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【フローニンゲンからの便り】17926-17929:2025年12月26日(金)


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タイトル一覧

17926

弦の交換タイミング

17927

今朝方の夢

17928

今朝方の夢の振り返り

17929

フェルナンド・ソルとジュリオ・サグレラスの教則本の違い

17926. 弦の交換タイミング     

                               

時刻は午前6痔を迎えようとしているが、今日もまた大変冷え込んでいる。今の気温はマイナス5度で、体感温度はマイナス10度のことである。今日はかろうじて0度まで気温が上がるが、昨日と同様に厳しい寒さであることを覚悟しておきたい。


先日、親友のメルヴィンが半年に一度弦を張り替えているということを述べていた。それは、一般的なアマチュア奏者としては決して珍しくない頻度である。しかし、自分のように毎日少なくとも6時間ギターを弾いている場合、その基準をそのまま当てはめることはできないかもしれない。結論から言えば、その演奏量であれば、3~6週間に一度、遅くとも2か月以内に弦を交換するのが現実的な目安なのではないだろうか。まず前提として、弦の寿命を決める最大の要因は「時間」ではなく「累積演奏時間」である。一般的に、ナイロン弦(あるいはカーボン弦)は100~150時間程度で音響的なピークを過ぎると言われる。1日6時間弾けば、20日で120時間に達する計算になる。つまり、音の鮮度という観点では、1か月弱で弦はすでに「最良の状態」を越えている可能性が高い。では、弦を交換すべきタイミングはどのように見極めればよいのか。その判断は、視覚や触覚よりも、演奏中の身体感覚と音の反応に現れることが多いらしい。第一のサインは、音の立ち上がりが鈍くなることである。以前なら右手で軽く触れただけで立ち上がっていた音が、同じタッチでも少し遅れて鳴るように感じられたとき、弦はすでに疲労していると考えられる。第二の指標は、倍音の衰えである。新しい弦は、基音の周囲に自然な倍音の揺らぎを伴うが、寿命が近づくにつれて音が平板になり、奥行きが失われていく。とくに高音弦で「歌わせようとしても伸びきらない」「ビブラートをかけても音が膨らまない」と感じる場合、それは弦がもはや振動の自由度を失っている兆候である。第三に重要なのは、左手の感覚である。弦が劣化すると、必要以上に力を入れないと音程が安定しなくなる。結果として、無意識のうちに左手に余計な緊張が生まれ、疲労が増す。長時間練習しているにもかかわらず、以前よりも指が重く感じられる場合、それは技術の問題ではなく、弦の状態が原因であることが多い。さらに、6時間という演奏量の場合、弦は単に「鳴らなくなる」のではなく、「身体との対話を邪魔する存在」になっていく。音色の幅が狭まり、表現の試行錯誤に対する反応が鈍くなると、練習の質そのものが下がる。弦の交換は贅沢ではなく、練習効率と身体の健康を守るための投資と捉えるべきである。総じて言えば、自分の演奏量であれば、「音が明確に死んでから替える」のでは遅い。音の立ち上がり、倍音の豊かさ、左手の軽さの三点に微細な違和感が生じた時点で交換することが、最も理にかなっている。弦は消耗品であると同時に、演奏者の感覚を映す鏡でもある。毎日6時間以上弾くからこそ、弦の声に耳を澄まし、最適なタイミングで新しい振動を迎え入れる姿勢が、長期的な上達を静かに支えていくのだと思う。フローニンゲン:2025/12/26(金)05:53


17927. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、ある知り合いと話をしていた場面があった。そこではお互いの今を振り返り、ここからの歩みについて語り合っていた。それを通じて、自分の内側からエネルギーが湧いてきて、再び今の地点から確かな歩みを進めていける確信があった。話の中でその人の苦労話が出てきて、それを通じて人は誰しも苦を抱え、辛い体験をしながら少しずつ人生を深めていくのだと改めて実感した。人生に苦は不可避であり、苦を超克していく道を解いた仏教の偉大さを再度確認した次第である。


次に覚えているのは、小中高時代のある女性友達(MH)と彼女の父と一緒にフットサルコートでフットサルの練習をしていたことである。彼女は運動神経が頭抜けて良く、彼女の父もまた運動神経が優れいた。そんな二人と練習をするのは楽しく、雑談を交えながら楽しく練習していた。練習後、彼女の息子の様子について話を伺った。特に、彼女が息子に対してどのように日々接しているのかを尋ねてみた。すると、彼女は息子に対して惜しみない愛情を注ぎ、優しく接しているとのことだった。その在り方はとても彼女のらしいと思い、きっと彼女の息子は立派に育つだろうと思った。コートを後にして宿泊している宿に戻ると、そのトイレに母がいることに気づき、外から声をかけたものの、母のプライベートな空間を大切にし、トイレから出てきたら話をしようと思った。


夢の最後に現れたのは、単線列車が走る田舎の町だった。自分は線路の上にいて、どうやら肉体は透明のようだった。そんな肉体だからこそ線路の上にいても問題なかったのである。線路の遠くを眺めていると、数両編成の小さい列車がやってきているのが見えた。線路脇にはポツポツと家が建っていてはいたが、この町の人口はとても少ないように感じた。ふと、こんな町で穏やかに生活するのも悪くないなと思った。線路の途中にレストランが見えた瞬間に、自分の意識はそのレストランの中にあった。ちょうど朝食ブュッフェを提供している時間らしく、置かれている品を見てみると、ヘルシーな和食がずらりと並んでいて、とても美味しそうに思えた。価格も1980円とのことでリーズナブルだったので、自分がこの町で暮らしていたら週に2回ぐらい朝食を食べにここにやって来るかもしれないと思った。フローニンゲン:2025/12/26(金)06:04


17928. 今朝方の夢の振り返り 

     

今朝方の夢全体は、自分がこれまで歩んできた人生の諸相を静かに統合し、次なる歩みへと向かう内的成熟の過程を象徴しているように思われる。冒頭で語り合う「知り合い」との対話は、単なる他者との会話ではなく、自分自身のこれまでの歩みを鏡のように映し出す内的対話である可能性が高い。互いの現在地を確かめ合い、これからの歩みについて語る場面は、過去の経験を整理し直し、それを未来への推進力へと転換する心的プロセスを象徴しているように思われる。とりわけ、話を通じて内側からエネルギーが湧き上がる感覚は、人生の意味づけが再統合されつつある兆しであり、自己の歩みを肯定的に引き受け直す瞬間を示しているのだろう。その流れの中で語られる「苦」の主題は、人生の陰影を避けることなく見つめ直す成熟した眼差しを象徴しているように思われる。苦を単なる不幸や障害としてではなく、人格を深める契機として理解する視点は、仏教的世界観の内面化を示している。苦を否定せず、むしろそれを通して生の厚みが生まれると理解する地点に立ちつつあることが、この場面から読み取れるのである。次に現れる学生時代の友人とその父とのフットサルの場面は、身体性と世代性、そして生のリズムを象徴しているように思われる。運動能力に長けた二人と共に身体を動かすことは、生命力そのものとの共鳴を表している。そこに漂う楽しさは、競争ではなく共鳴としての関係性を示しており、自己が他者と共にあることの自然さを思い出させている。また、友人が自らの子どもに注ぐ愛情に触れる場面は、世代を超えたケアの連鎖を象徴しているようである。ここには「育てる者」としての成熟した視点が映し出されており、それを温かく肯定する自分自身の心性が浮かび上がっている。その後に現れる母の存在は、根源的な安心感と距離の取り方を象徴しているように思われる。声をかけつつも、相手の私的空間を尊重して待つという態度は、依存でも拒絶でもない、成熟した関係性の在り方を示している。これは、他者との健全な境界を保ちつつつながるという、精神的自立の表現であると考えられる。夢の終盤に現れる田舎町と単線列車は、人生の速度を意識的に落とした静かな生の位相を象徴しているように思われる。透明な身体は、執着や重荷から自由になった意識状態を表しており、物理的制約を超えた軽やかな存在感を示唆している。人口の少ない町に惹かれる感覚は、外的な刺激や評価から距離を取り、本質的な充足へと向かう志向の表れである。そこで出会う素朴で健康的な食事は、心身を丁寧に養う生活への希求を象徴している。特別ではないが持続可能な幸福を、自分はすでに直感的に理解しているのかもしれない。この夢全体は、自己の来し方を静かに肯定しつつ、これからの人生を「穏やかに、しかし確かに生きる」方向へと調律していく内的過程を描いているように思われる。人生における意味とは、劇的な達成の中にのみ宿るのではなく、苦を抱えながらも他者と共に歩み、日常の中で静かな充足を見出していく営みそのものにあるのだと、この夢は示唆しているのである。フローニンゲン:2025/12/26(金)07:06


17929. フェルナンド・ソルとジュリオ・サグレラスの教則本の違い 

                                

フェルナンド・ソルとジュリオ・サグレラスは、ともにクラシックギター教育史において重要な位置を占める存在であるが、その教則本の性格と狙いは大きく異なっている。先般のイギリス旅行の際にロンドンの書店でソルの『The Complete Studies, Lessons and Exercises For Guitar』を手に取ったときに、サグレラスの教則本よりも難解に感じられた。この直感は、技術的難易度だけでなく、音楽的・思想的な射程の違いを正確に捉えていると言えるだろう。サグレラスの教則本は、近代以降の教育的配慮が色濃く反映されており、段階的で親切な構成を特徴とする。右手・左手の基礎動作が無理なく整理され、旋律も歌謡的で親しみやすく、学習者は「弾ける喜び」を保ったまま基礎を積み上げていくことができる。特に独学者にとっては、技術と音楽性を同時に育てやすい優れた導入教材であり、身体にギター演奏の基本的な運動パターンを刻み込むという点で大きな価値を持つ。一方、ソルの教則本は、同時代の古典派音楽語法を前提とした、より作曲家的・構造的な性格を有している。そこではギターは単なる伴奏楽器ではなく、和声を担い、声部を分離し、音楽的論理を体現する楽器として扱われる。そのため、初見では音符が多く、運指も複雑で、要求される集中力も高い。しかしそれは恣意的な難しさではなく、「なぜこの指で弾くのか」「なぜこの声部を際立たせるのか」という問いを、演奏者自身に突きつける構造になっていると考えられる。ソルの教則本を活用する最大のメリットは、ギター演奏を通して音楽そのものの思考様式を身体化できる点にある。単音の美しさだけでなく、内声の処理、和声進行の必然性、フレージングの論理が、練習曲の中に厳密に組み込まれているため、演奏者は自然と「楽譜を読む耳」と「音楽を組み立てる頭」を同時に鍛えられる。これは、後にバッハや古典派作品を演奏する際の基礎体力として、極めて大きな意味を持つだろう。また、ソルの教則本は、立って演奏する場合にも有効な教材であると考えられる。重心の安定、和声を支える左手の持久力、声部を弾き分ける右手の独立性など、身体全体を使った演奏が前提とされているため、結果として演奏姿勢や身体感覚が洗練されていく。これは、サグレラスで培った基礎の上に、より高次の統合をもたらす段階として位置づけることができるだろう。総じて言えば、サグレラスが「ギターを弾く身体」を育てる教則本であるとすれば、ソルの教則本は「音楽を思考する演奏者」を育てるための書である。前者で基礎を固め、後者によって音楽的自立を果たすとき、クラシックギターは単なる技巧の対象を超え、作曲家と対話するための知的楽器へと変貌するだろう。その意味で、ソルの教則本は難しいが、演奏者の視野と深度を決定的に拡張する教材であると評価できるのである。どこかのタイミングで購入を検討したい。フローニンゲン:2025/12/26(金)07:43


Today’s Letter

I wish everyone to be liberated from suffering. I work toward this myself, and through doing so, I gradually cultivate compassion and benevolence. I wish the world to be filled with loving-kindness. Groningen, 12/26/2025

 
 
 

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