【フローニンゲンからの便り】17880-17884:2025年12月18日(木)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17880 | 今のクラシックギターと長く付き合う姿勢 |
17881 | 今朝方の夢 |
17882 | 今朝方の夢の振り返り |
17883 | レストストロークのようなフリーストロークに向けて |
17884 | 摩擦音のコントロール |
17880. 今のクラシックギターと長く付き合う姿勢
今自分が持っているのは5万円前後のアルハンブラのクラシックギターだが、そうした初心者用のギターであっても、長く弾き込み、丁寧に付き合っていけば、自分の音を表現できる楽器になっていく可能性は十分にある。むしろその価格帯の楽器だからこそ得られる恩恵も存在すると考えられる。アルハンブラはスペインの老舗メーカーであり、入門から中級までのモデルにおいて、音程の安定性やネックの精度、全体のバランスに強い定評がある。5万円前後のモデルは、材料や製作工程においてコスト制約はあるものの、「無理に鳴らそうとしなくても、一定の音が安定して出る」という点で、学習用として非常に優れている。これは長期的な練習において極めて重要な要素である。弾き込むことで楽器が変わるのか、という問いに対しては、物理的な側面と演奏者側の側面を分けて考える必要がある。物理的には、トップ板や内部構造が振動に慣れ、音の立ち上がりがやや柔らかくなったり、音量が安定したりすることは確かに起こり得る。ただし、その変化は高級手工ギターほど劇的ではない。むしろ、音の変化の大部分は「弾き手が楽器に適応していく過程」によって生まれると考えた方が正確である。同じ楽器を毎日弾き続けることで、自分の指の重さ、角度、速度に対して、その楽器がどう反応するかが身体化されていく。どの位置で弾けば芯が出るのか、どのくらいの力で弾くと音が潰れるのか、といった感覚が無意識レベルで蓄積される。この過程を通じて、「自分の音」は楽器の性能の上にではなく、身体と楽器の関係性の中に形成されていく。5万円クラスのアルハンブラは、反応が過度に敏感ではない分、タッチの揺れをある程度吸収してくれる。そのため、演奏者の成長段階において、音が破綻しにくく、安心して試行錯誤ができる。これは高級ギターにはない利点であり、「音作りの実験室」として非常に価値が高い。一方で、限界がないわけではない。ホールでの音量、弱音の多層的なニュアンス、遠鳴りといった点では、いずれ物足りなさを感じる可能性はある。しかしそれは、「表現できなくなった」からではなく、「表現したいイメージが明確になった」ことの裏返しである。その段階に至ったとき、初めて上位機種への移行が意味を持つ。重要なのは、楽器を早く替えることよりも、一つの楽器からどこまで音を引き出せるかを徹底的に探ることである。その意味で、今のアルハンブラと長く付き合うという姿勢は、自分の音楽を深める上で極めて健全である。音は価格から生まれるのではなく、時間と注意と身体性から生まれる。その三つを注ぎ込めば、そのギターは確実に「自分の音」を語り始めるだろう。フローニンゲン:2025/12/18(木)06:35
17881. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない日本の街にいて、昼食をふと摂りたくなった。お腹が空いてきたところで辺りを見渡すと、偶然にもたくさんのレストランがあった。ちょうど自分は和食を食べたい気分だったので、無数のレストランから良い和食レストランを探すことにした。和食レストランといっても色々な種類のものがあり、迷ってしまうほどだった。店の外から中を眺めてどのような雰囲気を確認していきながら、いくつかの候補を絞った。店の中に入って確認したいと思ったレストランがあったので、中に入ると、そこは少し違うかもしれないと思って、入り口とは違う出口から外に出ようとすると、出口はビルと繋がっていて、ビルの中は迷路のように入り組んでいた。しかも廊下に灯りがついておらず、非常に暗い中を進んでいく必要があった。いくつものドアがあり、それらを開けていくと、ことごとく外に出る通路には繋がっていなかった。少し途方に暮れかかっているところに、ビルの中の店の店員の男性が廊下に現れ、親切にも出口の方向を示してくれた。そのおかげで助かり、指示に従って歩いていると、そのビルは博物館とも繋がっていて、客が博物館内に入ってきている姿が見えた。そこからはもう出口の方に明かりが見え、その明かりに従って無事に外に出ることができた。結局自分は、鯖の味噌煮が食べたいと思ったので、一番美味しそうな鯖の味噌煮が食べられる目当ての店に向かった。
次に覚えているのは、見慣れないコンサートホールのような場所で、大勢の人の前でスピーチをする場面である。そこにいたのは全て同じ中学校の同級生や後輩たちであり、その点においてスピーチで緊張する心配はほとんどなかった。最初に小中学校時代のある友人(HT)がスピーチを始めた。実は彼は自分に師事をして学術研究をしており、自分の気狂いな探究方法や探究思想に関するエピソードを語り始めた。すると、聴衆は笑いの渦に包まれた。自分はネタにされて悪い気持ちはせず、むしろ自分の学術探究にかける思いや姿勢を多くの人に知ってもらう意味で、彼のスピーチは有り難く思った。そこからも笑いの波が何度も起き、次の次の番に自分はスピーチをすることになっていた。事前に何を話すかを決めていなかったこともあり、彼の話を受けて自分もユーモアに溢れる話を即興的にしていこうと思った。その前に、ちゃんと昼食を平らげておこうと思ったので、一旦会場を後にすることにした。フローニンゲン:2025/12/18(木)06:49
17882. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体は、自分が人生と探究において「何を選び、どこへ向かうのか」を内的に吟味している過程を象徴している可能性が高い。冒頭の見慣れない日本の街は、既知でありながらも現在の自分にとっては距離のある価値世界、すなわち過去の文化的基盤や原点的な自己理解を示していると推量される。その街で空腹を覚えることは、単なる身体的欲求ではなく、精神的・知的な滋養への欲求、つまり「今の自分に本当に必要なものは何か」を探し始めている状態を表しているのであろう。無数の和食レストランの中から一つを選ぼうとする場面は、選択肢の過剰さの中で本質を見極めようとする姿勢の象徴である。外から店内の雰囲気を確かめ、慎重に候補を絞る行為は、自分がこれまで培ってきた判断力や審美眼を用いて、表層的な魅力ではなく内実を見ようとしていることを示唆している。しかし、実際に一つの店に入ると違和感を覚え、別の出口から出ようとした瞬間に迷路のような暗いビルに入り込む。この暗闇は、選択の結果として一時的に見通しを失う不安や、知的探究の過程で避けられない混迷状態を象徴していると考えられる。いくつものドアを開けても外に出られないことは、試行錯誤を重ねても答えに辿り着けない停滞感を表しているのであろう。そのような状況で現れる店員の男性は、外部の他者という形を取りながらも、実際には自分の内に蓄積された経験や知恵、あるいは師や友人との関係性から得た導きの象徴である可能性がある。彼の指示によって博物館へと繋がる通路が開ける点は示唆的である。博物館は知の蓄積、歴史、学術的営為そのものを象徴し、自分が迷いの中にあっても、知の世界と繋がり続けている限り出口は見出されるという感覚を示していると考えられる。やがて見える光に導かれて外へ出る場面は、混迷の先にある理解や方向性の回復を象徴しているのであろう。そして最終的に鯖の味噌煮を選ぶことは、華美ではないが滋味深く、長年親しんできた確かな価値や方法論へと回帰する決断を表しているように思われる。後半のスピーチの場面は、社会的自己と探究者としての自己が統合されつつある状態を象徴している。同級生や後輩だけの聴衆は、評価への過度な緊張から解放された安心できる共同体を示している。HTが自分の気狂いな探究姿勢をユーモアとして語り、笑いが起こる場面は、自分がこれまで異端的であったと感じてきた探究スタイルが、他者に受け入れられ、意味ある物語として共有されていることを示唆している。自分がそれを不快に感じず、むしろ感謝を覚える点は、自己肯定と社会的承認が一致し始めている兆しである。即興的にユーモアを交えて語ろうとする姿勢は、探究と遊び、厳密さと軽やかさを統合しようとする現在の心境を映しているのであろう。スピーチの前に昼食をきちんと済ませようとする行為は象徴的である。これは、他者に語り、社会に向けて自己を表現する前に、まず自分自身を十分に養い、整える必要があるという無意識からのメッセージであると推量される。この夢が人生において示している意味は、迷いと暗闇を経ながらも、自分は知と滋養を選び直し、内的充足を確保した上でこそ、世界に向けて自分の言葉を語る段階に来ているということである。フローニンゲン:2025/12/18(木)09:49
17883. レストストロークのようなフリーストロークに向けて
ブランダン・エイカー氏が強調しているように、フリーストロークの音色をできる限りレストストロークに近づけようとする試みは、クラシックギターの表現力を根本から高める上で極めて重要である。この課題は単なる音量やテクニックの問題ではなく、「音をどう立ち上げ、どう空間に解き放つか」という音楽的本質に関わっている。一般にレストストロークは、弦に深く触れ、次の弦に指を預ける構造を持つため、音の芯が太く、立ち上がりが明確で、歌うような密度を持つ。一方、フリーストロークは構造上、指が空間へ抜けるため、音が軽く、薄くなりやすい。しかし実際の音楽では、和音、分散和音、アルペジオ、内声など、多くの場面でフリーストロークが不可欠であり、その音が弱くなると旋律の連続性や音楽の説得力が損なわれてしまう。したがって、フリーストロークでありながら、レストストロークに近い密度と存在感を持つ音を出せるかどうかが、上級者と熟達者を分ける分岐点になると考えられる。この試みの第一の要点は、弦に「浅く触れない」ことである。フリーストロークであっても、弦の表面を撫でるのではなく、レストストロークと同様に弦の内部へ沈み込む感覚を持つことが重要である。そのためには、指先の角度をやや弦方向に向け、爪と肉の接触時間を十分に確保する必要がある。音を弾くのではなく、「弦を一度しっかり掴み、解放する」という意識が有効である。第二に重要なのは、フォロースルーの質である。フリーストロークでは、指が空間に逃げるため、無意識に動きが小さくなりがちであるが、レストストロークと同じエネルギー量で弦を通過させ、指が自然に前方へ進む軌道を描くことが求められる。次の弦に止まらないだけで、運動エネルギーそのものは減らさないという発想が鍵となる。第三に、右手全体の安定が欠かせない。親指、手首、前腕が安定し、無駄な緊張がない状態であってこそ、指は弦に深く入り、音に重心が生まれる。とりわけ親指の位置が不安定だと、フリーストロークの音は一気に軽くなるため、親指を支点として右手全体を「構造体」として保つ意識が重要である。このように、フリーストロークの音をレストストロークに近づける試みとは、両者の違いを消すことではなく、音の質の理想を共有させる作業であると言える。これが達成されると、旋律と伴奏、主音と内声の間に音質的な断絶がなくなり、ギターという楽器が本来持つ「一つの声として歌う力」が最大限に引き出される。結果として演奏はより自然に、より説得力を持ち、聴き手の心に深く届くものとなるのである。フローニンゲン:2025/12/18(木)09:54
17884. 摩擦音のコントロール
クラシックギターの演奏において生じる、いわゆる「キュッキュ」という擦過音は、多くの場合、左手の指が弦上を移動する際に生じる摩擦音であり、特にナイロン弦の高音弦や新しい弦で顕著に現れる。この音をどう扱うかは、単なる技術的問題にとどまらず、「音楽におけるノイズとは何か」という美学的問いにも関わっている。まず、擦れる音を減らすための具体的な工夫から整理してみたい。最も基本的なのは、左手の圧力のコントロールである。多くの擦過音は、必要以上に強く弦を押さえたままポジション移動を行うことで生じる。移動の瞬間に一度圧を抜き、弦に軽く触れる程度まで脱力してから次のポジションで再び必要最小限の圧を加えるだけで、ノイズは大幅に減少する。これは技術というより、左手の「重さの感覚」を洗練させる訓練だと言える。次に重要なのは、移動のタイミングと経路である。音が鳴っている最中に指を動かすと、擦過音は必然的に耳につきやすい。そのため、右手の発音と左手の移動をわずかにずらし、音が減衰する瞬間や、次の音が発音される直前に移動を行う工夫が有効である。また、弦に対して真横に指を引きずるのではなく、わずかに指を浮かせる軌道を描くことで、摩擦面積を減らすことができる。弦と爪・指のコンディションも無視できない。弦が極端に新しい場合や、逆に汚れが蓄積している場合、擦過音は強調されやすい。適度に弾き込まれた弦を使うこと、必要に応じて弦を軽く拭くこと、左手の指先が過度に乾燥していないことなど、物理的条件を整えるだけでも音は変わる。市販のコーティング剤や潤滑剤を使う方法もあるが、音色そのものに影響を与えるため、慎重な判断が必要である。一方で、そもそもこの擦過音は「完全に排除すべきノイズ」なのかという問いは、極めて重要である。結論から言えば、擦過音は必ずしも悪ではなく、文脈次第では音楽的要素として機能する。人の歌声に息遣いが含まれるように、弦楽器における指の移動音は、身体性やフレーズの連続性を聴き手に伝える役割を持つ。実際、多くの名演奏家の録音を注意深く聴けば、擦過音が完全に消されているわけではなく、むしろ自然なレガート感や距離感を生んでいることが分かる。問題となるのは、その音が意図せず前景化してしまう場合である。旋律よりも擦過音が目立つとき、それは音楽の流れを妨げるノイズになる。しかし、演奏者がその存在を理解し、量とタイミングを制御できていれば、それは「管理された音」として、表現の一部に昇華される。したがって目指すべきは無音化ではなく、可聴性のコントロールである。総じて言えば、クラシックギターにおける擦れる音は、技術的洗練によって減らすことは可能であり、また減らすべき場面も確かに存在する。しかし同時に、それは楽器と身体が直接触れ合って生まれる、生きた音の痕跡でもある。演奏者に求められるのは、それを敵として排除することではなく、音楽の文脈の中で必要か不要かを判断し、自在に扱える感覚を磨くことである。その境地に至ったとき、キュッという音はもはや邪魔者ではなく、沈黙と音をつなぐ繊細な呼吸として、音楽の中に静かに溶け込んでいくだろう。フローニンゲン:2025/12/18(木)11:56
Today’s Letter
I sense a profound connection with the realm of truth, which motivates me to cultivate it further. Once unity with suchness, or thusness, is realized, liberation becomes possible. Groningen, 12/18/2025

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