる領域で一斉に進むのではなく、知的領域、対人関係、倫理、感情調整、身体的技能など、それぞれ別のダイナミクスで進行するという理解である。例えば、抽象思考の水準が高い人が、対人葛藤では幼い防衛に戻ることがある。逆に、論理的には洗練されていなくとも、関係性のケアや共同体への責任感において非常に成熟している人もいる。この非同期性は例外ではなく、人間発達の基本構造である。ゆえに、成人発達理論は、単線的階段を上るモデルから、多次元の地図を描くモデルへと移行せざるを得ない。発達とは一つの峰を目指す登山ではなく、いくつもの稜線を行き来しながら、時に遠回りし、時に足場を築き直す旅なのである。さらに、動的モデルの視点は「発達の揺らぎ」の意味を根底から変える。従来のモデルでは、揺らぎや退行は未熟さや失敗として扱われがちであった。しかしダイナミックシステムアプローチの観点では、揺らぎは新しい秩序へ移行する前の“必要な不安定さ”である。つまり、人は新しい視点を獲得しようとするとき、いったん古い枠組みが崩れ、混乱や停滞が生じる。その混乱を丁寧にくぐり抜けることで、より複雑な統合が成立する。スランプや迷いは発達の敵ではなく、発達の現場そのものなのである。この理解は、実践者に対し「揺れを消す」発想から「揺れを支える」発想への転換を迫る。フローニンゲン:2025/12/29(月)08:11


17948. ポスト構造主義的転換──「人間観」の再構築(その3) 

     

ここまでの議論を総括すると、ポスト構造主義的転換とは、発達をめぐる「メタファー」の転換でもあることが分かる。メタファーとは単なる比喩ではなく、思考の枠組みそのものである。従来の段階論が好んだメタファーは、階段、塔、ピラミッド、建築物といった“積み上げ型”であった。そこでは、発達は上へ上へと進み、安定した高みへ到達することだと理解される。しかし動的・関係的モデルが採用するメタファーは、ネットワーク、エコシステム、流れ、渦、自己組織化、航海といった“生成型”である。ここでは、発達は上昇ではなく、環境との相互作用の中で秩序が組み替わり続ける過程として描かれる。メタファーが変わると、発達支援の作法も変わる。上へ引き上げるコーチングから、関係と環境を整え、自己組織化を促す支援へと移るのである。この転換を最も身近な比喩として捉え直すのが「器」メタファーである。成人発達の実務では「器が大きい」「器を磨く」という表現が頻繁に用いられるが、ここには二つの異なる理解が潜んでいる。第一は「容量的成長」としての器である。これは、器を大きくし、より多くの情報、責任、ストレス、複雑性を受け止められる量を増やすという理解である。確かに、複雑性を扱う能力は現代社会で重要であり、この理解は実務の言語として有効である。しかし、この器理解には危うさがある。なぜなら、器を容量として捉えると、発達は無限の拡大競争になりやすく、結局は近代の成長主義と同型になるからである。器が大きいことが価値であり、小さいことは劣るという暗黙の序列が生まれやすい。ここに、発達論的エリート主義や能力主義への接続が起きる。第二が「関係的生成」としての器である。これは器を個人内部にある容器ではなく、関係の中で生成する場として捉える理解である。器とは、自分が何を抱え込めるかという量ではなく、誰とどのような関係を結び、どのような対話や協働を可能にし、どのような意味の場を立ち上げられるかという質の問題である。器は単独で大きくなるのではなく、他者との信頼、共同体の支援、文化的道具、言語の洗練、身体感覚の安定などが相互に関与しながら、その都度生成される。ゆえに器を磨くとは、自己を強化して抱え込む力を増やすことではなく、関係性を整え、文脈を育て、生成的な相互作用が起こる条件を作る営みである。この器理解は、「構造物としての人間」から「エコシステムとしての人間」への転換を、直観的に体現する。以上より、今回の対談が提示する再構築された人間観は明確である。人間は固定的構造を内蔵した存在ではなく、環境との関係の中で自己を組み替え続ける生成的存在である。発達は上昇の物語ではなく、文脈の中で秩序を作り替えるプロセスである。能力は一つの水準に還元できず、多元的で領域限定的であり、その発揮は相互作用に依存する。発達理論のメタファーは塔から生態系へ、器は容量から関係的生成へと移行する。この転換は、発達をめぐる理論だけでなく、発達を支援する倫理と実践の作法そのものを、根底から更新するのである。フローニンゲン:2025/12/29(月)09:37


17949. 関係性の中で育まれる贈与の連鎖としての人生 

                                

この人生において、金銭や名誉といった「あの世に持っていけないもの」のためではなく、死を超えてもなお意味を持つもの――すなわち功徳を積み重ねて生きたいという志向が自分の内側に強くある。それは、人間の生を根底から問い直す態度であると言える。財や評価は社会的に有用ではあるが、肉体の終焉とともに必然的に手放される。一方で、智慧と慈悲として培われた在り方は、個体の死を超えても他者の心に波紋を残し、連綿と世界に影響を与え続ける。そこにこそ、人生の深い意味が宿るように感じる。仏教的に言えば、功徳とは単なる善行の量ではなく、心の在り方が世界に及ぼす質的な影響を指す。善い行為をすること以上に重要なのは、その背後にある動機がどこに根ざしているかである。自己顕示や承認欲求に駆動された行為は、たとえ外面的には善であっても、内的には執着を強める。一方、智慧に照らされ、慈悲に貫かれた行為は、自己と他者の境界を柔らかく溶かし、静かな変容を周囲にもたらす。この違いは目に見えにくいが、人生の深層において決定的である。智慧とは、知識の量ではなく、物事をあるがままに観る力である。自我の欲望や恐れを通さずに世界を見つめるとき、人ははじめて現実の構造に触れる。そのとき生まれる理解は、判断や支配のためのものではなく、関係性を調和へと導く力となる。慈悲とは、その理解が自然と他者への配慮として立ち現れた状態である。つまり智慧と慈悲は分かちがたく、片方だけでは成立しない。このような生き方は、声高に主張されるものではないかもしれない。むしろ日常のささやかな選択、何気ない言葉、沈黙のあり方の中に静かに現れる。他者の痛みに気づくこと、急がず待つこと、自分の正しさを一度脇に置くこと。そうした一つひとつが、目には見えぬ功徳として積み重なっていく。それは銀行口座の数字のように可視化されるものではないが、人と人との関係性の中で確かに受け渡されていく。この意味で、人生とは自己完成の物語ではなく、関係性の中で育まれる贈与の連鎖であると言えるのではないだろうか。自らの内に育まれた智慧と慈悲が、誰かの心に静かに灯り、その灯りがまた別の誰かを照らす。その循環こそが「あの世に相続されるもの」であり、生死を超えて続く人間的遺産である。このように生きるとは、派手さとは無縁でありながら、深い充足を伴う道である。成功や評価を追い求める生き方から一歩退き、存在そのものが語る生き方へと移行するとき、人は初めて「生かされている」という感覚に触れる。その感覚こそが、智慧と慈悲が一体となって息づいている証であり、人生を静かに照らす灯火となるのである。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/12/29(月)14:28


Today’s Letter

I was reborn today as well. Each time I experience this rebirth in the morning, I can sense a subtle new aspect of myself. Valuing and cultivating it will lead to further growth. Groningen, 12/29/2025

 
 
 

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