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【フローニンゲンからの便り】17919-17925:2025年12月25日(木)



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タイトル一覧

17919

良縁をもたらす土壌を耕す営み

17920

今朝方の夢

17921

今朝方の夢の振り返り

17922

発達理論の系譜──発達心理学130年の展開(その1)

17923

発達理論の系譜──発達心理学130年の展開(その2)

17924

ヴィゴツキーとピアジェの発達理論

17925

コールバーグの発達理論

17919. 良縁をもたらす土壌を耕す営み


起床して2階の気温を確認したら随分と冷えていたので外気をチェックすると、なんとマイナス4度とのことだった。体感温度としてはマイナス12度と表示されており、通りで冷え込んでいるわけだ。今日は最高気温ですらもマイナスのようなので、寒さを覚悟しておこうと思う。


「良い因の種を植える」とは、将来の結果を直接コントロールしようとすることではなく、結果が自然に熟すための条件を、いまこの瞬間の行為・態度・心の向け方として整えることである。そして「良い縁をもたらす」とは、その種が発芽しやすい環境を、内外の両面から耕していく営みである。この二つは切り離されたものではなく、相互に支え合う一つの循環として理解されるべきである。まず、良い因の種を植えるとは、善悪の抽象的な判断以前に、「どのような心の状態で行為がなされているか」を丁寧に見つめることである。同じ行為であっても、焦りや承認欲求、恐れから生じたものと、落ち着きや配慮、誠実さから生じたものとでは、蒔かれる因の質は大きく異なる。したがって重要なのは、行為の量や派手さではなく、動機の透明度である。日常の中で、誰かに対して少し丁寧に話す、約束を軽んじない、安易に人を評価しないといった小さな選択の積み重ねこそが、最も確実に良い因の種となるだろう。また、良い因は他者に向けた行為だけでなく、自分自身への態度としても蒔かれる。無理な自己否定を避け、失敗を学習の素材として引き受け、疲れたときには適切に休むこともまた、未来の自分に対する善い因である。自分を粗雑に扱う心の癖は、やがて他者や世界の扱い方にも反映されるため、内的な自己関係を整えることは、縁の質を高める基礎作業でもある。次に、良い縁をもたらす方法とは、偶然を操作することではなく、縁が生じやすい「場」と「姿勢」を整えることである。良い縁は、閉じた自己完結的な世界には入り込みにくい。自分の関心や探究を外に向けて言葉にし、学びや実践を他者と共有しようとする姿勢があるところに、自然と人や機会は集まってくる。また、縁を急がず、即時的な見返りを求めないことも重要である。縁はしばしば時間差で熟し、思いがけない形で再び現れるからである。さらに、良い縁を引き寄せる最大の要因は、「一貫した在り方」である。状況や相手によって態度を極端に変えず、自分が大切にしている価値を静かに生きている人の周囲には、同質の志向を持つ縁が自然と形成される。これは戦略ではなく、結果として生じる共鳴である。結局のところ、良い因の種を植え、良い縁をもたらすとは、未来を支配することではなく、現在の質を高め続けることである。いまの一念、一挙手一投足が、すでに次の世界への入口であると理解するとき、人生は偶然に翻弄されるものではなく、意味の連鎖として静かに編み直されていくだろう。フローニンゲン:2025/12/25(木)06:31


17920. 今朝方の夢 

     

今朝方は夢の中で、夜の暗い街にいた。そこは欧州のどこかの街のようであった。人影はほとんどなく、私は数人の見知らぬ女性と話しながら歩いていた。どうやら彼女たちは知人のようで、外は暗いながらも気分は明るく楽しげに話をしていた。すると、左右にアパートが立ち並ぶ道の奥に凶暴そうな野良犬が待ち構えているのが見えた。すでにそれは唸り声を上げてこちらを威嚇していた。このまま直進すると噛み付いてきそうな気がしたので、私は野良犬の気を散らす為に宙に浮いてアパート沿いに移動し、野良犬の向こう側に降り立った。そこに追いかけてくるかと思いきや、全く追いかけてくる気配はなく、以前として彼女たちに睨みを利かせているようだった。何かその他に手段はないかと考えたところ、ふと思いついたのは、その野良犬を音符に変えて仕舞えばいいというものだった。自分には不思議な呪文が使える能力が備わっており、対象物を音符に変えることができた。ただし、仮にその呪文を発動すると、その野良犬だけではなく、全ての野良犬が音符になってしまうことには注意が必要だった。もちろん後からその呪文を解除することもできるので、まずは彼女たちを救おうと思った。


もう一つ覚えているのは、これから陸上競技場で100m走を行おうとしている場面である。どうやら自分はこの競技の決勝に進むことができたようで、両隣のレーンには小中学校時代の友人がいた。いざレースを開始しようと思ったところで、まだ自分はウォーミングアップをしていないと思った。偶然にもレースも少し時間帯がズレることになったので、ウォーミングアップがてらジョギングしようと考えた。陸上競技場を出て外に走りにいくと、やたらと足が前に進んでいき、快走が実現されていた。むしろ走りすぎないようにしないといけないほどに足がスイスイと前に出ていった。そこでふと足元を見ると、自分はスケートボードに乗っていた。だから早く前に進めていたのだと合点がいき、そこからはスケートボードを車と同じぐらいの速度で飛ばして海沿いの道を走った。前後からやってきた車の中で、居眠り運転かもしれないと思うほどに左右にふらついている車があったことが印象的で、事故を起こさず無事でいてほしいと願ったところ、そこからは真っ直ぐに正常の運転になったのでほっとした。事故が起きず、自分も気分が爽快になったので、後ほどのレースもきっと良い結果が出せるだろうと思った。フローニンゲン:2025/12/25(木)06:47


17921. 今朝方の夢の振り返り


今朝方の夢は、自分が現在生きている精神的成熟の過程と、その過程に伴う責任・自由・創造性の統合を象徴的に描いている可能性が高いと考えられる。舞台が夜の欧州の街であることは、意識の明晰さと無意識の深層が交錯する「移行領域」を示しているようである。光が乏しいにもかかわらず、不安よりも静かな楽しさがある点は、未知や不確実性に対して恐怖よりも好奇心と信頼が優勢になりつつある心理状態を示唆しているように思われる。共に歩く女性たちは、現実の他者であると同時に、内的な感受性、直観、関係性への開かれを象徴している可能性がある。その穏やかな対話の流れを遮るように現れる野良犬は、未統合の衝動性や攻撃性、あるいは制御されていない原初的エネルギーの象徴であるように感じられる。それは恐怖として迫ってくるが、同時にこちらを越境させない境界線としても機能しているようである。注目すべきは、その脅威に対して正面衝突を選ばず、宙に浮くという形で次元をずらして対応している点である。これは問題を力で抑え込むのではなく、視座そのものを変えることで超えていく態度を象徴しているように思われる。そして、野良犬を「音符」に変えるという発想は、破壊的エネルギーを創造的秩序へと変換する能力、すなわち暴力性や恐怖を意味や調和へと昇華させる力を示しているようである。ただしそれが世界全体に波及する可能性を自覚している点に、成熟した倫理的配慮が感じられる。力を持つことと、それを慎重に扱う責任とが、ここで一体となって表現されている。後半の陸上競技の場面は、人生における競争や達成、社会的評価を象徴しているように見える。決勝まで進んでいるという事実は、すでに相当の準備と成熟が整っていることを示している。しかし、あえてウォーミングアップを選ぶ姿勢は、結果よりも内的整合性を重んじる態度の表れである。そこから自然に加速し、努力という感覚を超えて前へ進む体験は、自己の力が環境と調和したときに生まれる「流れ」に近い。スケートボードという媒介は、努力と遊び、制御と自由の中間に位置する象徴であるように思われる。速さを得ながらも地面と接し続けている点に、現実から遊離しない精神的飛躍が示されている。さらに、他者の危うさを見て無事を願うと、それが現実化する場面は、自身の内的安定が周囲にも秩序をもたらすという感覚を映し出しているようである。この夢全体は、自己の内なる力を恐れずに引き受けながら、それを他者と世界のために調和的に用いていく段階へ移行していることを示唆しているように思われる。人生において、速度や成果そのものよりも、どのような意識状態で世界と関わるかが問われており、その成熟が静かな確信として根づき始めていることを、この夢は語っているようである。フローニンゲン:2025/12/25(木)08:00


17922. 発達理論の系譜──発達心理学130年の展開(その1) 

       

今日は知人の鈴木規夫さんとの共著に向けた第二回目の対談収録がある。今日のテーマは、「発達理論の系譜──発達心理学130年の展開」というものだ。発達心理学の系譜を130年の射程で振り返るとき、そこに一貫して流れているのは、「人間はどのようにして世界を理解し、自己を形成していくのか」という根源的問いである。発達理論は単なる年齢差や能力差の説明理論ではなく、人間存在そのものの生成過程を解明しようとする思想的営為として成立してきた。その起点に位置づけられるのが、ジェームズ・マーク・ボールドウィンである。ボールドウィンは、発達を生物学的成熟の結果としてではなく、社会的相互作用を通じた自己形成のプロセスとして捉え、個体と環境の循環的関係性を理論化した。ここにはすでに、後の構成主義や文化歴史的理論へと連なる「関係性としての発達」という萌芽が見て取れる。この流れを決定的に体系化したのが、ジャン・ピアジェである。ピアジェは、子どもが外界をそのまま写し取る存在ではなく、能動的に世界を構成する存在であることを示し、発達を「認知構造の質的転換」として捉えた。感覚運動期から形式的操作期に至る段階理論は、その後の発達研究の基盤を形づくっただけでなく、「発達とは知の枠組みそのものが変わる過程である」という構造主義的理解を心理学に定着させた点で画期的であった。ただし、ピアジェ理論は普遍的段階を想定するがゆえに、文化や社会的文脈の影響を相対的に捉えきれないという限界も内包していた。この構造主義的発達観を道徳・価値の領域へと拡張したのが、ローレンス・コールバーグである。コールバーグは、道徳判断が年齢とともに高度化するだけでなく、判断の背後にある論理構造が段階的に変容することを示し、発達理論を倫理の領域へと接続した。彼の研究は、発達を単なる適応能力の向上ではなく、「より普遍的・反省的な正義理解への移行」として捉える視座を提示した点で重要である。しかし同時に、合理主義的・認知中心的であるがゆえに、感情や関係性、文化的多様性を十分に包摂できないという批判も受けた。成人期の発達を真正面から理論化したのが、ロバート・キーガンである。キーガンは、人間の発達を「主体として自分を支配しているものを、客体として捉え直せるようになる過程」として定義し、成人期においても意味生成の深層構造が転換しうることを示した。彼の理論は、発達を能力の増大ではなく、「自己と世界の関係様式の変化」として捉え直し、教育・組織・臨床といった実践領域に強い影響を与えた点で、発達理論史における大きな転換点となった。キーガンの枠組みをさらに精緻化し、発達の最上位領域にまで踏み込んだのが、スザンヌ・クック=グロイターである。彼女は、自己が固定的な中心を失い、文脈そのものを相対化できる段階や、パラドックスや不確実性を内包した認識構造を記述し、発達理論を存在論的・哲学的次元へと拡張した。一方で、その高度な抽象性は、理論の誤解や神秘化を招きやすいという課題も孕んでいる。さらに近年、発達を固定的段階ではなく、文脈依存的な複雑性として捉え直したのが、カート・フィッシャーである。フィッシャーは、人間の発達を単一の段階水準で表すことの危険性を指摘し、課題・領域・環境によって発揮される構造的複雑性が変動することを示した。この視点は、発達を「人の属性」ではなく、「人と文脈の相互作用パターン」として理解する方向性を明確に打ち出したものである。フローニンゲン:2025/12/25(木)08:14


17923. 発達理論の系譜──発達心理学130年の展開(その2)

         

構成主義的発達理論を社会・文化の次元へと根本的に拡張したのが、レフ・ヴィゴツキーの文化歴史的発達理論である。ヴィゴツキーは、発達を個人内部の成熟過程としてではなく、言語・道具・他者との相互作用を媒介とした社会的プロセスとして捉え、「最近接発達領域」という概念によって、学習と発達の動的関係を理論化した。この視点は、ピアジェの構成主義と対立的に理解されることも多いが、実際には両者は補完関係にある。すなわち、ピアジェが明らかにした「内的構成過程」と、ヴィゴツキーが示した「社会文化的媒介過程」を統合することで、発達は「関係的創造のプロセス」として再定義されるのである。このような理論的展開を支えてきたのは、発達研究者たちの明確な「意図」や「使命」であった。彼らの関心は、発達を測定し分類することそれ自体にあったのではない。ピアジェは教育改革を通じて思考する市民の育成を志向し、コールバーグは民主社会を支える道徳的判断力の涵養を目指した。キーガンは、近代社会において人々が無自覚に背負わされている意味の枠組みから自由になる可能性を探究し、クック=グロイターは、人間が自己中心性を超えて世界と関係し直す成熟の地平を描こうとした。発達理論は常に、教育・臨床・社会変革という実践的課題と結びつきながら発展してきたのである。実際、発達理論の実践史を振り返ると、それは「人間理解の技術」として多様な文脈で活用されてきた。教育現場では、学習者の思考構造を理解し、適切な支援を行うための理論として用いられ、臨床心理の領域では、クライアントの意味生成様式を尊重した関係形成の基盤となった。さらに近年では、組織開発やリーダーシップ研究において、複雑な意思決定や多様な価値観を統合する能力を育む枠組みとして注目されている。ここで価値を発揮してきたのは、段階モデルそのものではなく、「今この人は、どのような世界の見方の中で生きているのか」を理解しようとする発達的視座である。以上のように、発達理論の130年の歴史とは、理論の精緻化の歴史であると同時に、人間をより深く理解し、よりよく支援しようとする倫理的探究の歴史でもあった。発達理論は、個人の優劣を測るための尺度ではなく、人が世界とどのように関係し、いかに成熟しうるかを照らし出す知のレンズとして進化してきたのである。この視座こそが、次回の対談以降で扱われる発達理論の変容と未来を理解するための、最も重要な基盤である。フローニンゲン:2025/12/25(木)09:30


17924. ヴィゴツキーとピアジェの発達理論  

         

ヴィゴツキーとピアジェは、20世紀の発達心理学を代表する二人の思想家であり、いずれも人間の認知発達を「構造的変容の過程」として捉えた点で共通している。しかし、その発達を駆動する原理の捉え方には本質的な差異がある。ピアジェが個体内部の構成的過程を重視したのに対し、ヴィゴツキーは社会的相互作用と文化的媒介を発達の原動力として位置づけたのである。ピアジェの発達理論の中核には、「同化」と「調節」という二つの機能がある。人は外界の出来事を既存の認知構造に取り込もうとするが、それが不可能な場合には、認知構造そのものを変容させる。この均衡化のプロセスを通して、思考は段階的に高度化していく。ピアジェは発達を感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期という普遍的段階として捉え、論理的思考の成立を人間発達の到達点の一つと考えた。ここでは、発達は内発的であり、子どもは自ら世界を構成する能動的存在として描かれる。一方、ヴィゴツキーは、人間の高次精神機能は本質的に社会的起源を持つと考えた。個人の内的思考は、もともと他者との対話や共同活動として外在的に存在し、それが内面化されることで成立するとされる。とりわけ重要なのが「最近接発達領域(ZPD)」という概念であり、これは「一人ではできないが、他者の支援があればできる領域」を指す。発達とは、すでに獲得された能力ではなく、関係性の中で開かれる潜在的可能性において理解されるのである。両者の決定的な違いは、発達の方向性をどこに見出すかにある。ピアジェは認知構造の自己組織化を重視し、発達を内的必然性の連鎖として捉えた。それに対してヴィゴツキーは、言語・記号・文化的道具といった媒介を通じて、社会が個人の思考様式を形づくると考えた。この違いは、学習と発達の関係にも現れる。ピアジェにとって学習は発達の結果であるのに対し、ヴィゴツキーにとって学習は発達を先導する契機である。しかし両者は対立的というより補完的である。ピアジェが明らかにした認知構造の内的論理は、ヴィゴツキーの社会文化的枠組みによって、より動的で関係的な文脈へと拡張される。実際、現代の発達理論では、個体内の構造化と社会的相互作用の往還こそが発達の本質であると理解されつつある。この統合的視点から見ると、人間の発達とは単なる能力の獲得ではなく、意味を共創する関係性の中で自己を再編成していく過程であると言える。個人は社会に規定される存在であると同時に、社会を更新する主体でもある。ヴィゴツキーとピアジェの理論は、その両義性を異なる角度から照らし出し、人間がいかにして「人間になっていくのか」を深く問い続けているのである。フローニンゲン:2025/12/25(木)14:42


17925. コールバーグの発達理論  

       

ローレンス・コールバーグは、ピアジェの認知発達理論を道徳領域へと拡張した発達心理学者であり、人間がどのようにして「善悪を判断する力」を形成していくのかを体系的に明らかにした人物である。彼の理論は、道徳性を単なる社会的規範の内面化としてではなく、思考構造そのものの発達として捉えた点に大きな特徴がある。コールバーグは、道徳的判断を「行為の結果」や「社会的評価」ではなく、その背後にある「理由づけの構造」によって分析した。彼は道徳判断を三水準六段階に分類した。第一水準は前慣習的水準であり、罰の回避や自己利益を基準として善悪が判断される段階である。ここでは道徳は外部から与えられた力として経験される。第二水準は慣習的水準であり、社会的承認や秩序維持が重視される。個人は集団の期待や規範を内面化し、「良い人」であることや社会の安定を基準に判断を行う。第三水準は後慣習的水準であり、社会規範そのものを批判的に吟味し、普遍的原理に基づいて判断する段階である。ここでは正義や人権といった抽象的価値が判断の基盤となる。この理論の重要性は、道徳性を単なる情緒やしつけの問題ではなく、認知構造の発達として位置づけた点にある。コールバーグは、道徳的成長とは「より高次の視点から葛藤を統合できるようになる過程」であると考えた。すなわち、自己中心的視点から社会的視点へ、さらには普遍的視点へと、視野そのものが拡張されていくのである。この点でコールバーグは、ピアジェの構成主義を継承しつつ、それを倫理的次元へと深化させた存在である。一方で、ヴィゴツキー的観点から見ると、コールバーグの理論は個人の内的推論構造を重視しすぎており、文化や関係性の影響が十分に考慮されていないという批判も存在する。実際、道徳的判断は常に社会的文脈の中で形成され、他者との対話や葛藤を通じて洗練されていく。それでもなお、コールバーグの意義は、人間の道徳性を「成長しうるもの」として明確に位置づけた点にある。善悪の感覚は固定された性格特性ではなく、問い直され、揺さぶられ、再構成される過程そのものである。この視点は、教育やリーダーシップ、さらには社会制度の設計においても深い示唆を与える。総じて、コールバーグの理論は、人間が単に規範に従う存在ではなく、価値そのものを問い直し、より普遍的な正義を志向する存在であることを示している。人は発達を通じて、他者との関係性の中で自己を超え、より広い倫理的地平へと歩み出す存在である。この洞察は、現代社会においてなお強い思想的意義を持ち続けているのである。フローニンゲン:2025/12/25(木)14:49


Today’s Letter

We are living in a cultural cradle. I am concerned about the current state of human culture. If its quality continues to decline, humanity itself will become degraded. All of my activities should contribute to nurturing human culture. Groningen, 12/25/2025

 
 
 

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