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【フローニンゲンからの便り】17907-17912:2025年12月23日(火)


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タイトル一覧

17907

慈しみの気持ち/進化と退化の誤謬

17908

今朝方の夢

17909

今朝方の夢の振り返り

17910

ギタリストにとって背筋群とハムストリングを鍛えることの意義

17911

将来の自由度を広げる下地形成の時期

17912

ジュリオ・サグレラスの教則本をやり込みながら

17907. 慈しみの気持ち/進化と退化の誤謬

  

人間を含む全ての生命への慈しみの気持ち。そして生命を抱擁する大自然と大宇宙への畏敬の念。そうした想いが突如として湧いてきた。確かに全ては縁起で成り立っているゆえに、自分は非生命体への敬意も持ち合わせている。しかし、自分が生命体だからだろうか、自分は生命体へ愛情を抱いているということに改めて気付かされたのである。それは昨日の親友のメルヴィンとの会話による刺激が影響していたのかもしれない。だがそこでやり取りされていた事柄は、いつものような会話であった。おそらく、心を通わせる親友同士の会話ゆえに、何か重要なことに気づかせてくれたのかもしれない。上記の事柄は、別にメルヴィンと話をしたわけでは決してない。生身の人間同士が顔を合わせて、純粋な状態で何の気兼ねもなく会話をしたということが、どこか極めて尊いことのように思えるのだ。メルヴィンと音楽の話をしていると、「音楽はやっぱり素晴らしいよね」という意見で同意し合った。音楽。今自分は、生身の人間が作った音楽を生身の人間として演奏することに没頭し、最大限の時間と情熱を注いでいる。それはAI時代に突入している今、見る人から見たら滑稽に見えるかもしれない。「作曲も音楽演奏もAIに代替されるよ」という声が聞こえて来そうだ。代替される?それが何だというのだろう。仮に代替されたとしても、自分は生身の人間として、今日も明日も音楽を奏で続ける。人間が生み出した曲を人間としての全存在をかけて。

人間が長い文明をかけて求めてきた便利さとはいったい何なのだろうか。それは何のための便利さなのだろうか。便利さを求めたことと引き換えに、私たち人間は何か大切な感性や感覚、そして能力を失ってはいないだろうか。AIを含めた種々のテクノロジーの発達は目覚ましいものがあるが、それらを使えば使うだけ、人間は何か重要な側面で劣化し、人間性らしさを失っていき、退化していやしないだろうか。人間発達の研究者として、今私たちは危うい橋を渡り、危ういテクノロジーを発達させ、危うい存在に向かっている気がしてならない。現代人は便利なテクノロジーをうまく活用することを通じて何かの面で発達しているように思えるかもしれないが、もしかしたらそれは発達ではなく、単なる先細り現象なのではないか。先が細いことと真の発達を混同してはいないだろうか。だとしたらそれはとんでもない過ちである。「発達と退化の誤謬」あるいは「進化と退化の誤謬」。そのような言葉が降ってきた。とりわけAIの無配慮な使用によって、これからますます人間はそうした誤謬を犯しながら退化の方向に向かっていくような気がしている。それを防ぐための研究と実践に大いに乗り出していく時期に差し掛かっていることをひしひしと感じ、そこに自分が果たすべき大きな責任と役割があるように思う。フローニンゲン:2025/12/23(火)05:48


17908. 今朝方の夢

      

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の体育館にいて、バスケの練習をチームで行なっていた。重要な大会が迫っていたこともあり、練習内容は実践的なものとなり、量も質もどちらも高いものになっていた。確かに練習はハードではあったが、同期のメンバーと後輩たちと一緒に楽しむ心の余裕があり、自分は常にチームに声をかけながら全体を盛り上げることを意識していた。それが功を奏して、チーム全体がゾーンの状態に入るような現象が起き、なんとも言えない高揚感に包まれていた。そのような中で戦術練習に入り、それは体力のみならず知力を要求される高度な内容だった。自分はキャプテンかつ監督のような立場でもあったので、自分が考えた戦術を紹介しながらチームに落とし込んでいくことを行なっていった。それらの戦術を全員が理解し、チームとして体現することができたら、本番の大会では必ずや良い結果が得られるだろうと思った。


次の場面は、サッカー日本代表のワールドカップの初戦を観戦している場面である。自分はスタジアムのスタンドにいる一観客でありながら、試合の後半においては代表のスタッフメンバーであるかのようにベンチから観戦していた。二つの異なる視点で見えてくるものは当然異なり、どちらも得るものが多く、ベンチからの観戦は選手の声がはっきり聞こえ、非常に臨場感があった。試合は3-1で日本が無難に勝利し、初戦を見る限りだと非常に勢いのあるチームだと思ったし、何よりチームの結束力が素晴らしく、このまま順当に勝利を重ねていき、最終的はこれまでにない成績を残せるのではないかという期待感があった。フローニンゲン:2025/12/23(火)06:05


17909. 今朝方の夢の振り返り  

                              

今朝方の夢は、自分の内面における「成熟した主体性」と「複数の視座を統合する力」が、象徴的なスポーツの場面を通して立ち現れている構造を持つものだと考えられる。舞台が実際に通っていた中学校の体育館である点は、現在の自分が、過去に形成された基礎的な身体感覚や人間関係の原型へと立ち返り、それらを再編成している過程を示している可能性がある。重要な大会を前にした実践的で高度な練習は、人生における節目や試練が近づいているという無意識的な認識を反映しているように思われるが、その厳しさの中に楽しさと余裕が共存している点が印象的である。これは、努力や責任を重荷としてではなく、意味ある営みとして引き受けられる段階に自分が到達しつつあることを示唆しているのかもしれない。自分が常に声をかけ、場を温める役割を担っていることは、単なる個人の達成ではなく、場全体の状態に意識を向ける姿勢の象徴であると推量される。その結果としてチームがゾーンに入るという体験は、自分の内的な統合が外的な集団の調和として現れるイメージであり、個と全体が共鳴する理想的な関係性を示しているように感じられる。さらに、キャプテンでありながら監督のように戦術を考え、共有する立場にあることは、行為者であると同時に設計者・観察者でもあるという二重の役割を自分が引き受けている状態を表していると考えられる。体力と知力の双方を要する戦術練習は、感覚的実践と抽象的思考の統合を求められる現在の生き方そのものの比喩である可能性が高い。後半のサッカー日本代表の場面では、この二重性がさらに明確になる。スタンドの観客としての視点は、物事を全体像として眺め、流れや勢いを感じ取る立場であり、一方でベンチからの視点は、現場の声や緊張、細部の判断に深く関与する立場である。この二つの視点を同時に持つ体験は、自分が人生において、当事者性とメタ的理解の双方を往還できるようになってきていることを象徴しているように思われる。試合の勝利やチームの結束力への確信は、外界の成功というよりも、自分の内面における統合感や信頼感が未来への肯定的な見通しとして投影されている結果である可能性がある。この夢が人生において示唆する意味は、自分がこれまで培ってきた基礎の上に立ちながら、個人としても集団の一部としても成熟した関わり方を実現しつつあるという点にあるだろう。行動し、導き、同時に一歩引いて全体を見渡すことができる状態こそが、これからの歩みにおいて自分の強みとなり、未知の舞台においても確かな手応えを持って進んでいけるという無意識からのメッセージであると推量される。フローニンゲン:2025/12/23(火)07:38


17910. ギタリストにとって背筋群とハムストリングを鍛えることの意義 

                           

クラシックギターを立って演奏する者にとって、背筋群とハムストリングを鍛えることは、単なる体力向上ではなく、演奏の質そのものを支える基盤づくりである。立奏では、体幹が不安定になりやすく、上半身と下半身をつなぐ後面の筋連鎖が弱いと、姿勢が崩れ、腕や指先に余計な緊張が伝播しやすくなる。背筋群は脊柱を安定させ、胸郭を自然に開いた状態を保つ役割を担い、ハムストリングは骨盤の前後傾を制御し、重心を足裏に均等に乗せるための要となる。これらが十分に機能すると、肩や前腕に頼らずとも楽器を安定して保持でき、音色のコントロールやレガート表現に必要な微細な運動が解放されるのである。特にハムストリングが弱い、あるいは硬い状態では、骨盤が後傾しやすく、腰背部に過剰な負担がかかる。その結果、上体が丸まり、左手の可動域が制限され、右手のアタックも不安定になりやすい。背筋群が適切に鍛えられていれば、脊柱は過度に反らず、自然なS字カーブを保ったまま長時間の演奏が可能となるだろう。立奏における「安定感のある脱力」とは、実はこれら後面筋群が静かに働き続けている状態を指すと考えられる。VRTXを用いたトレーニングは、この後面筋群を効率よく、かつ演奏姿勢に近い形で鍛える点で非常に有効なのではないかとふと思った。VRTXは自重と垂直方向の負荷を活用するため、関節へのストレスが比較的少なく、姿勢制御能力を高めやすい。まず有効なのは、軽い前傾姿勢で行うヒップヒンジ系の動作である。足裏で床を押し、股関節から折れる意識を保ったまま体を上下させることで、ハムストリングと脊柱起立筋が協調して働く。この際、背中を反らせるのではなく、頭から骨盤までが一本の軸として動く感覚を重視すると、立奏時の姿勢制御に直結するだろう。次に、VRTXでのスローペースのスクワット変法も有効である。膝を深く曲げることよりも、下降局面でハムストリングが伸張され、上昇局面で殿筋と背筋が連動して体を引き上げる感覚を養うことが重要である。これにより、演奏中の微細な重心移動が安定し、足元から上半身へと力が滑らかに伝わるようになる。また、片脚支持での軽い引き上げ動作を取り入れると、左右差への気づきが生まれ、立ったまま楽器を支えるバランス感覚が洗練されていくはずだ。さらに、VRTXでのアイソメトリック保持、すなわち一定姿勢を保つトレーニングは、演奏中の静的安定性を高める。中立位の背骨を維持したまま数十秒姿勢を保つことで、背筋群とハムストリングが持続的に働く感覚が身につき、長時間の演奏でも姿勢が崩れにくくなるだろう。総じて言えば、立って演奏するクラシックギタリストにとって、背筋とハムストリングの強化は「音を支える沈黙の筋肉」を育てる行為である。VRTXを活用したトレーニングを通じて、身体の後面に静かな強さを備えることで、演奏はより自由になり、音楽的意図が妨げられることなく空間に放たれていくのではないかと期待する。フローニンゲン:2025/12/23(火)07:50


17911. 将来の自由度を広げる下地形成の時期

                  

クラシックギターを始めてまだ二ヶ月という段階で、食わず嫌いをせず多様な楽曲に触れている姿勢は、発達の観点から見てきわめて健全なのかもしれない。この時期は「自分の音楽性を定める段階」ではなく、「身体と神経にギターという言語をインストールしている段階」だからである。したがって今は、好き嫌いよりも接触頻度がものを言う時期であり、さまざまな拍子、調性、ポジション、運指に出会うこと自体が、将来の自由度を広げる下地になっているのではないかと思う。では、基礎の基盤ができたと判断できるタイミングとはいつなのか。それは「難しい曲が弾けるようになった時」ではなく、「練習中の注意の向きが変わる瞬間」なのではないかと思う。具体的には、音を出すこと自体に意識の大半を取られなくなり、音色、フレージング、呼吸、音楽的流れに注意を配れる余白が生まれてきたときである。左手が次のポジションを過度に恐れず、右手が弦に触れる感触を毎回探らなくても済むようになると、基礎は未熟ながらも自立し始めている。技術的な目安としては、第一に、開放弦とローポジションで音が大きく破綻せずに出せること、第二に、簡単なアルペジオやスケールを一定のテンポで保てること、第三に、短い曲であれば最後まで集中を切らさずに弾き切れることが挙げられる。完璧である必要はないが、「毎回同じところで崩れる」「音が出るかどうかで精一杯」という状態を抜けつつあるなら、それは基礎が芽吹いてきたサインである。この段階に入ったとき、練習の重心を「何でも触る」から「何を育てたいか」に少しずつ移していくと、楽しさの質が変わるだろう。自分が本当に弾きたい曲に向き合うと、基礎練習が単なる訓練ではなく、「この曲をもっと良く歌わせるための準備」へと意味づけ直されるからである。例えば、スラーが弱いと感じればスラー練習に自然と目的意識が宿り、音が硬いと感じればタッチを磨く動機が内側から生まれる。ここで初めて、基礎と曲が分断されずに循環し始める。ただし注意すべきなのは、「好きな曲だけに絞りすぎない」ことである。基盤ができ始めた後も、全体の七割は弾きたい曲、三割は未知の曲やエチュードという配分を保つと、技術と感性の偏りを防げる。好きな曲は深さを与え、未知の曲は広さを与える。どちらか一方だけでは、演奏は早晩行き詰まる。結局のところ、基礎の基盤とは完成するものではなく、「信頼できる足場」として感じられるようになるものである。転びそうでも立て直せる、迷っても戻れる、その感覚が芽生えたとき、自分が弾きたい音楽に軸足を移してよい。そうして選び取った曲とともに練習する時間は、上達のためだけでなく、演奏そのものを生きる時間へと変わっていくはずだ。フローニンゲン:2025/12/23(火)09:48


17912. ジュリオ・サグレラスの教則本をやり込みながら

                             

ジュリオ・サグレラスの“Guitar Lessons Book 1~3”を日々やり込んでいる。これを何回繰り返せば基礎の確立と言えるのかという問いに対して、単純に回数だけで線を引くことはできない。しかし、回数の目安と質の変化という二つの軸で捉えると、判断はかなり明確になる。まず回数の目安から言えば、Book1~3を通して3~5周が、基礎が「形になり始めた」と言える現実的なラインなのではないかとやってみて思う。ここで言う1周とは、単に最初から最後まで一度弾いたという意味ではなく、「その時点の自分なりに、音・運指・リズムを意識して全曲に向き合った一巡」を指す。2周目以降は、譜面をなぞる作業ではなく、「前回は見えなかった課題が浮かび上がる周回」になるはずである。ただし重要なのは、何周したかよりも、周回ごとに注意の階層が変化しているかである。1周目では、音を出すこと、指番号を守ること、止まらずに弾くこと自体が主課題になる。2周目になると、左手の独立や右手の弦移動、簡単なレガートの感触が意識に上がってくる。3周目以降になると、音の粒立ち、フレーズの方向性、強弱の自然さといった「音楽的な要素」に注意を向けられる余白が生まれてくる。この注意の焦点が技術の生存圏から音楽の表現圏へ移り始めたタイミングこそ、基礎が確立しつつある合図である。Book1~3は一見やさしく見えるが、実は「一生使える基礎」が圧縮されている。例えば、単旋律練習では左手の最小限の力加減とポジション感覚が問われ、アルペジオでは右手の独立と拍感が試される。これらを毎回違う身体状態・違う精神状態で繰り返し経験することが、神経系にとっての本当の定着である。その意味で、同じ曲が「退屈に感じ始めたら危険信号」であり、「毎回違う気づきがあるうちは、まだ基礎は深まっている途中」だと言える。基礎の確立を判断する具体的なサインとしては、第一に、Book1~3の曲を初見に近い状態でも大崩れせずに弾けること。第二に、テンポを多少変えても身体が混乱しないこと。第三に、ミスをしても音楽の流れを止めずに立て直せること。これらが揃ってくると、サグレラスは「卒業」ではなく、「常に戻ってこられる拠点」になる。結論として、3~5周を一つの節目としつつ、「もう一度最初に戻りたい」と自発的に感じられるようになったら、それは基礎が外から与えられる段階を終え、自分の中に根を張り始めた証拠である。その時点で、弾きたい曲に比重を移しても、サグレラスは決して無駄にならず、むしろ演奏人生の中で何度も立ち返る静かな基盤として機能し続けるのではないだろうか。そのようなことを考えながらこの教則本と向き合っていた。これをロンドンで購入できたことは本当に大きなことであり、そのご縁に感謝である。フローニンゲン:2025/12/23(火)14:14


Today’s Letter

Modern people may be confused about the true meaning of evolution, falling into the fallacy of equating evolution with either progress or decline. It is true that cutting-edge technologies such as AI seem to make our lives more efficient and convenient, but what is the nature of efficiency and convenience? Moreover, what is the purpose of pursuing them? In doing so, we may lose sight of the direction of meaningful evolution. Groningen, 12/23/2025

 
 
 

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