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【フローニンゲンからの便り】17930-17936:2025年12月27日(土)


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⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17930

仏教との多種多様な出会いに感銘を受けて

17931

今朝方の夢

17932

今朝方の夢の振り返り

17933

ゼミナールの第164回のクラスの事前課題(その1)

17934

ゼミナールの第164回のクラスの事前課題(その2)

17935

高フレットでのバレーコードの難しさ

17936

ゼミナールの受講生からいただいた興味深い問い

17930. 仏教との多種多様な出会いに感銘を受けて      

                     

仏教研究のポッドキャストを聴いていると、多くの研究者が語る「仏教との出会い」が、決して一様ではなく、むしろ驚くほど多彩であることに気づかされる。幼少期の家庭環境から自然に仏教に親しんだ者もいれば、留学先で偶然手に取った一冊の書物や、人生の危機的状況をきっかけとして仏教思想に惹きつけられた者もいる。その語りには、理論的関心だけでは説明しきれない切実さや、個人史と学問とが深く絡み合う独自の物語が宿っており、それ自体が仏教研究という営みの人間的厚みを物語っているように思われる。そのようなエピソードに触れるたびに、仏教研究は単なる対象研究ではなく、研究者自身の生の問いと応答し続ける実践であるという印象が強まる。自分自身を振り返ってみても、法相唯識との出会いは、計画的に選び取ったというよりも、いくつもの偶然と必然が重なったご縁の産物であったように感じられる。ある時期に、ある問題意識を抱えていたからこそ、唯識の言葉や構造が切実な意味をもって立ち現れたのであり、それが別の時期であれば、同じ教義であっても全く異なる距離感で受け止めていた可能性がある。このように、仏教研究との出会いには常に固有の時間性と文脈があり、その点において一人ひとりの研究者は代替不可能な立場に立っていると言える。さらに印象的なのは、それぞれの研究者が異なる入口から仏教に近づきながらも、最終的には各自の視点から学界に貢献しているという事実である。文献学的精査を通じて教義の細部を明らかにする者、比較哲学の観点から仏教の独自性を照らし出す者、あるいは現代思想や心理学との対話を通じて仏教の射程を拡張する者もいる。その多様性は、仏教が単一の解釈枠に回収される思想ではなく、問いを投げかける側の成熟度や関心に応じて、異なる相貌を現す生きた思想であることを示しているように思われる。この点において、自分は大きな励ましを受けている。仏教研究において重要なのは、唯一の正解に到達することではなく、自分が立っている地点を自覚し、その地点からしか見えない問いを丁寧に掘り下げていくことであるという感覚が、先行研究者たちの語りから伝わってくるからである。それぞれの人生と学問的関心が交差する場所で生まれた研究は、その固有性ゆえにこそ、学界全体にとって意味を持つ。仏教研究との出会いが多様であるという事実は、同時に、仏教そのものが多層的で開かれた伝統であることの証左でもある。自分自身の物語を引き受けつつ、その延長線上で法相唯識と向き合い続けることは、決して私的な営みに閉じるものではなく、同じように異なる物語を生きる他者との対話の可能性を拓く行為である。そのように考えると、研究の道のりそのものが、すでに仏教的実践の一部を成しているのではないかと感じられるのである。フローニンゲン:2025/12/27(土)06:08


17931. 今朝方の夢 

                 

今朝方の夢の世界は非常に穏やかであった。それはまるで大海の凪の状態であり、微風によって小さな波は立っていたかもしれないが、始終平穏な夢の世界が展開されていた。そのような中で覚えているのは、自分が唯識に関する講義を行なっていたことである。講義と言っても一方向的なものでは決してなく、受講者の方々と常に対話をしながら進められていくような形式であった。ここで興味深かったのは、受講者の一人一人の異なる意見や質問によって、そこに絶えず新たな真理が見出されるという体験だった。この体験を受けて、改めて私たち一人一人は真理に裏打ちされており、私たちという存在を通じてその真理が顕現されるのだと実感した。真理はどこか遠いところにあるのではなく、最も近く、いや近いという表現すら当てはまらないほどに、私たちの存在に絶えず内在しているものなのだ。遠くを眺めるのではなく、自分の内側を見つめること。仏教というのは、あくまでも内道なのであって、外を眺めることに焦点を当てる外道ではないのだ。そのことを改めて実感する。


もう一つ覚えているのは、軽い運動を毎日継続していくことの効能について知人たちに話をしている場面である。自分も毎日心拍数をある程度まで上げる運動を行なっていて、その継続による多大なる恩恵に気づいていることもあり、運動を知人たちに勧めることは必然であった。もちろん健康を促進するためには、その他にも食事と睡眠について話をしなければならなかったが、とかく座ることが多くなっている現代人にはまず最初に運動の勧めをすることが重要だと思った。運動をすることによって、自然と睡眠の質が改善されることも多く、食事にも良い影響がもたらされことが容易に想像された。フローニンゲン:2025/12/27(土)06:17


17932. 今朝方の夢の振り返り       

                     

今朝方の夢において広がっていた穏やかな世界は、自分の内的風景が一つの成熟した均衡点に達していることを象徴しているように思われる。大海が凪いでいるという情景は、外界の刺激や内的葛藤に揺さぶられず、深層において静けさが保たれている心的状態を示唆しているのだろう。そこにわずかな波が立っているという描写は、完全な静止ではなく、生命としてのリズムや生成変化が穏やかに続いていることを暗示しているようでもある。動きのない静止ではなく、動きを内包した静けさであり、それは成熟した精神状態の象徴と考えられる。そのような場で唯識について語っているという構図は、自分の内面で培われてきた思索や体験が、他者との関係性の中で自然に開かれ、共有されつつある段階を示しているように思われる。一方向的な講義ではなく対話であった点は重要であり、真理が固定された知識としてではなく、関係性の中で立ち現れる生きた働きとして理解されていることを象徴しているのだろう。受講者一人ひとりの問いや視点によって新たな真理が現れるという体験は、真理が単独の主体に所有されるものではなく、縁起的な交差の中でその都度顕現するという深い洞察を示しているように思われる。ここで示唆されているのは、真理とは探しに行く対象ではなく、すでに生のただ中に織り込まれているという感覚である。遠くにある理想や超越的原理を仰ぎ見るのではなく、今ここで生き、感じ、考えるという営みそのものが真理の顕現の場であるという理解が、夢の核心にあるように思われる。内を観るという行為は閉じこもることではなく、むしろ世界と最も深く接続するための開かれた態度であり、その点において仏道が「内道」と呼ばれる意味が、体験的に腑に落ちている様子がうかがえる。さらに、運動について語る場面は、精神的洞察が身体性と切り離されていないことを象徴しているように思われる。心拍数を上げるという具体的で生理的な行為が、精神の明晰さや生活全体の調和につながっていくという理解は、心身一如の実感に基づいている。知人に運動を勧める姿は、自身が得た気づきを独占するのではなく、他者の生にも役立てたいという自然な慈しみの表れであろう。運動が睡眠や食事へと波及していくという連関の把握は、生命を全体として捉える視座がすでに根づいていることを示唆している。この夢全体は、自分が内的成熟の静かな段階に入り、智慧・身体・関係性が調和的に統合されつつあることを象徴しているように思われる。真理は探究の果てに遠くで掴み取るものではなく、生の営みそのものとして、すでに足元に満ちている。そのことに気づいたとき、語り、動き、生きることそのものが他者への静かな導きとなる。人生においてこの夢が示す意味は、到達や完成ではなく、深まり続ける在り方への信頼であり、日常そのものを修行とし、智慧と慈しみを静かに世界へ滲ませていく生の姿勢を肯定することである。フローニンゲン:2025/12/27(土)07:44


17933. ゼミナールの第164回のクラスの事前課題(その1) 

                     

今日は年内最後のゼミナールのクラスがある。第164回の今日のクラスは今回の講座のまとめの初回ということで、今回扱った7本の論文のうちの4本を振り返っていく。それに伴って4問ほど事前課題を用意した。1つ目の問いは、「本論文では、成人発達を論じる際に用いられてきた「段階」や「レベル」という概念に対して、いくつかの理論的・方法論的な問題点が指摘されています。そうした問題意識の中で、「Altitude(高度)」という概念がどのような必要性から導入されたのかを、論文の文脈に即して説明してください」というものだ。本論文においてAltitude(高度)が導入される必然性は、成人発達研究で長く用いられてきた「段階」「レベル」という語が、理論的には不可欠でありながら、方法論的には誤用と混線を誘発しやすいという二重の困難を抱えている点にある。とりわけスタインは、異なる発達の「ライン(領域)」の段階概念を、あたかも共通の目盛りで比較できるかのように扱う傾向—ウィルバーが警告する「ラインの絶対化(stream absolutism)」—を根本問題として位置づける。すなわち、道徳領域で定義された「前慣習・慣習・後慣習」のような段階語を、そのまま認知領域へ横滑りさせることは理論的に不適切であり、同一の認知水準にあっても道徳水準は複数ありうる以上、段階語は原理的に「そのラインの現象に固有の深層構造」を指すにとどまり、他ラインへ還元できないのである。ところが同時に、発達研究には「多様なラインを、何らかの共通空間に配置して見通す」要請がある。多領域にわたるモデルや尺度が並立する状況で、それらを単に相対化して終えるだけでは、知見は断片化し、研究と実践の間で共有される“比較可能性”が失われる。そこでウィルバーは、多様な発達モデルが暗黙に参照してきた「共通の発達空間」を明示化し、諸ラインを同一のサイコグラフ上に整列させうる縦軸=“y軸”としてAltitudeを措定する。ここでのAltitudeは、特定領域の段階語ではなく、「諸ラインを同一空間に並置するための規制理念(regulative ideal)」としてのメタ方法論的概念として導入されるのである。しかし、規制理念としてのAltitudeは、そのままでは経験的に「測れる対象」ではない。スタインはここに第二の緊張を見出す。すなわち、Altitudeは統合のために要請されるが、それ自体はモデルの具体性から距離を取ることで統合機能を保っているため、「高度そのもの」を直接操作化することは原理的にできない、という緊張である。ゆえに本論文の核心は、Altitudeを実体化して測ろうとすることではなく、「高度のある側面(aspects)」に限定して、測定可能な形で取り出す条件を吟味する点にある。そこで登場するのがLAS(Lectical Assessment System)である。LASは、言語的遂行(話す・書く)に現れる発達的差異を手がかりに、ある限られた範囲でAltitudeの側面を測定する“ものさし”として提案される。ただしそれは万能ではなく、言語が媒介するラインとレンジに限られるという制約を自覚的に引き受ける。さらにスタインは、日常的に人が他者の発達的成熟を直観的に並べ替えられる事実を、重量や長さが「測定器以前」から直観可能であった状況になぞらえ、直観を科学的測定へ洗練する道筋としてLASを位置づける。こうしてAltitudeは、ラインの差異を潰す危険な一般化でも、単なる主観的印象でもなく、「多様な発達評価を一つの発達空間に整列させるために要請され、全体としては直接測ることができないため、その一部分だけを切り出して扱う必要がある概念」として導入されるのである。要するにAltitude導入の必要性は、ライン固有の段階語を横断的尺度として誤用する危険を回避しつつ、なお諸モデルを比較可能な共通空間へ配列したいという統合要請を満たすために、直接の実体ではなく規制理念としての“縦軸”を立て、その一部を言語的遂行に基づき限定的に操作化する、という形で現れているのである。


2つ目の問いは、「論文では、「表層的な構造」と「深層的な構造」を区別する視点の重要性が示唆されています。この区別が、発達評価の質にどのような影響を与えるのかを説明してください」というものだ。「表層的な構造」と「深層的な構造(より抽象度の高い構造)」を区別することが発達評価の質を左右する理由は、発達的成熟を示す手がかりが、常に同一レベルの証拠として現れるわけではないからである。表層には、語彙・主題・価値判断の言い回し・道徳的キーワード・領域固有の概念装置などが現れやすく、これらはしばしば評価者にとって分かりやすい。しかし、それらは学習経験や文化的慣れ、専門知識の蓄積によっても増幅され、必ずしも発達的な「組織化の水準」そのものを指示しない。ゆえに表層指標だけに依拠すると、「内容が高度に見える」ことと「構造が高度である」ことが混同され、過大評価・過小評価が起こりうるのである。この点を、ドーソンは「層(layers)」として整理する。論文の要旨は、領域固有の採点法(例:道徳領域・グッドライフ領域の採点)がしばしば要求するのは、ある領域の概念内容の適切さやその領域に特有の評価基準や社会的視点(surface structure)である一方、階層的複雑性(Hierarchical Complexity)の採点が主として捉えるのは、論理構造や抽象の階層化といったより形式的・汎領域的な“核”に近い構造(core structure)である、という点にある。実際、複数の採点体系の評定が高い割合で一致する一方で、採点の根拠に用いられている基準は大きく異なっていたという結果が示され、発達評定の背後に共有される次元(構造の核)がある可能性が論じられる。この区別が発達評価の質に与える影響は、少なくとも三点に整理できる。第一に、誤差の構造が見えるという点である。領域固有評価は、内容や社会的視点の“正しさ/望ましさ”を要件に含めるため、被検者が高度な推論構造を用い得ても、領域知識が乏しければ低く出る可能性がある。逆に、慣習的に洗練された表現を学習していれば、構造が未熟でも高く見える可能性がある。深層(核)と表層(領域要件)を分離して見ることで、どこが発達で、どこが学習・知識・社会化の反映かを切り分けられる。第二に、支援の設計が変わるという点である。表層と深層を混同した評価は、支援策を誤る。例えば同じ低得点でも、ある者は「核の構造(統合の階層化)」が未形成で、別の者は「核はあるが領域概念の分化が不足」しているだけかもしれない。論文が述べるように、垂直次元(階層的統合)と水平次元(領域内の概念分化)を分けて評価できれば、必要な介入は根本的に異なると判別できる。第三に、比較可能性と説明可能性が上がるという点である。核構造に焦点を当てるドメイン一般の評定は、領域横断・文脈横断の比較を可能にし、同一人物の複数領域における発達プロファイルを整合的に記述できる。一方で表層構造の分析は、領域固有の意味世界(価値・規範・専門性)を失わずに、発達がどのように内容として具体化しているかを説明する助けになる。層を区別することは、一般性(比較)と特殊性(意味)を両立させ、評価結果の解釈の透明性を高めるのである。以上より、表層/深層(核)の区別は、発達評価を「見た目の洗練度」から解放し、構造・内容・文脈の三者を整理したうえで、より妥当で介入可能性の高い評価へ変えるための方法論的要である。フローニンゲン:2025/12/27(土)08:02


17934. ゼミナールの第164回のクラスの事前課題(その2) 

                         

3つ目の問いは、「論文では、「測定できること」と「理論的に重要なこと」が必ずしも一致しない点が問題化されています。この点について、発達研究における具体的な含意を論じてください」というものだ。本論文が問題化する「測定できること」と「理論的に重要なこと」の不一致は、発達研究における知識生産の重心が、しばしば計測可能性へ引き寄せられ、理論が本来扱うべき生成過程や意味構造が取り落とされる危険を示すものである。モデルは説明の枠組みであり、メトリクス(指標・尺度)は使える知識としての具現であるが、尺度は作れるものから作られやすく、作れた尺度が研究課題そのものを規定してしまうことがある。ゆえに「測定可能性」は研究の技術条件である一方で、理論的重要性の保証にはならない。この不一致が持つ具体的含意は、第一に理論の縮減である。例えば発達を「段階」や「スコア」に落とすこと自体は有用であるが、発達とは本来、課題・文脈・領域によって揺らぐ可塑的な組織化のプロセスでもある。ところが尺度化が進むと、測れない側面(生成、移行、ゆらぎ、意味の厚み、倫理的含意)が副次的なものとして扱われ、理論が“スコアに回収できるもの”へ矮小化される。論文が指摘するように、メトリクスはサイコテクノロジーとして個人や共同体に影響を及ぼす以上、測れるものだけを重要視する態度は学術的というより政治的・倫理的帰結を持つ。第二に品質管理の錯覚である。測定が可能になると、あたかも客観性が確保されたかのように感じられる。しかし実際には、信頼性・妥当性の検証が不十分な“ソフトな尺度”が個人評価や選抜に転用されれば、誤判定は制度的な不正義へ直結する。論文は、LASやHCSSのように内部整合性などの量的校正を経た指標が限られることを述べ、使用目的(研究・教育・臨床・組織)に応じて妥当性・信頼性プロファイルを精査する必要を強調する。ここで重要なのは、測定可能性それ自体ではなく、「どの目的で、どの品質管理のもとで、どの程度の推論を許すか」というメトリクス運用の倫理である。第三に多元性の要請である。測定可能なものだけを残すと、発達研究は単一の尺度競争に陥りやすい。しかし論文が提唱するのは、指標を単一化することではなく、課題空間(problem-spaces)に応じて複数のメトリクスを使い分け、相互に透明化しながら改善していく「方法論的多元主義(metrological pluralism)」である。すなわち、理論的重要性を担保するには、複数指標の妥当性プロファイルを開示し、実践での効果検証をフィードバックし、測定の倫理・政治・教育的含意を議論する共同体的プロセスが必要となる。測定できることは出発点にすぎず、重要性はむしろ、この反省的な知識生産の循環の中で鍛えられるのである。


4つ目の問いは、「LDMAの事例からは、「発達的に可能であること」と「実際に行われること」との間にズレが存在することが示唆されています。このズレの意味について考察してください」である。LDMA(Leadership Decision Making Assessment)の事例が示す「発達的に可能であること」と「実際に行われること」のズレは、発達段階を能力の上限として理解するだけでは、現実の意思決定行動を説明できないという事実を突きつけるものである。論文は、LASで推定される発達水準と、意思決定場面で実際に発揮される視点取得(perspective taking)・視点探索(perspective seeking)の程度の関係を検討し、両者に一定の相関があることを示しつつも、分散の大部分は発達水準だけでは説明できないと述べる。つまり、より高い発達水準にある者であっても、場面によっては基本的な視点しか取らず、全ての関連視点を統合するわけではないのである。このズレの意味は、第一に、発達段階が「常時のパフォーマンス」ではなく「条件付きの潜在能力」として理解されるべきことを示す点にある。論文は、LDMAのジレンマが本来的に「階層的に入れ子になった複数視点の調整」を要求しているにもかかわらず、多くの回答者が視点取得を限定的にしか行わなかった事実を報告する。そしてその説明として、視点の側面が当人にとって顕著でなかった可能性、教育史や環境文脈によってその技能が呼び出されにくかった可能性を挙げる。これは、段階=内的能力が自動的に外的行為へ変換されるという素朴な段階決定論を否定し、文脈・動機・注意・制度が能力発揮を媒介することを示唆する。第二に、このズレは、成人発達研究における焦点が「能力の測定」だけでなく、能力が発揮される条件の設計へ移るべきことを含意する。論文は、視点探索がとりわけ頻度が低く、しかも高度な意思決定者でさえ十分に行わない技能であることを示し、教育や職場で明示的に教え支える必要を論じる。ここで重要なのは、発達水準を上げる介入(認知複雑性を高める)と、制度設計を変える介入(視点探索の顕著性を高める)を比較可能な仮説として提示している点である。すなわち「できるのにやらない」という現象は、個人の欠陥ではなく、発達と環境の相互作用として研究・実践の課題になるのである。第三に、このズレは、発達を「可能」から「望ましい(preferable)」へ橋渡しする規範問題として浮上させる。論文は「the possible and the preferable」という見出しで、発達段階の上昇が自動的に“より良い意思決定”へ直結するわけではない状況を論じ、能力の存在と価値ある行為の実現の間にギャップがあることを明確にする。このギャップを埋めるには、教育的フィードバック、職場文化、対話の規範、そして学習を促進する仕掛けが必要となる。したがって、成人発達の知見は「人を序列化する尺度」ではなく、「学習を引き出す環境づくり」の知へ転換されるべきである、という方向性が導かれる。以上より、LDMAが示すズレの意味は、発達段階を“決定因”として扱う理解を相対化し、段階=潜在的可能性、発揮=文脈と教育的支援に依存、望ましい行為の実現は規範と制度の問題、という三層の再定義を要請する点にある。これは、成人発達研究を測定中心の学から、研究と実践の循環(developmental maieutics)として再編するための理論的根拠ともなるのである。フローニンゲン:2025/12/27(土)09:41


17935. 高フレットでのバレーコードの難しさ 


高フレットでのバレーコード(セーハ)の難しさは、単に指の力や技術不足といった個人的要因だけでは説明しきれない。実際には、楽器の物理特性と身体の使い方が複雑に絡み合った現象であり、その一つとして弦の柔らかさや硬さが大きく関与していると考えられる。まず前提として、高フレットでは弦長が短くなるため、同じ押弦でも低フレットとは異なる力学が働く。フレット間隔が狭くなることで指の置き場は精密さを要求され、わずかな角度のズレや圧力の偏りが、そのままビビりやミュートとして現れやすい。ここに弦の張力や太さ、素材の違いが加わると、セーハの難易度は大きく変化する。一般にテンションの高い弦や太めの弦は、均一な圧をかけないと全弦を鳴らし切ることが難しく、高フレットではその傾向がより顕著になる。一方で、テンションの低い柔らかい弦は押さえやすい反面、指板への沈み込みが大きくなり、指の骨格や皮膚の形状によっては、かえって音の粒が揃いにくくなる場合もある。さらに重要なのは、弦の柔らかさが「救い」になるとは限らない点である。高フレットでは弦が振動する有効長が短く、少しの圧力過多でも音程がシャープしやすい。柔らかい弦ほどこの影響を受けやすく、セーハをかけた際に無意識に力を入れすぎると、音程の不安定さや和音全体の濁りを招くことがある。このため、高フレットのセーハでは「強く押さえる」よりも、「必要最小限で均等に支える」感覚がより強く求められる。また、ネック形状や指板のアール、弦高の設定も無視できない。高フレット側で弦高がわずかに高いギターでは、弦の硬さが心理的にも物理的にも増幅され、セーハが急に難しく感じられる。これは演奏者の技術が後退したわけではなく、楽器のセットアップと身体条件の相互作用が変化した結果である。特にクラシックギターでは、ナット側よりも12フレット以降の弦高調整が演奏感に大きな影響を与えるため、弦のテンション選択と合わせて総合的に考える必要がある。結局のところ、高フレットでのバレーコードの難しさは、技術・筋力・フォームの問題に還元されるものではなく、弦の物性、楽器の構造、そして演奏者の身体感覚が交差する地点に生じる現象である。弦の柔らかさや硬さは、その交差点における重要な変数の一つであり、自分にとって鳴らしやすいテンションと音程と音質を保てるテンションのバランスを探ることが、高フレット攻略の本質だと言える。セーハが難しく感じられるとき、それは技術の欠如ではなく、楽器と身体の対話が次の段階に入ったサインである可能性が高いのである。フローニンゲン:2025/12/27(土)10:40


17936. ゼミナールの受講生からいただいた興味深い問い  

                 

先ほどゼミナールの受講生から大変興味深い質問をいただいた。この問いの核心は、ドーソンとスタインが提示する「視点取得・視点探索・視点調整」という区分と、テリー・オファロンのSTAGESモデルにおける4.0(グリーン)と4.5(ティール)の差異、すなわち「視点の優先順位をつけられるか否か」との関係をどう理解すべきか、という点にある。一見すると、STAGES 4.5では視点の優先順位をつけられるのだから、ドーソンのいう視点調整まで到達しているのではないか、しかしドーソンの議論を踏まえると、ティール段階であっても視点調整はほとんど行われないはずであり、両者は矛盾しているのではないか、という疑問が生じる。この違和感は妥当であるが、結論から言えば、両者は矛盾しておらず、「同じ言葉で異なるレベルの現象を扱っている」と理解することで整理できる。まず、ドーソンらが論じる三つの視点関連概念は、きわめて厳密に定義されている。視点取得とは、他者や他集団の立場が存在することを理解できる能力であり、比較的多くの成人が到達する。視点探索とは、他にどのような視点がありうるかを自発的に探しに行く行為であり、これは発達段階が高くても、教育や訓練なしにはあまり行われない。さらに視点調整とは、複数の視点を相互に関連づけ、トレードオフを明示し、一貫した判断や行為として統合することであり、これは高度に構造化された意思決定能力を要する。ドーソンらの研究では、LDMAのような課題においても、この視点調整は極めて稀にしか観察されないとされている。一方、STAGESモデルにおける4.0と4.5の違いとして語られる「優先順位がつけられるか否か」は、より内的・日常的な水準の話である。4.0では多様な価値や視点を認識できるが、どれかを選ぶことが抑圧や排除に感じられ、決断が困難になる傾向がある。これに対し4.5では、多様性を尊重しつつも、「この状況では何を優先するか」を暫定的に決める責任を引き受け始める。この優先順位づけは、価値の完全な統合というよりも、相対化された価値の中から一時的な中心を置く能力である。ここで重要なのは、STAGES 4.5の優先順位づけは、ドーソンのいう視点調整と同一ではないという点である。前者は主として個人内の意味づけや判断の整理であり、後者は多主体・多利害・多制度を含む外的状況において、構造的に説明可能な形で統合を行う能力である。したがって、ティール段階にあるからといって、ドーソン基準の視点調整が安定的に行えるとは限らない。むしろドーソンは、発達段階が高くても、文脈設計や教育的支援がなければ探索も調整も起こらないことを強調している。以上を踏まえると、STAGES 4.5は、ドーソン的な視点探索や視点調整が「起こりうる内的前提条件」が整い始めた段階と理解するのが妥当である。両理論は異なる粒度と文脈を扱っており、発達段階が行為を自動的に決定するという素朴な段階決定論を、ともに相対化している点で、むしろ同じ方向を向いているのである。フローニンゲン:2025/12/27(土)12:45


Today’s Letter

The more I become aware of the construction process of my inner world, the more liberated and emancipated I become. The mind is like a painter that draws reality through language, constructing a unique world of experience. I now deeply understand this nature and its constant process. Groningen, 12/27/2025

 
 
 

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