【フローニンゲンからの便り】17937-17942:2025年12月28日(日)
- yoheikatowwp
- 16 時間前
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タイトル一覧
17937 | クラシックギターにおける左手の理想のフォーム |
17938 | 今朝方の夢 |
17939 | 今朝方の夢の振り返り |
17940 | ヤン・ウェスターホフ教授からの励まし |
17941 | 「reification」と「substantiation」の違い |
17942 | ブランダン・エイカー氏が推奨するウォームアップエクササイズ |
17937. クラシックギターにおける左手の理想のフォーム
ブランダン・エイカー氏がクラシックギターの左手フォームとして「Cの形」を基本に勧める理由は、単なる見た目の美しさや流派的な好みではなく、解剖学・運動学・音楽的持続性という三つの次元で合理性を持つからである。Cの形とは、左手の親指と人差し指の間に自然な空間を保ち、手のひらを過度にネックへ押し付けず、指が指板に対してほぼ垂直に落ちていく湾曲を保った状態を指す。この形がなぜ基本形として優れているのかを順に考えてみたい。第一に、身体構造との整合性である。人間の手は本来、物を握り込むためではなく、包み込み、吊り下げるような運動に適した構造を持っている。Cの形は、指の屈筋と伸筋のバランスが最も自然に保たれる位置であり、特定の筋肉だけに過剰な負荷がかかりにくい。親指がネック裏で軽く支点となり、他の四指が重力方向に落ちることで、力を入れなくても弦を押さえられる状態が生まれる。この点でCの形は、力で音を作るフォームではなく、重さと構造で音を得るフォームだと言える。第二に、可動域と適応力の問題である。クラシックギターでは、単音旋律、和音、バレー、ポジション移動など、多様な左手運動が連続的に要求される。Cの形を保っていると、各指の独立性が高まり、指を「横に倒す」「無理に伸ばす」といった代償動作が減る。特に人差し指と小指は、手のアーチが崩れると急激に自由度を失うが、Cの形では指の付け根からの動きが保たれ、細かな運指変更にも即応できる。エイカー氏がこの形を基本に据えるのは、あらゆるテクニックの母体となる汎用フォームだからである。第三に、音楽的観点である。Cの形は、音程の安定と音色の均質性に直結する。指が弦に対して垂直に近づくほど、不要なノイズが減り、発音点が安定する。結果として、左手が音色を乱さず、右手の表現を最大限に活かすことができる。左手の役割は「音を作る」ことではなく、「音楽が滞りなく流れる環境を整える」ことであり、Cの形はそのための最も静かな基盤なのである。さらに重要なのは、Cの形が長期的な演奏人生を守るフォームである点である。無理な握り込みや手首の過度な屈曲は、短期的には音が出しやすく感じられても、腱鞘炎や神経圧迫のリスクを高める。エイカー氏が一貫して自然なフォームを強調する背景には、テクニックの獲得よりも、何十年も弾き続けられる身体条件を育てるという思想がある。ただし、Cの形は「固定された型」ではない。重要なのは形そのものではなく、そこに戻れる基準点を身体に持つことである。音楽的要求に応じて一時的に形が崩れることはあっても、基本形としてCの形を身体が覚えていれば、無理のない場所へ自然に回帰できる。この「帰還点」を持つことこそが、上級者と中級者を分ける大きな差である。総じて言えば、ブランダン・エイカー氏が左手の基本としてCの形を勧める理由は、それが最も少ない力で、最も多くの自由を生み、最も長く音楽に仕えられる形だからである。Cの形は単なるフォームではなく、身体と音楽が対立せずに共存するための、最も静かで賢明な約束事なのである。フローニンゲン:2025/12/28(日)06:33
17938. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ギターの練習をしていた場面があった。そこは見慣れない部屋で、隣にも部屋があり、そこには知人が数人いて、壁には数本のギターが立てかけられていた。私が選んだギターは少し変わった作りをしていた。それはエレキギターではないが、電子ギターと言えるかの如く、いくつかの押しボタンがついていた。いざ演奏を始めようとすると、ギター側から指示があり、制限時間以内に特定の音の組み合わせを正確に演奏することが求められた。制限時間以内にそれをしないと、ギターが爆発する仕組みになっていた。最初私はその指示を気にせず練習していたが、ギターが爆発すると、負傷者が出てしまうと困ると思ったので、組み合わせの解決に取り組むことにした。しかし、自分は演奏がしたいだけであって、そのような課題に取り組むことがやはり馬鹿らしく思えた。そう言えば、先ほどこのギターを触っていた女性が、複数のボタンを同時に押してリセットしている姿を目撃していたので、それを試してみることにした。最初はうまくいかなかったが、何回かいくつかのボタンを同時に押してみると、無事にリセットすることができた。その安堵感と共に隣の部屋に移動し、今度はより小さなギターを演奏することにした。そのギターはフレットがなく、自分で音を見つけていく必要があったので大変だったが、これも良い訓練になるかと思って楽しく取り組んだ。その過程では汚い音が出て、それに対して近くにいた小柄な外国人の少女が嫌そうな顔をしていた。自分はもう少しの辛抱だとその少女に心の中で言い聞かせ、引き続き美しい音を求めて試行錯誤を繰り返した。
次に覚えているのは、小中学校時代のある友人(YA)が、小さい物差しを使って自分の体の縦と横の長さを測っている場面である。地面に横になって、最初に手を横に伸ばして横の長さを測った。すると、横の長さが177cmと計測され、自分の身長よりも長くて驚いた。そこから縦の長さを計測したところ、それは自分が思っていた身長と0.1cmしかズレがなく、その正確性に驚かされた。友人は正確に測れたことを何か誇らしげに思っているようで、笑顔を浮かべていた。身体の計測が終わる頃に、別の友人(YK)がやって来て、彼が自分とワインを飲むことを楽しみにしていたようだが、自分はアルコールを摂取しないようにしているので、そのことを伝えると少し寂しそうにしていた。彼の機嫌をこれ以上損ねないように、少なくとも楽しい話をしようと思った。フローニンゲン:2025/12/28(日)06:44
17939. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分がいま人生の転換点に立ち、表現・技術・関係性・自己理解のすべてを再調整しつつあることを象徴しているように思われる。冒頭のギター練習の場面は、自分が長く親しんできた「表現」の領域そのものでありながら、もはや単なる技能の反復では済まされない局面に入っていることを示しているようである。見慣れない部屋や隣室の存在は、これまで意識してこなかった内的可能性や他者の視線を暗示している可能性がある。そこに並ぶ複数のギターは、選択可能な生き方や表現様式の多様性を象徴しているとも考えられる。特に印象的なのは、ボタン付きの奇妙なギターである。これは純粋な感性や身体性だけではもはや成立せず、思考や判断、制約条件との折り合いを求められる現在の創造のあり方を象徴しているようである。制限時間や爆発の危険は、社会的責任や他者への影響を意識せざるを得ない状況、あるいは「間違えてはならない」という内的圧力の表象かもしれない。本来は自由に音を紡ぎたいのに、課題解決が先行してしまう違和感がそこにある。しかし、他者が示した「同時押し」という行為を思い出し、それを試すことで状況が解決する点は重要である。これは努力や直線的思考ではなく、複数の要素を同時に抱える柔軟性や、発想の転換によって道が開かれることを示唆しているように思われる。制御しようとする意志を一度緩めたとき、事態が自然に整うという経験である。次に現れる小さなフレットレスのギターは、より原初的で未分化な表現の象徴であろう。決められた枠がない分、音を探る不安と自由が同時に存在する。そこに現れる異国の少女の視線は、未熟さや不完全さを見つめる他者のまなざし、あるいは自分自身の内なる批評性を表している可能性がある。それでも演奏を続ける姿は、評価を超えて表現を深めようとする姿勢そのものと言える。後半の身体測定の場面は、自己認識の再確認を象徴しているようである。横の長さが想定よりも長いという事実は、自己が思う以上に世界へ広がっていること、影響力や関係性が予想外に拡張していることを示しているのかもしれない。一方で縦の長さがほぼ正確であったことは、自己理解の軸が安定していることを示唆する。友人が誇らしげであるのは、その測定が客観性と信頼を帯びていたからであろう。最後に現れる友人とのワインの場面は、親密さと距離の調整を象徴している。共有できない選択をしながらも、関係性そのものは温かく保とうとする姿勢が示されている。これは、自分がこれからの人生で「同じであること」よりも「共に在ること」を重んじていく姿勢を示唆しているように思われる。総じてこの夢は、表現・責任・自由・関係性という複数の軸を同時に統合しながら生きようとする内的成熟の過程を映しているようである。人生においては、正確さと遊び、制御と委ね、孤独とつながりのあいだを往復し続けることこそが、自分自身の音を見つけ続ける道なのだと、この夢は静かに語っているように思われる。フローニンゲン:2025/12/28(日)08:07
17940. ヤン・ウェスターホフ教授からの励まし
先般のイギリス旅行の際に、ヤン・ウェスターホフ教授と面会し、そこで教授は、アカデミックジャーナルに投稿する際に、厳密には博士号の有無は問わないとのことであった。それであれば自分が仏教プログラムの修士課程に在籍しながらにして、積極的に仏教ジャーナルに論文を投稿することはおかしなことではない。むしろ、現在の国際的な仏教学・宗教学の研究環境においては、修士課程在籍中に学術誌へ投稿することは十分に正当であり、むしろ望ましい姿勢ですらあると言えるのではないか。まず、ヤン・ウェスターホフ教授が述べたとおり、多くの国際的なアカデミック・ジャーナルは、投稿資格として「博士号の有無」を条件にしていない。査読制度の本質は、書き手の肩書きではなく、提出された論文そのものの学術的妥当性・独創性・方法論的厳密さにある。実際、投稿規定には「PhD required」と明示されていることはほとんどなく、「scholars」「researchers」「contributors」といった開かれた表現が用いられているのが一般的である。特に仏教学や比較哲学、宗教哲学の分野では、修士課程の学生が査読付きジャーナルに論文を掲載することは決して珍しくない。むしろ、英語圏では「研究者として育ちつつある段階から、議論に参加すること」が高く評価される文化がある。博士課程に進む前から査読経験を持っていることは、研究者としての成熟度を示す重要な指標にもなる。さらに重要なのは、自分が単なる「学生」ではなく、すでに明確な研究テーマ、理論的関心、一次文献への深い理解を持ち、継続的に執筆を行っている点である。とりわけ、唯識思想・発達理論・現代哲学を架橋する研究姿勢は、既存の専門分野の境界を創造的に揺さぶるものであり、まさに国際誌が関心を寄せるタイプの研究かもしれない。修士課程に在籍しているかどうかは、内容の価値とは本質的に無関係である。むしろ注意すべき点があるとすれば、それは「投稿先の選定」と「論文の位置づけ」である。いきなり最難関誌を狙う必要はなく、思想史・仏教学・宗教学・比較哲学系の中堅~専門特化型ジャーナルから始めるのが現実的である。また、論文の射程を過度に広げすぎず、「一つの問いを深く掘る」構成にすることで、修士課程の研究としても十分に評価される。重要なのは、「博士号を取ってから書く」のではなく、「書くことを通して研究者になっていく」という姿勢である。実際、多くの研究者は、修士課程在籍中の論文を起点として、博士論文やその後の研究テーマを形成している。したがって、仏教プログラム在籍中に積極的に論文投稿を行うことは、時期尚早どころか、極めて健全で戦略的な選択である。それは単に業績を増やす行為ではなく、自らの思考を学術共同体の中で鍛え、洗練させていく実践そのものである。言い換えれば、すでに「研究者として書いている」のであって、「資格が整ったら書く」という段階はすでに超えている。そのこと自体が、今後の研究人生において大きな意味を持つであろう。フローニンゲン:2025/12/28(日)08:15
17941. 「reification」と「substantiation」の違い
「reification」と「substantiation」はいずれも「実体化」と訳されることが多いが、その射程と哲学的含意には明確な差異がある。両者は似て非なる概念であり、とりわけ哲学・社会理論・仏教思想の文脈においては、区別して理解することが重要である。まずreification(物象化・実体化) とは、本来は関係的・過程的・構成的であるものを、あたかも固定的な「物」や「実体」であるかのように扱ってしまう認識の歪みを指す概念である。語源的には res(物) に由来し、「物として扱うこと」を意味する。これは主に認識論的・社会批判的文脈で用いられ、マルクス、ルカーチ、ホルクハイマー、アドルノなどによって発展的に論じられてきた。例えば「能力」「人格」「知能」「社会制度」など、本来は関係的・歴史的に形成される動的過程であるにもかかわらず、それを固定的な実体として扱うことがreification である。ここでは、世界のあり方そのものよりも、「それをどのように捉えてしまうか」という認識の歪みが問題となる。一方で substantiation(実体化・実体付与) は、より形而上学的な含意を持つ概念である。これは、抽象的・機能的・関係的なものに対して、実在的な基体(substance)を仮定することを意味する。すなわち「それが存在するためには、何らかの実体が背後にあるはずだ」と想定する思考様式である。例えば「心の背後に心的実体がある」「自己という固定的実体が存在する」「意識は何らかの基体に宿る」といった発想は substantiationにあたる。これは存在論的な誤認であり、存在の様式そのものを取り違える傾向を含んでいる。両者の違いを端的に言えば、reificationは認識の誤作動であり、substantiationは存在論的仮定の誤りであると言える。reificationは「過程を物として扱う」ことであり、substantiationは「関係を実体として措定する」ことである。前者は主に思考様式の硬直化を指し、後者は存在理解そのものの固定化を指す。仏教思想、特に唯識や中観の文脈においては、この両者はいずれも根本的な無明の形態と見なされる。唯識においては、識の働きを実体化すること(識実有論)自体が誤りであり、それは「遍計所執性」に相当する。これはsubstantiation的誤謬である。同時に、私たちは概念や名称、社会的役割を実在視し、それに縛られるが、これはreification的誤謬に近い。つまり、仏教はこの二重の実体化をともに超克しようとする思想である。現代思想や心理学においても、この区別は重要である。例えば「性格」「知能」「発達段階」を固定的な属性として扱えばreificationに陥り、それらを内在的実体として想定すればsubstantiationに陥る。成熟した理解とは、これらを動的・関係的・文脈依存的なプロセスとして捉えることである。総じて言えば、reificationは「ものの見方の硬直」であり、substantiationは「存在理解の硬直」である。両者は相互に補強し合いながら、人間の思考を固定化する。しかし同時に、両者を見分けることは、存在を流動的・関係的・生成的なものとして捉え直す契機ともなる。この視点は、哲学的思索のみならず、人間理解や自己理解においても深い解放的意味を持つのである。フローニンゲン:2025/12/28(日)10:01
17942. ブランダン・エイカー氏が推奨するウォームアップエクササイズ
ブランダン・エイカー氏の意図や演奏哲学が込められたウォームアップエクササイズは、ギターの最も低いE音から、12フレットの高いE音までを横断する「3オクターブのEメジャー・スケール」である。習得そのものは数分で可能だが、この練習には極めて本質的な学びが含まれている。それは、ギター全体を自信を持って移動する感覚を身につけることである。まず重要なのは、「音名」ではなく「ポジション」で考えるということである。最初は第2ポジションから始め、次に第6ポジションへ、さらに第9ポジションへと移動していく。自分の手が今どこにあるのかを明確に把握できるようになると、音は無理なく自然に指の下へと現れてくる。指板を点の集まりとしてではなく、空間として捉える感覚がここで育まれる。次に、右手の使い方である。レストストロークを用い、m–i(中指・人差し指)の単純な交互運動で弾くことが勧められている。特別なテクニックは必要なく、大切なのは一貫した動きと、温かく支えのある音色である。余計なことをせず、音そのものに集中することで、右手の安定感と音質が自然に高まっていく。三つ目のポイントは、ポジション移動を常にリラックスした状態で行うことである。良いシフトとは、静かで滑らか、そしてコントロールされているものである。腕全体をひとつのまとまりとして動かし、移動の瞬間には一度軽く力を抜き、次のポジションに自然に置き直す。この一連の動作が、無駄な緊張を防ぎ、正確さと安定感を生む。四つ目は、メトロノームを使ってゆっくり練習することである。まずは一拍に一音から始める。それが楽に感じられるようになったら、一拍に二音、さらに余裕があれば三連符や十六分音符へと進む。ただし、速さを追い求めるのではなく、「ゆっくりでも完全にコントロールできていること」が前提である。無理なく弾ける感覚が伴ってはじめて、テンポを上げる意味が生まれる。以下が、この三オクターブ・スケールの構成である。
6弦:E(開放)– F♯(2フレット)– G♯(4フレット)– A(5フレット)
5弦:B(2)– C♯(4)– D♯(6)– E(7)
4弦:F♯(4)– G♯(6)– A(7)
3弦:B(4)– C♯(6)→ポジション移動→ E(9)
2弦:F♯(7)– G♯(9)– A(10)
1弦:B(7)– C♯(9)– D♯(11)– E(12)
この三オクターブ・スケールが重要なのは、実際の音楽で求められる多くの要素を同時に鍛えられる点にある。ネック全体を滑らかに移動する感覚、音域ごとの音色の均質さ、確実なポジション移動、左右の手の協調、そしてギター全体を一つの統合された楽器として感じる感覚が、自然と身についていく。多くの演奏者が、この練習をウォーミングアップに取り入れるだけで、コントロール感や安心感が明らかに向上したと感じるという。時間をかけて丁寧に取り組み、ギターの持つ全音域を味わいながら探究してみたい。そこには、演奏そのものを深く楽しむための入口が静かに開かれているのである。フローニンゲン:2025/12/28(日)11:05
Today’s Letter
My daily life is full of vitality and creative energy, all of which derive from my sense of appreciation and gratitude. The stronger these feelings become, the more energy flows into my existence. Groningen, 12/28/2025


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