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【フローニンゲンからの便り】17890-17895:2025年12月20日(土)


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タイトル一覧

17890

ゼミナールの第163回のクラスの課題文献の要約

17891

今朝方の夢

17892

今朝方の夢の振り返り

17893

本日のクラスの事前課題

17894

能力主義による民主主義の正当性の毀損

17895

指番号の守破離

17890. ゼミナールの第163回のクラスの課題文献の要約 

                           

今日は午後にゼミナールの第163回のクラスがある。年内のクラスも残すところあと2回である。今年も非常に充実した学びがゼミナールを通じて展開されていたことに深く感謝している。今日取り上げる課題文献において、著者のスタインが展開する議論の中心は、発達測定や発達理論がどのように使われるべきかという倫理的・社会的問題にある。先週の箇所で提示された「所与の神話」が主に認識論と方法論の問題であったのに対し、後半では「諸金属の神話」を軸に、発達評価の誤用が民主主義や個人の自律に及ぼす影響が詳細に論じられる。スタインが批判する諸金属の神話とは、発達測定によって人間の能力や性質の「本質」を捉え、それに基づいて人々を序列化し、社会的役割を割り当てることが正当であると考える発想である。この神話は、発達段階を単なる記述的指標ではなく、人間の価値や優劣を示す評価基準として扱ってしまう点に問題がある。スタインは、こうした考え方がプラトン以来の能力主義的思想と結びつき、現代においては「科学的メリトクラシー」という形で再生産されていると指摘する。この問題の核心にあるのが、自然主義的誤謬、すなわち「事実」から直接「価値」を導いてしまう誤りである。発達心理学が示すのは、ある領域や文脈において、どのようなパフォーマンスがどの水準で生じているかという事実記述にすぎない。しかし、現実には「高い段階=より良い」「低い段階=未熟」という価値判断が暗黙に付与されがちである。スタインは、この点を強く批判し、心理学的記述と倫理的評価を明確に区別する必要性を訴える。心理学は「どこにいるか」を示す学であり、「どこにいるべきか」を決める学ではないのである。さらに スタインは、人間の発達が本質的に非全体的であることを強調する。人は単一の発達段階に「ある」のではなく、領域ごと、状況ごとに異なる水準でパフォーマンスする。こうした個人内発達変動が普遍的に存在する以上、個人を一つのスコアや段階で総合的に評価する「全体的発達評価」は方法論的に成立しない。この誤った全体評価こそが、発達測定を人格評価や社会的選別に転用する 諸金属の神話を支えているのである。この点を具体的に示すために、スタインはダイナミックスキル理論に基づく「機能レベル(functional level)」と「最適レベル(optimal level)」の区別を導入する。人は支援のない困難な状況では低い水準でしか振る舞えないが、支援や慣れた文脈があれば、より高い水準の思考や行動が可能になる。発達とは単一の点ではなく、この幅をもったレンジとして理解されるべきであり、単一スコアによる評価がいかに粗雑であるかがここから明らかになる。では、発達評価はどのように用いられるべきなのか。スタインの答えは明確である。発達評価は、社会的役割の配分や選別のためではなく、教育的目的に限定して用いられるべきである。評価は、どのような学習環境や支援がその人の発達を促進するかを判断するための暫定的情報であり、人の将来や価値を決定する最終判断ではない。この立場は、発達評価を民主的に正当化する唯一の道であるとスタインは述べる。この主張の背後には、民主主義と個人の自律に関する思想がある。能力に基づく序列化は一見合理的に見えるが、それは個人を目的ではなく手段として扱う危険を孕み、長期的には民主主義の正当性を損なう。スタインは、ジェファーソン、デューイ、ハーバーマスに連なる民主主義論を踏まえ、発達評価の正当な役割は、人々が自ら学び、成長し、自律的に社会に参加できる条件を整えることにあると結論づける。課題文献の今回の箇所を通じて示される最終的メッセージは、発達測定に対する認識論的かつ倫理的謙虚さの要請である。測定は不完全で暫定的であり、人間の全体を捉えることはできない。その限界を自覚した上で、発達評価を成長支援のために慎重に用いることこそが、発達理論を科学的にも民主的にも成立させる条件なのである。フローニンゲン:2025/12/20(土)05:31


17891. 今朝方の夢 

                 

今朝方は夢の中で、数人の知人たちと相談を重ねながら難しいミッションを次々にこなしている場面があった。それは見慣れない欧州の街を通じて展開されていた。私たちが着実にミッションをこなすことができたのは、兎にも角にも常に連携をし、対話を重ねて協働していたからである。仮に一人ずつバラバラにミッションに従事していたら、そのような成果は得られなかったであろう。そこでは充実した協働が実現されていて、仲間たちと共に課題を解決していくことの楽しさの中にあった。


次に覚えているのは、知人の書籍の原稿をレビューし、タイトル案を一緒に考えている場面である。私はすでに何冊かの出版物があり、知見が蓄えられていることもあり、それらをその人に共有する意味でも積極的にフィードバックコメントをし、タイトル案も色々と考えた。それはその人の書籍をより良いものにすることにつながっているとその方も述べていたし、自分もそれを実感していた。


最後にもう一つ覚えているのは、サッカーゲームに熱中している場面である。最初は画面越しにそのゲームを行なっていたのだが、気づけば熱中度合いが極限に達しており、ゲームの中のプレイヤーになっていた。それはまるで非二元の体験のようであり、目撃者的にゲームを眺めていた状態から、ゲームの中の世界そのものと一体化している自分がいた。その試合は日本代表にとって非常に重要であり、得られたコーナーキックを得点に繋げるべく、幾分慎重にそれを扱っていこうと思った。結果的に慎重さよりも、コーナーキック後の非常に大胆なプレーが相手のミスを誘い、結果としてそれがゴールにつながった。慎重さと大胆さの双方が重要であることを学ばされる体験であった。フローニンゲン:2025/12/20(土)05:40


17892. 今朝方の夢の振り返り

                             

今朝方の夢は、協働・知の循環・没入という三つの位相が連なり、自分の現在の生き方と今後の成熟の方向性を象徴しているように思われる。冒頭の欧州の街でのミッション遂行は、未知の文脈に身を置きながらも、対話と連携によって複雑な課題を解いていく能力が育ってきていることを示唆しているようである。街が見慣れない欧州であった点は、慣習や前提が異なる環境、すなわち異文化的・越境的な場においても、自分が孤立せず、関係性の網の目の中で機能していることを象徴しているのかもしれない。個々が分断されていれば失敗していたであろうという感覚は、成果が個人の力ではなく、相互作用の質から生まれるという理解が深まっていることを暗示しているように思われる。次の書籍レビューの場面は、知の継承と共創の段階を示しているようである。すでに複数の出版経験を持つ自分が、知人の原稿に対して積極的に関与し、タイトルという核心部分にまで踏み込んで助言している点は、単なる評価者ではなく、編集的・伴走的な役割へと立ち位置が移行していることを象徴しているように見える。そのフィードバックが相手の創作を実際に前進させているという相互確認は、知識が所有物ではなく、循環することで価値を増すものであるという感覚が内面化されつつあることを示しているのかもしれない。最後のサッカーゲームの場面は、観照から没入への転換、すなわち二元的認識から非二元的体験への移行を象徴しているように思われる。画面越しに眺めていた状態から、いつの間にかプレイヤーそのものになっているという変化は、主体と対象の境界が溶け、行為と認識が一体化したフロー状態への深い親和性を示しているようである。日本代表という重責ある文脈で、コーナーキックを慎重に扱おうとしつつも、最終的には大胆な一手が結果を生むという展開は、熟慮と跳躍の両立が真の創造性を生むという洞察を象徴しているように感じられる。この夢全体が示している人生的意味は、自分が今、協働の中で価値を生み、知を分かち合い、さらに行為そのものと一体化して創造的な決断を下す段階へと移行しつつあるという示唆であるように思われる。慎重さと大胆さ、距離と没入、個と共同体を往復しながら統合していくことが、これからの生の質を決定づけていくという静かな指針が、この夢には込められているのかもしれない。フローニンゲン:2025/12/20(土)07:57


17893. 本日のクラスの事前課題 

                     

今日のクラスの事前課題の一問目は、「スタインが批判する「諸金属の神話」とはどのような考え方で、発達評価においてなぜ問題になるのでしょうか」というものだ。諸金属の神話とは、発達段階や能力測定によって人間の本質的な価値や優劣を判断できると考える発想である。この考え方では、発達段階が高い人は「より優れた人間」であり、低い段階の人は「劣っている」と暗黙にみなされてしまう。スタインは、こうした発想が発達評価を人格評価や社会的序列化の道具へと変えてしまう点を問題視している。発達評価が示しているのは、特定の文脈や課題におけるパフォーマンスの水準にすぎず、人間全体の価値や可能性を示すものではない。それにもかかわらず、評価結果を人の本質や将来の価値と結びつけてしまうと、科学的にも不正確であり、同時に他者を不当に固定化する倫理的問題が生じる。したがって、諸金属の神話は、発達評価を「支援のための情報」ではなく「選別や正当化の根拠」にしてしまう危険な神話なのである。


二つ目の問いは、「スタインは、発達心理学における「事実と価値の区別」がなぜ重要だと述べているのでしょうか。自然主義的誤謬との関係も含めて説明してください」というものだ。スタインが「事実と価値の区別」を重視するのは、発達心理学が本来扱うのは事実記述であり、価値判断ではないからである。発達段階とは、ある条件のもとでどのような思考や行動が見られるかを記述したものであり、それ自体が「良い」「望ましい」といった価値を含んでいるわけではない。しかし実際には、「高い発達段階はより良い」「低い段階は未熟である」といった価値判断が、発達段階の記述から直接導かれてしまうことが多い。スタインはこれを自然主義的誤謬、すなわち「ある」という事実から「あるべきだ」という価値を導いてしまう誤りとして批判する。この区別を守らなければ、心理学的測定が倫理的判断を密かに含み込むことになり、科学としての中立性を失う。したがって、発達心理学は事実を記述する役割にとどまり、価値判断や規範の問題は倫理学や社会哲学の領域で慎重に議論されるべきなのである。


三つ目の問いは、「スタインは、発達評価を「教育的使用」に限定すべきだと主張していますが、その理由を、民主主義と個人の自律という観点から説明してください」というものだ。スタインが発達評価を教育的使用に限定すべきだと主張する理由は、発達評価を社会的選別や役割配分の道具として用いることが、民主主義と個人の自律を根本から損なうからである。発達評価が能力の序列化に用いられると、人は自らの成長可能性を持つ主体としてではなく、あらかじめ位置づけられた存在として扱われてしまう。民主主義は、市民一人ひとりが対等な存在として社会に参加し、自律的に判断し行動できることを前提としている。しかし、発達段階によって人を価値づけるメリトクラシー的運用は、この前提を崩し、「より発達した者」が他者を導く権利を持つかのような正当化を生み出してしまう。スタインは、発達評価の正当な役割は、人を振り分けることではなく、どのような学習環境や支援がその人の発達を促すかを考えるための情報を提供することにあると述べる。評価を教育的文脈に限定することで初めて、発達理論は個人の自律を支え、民主主義と両立する形で用いられるのである。フローニンゲン:2025/12/20(土)08:04


17894. 能力主義による民主主義の正当性の毀損 

                         

ザカリー・スタインが指摘する能力に基づく序列化が「民主主義の正当性を損なう」とは、民主主義が成立するための根本条件そのものが内側から侵食されることを意味する。民主主義とは単に多数決によって意思決定が行われる制度ではなく、すべての市民が原理的に対等な存在として、政治的・社会的意思形成に参加する資格を持つという規範的前提に支えられた体制である。この前提が失われたとき、制度としての民主主義は存続していても、その正当性は空洞化する。能力に基づく序列化が問題となるのは、それが人間を「同等の市民」ではなく、「機能や貢献度の違いによって価値づけられる存在」として捉え直してしまうからである。序列化の論理では、ある者は「より高い判断力を持つ者」、別の者は「未熟で導かれるべき者」と位置づけられる。この区別が社会的に正当なものとして受け入れられると、政治的意思決定においても、すべての人の声が等しく重みを持つという前提が揺らぎ始める。民主主義の正当性は、「誰が決めるのか」ではなく、「なぜその決定に従う義務があるのか」という問いによって支えられている。その答えは、決定が自分自身も参加可能な手続きによって行われ、かつ自分と他者が原理的に対等な立場にあるという理解にある。しかし能力に基づく序列化が浸透すると、「より能力の高い者が決めたのだから従うべきだ」という発想が正当化されやすくなる。これは、服従の理由が手続き的正当性から、能力や専門性への信頼へとすり替わることを意味する。このとき民主主義は、表面的には存続していても、実質的にはテクノクラシーやメリトクラシーへと変質する。市民は自らを意思形成の主体としてではなく、専門家や「優れた人々」の判断を受け入れる対象として理解するようになる。結果として、「自分もこの決定の共同作者である」という感覚が失われ、政治的無力感や疎外感が広がる。これは、民主主義にとって致命的である。さらに重要なのは、能力評価が本質的に暫定的かつ文脈依存的であるにもかかわらず、それが人格全体や市民としての資格にまで拡張されてしまう点である。発達段階や能力指標は、特定の条件下でのパフォーマンスを示すにすぎない。それにもかかわらず、それを根拠に社会的価値や発言権の重みが暗黙に差別化されると、平等な市民という民主主義の基礎概念が破壊される。この意味で、「個人を目的ではなく手段として扱う」という問題は、単なる道徳的非難にとどまらない。それは、人を社会的機能や成果のための資源として扱い、その人が自ら意味を形成し、公共的判断に参加する主体であることを否定する行為である。民主主義は、市民を手段としてではなく、目的として尊重するという規範なしには成立しない。したがって、能力に基づく序列化が長期的に民主主義の正当性を損なうとは、市民が「なぜこの社会秩序に従うのか」を自ら納得できなくなる状態を生み出すことを意味する。制度は残っても、承認は失われる。この承認の喪失こそが、民主主義の正当性が損なわれた状態なのである。これは今の日本の状況を皮肉にも見事に映しているのではないだろうか。フローニンゲン:2025/12/20(土)09:45


17895. 指番号の守破離 


楽譜に記載されている指番号は、作曲者や編曲者、あるいは校訂者が想定した「一つの最適解」を示しているにすぎず、絶対的な規範ではないと考えられる。この点を理解することは、演奏者として成熟していく上で極めて重要である。指番号は音楽的意図やフレージング、技術的な安全性を考慮して付されている場合が多く、特に初見や初期練習においては、思考の負荷を減らし、全体像を把握するための有効な道標となる。その意味で、練習段階で指番号に忠実に従うことは大きな価値を持つ。しかし一方で、指番号を厳密に守ろうとすればするほど、かえって不自然な運動や音楽的停滞を感じる場面に遭遇することも少なくない。これは、指番号が平均的な手の大きさや一般的な技術水準を前提としているためであり、演奏者一人ひとりの身体条件や感覚、音楽観までは完全に反映しきれないからである。実際に弾き込んでいく過程で、「このポジション移動は別の指の方が滑らかである」「この音型は開放弦を使った方が歌いやすい」といった発見が生じることは自然なことである。重要なのは、指番号に従うことと、そこから離脱することを対立的に捉えない姿勢である。指番号に忠実に従う練習は、作品が内包する構造や、運指上の意図を身体的に理解するための探索段階であると位置づけられる。その上で、十分に音楽と身体が馴染んだ後に、自分なりの運指を模索することは、単なる自己流への逸脱ではなく、理解の深化に基づく再構成であると言えるだろう。最終的に自分の運指を見つけていく過程は、演奏者が楽譜を「読む者」から「語る者」へと移行していく過程でもある。運指は単なる技術的選択ではなく、音色、フレーズの方向性、呼吸感、さらには美意識そのものを体現するものである。したがって、自分にとって自然で、音楽的必然性を感じられる運指を選び取ることは、演奏の自由度と説得力を大きく高める。このように、指番号に従う練習は土台として不可欠であるが、最終目的ではない。指番号を理解し、咀嚼し、必要に応じて乗り越えていくことで、楽譜は単なる指示書から、生きた音楽へと変容するのである。演奏者が自らの身体と感性を信頼しながら運指を選び取っていくとき、そこに初めて「自分の音楽」が立ち上がってくるのである。フローニンゲン:2025/12/20(土)10:45


Today’s Letter

One ripple in the vast ocean of reality is the shape of my ego and identity. It will disappear sooner or later. Without clinging to the ripple, I will cherish and nourish it. Groningen, 12/20/2025

 
 
 

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