【フローニンゲンからの便り】17901-17906:2025年12月22日(月)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17901 | ギター練習の合間の簡易版タバタ式トレーニングの効能 |
17902 | 今朝方の夢 |
17903 | 今朝方の夢の振り返り |
17904 | 唯識における三身説 |
17905 | 因と縁の区別 |
17906 | 音楽を通じて自分の世界を広げてくれたメルヴィンに改めて感謝をして |
17901. ギター練習の合間の簡易版タバタ式トレーニングの効能
毎朝タバタ式トレーニングを行っている上で、さらにギター練習の合間の休憩時間に、8種目4分間のフルセットではなく、2種目程度の短時間インターバルで意図的に心拍数を上げることには、身体的・神経的・認知的に見て多層的な効能があるのではないかと考えていた。これは単なる体力維持ではなく、演奏の質そのものを底上げする「調律行為」に近い意味を持つ。第一に、生理学的観点から見ると、短時間でも心拍数を一時的に上げることで全身の血流が促進され、筋肉や腱、末梢神経への酸素供給が一気に高まる。クラシックギターの練習は、外見上は静的であっても、前腕・指・肩甲帯・体幹には持続的な微緊張が蓄積しやすい。2種目ほどの高強度運動を挟むことで、こうした局所的な滞留がリセットされ、老廃物の除去と筋温の再上昇が起こる。その結果、次の練習に入った際、指の反応が軽くなり、可動域が広がったように感じられることが多いという実感がある。第二に、自律神経系への影響が大きい。長時間の集中練習は、副交感神経優位の沈静状態、あるいは逆に局所的な緊張による交感神経の偏在を引き起こしやすい。短い高強度運動は、意図的に交感神経を一度はっきりと活性化させ、その後の回復過程で副交感神経への切り替えを促す。これは自律神経の可動域を広げる行為であり、結果として演奏中の過緊張や、逆に集中力の低下を防ぐ調整弁として機能すると考えられる。第三に、神経可塑性と学習効率の観点からも意味がある。心拍数が上がると、脳内ではBDNF(脳由来神経栄養因子)やドーパミンの分泌が一時的に高まり、神経回路の可塑性が高まる傾向がある。この状態で再びギター練習に戻ると、直前に行っていた運動スキルの学習が「固定化」されやすくなるだけでなく、新しい運動パターンへの切り替えも滑らかになる。つまり、短時間の運動は単なる休憩ではなく、学習の区切りを明確にする神経的マーカーとして機能している可能性がある。第四に、心理的側面として、練習の単調さを断ち切る効果が大きい。ギター練習は精密さを要する反面、同じフレーズや運動を反復する時間が長くなりがちである。そこに2種目だけのタバタ的運動を挟むことで、身体感覚が一気に拡張され、注意のスケールが「指先」から「全身」へと戻される。このスケール変換は、音楽的フレージングや呼吸感、リズム感を再統合する上で非常に有効だと考えられる。実践的には、ジャンピングジャックとバーピー、スクワットジャンプとマウンテンクライマーなど、全身を使い、かつ技術的に複雑すぎない2種目を20秒動作・10秒休憩で2~3セット行う程度が適切であろう。重要なのは「追い込むこと」ではなく、「心拍数を明確に上げ、呼吸を一度乱し、そこから整えて戻る」というリズムを作ることである。総じて言えば、ギター練習の合間に行う短時間・少種目の高強度運動は、身体のリフレッシュ、神経可塑性の促進、自律神経の再調律、そして音楽的集中力の回復を同時に満たす行為である。それは練習を中断する時間ではなく、次の練習をより深くするための「動的な間」であり、身体と音楽を再び一つの流れに戻すための重要な橋渡しなのである。そのことを意識して昨日と同様に、今日もまたこれをギター練習の合間に導入していこう。フローニンゲン:2025/12/22(月)05:40
17902. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、高校時代のある友人に大量に和書を貸し出している場面があった。それらの書籍は全て貴重な古書であり、取り扱いには注意が要求されたが、自分は彼の読書熱を尊重して、それらの書籍を貸し出すことにした。もしかしたら自分は近々引っ越すかもしれないので、貸した書籍を読み終えたら新居まで持ってきてもらうことを条件とした。彼はその条件を了解し、自身の哲学的探究につながるそれらの古書に目を輝かせて、数箱の段ボールを車に運んで行った。彼が去った後、近くに小中高時代のある親友(HO)がやって来て、彼が笑みを浮かべていた。彼の手元を見ると、三冊の洋書があり、彼らは黙ってそれらを持っていこうとした。その瞬間に私は、それらの本は自分のものなのではないかと思い、彼を追いかけてそれらの書籍を奪って中身を確認したところ、やはり自分のものだった。というのも、ページの最初に読んだ日付が書き込まれており、コメントの書き込みもまた自分の文字だったからである。彼は黙って自分の本を持っていこうとしており、彼に尋ねてくれたら貸し出したものの、無言で持ち去ろうとしたので、彼にはその本を貸さずに再び本があった場所に持っていくことにした。そこからマンションの外に出ると、先ほど本を貸した友人が別の友人とベンチに座ってタバコを吹かしていた。どうやら本を無事に車のトランクに入れたようであり、一息ついているようだった。私は彼らに話しかけることをせず、その代わりに宙に浮いて上の階の自分の家に向かった。バルコニーに到着する瞬間に、どういうわけか逆立ちをし、そこから息をつけて元の姿勢に戻って部屋の中に入った。
次の場面では、実際に通っていた中学校の体育館の中にいた。そこは随分と綺麗になっており、体育館の端っこに変わった運動器具があった。それは複数のバーが宙に浮いて三角形を形成しており、私はそのバーの下の方を握って逆立ちをした。すると、バーの上の方にいたある女性友達(KS)が足を支えてくれ、二人の別の女性友達(AS & MH)がそれぞれ見守る役とストップウォッチで時間を測る役を務めてくれた。そこから私はバランスをうまく取って逆立ちを続け、世界新記録を打ち立てた。新記録が更新できたのも、兎にも角にも三人のおかげだったので、三人には深く感謝した。喜びの気持ちを持ったまま体育館を出ると、上履きを履いていないことに気づき、靴下がすぐに泥で汚れてしまった。なので靴下を脱いで洗おうと思ったら、二枚重ねて靴下を履いていることに気づき、そうであれば汚れた靴下はもう捨ててしまおうと思った。ゴミ箱にそれを捨てた瞬間に、そう言えばそれは母方の祖母からプレゼントしてもらったものだったことを思い出し、捨てるのが忍びなく思え、ゴミ箱から回収しようと思ったら、もうすでにそこには靴下が無く消えていた。
最後の場面では、母方の祖母が無言で満面の笑みを浮かべながら、手に持っていた不思議なものをプレゼントしてくれた。それは祖母が自分で作ったものらしく、ウサギの姿をした置き物で、それを振るとオルゴールのような綺麗な音色が生まれた。その音の美しさにすぐさま魅了され、祖母に感謝の気持ちを持って有り難く受け取った。すると祖母は消えてしまい、自分は寝室のベッドの上にいて、その置き物を大切に握りしめていた。その瞬間に、祖母はもうこの世にいないことを思い出し、ウサギの置き物を軽く振りながら音楽を奏で、祖母を思い出しながら感謝の念と共に涙を流していた。フローニンゲン:2025/12/22(月)05:57
17903. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、「知の継承」「境界の再設定」「支えられた転倒(逆立ち)」「喪失と贈与」という四つの層が重なり合い、自分がいま人生のある転換点に立っていることを象徴しているように思われる。最初の場面で大量の貴重な和書を高校時代の友人に貸し出す行為は、自分が長年かけて蓄積してきた知的資産や探究の成果を、他者に開いていこうとする姿勢を示している可能性がある。引っ越しという条件付きでの貸与は、生活環境や人生の拠点が変わりつつある中でも、知は移動し、関係性を媒介として生き続けるという感覚の表れであるとも考えられる。一方で、HOが無言で洋書を持ち去ろうとする場面は、親密さゆえに生じる境界の曖昧さを象徴しているように思われる。頼まれれば貸したが、黙って持っていくことは許されないという判断は、自分が「分かち合う知」と「守るべき核」を明確に区別し始めている兆しである可能性がある。書き込みの文字や日付は、自分固有の時間と経験が刻まれた不可譲の領域を示している。宙に浮いて自宅へ戻り、逆立ちしてから部屋に入る場面は、日常的な重力や常識から一度離れ、視点を反転させてから内面に帰還するプロセスを象徴しているように思われる。次の体育館の場面での逆立ちは、この反転が個人的な試みではなく、支援的な関係性の中で達成されるものであることを強調している。KSが足を支え、ASとMHが見守りと計測を担う構図は、自分の到達が孤立した努力ではなく、信頼と協働の上に成立していることを示しているようである。世界新記録という誇張された成功は、現実的な成果というよりも、「支えられれば不可能と思えた均衡が保てる」という内的確信の表象であろう。靴下を捨ててから祖母の贈り物だったことを思い出し、回収できなかった場面は、無意識のうちに切り捨ててしまった過去の温もりや記憶への悔恨を示している可能性がある。しかし最後に祖母が再び現れ、新たな贈り物を手渡す場面は、失われたものがそのままの形で戻らなくとも、別の象徴として継承されることを示しているように思われる。ウサギの置き物と音楽は、言葉や理論を超えた愛情と祝福の結晶であり、それを握りしめて涙を流す自分は、喪失を否定するのではなく、感謝として抱きしめる段階に入っていると考えられる。人生における意味としてこの夢は、自分が知と関係性を他者に開きつつも、自分固有の核心を守り、支え合いの中で視点を反転させ、新しい均衡を獲得しつつあること、そして過去の喪失がいまなお生きた贈与として内面で鳴り続けていることを示唆しているのではないだろうか。フローニンゲン:2025/12/22(月)07:26
17904. 唯識における三身説
唯識における三身説とは、「仏とは一体何として存在しているのか」という問いに対して、単一の答えを与えるのではなく、見る角度そのものを三層に分けて示すための立体的な地図である。これを理解する鍵は、「三つの身体が別々に並んで存在している」と考えないことである。むしろ一つの現実を、どの距離とどの深度から見るかによって、異なる相として捉えているにすぎない。まず法身とは、比喩的に言えば「海そのもの」である。波も形も色もまだ生じていない、しかしあらゆる波が生じうる無限の水量としての海である。法身は仏の人格や姿ではなく、真理そのもの、あるいは存在が存在として成り立つ根底の秩序である。唯識的に言えば、それは主客が分かれる以前のレベル、認識がまだ「何かを見る」という形を取る前の、心と世界が未分化の地平である。法身は「そこにある」というより、「すでに常にそうである」在り方であり、気づかれなくても失われることがない背景である。次に報身は、その海に生じる「澄んだうねり」に近い。波ではあるが、荒れ狂うことはなく、深く安定し、一定のリズムを持っている。報身とは、長い修行と智慧の成熟によって顕れた、仏の内的な完成相である。ここには光明、荘厳、歓喜といった象徴が付与されるが、それは感覚的な装飾ではなく、「悟りが自己をどう経験しているか」という内側の質感を表している。報身は誰にでも直接見えるわけではなく、同じ周波数を持つ存在、すなわち深い修行者にのみ感応する。例えるなら、高度な音楽理論を身につけた者だけが聴き取れる倍音のようなものである。そして応身は、その海と波が「一杯の水」として差し出された姿である。釈尊の歴史的身体が典型例であるように、応身とは特定の時代、場所、文化、言語に合わせて現れる仏の姿である。ここでは老いも病も死も引き受けられ、完全性はあえて制限される。これは劣化ではなく、翻訳である。深遠な真理を、そのままでは受け取れない存在のために、生活世界の文法に書き換えた結果が応身である。教師が難解な理論を、身振りや例え話で語るとき、その教師は「応身的」になっていると言える。重要なのは、この三身が上下関係にある階段ではないという点である。海がなければうねりはなく、うねりがなければ一杯の水も存在しない。同時に、一杯の水を通してしか、海の存在を知ることができない者もいる。唯識の三身説とは、悟りを「遠くにある超越的存在」として固定するのではなく、真理・成熟・働きという三つの相が、常に重なり合って現れていることを示す視覚補助線なのである。人生に引き寄せて言えば、法身とは「気づきそのものの地平」、報身とは「成熟した在り方としての自分」、応身とは「日常で役割を生きる自分」である。この三つを分断せず、一つの流れとして感じ取れるとき、三身説は抽象理論ではなく、自分自身の生の構造を照らす鏡として立ち上がってくるのである。フローニンゲン:2025/12/22(月)07:35
17905. 因と縁の区別
仏教において「因」と「縁」は、どちらも果を生じさせる条件であるが、両者は同一ではない。この違いを理解しないと、因果という教えは単なる「原因と結果」の直線的な図式に矮小化されてしまう。因と縁の区別は、世界がどのようにして立ち上がってくるのかを、より立体的に捉えるための要である。まず因とは、果の中核を内側から規定する決定的な要素である。比喩的に言えば、因は「種」である。稲の種からは稲が生じ、麦の種からは麦が生じるように、どのような果が現れるかは、すでに因の段階で方向づけられている。因は果と同質であり、時間的に前にあるだけで、内容的には連続している。唯識的に言えば、阿頼耶識に蔵されている業の種子が因であり、それは未来の経験の性質を内側から決めている潜在力である。一方、縁とは、その因が果として現れることを可能にする外的・補助的な条件である。縁は種そのものではなく、「種が発芽する場」を整える働きを担う。土、水、日光、温度、季節といったものがなければ、どれほど健全な種であっても芽を出すことはできない。縁は果の内容を直接決めるわけではないが、因が力を発揮できるかどうかを左右する。したがって縁は可変的であり、複数が重なり合って作用する。この違いを混同すると、「良い環境さえあれば良い結果が生じる」とか、「すべては心が作るのだから外的条件は重要ではない」といった極端な理解に陥りやすい。しかし仏教はそのどちらも取らない。果は因だけでは生じず、縁だけでも生じない。因は設計図であり、縁は施工条件である。どちらか一方が欠ければ、建物は立ち上がらない。さらに重要なのは、縁そのものもまた別の因と縁によって成立しているという点である。雨が降ること、他者が現れること、社会的状況が整うことも、すべては独立して存在しているのではなく、無数の因縁の網の目の中で一時的に成立している。ここに「縁起」の視点がある。果とは、単一の原因から必然的に生じるものではなく、関係の結節点として一瞬立ち現れる出来事なのである。人生に引き寄せて言えば、性格や傾向、価値観は因に近く、出会い、環境、偶然の出来事は縁に近い。努力という因を持っていても、適切な縁がなければ花は開かない。一方で、縁に恵まれても、内側に因がなければ、それを受け取ることはできない。因と縁の違いを見極めるとは、結果を単純に自己責任や運命のせいにせず、内と外の条件がどのように響き合っているかを静かに観察する視座を得ることである。この理解が深まるとき、世界は固定した因果の鎖ではなく、柔らかく生成し続ける場として見え始めるのである。フローニンゲン:2025/12/22(月)09:31
17906. 音楽を通じて自分の世界を広げてくれたメルヴィンに改めて感謝をして
時刻は午後4時を迎えようとしている。ものこの時間帯から薄暗くなり始めている。今週から寒さが厳しくなり、来週から随分と冷え込んでくるようだ。オランダでの10回目の冬も厳しさの中に大きな学びがあるだろうし、それを通過した後の新たな季節では、きっと新たな自己がそこに芽生えているだろう。
午後に親友のメルヴィンの店に行き、今年最後の散髪をしてもらった。明日はすでにメルヴィンの予定が一杯だったので、いつもの火曜日ではなく、今日は月曜日に髪を切ってもらうことにした。普段メルヴィンは月曜日は休みなのだが、クリスマスシーズンということもあって今週は特別に月曜日も働いているとのことである。日曜日と月曜日は、9ヶ月前にメルヴィンの店にやって来たソフィーという女性の美容師が勤務しており、今日は初めて彼女に会った。これまでもメルヴィンの店には何人かの理髪師・美容師が面談にやって来ていたが、メルヴィンが一緒に働きたいと思うような人はこれまでいなかったようである。その点において、ソフィーの人柄とエネルギーは実に素晴らしく、メルヴィンが一緒に働こうと思ったのも頷けた。ソフィーを含めて三人でしばらく雑談していると、彼女のクライアントがやって来たので、自分もメルヴィンに髪を切ってもらい始めた。今日の話は今年を振り返る内容となり、自分にとっては今年一番の収穫は、クラシックギターをメルヴィンに勧めてもらったことである。それは大袈裟ではなく自分の人生を良い方向に変えてくれた。音楽を聴くだけではなく、実際に演奏側に回ることによる感覚の広がりと学びには多大なものがあり、文字通り人生が明るくなった。彩り溢れる人生にしてくれたのは、メルヴィンがクラシックギターの演奏をずっと見せてくれていたからであるし、散髪中にも頻繁にギターの話をしていたことによる。それで言えば、メルヴィンはギター以外にも自宅に電子ドラムがあるらしく、今度家に招いてもらい、触らせてもらうことになった。手頃な価格で手に入るらしく、ヘッドホンをすれば周りにも迷惑がかからないようであるし、何よりリズム感を養うのに電子ドラムもいつか購入して演奏を楽しみたいと思った。また、先日ある日本企業のクライアントから勧められたカホンが偶然メルヴィンの店に今日あり、その話題で盛り上がった。何やら今週末に店でジャムセッションをするらしく、そのために店に持って来たとのことだった。電子ドラムの前にカホンを購入することも真剣に検討してみたい。このように、メルヴィンは自分の世界を音楽を通じて大きく開いてくれた恩人であると改めて思った。フローニンゲン:2025/12/22(月)16:02
Today’s Letter
Gratitude and passion are the fundamental sources of my life. They can take me wherever the depths of my being wish to go. They are the most trustworthy navigators in my life. Groningen, 12/22/2025

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