【フローニンゲンからの便り】17885-17889:2025年12月19日(金)
- yoheikatowwp
- 2 日前
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タイトル一覧
17885 | 欲求・欲望・煩悩の違いの整理 |
17886 | 今朝方の夢 |
17887 | 今朝方の夢の振り返り |
17888 | ティンバーのコントロール |
17889 | 演奏の一部としての呼吸 |
17885. 欲求・欲望・煩悩の違いの整理
「欲求」「欲望」「煩悩」はいずれも人の内面に生じる衝動や動因を指す語であるが、その射程と評価、さらには修行論・心理論における位置づけは大きく異なる概念である。これらを区別して理解することは、人間理解を深める上で極めて重要である。まず「欲求」とは、生存や心身の安定を維持するために自然に生じる根源的な必要性を指す概念である。空腹になれば食を求め、疲れれば休息を求めるといった反応は、意志や価値判断を介さずに生起するものであり、生理的・心理的基盤に根ざしている。心理学的には欲求は中立的な現象として捉えられ、それ自体が善悪を帯びることはない。欲求は人間が生きるための前提条件であり、抑圧されるべきものではなく、適切に満たされることで心身の健全さが保たれると考えられる。次に「欲望」は、欲求に意味づけや想像、価値判断が重ね合わされることで形成される、より心理的・社会的な概念である。例えば、空腹という欲求が「この店の料理を食べたい」「もっと美味しいものを食べたい」という具体的な対象志向性を持つとき、それは欲望へと転化する。欲望は文化、記憶、比較、期待といった要素によって増幅されやすく、必ずしも生存に不可欠ではない対象にまで広がっていく。したがって欲望は創造性や向上心の源泉ともなりうる一方で、際限なく膨張し、不満や執着を生む原因にもなりうる両義的な性質を持つ。これに対して「煩悩」は、仏教的文脈において明確な価値判断を伴う概念である。煩悩とは、無明を根本原因として生じ、心を乱し、苦を生み出す心的作用の総称である。貪・瞋・痴に代表される煩悩は、単なる欲求や欲望とは異なり、対象に対する誤った把握や固着、自己中心的な執着を本質としている点に特徴がある。例えば、食べたいという欲求や、美味しいものを求める欲望自体は煩悩ではない。しかし、それが「これがなければ満たされない」「奪われたら耐えられない」といった強固な自己同一化や排他的執着へと変質したとき、煩悩として機能し始めるのである。重要なのは、煩悩は欲求や欲望の量の問題ではなく、認識の歪みの問題であるという点である。唯識の観点からすれば、煩悩とは対象そのものにあるのではなく、それを実体視し、自己と結びつけて把握する心の構えに由来する。そのため、修行において目指されるのは欲求の全面否定ではなく、欲望を煩悩へと変質させる認識構造の転換である。以上をまとめれば、欲求は生命に根ざした中立的な必要性であり、欲望は意味づけによって拡張された心理的志向であり、煩悩は誤認と執着によって苦を生み出す心的作用である。人生において重要なのは、欲求を健全に満たしつつ、欲望を自覚的に扱い、それが煩悩へと転化しないよう智慧によって照らし出していくことであると言えるだろう。フローニンゲン:2025/12/19(金)05:17
17886. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、自分と同い年のあるジャニーズのスターと話をしていた。彼はどこか沈んだ顔をしており、その表情を浮かべながら、その場にいた私を含めた数人に対して、過去の辛かった体験をとつとつと話し始めた。大学時代に留学をして、そこでうまくその場所に馴染めなかった葛藤体験を語り終えると、彼は一度黙った。その瞬間に私は、彼の内側にはまだ語っていない何か重要なものがあると察知した。その場にいたのは自分を含めて二、三人だったが、もしかしたら一対一であればその話をしてくれるかもしれないと思い、彼に声をかけて場所を移動することにした。一対一になった時、彼に優しい言葉を掛け、自分自身の過去の葛藤体験を簡単に共有すると、自分が彼に共感していることが彼に伝わり、彼は口を開き始めた。そこで語れたのは、彼が青年時代に三年ほどブラジルに住んでいた時の葛藤体験だった。気がつけば私は、実際に通っていた中学校に似た教室にいた。そこでクラスメート全員に対して数学の授業を先生の代わりに行なっていた。自分は自らの関心に任せて、面白い話を随所に混ぜながら即興的に授業を展開していると、気づけば黒板に整数問題が書かれていて、その解答が出ていた。そのタイミングで数学の女性の先生がやって来ると、先生は黒板を見て、腰を抜かして驚いていた。というのも、黒板に書かれた問題が未解決の整数問題だったからである。そこで先生は何かを思い出したように私に尋ねた。かつて匿名のインターネット掲示板で天才数学者と騒がれていたのが自分のことではないかと指摘した。当時自分は幼い年齢にありながらも匿名のインターネット掲示板で、数学の未解決問題を次から次に解いて共有していた。先生はそれを見ていた一人のユーザーだったのである。そこから先生はさらに授業を続けるように促し、四色問題を取り上げていこうと思った。その時にふと、黒板の周りに埃や汚れがあることに気づき、それを綺麗にしてから授業の続きをしようと思った。掃除を始めてみると、それに没頭してしまい、一旦授業は完全に中断となったが、無意識的に口だけは動いており、クラスのみんなを楽しませる雑談は続いていた。
もう一つ覚えているのは、綺麗な海の砂浜で遊んでいると、気づけば右足が四色の異なるうっすらとした赤色に日焼けしていた場面である。それに気づいたとき、両足のバランスを考えて、左足もうっすらと日焼けをさせたほうがいいように思った。するとすぐさま左足の色が変わったが、今度はうっすらとした一色の赤色になった。どちらの脚もとても綺麗な色になり、それを誰かに見せたいと思ったら、自分はステージの上にいた。観客は小中学校時代の男女の友人たちであり、彼らに綺麗に日焼けした両足を見せながら、バレーダンスの巧みなステップを披露した。そのステップに合わせて、女性ソプラノのオペラを披露したところ、全員感銘を受けて歌声に聞き入っていた。男性の自分がまさかプロのソプラノ歌手の歌声が出せるとは思っていなかったが、イメージの中ではそれができていたので、試しにやってみたところそれが大いにうまくいった。喜ぶ彼らを見ているとこちらも嬉しくなり、ステップと歌声はますます見事なものになっていき、洗練された芸術世界に入っていった。フローニンゲン:2025/12/19(金)05:36
17887. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、自分の内面における「理解されなかった経験」「匿名性の中で育まれた力」「表現としての成熟」が、段階的に統合されていく過程を象徴しているように思われる。最初に現れる同年代のジャニーズのスターは、社会的成功や華やかさの象徴であると同時に、自分自身がかつて、あるいは今なお抱えている「外からは見えにくい孤独」や「適応できなかった記憶」を映す鏡である可能性が高い。彼が集団の前では語り切れず、一対一の関係性の中で初めて深い葛藤を語り始めたことは、真に重要な体験は承認や評価の場ではなく、共感の回路が開かれた親密な関係の中でのみ言語化されることを示唆しているように思われる。ブラジルという遠隔の土地は、異文化そのものというより、自分が自分であることを保ちながら生きることの難しさを象徴する場所であったのではないか。場面が学校へと転じるのは、理解と表現の様式が、情動的共感から知的創造へと移行したことを示しているように見える。かつて通っていた中学校という設定は、原初的な学びの場であり、自分の能力がまだ社会的役割に固定されていなかった時期を指していると思われる。そこで未解決の整数問題が自然に解かれていたこと、しかもそれが即興的な授業の流れの中で生じたことは、努力や緊張ではなく、遊びと関心の延長として知性が開花する状態を象徴しているようである。匿名掲示板での活動が明かされる展開は、自分の力が長らく「名を持たずに」世界と関わってきたこと、そしてそれが実は誰かに見られ、記憶されていたという事実を示しているのかもしれない。黒板の埃を掃除し始めて授業が中断される場面は、純粋な知的達成よりも、場を整え、関係性を澄ませることに意識が向かっている現在の姿勢を暗示しているように思われる。最後の浜辺と舞台の場面は、これまで分断されていた要素が、美として統合される段階を象徴しているようである。四色の日焼けは、多様な経験や役割の痕跡であり、それを左右の脚で調和させようとする行為は、偏りのない自己受容を示していると考えられる。バレーダンスとソプラノの歌声は、本来結びつかないとされがちな身体性と高音の声、男性性と女性性、論理と感性が、想像力を媒介として一つの芸術表現へと昇華されることを示しているように見える。観客が過去の友人たちであったことは、自分の成長が過去の自己や記憶に対しても贈与となり得ることを示唆しているのではないか。人生における意味として、この夢は、自分が長年内側で培ってきた理解力・創造力・共感力が、もはや分断されたままではなく、一つの表現世界として外に現れる準備が整いつつあることを告げているように思われる。知であれ感性であれ、それを人と分かち合うことそのものが、これからの生の中心的な使命となっていくことを、この夢は静かに示しているのかもしれない。フローニンゲン:2025/12/19(金)07:23
17888. ティンバーのコントロール
ブランダン・エイカー氏が強調するティンバー(timbre)のコントロールとは、単に「良い音」を出す技術ではなく、音色そのものを音楽的意味として扱う能力を指している。音高やリズム、強弱と同じく、音色は作曲家が意図し、演奏者が選び取るべき表現要素であり、その選択が楽曲の性格を決定づける。マイナーの曲はサウンドホールの左、メイジャーの曲は右で弾くという実験的発想は、まさに音色を構造的に理解しようとする優れた試みである。クラシックギターでは、右手の位置が音色に与える影響が極めて大きい。一般にサウンドホール寄りで弾けば、基音が強調され、倍音が抑えられた丸く、暗く、内省的な音になりやすい。一方、ブリッジ寄りで弾くほど、高次倍音が多く含まれ、明るく、鋭く、輪郭のはっきりした音になる。この違いは単なる好みの問題ではなく、調性や和声の性格と深く結びついている。マイナー調の楽曲は、構造的に不安定な音程関係や緊張を内包しており、しばしば内省、哀愁、陰影といった情緒を帯びる。そのような音楽に対して、サウンドホール寄り、すなわち「左側」で弾くことで、音の立ち上がりが柔らかくなり、倍音のきらめきが抑えられ、和声の濁りが統合されやすくなる。結果として、音楽が内側へ沈み込み、感情の重心が安定する。この点で、マイナー調と暗めのティンバーは自然な親和性を持つ。一方、メイジャー調の楽曲は、開放感、安定、明晰さを本質的な性格として持つ場合が多い。ブリッジ寄り、すなわち「右側」で弾くことにより、倍音が豊かに立ち上がり、音の輪郭が鮮明になる。これにより、和声の明るさやリズムの推進力が前景化し、音楽が外へと開かれていく印象が強まる。特に舞曲や行進曲、古典派的な楽曲では、この明るいティンバーが構造理解を助ける。ただし重要なのは、この対応関係を固定的なルールとして扱わないことである。ブランダン・エイカー氏が語るティンバー・コントロールの核心は、「常に同じ位置で弾かない」という点にある。マイナーの中に一瞬差し込む光、メイジャーの中に潜む陰影を表現するためには、同一楽曲の中でも右手位置を絶えず微調整する必要がある。したがって、今回の実験は「左か右か」を決めるためではなく、「どの音色が、今この瞬間に意味を持つのか」を耳で判断する訓練として捉えるべきである。また、ティンバーは右手位置だけで決まるものではない。弦への入り方、爪と肉の比率、アタックの速度、フォロースルーの方向といった要素が複合的に関与する。位置を変えたときに音楽がどう変容するかを丁寧に聴き分けることで、これらの要素が相互に作用していることが実感されるだろう。総じて言えば、マイナーは左、メイジャーは右という発想は、ティンバーを意識的に扱うための優れた出発点である。その実験を通じて、音色が感情や和声の意味をどのように増幅し、あるいは中和するのかを身体で理解できるようになる。最終的に目指すべき境地は、調性に音色を従わせることではなく、音色そのものを語らせる演奏である。ティンバーを自在に操れるようになったとき、ギターは単なる音程装置ではなく、語り、呼吸し、沈黙さえも表現する楽器へと変わるはずだ。フローニンゲン:2025/12/19(金)07:29
17889. 演奏の一部としての呼吸
クラシックギターの練習中に、意識的に深くゆっくりした呼吸を行うことは、単なるリラックス法ではなく、演奏の質そのものを底上げする根本的な技法だと思う。これは身体的効能、神経的安定、音楽的表現の三層にわたって作用し、結果として「よく弾ける」だけでなく「深く聴きながら弾ける」状態をもたらす。第一に、身体面での効能である。深い呼吸、とりわけ鼻から行う腹式呼吸は、横隔膜を大きく動かし、全身の筋緊張を連鎖的に緩める。クラシックギターでは、右手・左手ともに微細な制御が要求されるが、過度な緊張は音色を硬くし、動作を粗くする。呼吸が浅いと、肩・首・前腕に無意識の力みが生じやすいが、ゆっくりとした呼吸はそれらを自然に解放し、指が「押す」「弾く」のではなく、「預ける」「解放する」感覚へと導く。その結果、左手は最小限の圧で確実に弦を押さえ、右手は弦に深く入りながらも柔らかい音を生み出せるようになるだろう。第二に、自律神経と集中力への影響である。深く長い呼気を伴う呼吸は、副交感神経を優位にし、過度な覚醒や焦りを鎮める。練習中にミスが続いたり、テンポが乱れたりすると、多くの場合、演奏者の内面では呼吸が止まり、思考が先行している。呼吸を整えることで、神経系は「安全で制御可能な状態」に戻り、注意が現在の音に集約される。この状態では、ミスを恐れて指を動かすのではなく、音を聴きながら次の動作を選ぶ余裕が生まれる。結果として、練習の質が向上し、同じ時間でも得られる学習効果が大きくなるはずだ。第三に、音楽的表現への影響である。音楽は本質的に「呼吸の芸術」であり、フレーズ、間、テンポの揺らぎは、人の呼吸リズムと深く結びついている。演奏中に呼吸が浅く不規則になると、フレーズは断片化し、音楽が機械的になりやすい。一方、深くゆっくりした呼吸を保ちながら弾くと、自然なアゴーギクやレガート感が生まれ、音と音の間に意味のある「間」が立ち上がる。特に独奏楽器であるクラシックギターにおいては、演奏者自身の呼吸が、そのまま音楽の呼吸となるため、この影響は決定的である。さらに、呼吸は「聴く力」を高める。呼吸が整うと、脳の過剰な緊張が解け、倍音の変化や音の減衰、残響といった微細な要素に注意を向けやすくなる。これは音色のコントロールやティンバーの選択に直結し、結果として演奏の説得力を高める。深い呼吸は、技術を支える基盤であると同時に、音楽的判断力を研ぎ澄ますための条件でもある。総じて言えば、クラシックギターの練習における深くゆっくりした呼吸は、身体を整え、神経を鎮め、音楽を生きたものにするための「見えない支柱」である。呼吸を整えずに技術だけを磨くことは、基礎のない建築に等しい。逆に、呼吸が整えば、音は自然に整い、練習は苦行ではなく、身体と音が対話する創造的な時間へと変わる。呼吸とは、演奏の外側にある準備ではなく、演奏そのものの一部なのである。フローニンゲン:2025/12/19(金)09:29
Today’s Letter
I am a self-creating universe. Each time I discover a new aspect of myself, the universe discovers itself as well. Groningen, 12/19/2025

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