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【フローニンゲンからの便り】17896-17900:2025年12月21日(日)


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タイトル一覧

17896

万物の流転や諸行無常を感じさせるクラシックギターの演奏

17897

今朝方の夢

17898

今朝方の夢の振り返り

17899

音色のパレットを広げるサウンドホールの左側での演奏

17900

指の独立のための瑜伽行

17896. 万物の流転や諸行無常を感じさせるクラシックギターの演奏  

                 

クラシックギターの演奏は、同じ譜面、同じ楽器、同じ奏者であっても、決して二度と同一にはならない営みであることを早朝考えていた。この事実は、音楽的な偶然性や演奏技術の不安定さという表層的な問題に還元されるものではなく、より深い次元で、万物の流転や諸行無常という根本的な真理を体感させる実践であると言える。まず身体の側から見れば、演奏者の身体状態は一瞬たりとも同じではない。呼吸の深さ、筋肉の張力、指先の湿度や感覚の鋭さ、集中力の密度は、常に微細に変化している。左手の押弦圧や右手の接弦点は、意図して再現しようとしても、必ずわずかな差異を含む。その差異が音色となり、フレージングとなり、結果としてその瞬間固有の演奏を立ち上げる。ここには「同一の原因から同一の結果が生じる」という単純な因果観は成立せず、条件の網の目の中で音が生成されるという無常の構造が、そのまま現れている。音そのものもまた、無常の象徴である。ギターの音は、弦が振動した瞬間から減衰へと向かい、立ち現れたそばから消滅へと流れ込んでいく。ピアノやオルガンのように持続を人工的に支えることができないクラシックギターにおいては、音の儚さがより露わであり、演奏者は常に「消えゆく音」を前提として次の音を差し出すことになる。ここでは音を所有することも、留めることもできない。ただ生じ、変化し、消えていく過程に身を委ねるほかない。さらに重要なのは、演奏における自己意識の変容である。演奏を「再現」や「完成」に向けた作業として捉えると、理想像とのズレに執着が生まれ、評価や自己批判が前面に出てくる。しかし、毎回の演奏が本質的に一回限りの出来事であると深く理解されるとき、演奏は結果ではなく過程そのものとして経験され始める。そこでは「うまく弾けた自分」や「失敗した自分」という固定化された自己像が緩み、ただ条件に応じて音を生起させている流れとしての自己が浮かび上がる。この意味で、日々のギター演奏は、諸行無常を頭で理解するのではなく、身体と感覚を通して生きた事実として学ぶ修行であると言える。同じ演奏をもう一度得ようとする欲求が手放されるとき、演奏は比較や蓄積の対象ではなく、その瞬間にしか存在しない出来事として輝き始める。そこには完成も停滞もなく、ただ生成と消滅の連なりがあるだけである。人生もまた、同様に二度と同じ瞬間を繰り返さない。クラシックギターの演奏を重ねることは、音を通して無常を受け入れ、変化の只中で最善を尽くす態度を養うことにほかならない。ゆえに、ギターを弾くという行為は、技術習得を超えて、流転する世界と調和して生きるための静かな訓練となるのだと思う。フローニンゲン:2025/12/21(日)06:26


17897. 今朝方の夢

  

今朝方は夢の中で、自分は自分ではない誰かとして夢の中にいた。昨夜ふと、この人生がこのようであり、別の形ではないことへの不思議さ、自分が自分であって自分ではない誰かではないことへの不思議さを思っていた。こうした考えが影響したのかもしれない。夢の中で他者になっているその自分は、自己同一性がありながらも、夢を俯瞰している自己が背景に存在しており、夢の中の自分は自分ではないことにも薄々気づいていた。夢を俯瞰している目撃者の自己こそ真性の自己だった。自分が自分ではない誰かとして夢の中に存在していたことによって、日頃は後景にある真性の自己が期せずして前景に出てくる形となった。自分ではない誰かの自分は、慈愛に満ちており、他者に対して心の底から優しく接していた。この夢の場面を受けて、続く夢の場面では、完全に目撃者の意識として夢を眺めていた。夢の流れは万物の流転を象徴しており、映像として流れ行く夢の景色をただただ眺めていた。そこで流れている景色としての夢は、振り返ってみると、平穏で静かな幸福に貫かれているものだった。夢は欲界ではなく、より微細な色界の現象だと言えるだろうか。今朝方の夢は、常に微細な何かによって縁取られていた感覚が非常に強かったことが印象的である。フローニンゲン:2025/12/21(日)06:35


17898. 今朝方の夢の振り返り

              

今朝方の夢は、「自分」という名札がどれほど仮の貼り紙であるかを、あえて一度はがして見せる装置であったのだろう。昨夜に湧いた「なぜこの人生はこの形なのか」「なぜ自分は自分であり、別人ではないのか」という驚きは、思考というより、同一性そのものに入った細い亀裂である。その亀裂から夢が光を差し込み、人格の座をわざとずらした。すると夢の中では、他者としての自分が立ち上がり、しかしその背後に、すでに夢を見ていることを薄々知る視点が控えていた。ここが核心である。夢の主役は「別人の自分」ではなく、主役を成立させている「目撃者」である。夢が他者の衣を着せたのは、日常では後景に退きがちな目撃者を、強制的に前景へ引き出すための舞台転換である。他者としての自分が慈愛に満ちていたことも偶然ではない。自己同一性が緩むと、普段は「自分を守るための境界線」として働く硬さが溶け、対人関係に混じる計算、評価、警戒といった微細な棘が抜け落ちる。そのとき現れる優しさは、性格の美点というより、目撃者が自然に発する温度である可能性が高い。つまり慈愛は「頑張って獲得する徳」ではなく、同一化が薄まったときに勝手に現れる地肌のようなものとして示されたのだろう。続く場面で、完全に目撃者として夢を眺めていた流れは、自己という渦の中心から、流れそのものへ視点が移ったことを意味する。映像のように移ろう景色は万物流転の象徴であり、眺めること自体が修行の形式になっている。そこに貫かれていた「平穏で静かな幸福」は、快楽の高揚ではなく、執着が生まれにくい種類の安らぎである。欲界的な「欲が対象を掴む幸福」ではなく、掴まないことから滲み出る幸福であり、色界的と感じられたのも自然である。しかも「常に微細な何かによって縁取られていた」という感覚は、世界の輪郭がくっきりしているのに、同時に薄い膜越しでもあるという二重性を示す。それは、現象が現象として立ち上がりつつも、どこかで「これは夢である」「これは心の映りである」と告げているサインであり、現象と真性の自己のあいだにある半透明の境界膜が知覚されたのだろう。人生における意味は、自己を一つの固定した実体として握りしめるほど苦は増え、自己を役割や仮の像として見送るほど慈愛と静けさが立ち上がる、という指針を夢が短編映画の形で提示した点にある。目撃者の自己を「遠い理想」ではなく「すでに背景に在る現実」として思い出すとき、日常の人間関係も、世界の流転も、掴む対象ではなく見守る流れへと変わりうる。その転換こそが、今朝方の夢が自分に手渡した道標である。フローニンゲン:2025/12/21(日)08:02


17899. 音色のパレットを広げるサウンドホールの左側での演奏


クラシックギターにおいて、サウンドホールの左側、特に13フレットから19フレット付近で右手を使って弦を弾くと、音色が著しく変化することは多くの奏者が経験的に知っている事実である。この位置では弦の振幅が小さく、倍音構成が整理されるため、音は柔らかく、丸味を帯び、どこか内省的で陰影に富んだ響きを持つ。とりわけ短調の楽曲や瞑想的なフレーズをこのポジションで奏すると、音が前に出るというよりも、内側へ沈み込むような雰囲気が生まれ、音楽の情緒的深度が増すと感じられる。しかし同時に、この領域での演奏は技術的難度が高い。弦のテンション感は非常に柔らかく、右手のわずかなタッチの違いが音量や音質に大きく影響する。そのため、サウンドホール付近での演奏に慣れた奏者にとっては、コントロールの不安定さや発音の曖昧さを感じやすい。加えて、弦の反発が弱いため、レガートや明確なアタックを維持するには、右手の脱力と指の独立性、さらには爪の角度に対する高度な感覚調整が求められる。それにもかかわらず、サウンドホール左側で弾けるようになることには、明確な価値と意義があると思う。第一に、音色のパレットが飛躍的に広がる点である。クラシックギターはもともと音量の幅が限られた楽器であるが、発音位置を変えることで、まるで別の楽器のような色彩変化を得ることができる。この領域の音色を自在に扱えるようになると、単調になりがちな弱音表現に奥行きとニュアンスを与えることが可能になる。第二に、右手の感覚が洗練されるという教育的意義がある。この位置で安定した音を出そうとする過程で、奏者は「力で音を作る」癖を手放し、最小限のエネルギーで弦を制御する感覚を身につけることになる。これは結果的に、通常のサウンドホール付近での演奏にも好影響を与え、音の芯や持続、弱音の安定性を向上させる。では、この位置で弾くことは一般的ではないのかと言えば、確かに標準的奏法ではないかもしれない。多くの教則本や初中級のレパートリーでは、サウンドホール付近、あるいはややブリッジ寄りが基本とされ、左側高フレット付近での演奏は明示的に扱われることは少ない。しかし一方で、現代奏法や音色的探究に積極的な演奏家の中には、意図的にこの領域を用いて内省的な響きや幽玄な効果を生み出している例も存在する。総じて言えば、サウンドホール左側で弾くことは「常用すべき標準奏法」ではないが、「表現の引き出しとして極めて有効な特殊領域」であると言える。この音域と音色に親しむことは、演奏者が音楽をより立体的に捉え、作品の陰影や心理的深みを描き出すための重要な資源となる。マイナー調の楽曲や静謐な場面において、この位置の音を選び取れるかどうかは、奏者の美意識と成熟度を静かに物語るのである。フローニンゲン:2025/12/21(日)08:09


17900. 指の独立のための瑜伽行 

     

クラシックギターの左手の指の独立は、一朝一夕に獲得される技能ではないが、神経可塑性の観点から見ると、毎日の訓練によって着実かつ段階的に進展していく能力であると言えそうだ。一般に、左手の薬指と小指が独立しにくいのは、解剖学的に屈筋・伸筋の腱や神経支配が部分的に共有されているためである。しかし、脳はこの制約をある程度まで乗り越える柔軟性を持っており、反復練習によって運動野や感覚野の表象が細分化されていく。神経可塑性の研究では、毎日20~30分程度の集中的かつ注意深い練習を継続した場合、早い人で2~4週間ほどで「動かしやすくなった」という主観的変化が現れ、約2~3か月で明確な運動制御の改善が感じられることが多いとされる。これは一次運動野における各指の神経表象が重なり合った状態から、徐々に分化していく過程に対応している。さらに6か月から1年ほど継続すると、独立した指運動が半ば自動化され、複雑な運指やポジション移動の中でも無意識的に制御できる段階に至ると考えられる。重要なのは、単に速く動かすことではなく、「どの指を動かし、どの指を静止させているか」を明確に意識しながら練習することである。たとえばクロマチック練習や、一本の指だけを上下させ他の指を弦に軽く触れさせたまま保つ練習は、不要な共収縮を抑え、神経回路の選択性を高めるのに有効である。ゆっくりとしたテンポで行うほど、脳は運動誤差を検出しやすくなり、可塑的変化が促進される。一方、右手の指の独立も同様に神経可塑性に支えられているが、左手とは異なる性質を持つ。右手では主に親指とi・m・a指の相互独立と協調が課題となる。効果的な訓練方法としては、①親指だけを一定のリズムで低音弦に当て続け、他の指で単音や和音を変化させる練習、②i-m、m-a、i-aなど二指の組み合わせを固定し、残りの指を完全に休ませる練習、③アルペジオを極端に遅いテンポで弾き、各指の接弦感覚を明確に観察する方法が挙げられる。これらは右手の運動野における指間の干渉を減らし、独立性とタイミング精度を同時に高める。総じて言えば、左手・右手いずれの指の独立も、数週間で兆しが現れ、数か月で確かな変化となり、半年から一年で身体化されていく可能性が高い。日々の小さな反復は、脳内で静かに回路を書き換え続けており、その積み重ねが、やがて自然で自由な演奏感覚として結実するのである。夕食後はこれを「指の独立のための瑜伽行」として行っていくことを習慣にする。フローニンゲン:2025/12/21(日)15:40


Today’s Letter

My witnessing self came to the foreground in the dream I had last night. It embodied my authenticity. Once I unpack the self that appears in a dream, I can recognize the true self. Groningen, 12/21/2025

 
 
 

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