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【フローニンゲンからの便り】17913-17918:2025年12月24日(水)


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タイトル一覧

17913

ブランダン・エイカー氏の演奏解釈から学ぶ事柄

17914

今朝方の夢

17915

今朝方の夢の振り返り

17916

鍛錬の沈殿を象徴する今朝方の夢の不思議な現象

17917

智慧の完成形としての仏と慈悲の運動体としての菩薩

17918

幼少期からのスポーツ体験の恩恵を感じて

17913. ブランダン・エイカー氏の演奏解釈から学ぶ事柄 

                     

ブランダン・エイカー氏の演奏解釈が印象的なのは、音を「正しく並べる」以前に、音が立ち上がる情景をはっきりと生きている点にある。そこでは楽譜は設計図ではなく、映画の脚本に近い。書かれているのは台詞や動作の骨格であり、光の当たり方、空気の温度、登場人物の心情までは直接は書かれていない。それらを補い、現実の一場面として立ち上げる行為こそが、演奏解釈である。この発想を身につけるために有効なのが、「この曲はどの映画の、どの瞬間に流れている音楽か」を想像する訓練である。例えば、ゆったりしたアンダンテは、夜明け前の静かな街を一人で歩く場面かもしれない。短調の旋律は、何かを失った直後ではなく、失った事実をようやく受け入れ始めた午後の光の中かもしれない。重要なのは、感情のラベルを貼ることではなく、具体的な時間・場所・身体感覚まで想像することである。風は吹いているのか、空は曇っているのか、歩いているのか、立ち止まっているのか。そこまで像が結ばれると、音の速度、重さ、間の取り方は自然に決まってくる。この訓練が技術練習と深く結びつく点も見逃せない。情景が浮かぶと、右手のタッチは「強く弾くか弱く弾くか」という二択ではなく、「遠景なのか近景なのか」という奥行きの問題になる。左手のスラーも、単なる装飾ではなく、視線の移動や呼吸の連続として意味を持ち始める。つまり、映画的イメージは表現を豊かにするだけでなく、無意識に音楽的な合理性を身体に与えるのである。ただし注意すべきなのは、情景を固定しすぎないことである。同じ曲でも、今日はモノクロ映画のワンシーン、別の日には色彩の濃い長回しの場面として立ち上がってよい。むしろ、その揺らぎこそが解釈の成熟である。ブランダン・エイカー氏の演奏が魅力的なのは、「唯一の正解」を提示するからではなく、想像力が開かれたまま保たれているからだと言える。このような訓練を続けていくと、楽譜を見る行為そのものが変わる。音符は記号ではなく、まだ撮影されていない映画のコマになる。演奏とは再生ではなく、毎回その映画を初上映する行為になる。そうした意識でギターを手に取るとき、練習は義務ではなく、静かな創作の時間へと変わっていくはずだ。フローニンゲン:2025/12/24(水)06:06


17914. 今朝方の夢 

                         

今朝方は夢の中で、見慣れない建物の外にいて、小中高時代のある友人(TO)と話をしていた。彼が嬉しそうに、建物の外には濃厚なココアが販売されている自販機があるとのことで、そこに連れて行ってくれた。見ると、とても背の低い自販機があり、確かにそこには濃厚そうなココアが販売されていた。彼はどうやら細かい現金がなく、30円ほど足りないようだったので、彼に30円を貸すことにした。しかし、金額が金額だけに、彼に30円をあげることにした。すると彼は満面の笑みを浮かべてココアのボタンを押してココアを淹れ始めた。続いて私もココアを買うことにし、購入後、再び建物の中に戻ることにした。建物の中に戻ると、そこは実際に通っていた高校の校舎の中のようだった。教室に入ると、そこでは机と椅子が後ろの方に全て固められて置かれており、座れない状態だった。自分を含めて生徒たちはなんとかスペースを作って座ることにしたが、教室の前半分はガラ空きの状態だった。そこに高校一年生の時の担任の先生かつ数学の先生がやって来て、授業を開始することになった。先生も教室の状態を見て最初驚いているようだったが、その状態で授業が始まった。数学の授業と思いきや、ミシェル・フーコーの哲学書を取り上げた授業が始まった。先生の独自の解釈で進んでいく授業は、最初のうちは楽しく感じられたが、フーコーによる発達心理学批判の論旨を先生は曲解しているように思え、そこが引っかかった。その場で先生に疑問をぶつけようと思ったが、日本の高校に戻って来たのは久しぶりだったので、日本の教育システムの在り方を思い出し、黙って様子を見ることにした。授業が終わる直前にほとんどの生徒が一斉に教室から出ていった。残っていたのは自分を含めて数名の生徒だった。その状況を見て、先生に先ほどの疑問をぶつけてみることにした。正直なところ、哲学にせよ心理学にせよ、自分の方が先生よりも専門的な教育を受けており、議論をすると先生が不利になり、先生のプライドを傷つけてしまうことを配慮した。しかし、先生は引き続き曲解の主張を譲らず、自分の意見に対して常に歪んだ主張を繰り返してくることもあり、先生の悪見を正見にするのもまた自分の役割かと思い、丁寧に主張を続けていった。だが先生の意見はそう簡単に変わることはなく、先生の強いプライドもあって、議論は平行線であった。くだらないプライドにしがみついて生徒の意見をフラットに耳を貸さないのが多くの日本の教師の姿であることを思い出し、埒が明かないと思ったので、先生との会話を切り上げることにした。それだけではなく、こうした教育現場に長く身を置けば置くだけ、自分の知性と品格が劣化していくと思ったので、即断で高校を辞める決意をした。そもそも自分は大学院をすでに卒業しているし、戻るべき大学院もあったので、いまさら高校にいる意味などなかったのだと改めて気づき、気分が晴れやかになった。腐った学校からの解放は、自分を大いに喜ばせたのである。


もう一つ覚えているのは、見慣れない部屋のホワイトボードを前にして、小学校時代のある友人(TM)と夢の振り返りをしていたことである。彼と一緒に昨夜見た夢をホワイトボードに書き出していって、意見交換をした。それが程よいところで落ち着くと、その部屋の奥にあった広い風呂に入ることにした。彼が先に入り、彼が出た後に自分も入ろうとすると、そこで広島の修道高校出身の予備校時代の友人も同時に風呂に入ろうとしていた。その風呂は数人以上余裕で入れるものだったので、彼と一緒に浴槽に浸かり、勉強の話をした。彼は医学部への進学を検討しており、日々の勉強に熱心に打ち込んでいて、彼の勉強の姿勢は自分にも良い影響を与えていた。彼は母親との面会がこの後あるらしく、一人先に風呂を出た。私もそこから少し経って風呂を出て、体を拭き始めると、スマホにある通知が届いた。どうやら小中学校時代のある野球部の二人の友人がコラボでラジオを始めたらしかった。早速URLをクリックして彼らのラジオを再生してみると、オープニングのBGMがとても印象的で、それを聞いていると、まるで夢の中の世界であるかのように、幻想的なビジョンが立ち現れた。片方の友人がオープニングの言葉を述べようとした瞬間に夢から覚めた。フローニンゲン:2025/12/24(水)06:25


17915. 今朝方の夢の振り返り 


今朝方の夢の骨格は、「甘い一杯」から始まって「制度からの離脱」へ至り、最後に「他者の声(ラジオ)」が開く幻想で目覚める、という三段階の通過儀礼であるように思われる。まず見慣れない建物の外でTOに導かれ、背の低い自販機から濃厚なココアを買う場面は、自分の中にある幼い入口から滋養を受け取る象徴であろう。自販機が低いのは、背伸びして獲得する知ではなく、屈んで触れる種類の温かさ、つまり原初的な安心や友情の回路が作動していることを示すのかもしれない。30円という微細な不足を「貸す」ではなく「あげる」に変える決断は、交換や貸借の論理から、贈与の論理へ自分が移行している徴のように見える。ここでの満面の笑みは、知性より先に人間関係が回復するときの明るさであり、のちに訪れる硬い議論の場面への対照的な序章であると思われる。建物の中が高校の校舎へ変換され、教室の机と椅子が後方に固められ前半分が空いている配置は、学びの空間が「前へ進むため」ではなく「後ろに退避するため」に再編されている、という違和感の表象ではないか。前半分の空白は、実は自分の現在の射程—大学院を終え、さらに先へ向かう視野—がすでに開いているのに、制度の側がそこを活用できていない空洞を映しているようにも思える。担任の数学教師がフーコーを講じるというねじれは、権威が自分の管轄外の言説を自らの権威の延長として扱い、批判の刃先を無害化してしまう構図の縮図であろう。フーコーの発達心理学批判を曲解していると感じるのは、自分が「批判とは何か」をすでに方法として身につけていて、教師の語りが批判ではなく自己防衛の装置になっていることを見抜いているからだと思われる。そして、自分がその場で疑問をぶつけず、いったん日本の教育システムの“空気”を思い出して沈黙する場面は、知的正しさと社会的摩擦のコストを瞬時に天秤にかける高度な状況判断の象徴である。授業終盤に生徒が一斉に出ていき、少人数が残るのは、「集団の同調から離れて問いを保つ者」だけが最後に残る、という選別のイメージにも見える。そこで議論を開始し、相手のプライドを傷つけないよう配慮しつつも、悪見を正見へ向ける責務を感じて丁寧に主張を続けるのは、自分の中で慈悲としての知性が立ち上がっている証左であろう。しかし平行線に終わるのは、議論が知の交換ではなく身分秩序の維持として働く場では、正しさが相手に届く前に遮断されるという認識が、夢の中で形式化された結果のように思える。最終的に高校を即断で辞め、大学院に戻るべきだと気づいて晴れやかになるのは、制度批判の勝敗ではなく、環境選択こそが自分の品格と知性を守る実践である、という結論が夢の言語で確定した瞬間であろう。「腐った学校からの解放」という快さは、怒りの発散というより、適切な場所へ移るときに生じる呼吸の回復に近い。後半のホワイトボードは、夢そのものを対象化し、言語化して共同で眺める“メタの部屋”であると思われる。TMと振り返りをするのは、自分の内省が孤独な反芻ではなく、対話によって整流される性質を持っていることの表れであろう。その奥の広い風呂は、分析の後に来る浄化と回復の場であり、複数人が入れるという広さは、自分の学びが競争的な個人技ではなく、共に浸かれる共同体的な熱を必要としていることを示すのかもしれない。予備校時代の友人と浴槽で勉強の話をし、医学部を目指す姿勢に良い影響を受けるのは、知が権威の誇示ではなく、努力と実務に裏打ちされた献身として立ち現れるとき、自分は自然に励まされる、という価値観の確認に見える。母親との面会へ向かう彼の退出は、学びが最終的に家族や現実の関係へ回収されること、すなわち知の倫理的な着地を象徴しているようにも思われる。最後に、野球部の旧友二人が始めたラジオの通知が届き、印象的なBGMが幻想的ビジョンを立ち上げる場面は、過去の人間関係が“声”として現在に再接続される合図であり、音が夢と現実の境界を溶かす鍵になっているように思える。オープニングの言葉が始まる直前に覚めるのは、まさに「これから語られる物語」が現実側で続いていくこと、夢が渡したバトンがこれからにあることを示唆しているのかもしれない。人生における意味は、甘いココアのような素朴な贈与と友情を出発点にしつつ、権威や制度に絡め取られた場からは潔く離脱し、対話・浄化・学び直しを経て、最終的には他者の声が開く新しい共同性へ自分を接続していく、という方向性の確認であるように思われる。自分は「正しさで勝つ」より「適切な場を選び、品格と知性を保ったまま貢献する」生き方へ、さらに舵を切ろうとしているのではないか。フローニンゲン:2025/12/24(水)08:08


17916. 鍛錬の沈殿を象徴する今朝方の夢の不思議な現象 

                   

そう言えば今朝方の夢の中で、自分の左手が勝手に動き、これまで練習していた曲が自由自在に弾けるようになっていた場面があったのをふと思い出した。それはとても印象的な現象で、これまでの練習が目には見えないところで蓄積し、発酵した結果として起こっていた現象のように思える。本当に指が自然と動いてくれ、メロディーに乗る形で自動で動いていた。この夢に現れた「左手が勝手に動き、練習してきた曲が自由自在に弾けている」という現象は、単なる願望充足ではなく、身体化された学習が臨界点を越えたことを象徴的に示す体験であるように思われる。そこでは、意志による操作や意識的な制御が前面に出るのではなく、音楽そのものに導かれるように指が自然に運動していた。この「自然さ」こそが、長期にわたる反復練習がもたらす質的転換の核心である。神経学的に見れば、反復練習によって運動野・小脳・感覚野の回路が再編され、個々の指の運動が「命令→実行」という逐次処理ではなく、まとまりを持った運動パターンとして一括的に起動されるようになる。この段階では、指はもはや一音一音を意識的に探しに行かない。メロディー、和声、フレーズという音楽的単位がトリガーとなり、それに対応する運動全体が自動的に立ち上がる。夢の中で起こった「指がメロディーに乗って動く」という感覚は、まさにこの統合段階の身体的イメージ化である。重要なのは、この現象が「鍛錬の放棄」ではなく、「鍛錬の沈殿」によって生じている点である。夢の中の左手は、突如として才能を獲得したわけではない。これまでの練習、失敗、違和感、繰り返しが、意識の表層から見えない深層に蓄積し、発酵した結果として、ある閾値を越えたのである。発酵とは、外からは静かに見えながら、内部では構造的な変化が進行している状態を指す比喩であり、この夢はまさに「変化が完了したこと」ではなく、「変化が自律的に進み始めたこと」を告げているように思われる。また、この夢が左手に限定されている点も象徴的である。左手はクラシックギターにおいて、音程・和声・構造を担う側であり、意識的な制御が強く要求される部位である。その左手が「勝手に動く」という体験は、構造そのものが身体に内在化され、もはや思考による監督を必要としなくなった段階への移行を示している。これは、音楽が「考える対象」から「住み込む空間」へと変化したことを意味するのではないだろうか。夢という形でこの現象が現れたことにも意味がある。夢は、意識が支配権を手放したときに、無意識がどのような秩序をすでに獲得しているかを示す舞台である。現実の練習では、どうしても評価や目標、改善点が意識に上がり続ける。しかし夢の中では、それらが外され、純粋に「できている状態」だけが提示される。これは慢心の兆候ではなく、むしろ安心して次の段階へ進んでよいという内的許可のサインのように思われる。さらにこの夢は、これまで語られてきた教育制度や権威からの離脱、そして自分にふさわしい場への回帰という一連の夢の流れとも深く共鳴している。他律的な評価や指示から離れたとき、身体と知性は最もよく働く。左手が自律的に動くというイメージは、まさに「誰かに教えられて動く手」から「音楽そのものに応答する手」への転換を象徴している。人生的な示唆として、この夢は「まだ意識的には確信できていないが、すでに身体は次の段階に入っている」というメッセージを含んでいるように思われる。努力している感覚が薄れ、不安が先に立つ時期ほど、内側では統合が進んでいることがある。指が自然に動いた夢は、これまで積み重ねてきたものを信頼し、少し手放すことで、より大きな自由が立ち上がることを示唆している。音楽においても、人生においても、次に必要なのはさらなる力ではなく、すでに育った力に任せる勇気なのかもしれない。フローニンゲン:2025/12/24(水)08:16


17917. 智慧の完成形としての仏と慈悲の運動体としての菩薩  


仏と菩薩の違いは、一見すると「完成」と「途中」という単純な区別に見えるが、仏教思想の核心に触れるほど、その差異は存在論的・実践論的・倫理的に深い意味を帯びてくる。結論から言えば、仏とは覚りが円満に成就した存在であり、菩薩とは覚りを成就しつつ、あるいは成就した後でさえ、あえて世界の内部に留まり続ける存在である。まず仏(仏陀)とは、無明を完全に断じ、智慧と慈悲が余すところなく完成した存在である。煩悩はすでに根本から滅し、輪廻を生み出す業の連鎖も断ち切られている。その意味で仏は、存在論的にはもはや迷いの構造に拘束されない。ここで重要なのは、仏が「世界から逃れた存在」ではないという点である。仏は世界を正しく見抜いたがゆえに、世界に対して自由である存在だと言える。涅槃とは世界の否定ではなく、世界の誤認が消えた状態なのである。一方、菩薩とは、同じ覚りを志向しながらも、その完成を自己目的として閉じない存在である。菩薩は智慧を修しながらも、常に衆生の苦に身を向け、あえて輪廻の世界に関わり続ける。ここでの輪廻への関与は、無明による強制ではなく、誓願による選択である点が決定的に異なる。菩薩は迷っているから世界にいるのではなく、引き受けているから世界にいるのである。この違いを時間的段階として捉える理解は、初学者にとっては有用である。すなわち、菩薩が修行を積み、最終的に仏となる、という発達的理解である。しかし大乗仏教においては、それだけでは不十分である。なぜなら、多くの経典では、仏となった後も菩薩として振る舞い続ける存在が語られるからである。ここでは仏と菩薩は単なる前後関係ではなく、「覚りの完成」と「覚りの働き」という二つの相として理解される。仏が覚りの真理そのものを体現しているとすれば、菩薩はその真理が世界の中でどのように働くかを体現する存在である。仏は静的完成の極点であり、菩薩は動的関与の極点である、と言ってよいだろう。仏が智慧の完成形であるなら、菩薩は慈悲の運動体である。このとき慈悲は感情ではなく、空と縁起を理解した上で、なお他者の苦に応答せずにはいられない在り方を意味する。さらに踏み込めば、この区別は「自己の解放」と「関係の解放」という二つの次元を示しているとも考えられる。仏は自己の迷いが完全に解かれた存在であり、菩薩は関係性の中で迷いを解き続ける存在である。菩薩は自他の区別が空であることを理解しているからこそ、他者の苦を自分の問題として引き受ける。その意味で、菩薩とは覚りを社会化した存在であるとも言える。この違いを現代的に言い換えるなら、仏は「真理の完成態」であり、菩薩は「真理の実装態」である。真理を理解することと、その真理を傷ついた世界の中で生きさせることは、同一ではない。菩薩はその困難な間隙に身を置き続ける存在である。人生に引き寄せて考えるなら、仏と菩薩の違いは「自分が救われること」と「救われた理解をもって世界に関わり続けること」の差異として立ち現れる。完全な安らぎを目指す志と、未完成な世界に手を差し伸べ続ける志は、対立ではなく緊張関係にある。仏とはその緊張が解けた地点であり、菩薩とはその緊張を引き受け続ける生き方なのである。フローニンゲン:2025/12/24(水)09:57


17918. 幼少期からのスポーツ体験の恩恵を感じて 

             

今日は久しぶりに雲ひとつない青空が広がっているが、気温は随分と低い。正午前を迎えても気温は以前として2度である。


ギターの練習に日々打ち込んでいると、幼少期からスポーツに親しみ、全身を使った運動経験を積み重ねてきたことが、現在の演奏に確かに生きていると感じられる場面が増えてくる。これは単なる感覚的な印象ではなく、運動神経の発達と楽器演奏との間に、構造的かつ深い連関が存在するためなのだろう。まず、運動神経とは筋力や瞬発力そのものではなく、「身体をどのように感じ、どのように制御するか」という神経系の働きの総体である。スポーツ経験を通じて培われるのは、空間認知、リズム感、左右差の調整、全身の連動性、そして状況に応じた微調整能力である。これらはすべて、ギター演奏において中核となる能力である。左手の指の独立やポジション移動、右手のタッチの強弱や角度の調整は、局所的な指の動きに見えて、実際には肩、背中、体幹、呼吸を含めた全身の協応運動の上に成り立っている。特に重要なのは、「力を入れる能力」よりも「力を抜く能力」である。多くのスポーツ、とりわけ球技や武道、体操などでは、必要最小限の力で最大の効果を出す感覚が自然と身についていく。この感覚は、ギター演奏における脱力、すなわち無駄な緊張を手放し、音の反応を敏感に受け取る身体状態を作る上で決定的な役割を果たす。スポーツ経験者が比較的早い段階で、音色の変化やタッチの違いに気づきやすいのは、この神経的な感受性がすでに耕されているからである。また、運動経験は「時間感覚」にも深く関与している。リズム感とは単に拍を数える能力ではなく、身体の内側で時間を感じ取る力である。走る、跳ぶ、投げるといった反復運動を通じて形成された内的リズムは、アルペジオの流れやフレーズの呼吸、テンポの安定感として自然に表れる。結果として、演奏が機械的にならず、身体の脈動を伴った「生きた音」になりやすいのではないかと思う。さらに、スポーツは失敗との向き合い方も教えてくれる。思うように動けない日があること、練習を積み重ねてもすぐに結果が出ないことを身体で知っているため、ギター練習における停滞や壁を、過度に否定的に受け取らず、プロセスとして受容しやすい。この心理的な耐性もまた、長期的な上達には不可欠である。総じて言えば、幼少期から育まれた運動神経は、ギター演奏において「見えない土台」として機能しているのである。指先の技術の背後には、全身で世界と関わってきた身体の記憶があり、その蓄積が音楽表現の深みとなって立ち現れる。ギターを弾くという行為は、単なる指の作業ではなく、これまでの身体史全体が静かに共鳴する行為なのである。フローニンゲン:2025/12/24(水)11:19


Today’s Letter

The world is always open to me, revealing infinite potential. All I can do is notice and appreciate it, and in doing so, my own potential naturally emerges and shines. Groningen, 12/24/2025

 
 
 

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