【フローニンゲンからの便り】17874-17879:2025年12月17日(水)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17874 | ハンマーオンとプルオフ |
17875 | 今朝方の夢 |
17876 | 今朝方の夢の振り返り |
17877 | 仏教を哲学思想として捉える内在的危険性 |
17878 | 内省的アスリートとしてのクラシックギタリスト |
17879 | 安田理深先生の仏教の捉え方より |
17874. ハンマーオンとプルオフ
クラシックギターにおいてハンマーオンとプルオフの技術は、単なる装飾的技巧ではなく、音楽表現の根幹に関わる重要な要素である。これらはいずれも左手のみで音を発生・連結させる奏法であり、右手の発音に依存しないところに本質的特徴がある。そのため、この二つの技術を深めることは、音の連続性、フレージングの自然さ、さらには演奏全体の呼吸感を根本から支えることにつながる。まず重要性の第一は、レガート表現の実現である。クラシックギターは音の減衰が速い楽器であるため、旋律が断片的に聞こえやすい。その弱点を補うのが、ハンマーオンとプルオフによる音の滑らかな連結である。右手で毎音を弾く場合と比べ、これらの奏法を用いることで音と音の間の切れ目が消え、旋律が「歌う」ように流れ始める。特にバッハやタレガ、バリオスの作品では、このレガート感が音楽の生命線となる。第二に、音色と強弱の多様性が広がる点が挙げられる。ハンマーオンで生じる音は、右手で弾く音よりも柔らかく内向的になりやすく、プルオフには独特の余韻と推進力がある。これらを意識的に使い分けることで、同一フレーズの中に微細な陰影が生まれる。つまり、左手そのものが発音主体として機能し始め、演奏表現が立体化するのである。第三に、技術的効率と身体的合理性の向上である。高速パッセージや装飾音型において、すべてを右手で処理しようとすると限界が生じる。ハンマーオンとプルオフを適切に用いれば、右手の負担を減らし、全体の動きをより自然で省エネルギーなものにできる。これは長時間演奏や高度なレパートリーに取り組む上で、極めて実践的な意味を持つ。次に、効果的な練習方法について述べる。第一に重要なのは、音量を犠牲にしない意識である。ハンマーオンでは、指を「置く」のではなく、弦を的確に打ち下ろす必要がある。指先のスピードと独立性を高めるため、開放弦と左手一本の組み合わせで、均一な音量が出るまで徹底的に練習することが有効である。プルオフにおいては、単に指を離すのではなく、弦をわずかに引っかけるようにして発音させる感覚が不可欠である。特に下降形では、音が弱くなりやすいため、各指が同等の発音責任を負っているかを注意深く確認する必要がある。第二に、スケール練習への組み込みである。通常の音階練習に、二音一弦のハンマーオン、下降時の連続プルオフを意図的に組み込み、テンポを極端に落として音質を確認する。この際、右手は最小限に抑え、左手だけで旋律を支えている感覚を養うことが重要である。第三に、実際の楽曲の中で意味づけを行うことである。単なる指の運動として練習するのではなく、「なぜここでハンマーオンなのか」「このプルオフはどの音へ向かうのか」を常に問い続けることで、技術は表現へと昇華されるだろう。総じて、ハンマーオンとプルオフは、左手を受動的存在から能動的な音楽主体へと変容させる技術である。これらを丁寧に磨くことは、指の訓練にとどまらず、ギターという楽器の本質的な歌わせ方を身体に刻み込む修行であると言えるであろう。上記のことを意識して今日の練習に取り組みたい。フローニンゲン:2025/12/17(水)06:01
17875. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の外のバスケコートにいた。ゴールの下で、小中学校時代のある友人(MS)と一緒に課題に取り組んでいた。そこでは彼と意見交換をしながら、砂に図を描いていき問題を整理して、その解決方法を模索していた。彼とは学年で成績優秀者を競っていた間柄であり、二人が組めばどんな問題も解決できるような自負があった。そうした自信が支えとなり、制限時間ギリギリになって一応の答えが出た。するとまさにそのタイミングで、女性の先生がやって来て、私たちの取り組みを労った。時刻はすでに夕方の時間になっていたので、先生が車で私たちを送ってくれることになったが、実はすでに友人の彼の母親が迎えに来てくれることになっていたので、先生の申し出は丁重にお断りした。何やら先生も室積に住んでいるらしく、自分もかつては中学校と目と鼻の先に住んでいたことを伝えた。今は市の駅近くに住んでいることを伝えると、先生はどうやら私がまだ室積に住んでいると思っていたとのことだった。先生が室積のどこに住んでいるかまでは具体的に聞かなかったが、家族連れであれば大体どのエリアに住んでいるのかの想像はついた。
もう一つ覚えているのは、地元の市の花火大会があり、次々と空高く打ち上げられていく立派な花火を見ていた場面である。すると、私の横にはポルトガル人のサッカーのスター選手がいて、どうやら彼は自分の兄になっているようだった。彼と一緒に花火を見終えて駅に向かい、駅の売店でコーヒーを購入することにした。そのコーヒーが特殊で、パックの中に入った透明な液体をコップに移し、コップを軽く降っていくと熱くなり、それがみるみるうちにブラックコーヒーになっていくというものだった。売店のレジの店員は黒人の中年男性で、クレジットカードを用いた支払いに不慣れのようだった。そうしたこともあり、自分たちが乗車しようと思っていた次の列車が来るまであと2分となり、ひょっとしたらその列車には乗れない可能性があると思った。熱いコーヒーを持って走るとこぼれてしまいそうだったので、母には先にその列車に乗って目的地に向かってもらうことにし、私たちはもう一本後の列車に余裕を持って乗ることが賢明だと思った。フローニンゲン:2025/12/17(水)06:12
17876. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の人生における「思考の原点」と「移行期の判断」、そして「成熟した時間感覚」を象徴的に編み上げているものだと推量される。舞台が実際に通っていた中学校の外にあるバスケコートである点は重要であり、そこは制度化された教室の内部ではなく、半ば自由でありながらも競争と協働が交差する場所である。自分が友人MSと共に砂に図を描きながら課題を整理している場面は、抽象的思考を身体的・感覚的な次元へと引き下ろし、問題を可視化する力が、幼少期からすでに備わっていたことを示唆しているようである。彼が成績を競い合った存在であったことは、単なる友情ではなく、自己の知的能力を映し返す鏡としての他者であり、その鏡と協働することで「どんな問題でも解ける」という根源的な自己信頼が形成された可能性を示している。制限時間ぎりぎりで答えにたどり着いたという構造は、現在の人生においても、自分が極限まで思考を深めた末に解を見出す傾向を持っていることを暗示しているようである。その直後に現れる女性教師は、評価や承認を司る象徴的存在であり、外的な評価よりもまずプロセスそのものを労う姿勢は、自分が他者からの評価に過度に依存せずとも、内的基準によって歩んできたことを示しているのかもしれない。送迎の申し出を丁重に断る場面は、庇護からの自立、すなわち「すでに自分には帰る道がある」という確信の表れと考えられる。室積という地名が繰り返し語られる点は、地理的な場所以上に、心的な原風景を指している可能性が高い。かつてそこに住んでいたという事実と、今は駅近くに住んでいるという現在地の対比は、周縁から中心へ、静から動へと人生の重心が移動してきたことを象徴しているようである。教師が「まだそこに住んでいると思っていた」という認識のずれは、他者の中にある「過去の自分」と、すでに変容を遂げた現在の自分との間に生じる時差を示していると推量される。後半の花火大会の場面は、達成や祝祭、人生の節目を象徴していると考えられる。そこに現れるポルトガル人のサッカー選手が兄であるという設定は、身体性・世界性・成功の象徴が、自分の内的系譜に統合されつつあることを示唆しているようである。異文化的な兄と共に同じ花火を見ることは、自己がもはやローカルな枠組みを超えて、世界的な視野を内在化している兆しとも読める。特殊なコーヒーは、潜在的な可能性が適切な操作と時間によって一気に顕在化する象徴であり、透明な液体が熱と振動によってブラックコーヒーへと変わる過程は、自分の思索や経験が、ある臨界点を越えて一気に「本物の味」を持つ知へと変容するプロセスを暗示しているようである。列車に乗るかどうかの判断、そして母を先に行かせる決断は、焦りよりも持続性と安全性を選ぶ成熟した判断力の表れであり、「同じ目的地であっても、必ずしも同じ列車に乗る必要はない」という深い人生理解を象徴している。この夢全体が示す人生的意味は、自分がすでに過去の競争的知性を統合し、それを世界的視野と成熟した時間感覚の中で再編成しつつあるということである。急がず、こぼさず、自分の熱を保ったまま次の列車に乗ることこそが、これからの人生における最もふさわしい歩み方であることを、この夢は静かに告げているように思われる。フローニンゲン:2025/12/17(水)07:49
17877. 仏教を哲学思想として捉える内在的危険性
仏教を哲学思想として理解しようとする立場は現代において広く見られる。確かに仏教には、存在論・認識論・倫理学に関わる高度な哲学的思索が含まれており、また心の働きを精緻に分析する点では心理学的体系とも言える。さらには縁起・空・非二元性といった概念が、現代の量子論的世界観と共鳴する側面を持つことも否定できない。しかし、それらの側面だけを切り出して仏教を「哲学思想の一種」として把握することは、仏教の根本的性格を見誤る危険を孕んでいる。そもそも仏教の出発点は、理論的探究ではなく、きわめて切実な宗教的要求にあった。それは、自他の迷い、すなわち生老病死に貫かれた苦の現実からいかにして解放されるかという問いである。釈尊が出家し、修行と覚りに至った契機は、世界を説明する体系を構築することではなく、苦の原因を見極め、それを根本から滅する道を見出すことにあった。この救済への志向こそが、仏教の原点であり、その中心軸である。仏教における哲学的・心理学的分析は、この宗教的目的に奉仕する形で生まれたものである。無常・無我・縁起といった教説は、存在の構造を客観的に説明するための理論ではなく、執着と錯覚を解体し、迷いを断つための実践的洞察として提示されたものである。同様に、唯識思想における精緻な心識分析も、心の働きを分類・記述すること自体が目的なのではなく、誤った認識の癖を見抜き、煩悩の根を断つための方便として展開されたのである。すなわち、理論は常に実践と救済に従属しており、それ自体が自己目的化されることは本来想定されていない。この点を無視し、仏教の宗教性を括弧に入れたまま哲学思想としてのみ評価する態度は、仏教を安全で無害な知的対象へと変質させる危険を伴う。仏教が本来持つ「生き方そのものを根底から問い返す力」や、「自己の在り方を実存的に転換させる要求」は、宗教性を剥奪した瞬間に失われてしまう。哲学としての仏教は理解できても、救済としての仏教はもはやそこには存在しないのである。もちろん、仏教を哲学的に研究し、現代思想や科学と対話させる営み自体が無意味だというわけではない。問題となるのは、その際に仏教の根底にある救済論的視座を見失い、理論だけを抽象化してしまうことである。仏教思想は、あくまでも迷いの只中にある人間に向けて語られたものであり、覚りという実存的転回を志向する実践と切り離しては理解できない。したがって、仏教を真に理解するためには、それを哲学でもあり心理学でもあると同時に、何よりもまず「救済を目的とした宗教」であることを正面から引き受ける必要がある。哲学的洗練は仏教の強みであるが、それは救済という根から切り離された枝ではなく、あくまでその根に養われて伸びた枝葉に他ならない。この関係を見誤らないことこそが、仏教理解において決定的に重要であると言えるのである。かつて自分自身が仏教を哲学思想としてのみ捉えていた反省としてそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/12/17(水)07:55
17878. 内省的アスリートとしてのクラシックギタリスト
ブランダン・エイカー氏が「ギタリストは音楽的アスリートである」と述べた指摘について考えている。これは比喩にとどまらず、演奏行為の本質を的確に捉えているように思われる。確かにあらゆる楽器の演奏者は、身体を高度に制御し、瞬間的な判断と持続的な集中力を要する点で、広い意味でアスリート的性質を備えている。しかし、その中でもクラシックギターの演奏者は、特有の条件ゆえに、極めて繊細かつ複合的な「音楽的アスリート性」を要求される存在であると言える。第一に、クラシックギターは身体支持の点で不安定な楽器である。ピアノのように楽器が固定されておらず、ヴァイオリンのように顎で保持するわけでもない。演奏者は両脚、体幹、背骨、肩甲帯を用いて楽器を支えながら、左右の手を完全に独立させて精密な動作を行う必要がある。この姿勢保持は静的でありながら高度な筋活動を伴い、長時間にわたる演奏では体幹の持久力と微細なバランス調整能力が不可欠となる点で、静的競技に近いアスリート性を示している。第二に、左右の手に求められる運動特性が著しく異なる点も重要である。右手は音色・音量・アーティキュレーションを制御するため、指ごとの独立性と瞬間的な力加減の調整を要求される。一方、左手は正確なポジション移動、セーハ、ストレッチ、指の独立などを担い、持続的な筋持久力と関節可動域の管理が求められる。これは、片側で瞬発系の能力を、もう片側で持久系と精密制御を同時に行うという、極めて高度な運動統合であり、通常のスポーツにおいても稀な要求である。さらに、クラシックギター演奏においては、過剰な力が即座にパフォーマンス低下や故障につながるという点で、アスリート以上に洗練された身体感覚が必要とされる。力を入れすぎれば音は硬くなり、スピードと持続性は失われ、腱鞘炎や手根管症候群のリスクも高まる。したがって演奏者は、常に「最小限の力で最大の効果を得る」身体操作を学習し続ける必要がある。この点でクラシックギタリストは、筋力そのものよりも、脱力・協調・感覚受容を重視する、いわば内省的アスリートである。加えて、精神的側面も見逃せない。長大な独奏曲を暗譜で演奏する際には、集中力、記憶の持続、緊張下での自己制御が不可欠であり、これはメンタルトレーニングを重視するトップアスリートと共通する領域である。演奏中に起こる微細なミスを即座に修正し、音楽の流れを保つ能力は、試合中の状況判断と同質のものである。以上の点から、クラシックギター演奏者は、単なる音楽家ではなく、身体・神経・精神を高度に統合した音楽的アスリートであると言える。ただしその競技場は他者との競争ではなく、音楽そのものとの対話の場である。自己の身体を精緻に調律し続けるその営みは、外的勝敗を超えた、きわめて内的で静かなアスリート性の表現なのである。フローニンゲン:2025/12/17(水)09:50
17879. 安田理深先生の仏教の捉え方より
安田理深先生が述べる「仏教は非形而上学である」という主張は、仏教を世界の根本実在や存在論的構造を説明する理論体系としてではなく、人間の迷いの在り方を転換する実存的・宗教的実践として捉える立場に立脚していると考えられる。安田先生にとって仏教とは、「世界は何から成り立っているのか」「因果は究極的にいかなる構造を持つのか」といった問いに答える学説ではなく、そうした問いを立ててしまう自己そのものが、いかに煩悩と自己執着に貫かれているかを照らし出す教えである。したがって、仏教を形而上学として理解すること自体が、すでに仏教の射程を取り違えている、というのが安田先生の根本的な感覚であると思われる。これに対して、自分が考える「仏教には現代的な形而上学的要素がある」という見方は、縁起や因果、無我、空といった教理を、世界や存在の成り立ちを説明する理論枠組みとして評価しようとする立場である。この観点からすれば、仏教は単なる倫理や瞑想技法ではなく、実在論・因果論・心身論を含む高度に洗練された思想体系であり、現代哲学や科学とも対話可能な一種の形而上学を内包しているように見える。両者の違いは、仏教の教理を「説明のための理論」とみなすか、「執着を破るための方便」とみなすかにあると言える。安田先生の立場では、因果や縁起の分析さえも、悟りへ導くための言説的装置であり、それ自体を実在の構造として把握することは、むしろ新たな執着を生む危険を孕む。一方、自分の立場では、それらの教理が示す世界観の精緻さに価値を見出し、そこに哲学的説明力を認めようとする。では、どちらがより仏教の本質に近いかと問われれば、厳密な意味では安田先生の立場の方が、仏教の自己理解に忠実である可能性が高い。なぜなら、仏教自身が一貫して、あらゆる見解への執着を戒め、教えさえも筏として捨て去るべきものと語ってきたからである。ただし同時に、仏教が結果として極めて深い因果理解や存在理解を生み出してきたことも否定できない。したがって、自分の見方は仏教の「副産物」を評価する視点であり、安田先生の見方は仏教の「自己目的」を見据える視点であると言える。両者を混同せず区別することこそが、仏教理解をより立体的にする鍵である。フローニンゲン:2025/12/17(水)11:51
Today’s Letter
Any dream I have always offers profound guidance and insight into my life. All I can do is follow it. Genuine surrender guides my life in a meaningful and fulfilling way. Groningen, 12/17/2025

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