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【フローニンゲンからの便り】17788-17792:2025年11月29日(土)


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タイトル一覧

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ゼミナールの第160回のクラスの課題文献の要約

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今朝方の夢

17790

今朝方の夢の振り返り

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第160回のクラスの事前課題(その1)

17792

第160回のクラスの事前課題(その2)

17788. ゼミナールの第160回のクラスの課題文献の要約 

   

昨日に引き続き、今日のフローニンゲンは冬の休みのような日となり、気温は比較的高い。午前5時半の現在すでに8度の気温がある。ここから気温は9度までしか上昇しないが、それでも10度近くの気温があるために寒さを感じることはないだろう。今のところ今年もまた暖冬のような予感がする。


今日のゼミナールの第160回のクラスでは、ザカリー・スタインの“On the Use of the Term Integral”という論文を扱う。この論文では、まず「Integral」という語が一般に抱え込んでいる二重性(記述と評価の混在)が問題として提示される。通常、発達理論の文脈では、「Integral」は“より統合的な発達段階”や“多視点性を備えた高度な意識状態”を指す語として使用されてきた。しかしスタインは、この語が単なる記述語ではなく、価値判断を含む“厚い概念(thick concept)”である点に注意を促す。厚い概念とは、ある状態について説明すると同時に、それを称賛したり、倫理的に望ましいものとして位置づける語である。例えば“courageous(勇敢な)”や“humble(謙虚な)”のように、事実記述と価値判断が不可分に絡み合う概念である。「Integral」という用語もまた同様であり、「発達した状態」を指すと同時に、「望ましい」「善い」「進化の方向である」といった評価を自然に含み込んでしまう。そのためスタインは、インテグラルコミュニティの中にはしばしば“成長=善への成長(growth-to-goodness)”という暗黙の目的論が潜んでいると指摘する。この目的論は、オーロビンドやボールドウィンのような思想家の系譜における「進化は必然的に統合へ向かう」という信念を継承しており、ウィルバー周辺の言説にも浸透している。問題は、この前提が自明視されると、「高次の段階は低次の段階より価値が高い」「インテグラルな発達は望ましい」という評価が、科学的事実かのように扱われてしまう点である。これこそが厚い概念の危険性であり、記述と価値判断の境界が曖昧なまま流通すると、他者の自己理解を左右する「強い評価(strong evaluation)」として機能してしまう。次に、スタインはハーバーマスの議論を援用しながら、人間科学(心理学・脳科学など)のモデルは、人々の自己理解そのものを構成する力を持つと述べる。物理学が主に技術を通じて生活に影響するのに対し、人間科学の言説は直接的に「私とは何か」「どの段階にいるのか」という自己物語を形づくるため、研究者にはより高い倫理的責任が求められる。もし「Integral」という語が、価値判断を含んだまま発達段階の科学的指標のように扱われれば、科学の名を借りた規範の押し付けが生じる可能性がある。つまり、ある生き方や価値観が「より発達している」「より統合的である」と表現されるとき、それは単なる理論的分類ではなく、倫理的序列化の言語ゲームに変わってしまうのである。さらにスタイン は、実証研究の観点からも、「高次発達段階=善」という単純化には問題があると論じる。近年の発達研究(特にダイナミックスキル理論など)は、能力が領域固有的で文脈依存的であることを示しており、一人の人間があらゆる領域で一貫して“インテグラル”なわけではない。実際、抽象的に「インテグラル段階」と呼ばれる状態は、特定の状況でのみ発現する脆い能力に過ぎない可能性がある。こうした問題点を踏まえ、スタインは「Integral」という用語を発達段階の名称として用いるのではなく、むしろ「規範的ラベル」として再定義することを提案する。それは、「より包括的で非還元的で、複数の視点を尊重する態度や実践」を評価するためのラベルであり、特定の発達段階に紐づける必要はない。言い換えれば、「Integral」とは「人間の多面的理解を支持する倫理的・認識論的コミットメント」を示す語であり、発達階層の最上位を指す語ではないということである。フローニンゲン:2025/11/29(土)05:40


17789. 今朝方の夢

                                

今朝方は夢の中で高校1年生の時に使っていた教室にいた。そこで国語の先生が自分の関心のあるテーマについて解説授業をしてくれるとのことでとても楽しみにしていた。ところが授業が始まってみると、先生は生徒の平均に焦点を当てて話をしているからなのか、知っていることばかりで大変つまらなく思った。そもそも先生に期待するのではなく、自分で独自に探究を進めていった方がよほど楽しいと思い、教室を抜け出し、廊下で思索に耽ることにした。廊下の窓の外に広がる空を眺めながらぼんやりと考え事をしていると、隣の教室から友人が現れ、彼と廊下ですれ違う際に彼が笑いながらふと、「暗い顔してどうしたの?」と尋ねてきた。彼から見たら自分は暗い顔をしていたように見えたようだが、自分は好きなことに没頭して考え事をしていただけで、気分は全く落ち込んでいなかった。おそらく彼は、真剣な顔を暗い顔と捉えたのか、考え事をしている顔を暗い顔と捉えたのだろうと思った。彼が階段を上がって上に向かおうとしていたので自分もついて行くことにしたが、彼は渡り廊下の手前で止まり、そこでゆっくりすることにしたようだった。自分はさらに先に進み、渡り廊下を渡り切った。すると図書室があることを思い出し、そこでならより落ち着いて考え事ができるだろうと思って嬉しくなり、小走りで図書室に向かった。すると図書委員の女子生徒が、「廊下を走ってはダメです」と声を上げて忠告をしてきた。そして誰が走っているのかを特定するために図書室から出てこようとしていたので、自分はさらに走る速度を上げて逃げることにした。自分には空を飛ぶという特殊な能力があったので、2階の廊下の窓をパッと開けてそこから一気に空に羽ばたいた。宙に舞い上がる速度は極めて速く、すぐに校舎の屋上に姿を隠すことができた。結局彼女は自分の顔を見ることはなく、見事に姿を隠すことができて安堵した。フローニンゲン:2025/11/29(土)05:51


17790. 今朝方の夢の振り返り

                           

今朝方の夢は、自分の成長速度と周囲のペースが合わないという深層的な感覚が象徴されているように思われる。冒頭で登場する高校の教室は、形式的な学びや集団教育の象徴であり、その中で国語の先生が「生徒の平均」に合わせて話す様子は、自分がすでに越えてしまった枠組みや水準に自分を合わせる息苦しさを表している可能性がある。知っている内容ばかりで退屈する感覚は、外から与えられる知識ではなく、自分で掘り下げて世界を探究する方が圧倒的に刺激的で価値があるという内的確信を示しているのではないかと推測される。教室を抜け出す行為は、他者が設定した学びの道筋から離れ、自力で認識の地平を広げようとする主体性の芽生えを象徴するのだと思われる。廊下で思索に耽る場面は、自分の思考空間が教室の外にあることを暗示しているように感じられる。ここで友人が現れ、笑いながら「暗い顔してどうしたの?」と声をかける描写は、自分の内面への集中が他者から誤解されやすいことを示しているかもしれない。自分としては深い思索に没入しているだけだが、外からは沈んでいるように映る。このギャップは、他者との同調を求める現実世界と、内面深くへ潜っていく自分の性質との間にある溝を象徴していると考えられる。つまり、内面志向が強まると外界とのコミュニケーションが誤読される可能性を示す夢的メッセージであるとも読み取れる。その後、自分が友人とは別方向に進み、さらに渡り廊下を渡って図書室へ向かう場面は、他者が途中で立ち止まる地点を通過し、自分だけが先へと進む構造を示している。渡り廊下は別世界への橋渡しの象徴であり、図書室は知の聖域であり、安心して沈潜できる内的空間を象徴していると思われる。ここで自分が小走りになるのは、探究の喜びが身体的衝動として現れたようなものであり、自分の興味関心を追うときだけ速度が自然と上がるという内的力学を表している可能性がある。図書委員の女子生徒が「廊下を走ってはダメ」と忠告する場面は、規範・秩序・形式が自分の自由な探究行動に制限をかける象徴として読めるだろう。誰が走ったのか特定しようとする行為は、枠にとどまらない者に対して集団が監視や制動をかけるという社会的圧力の象徴とも受け取れる。にもかかわらず、自分は逃げるどころかさらに速度を上げ、窓から空へ飛び立つ。ここには、規範や制度の網を抜け、常識的な移動様式さえ越えるような自由志向と越境性が強調されている。空を飛ぶという象徴は、ほぼ間違いなく精神的上昇、視座の拡大、制約からの解放を示すと考えられる。特に校舎の屋上に身を隠すという描写は、地上的な規範の届かない領域に一時的に避難する行為の象徴であり、上から世界を見渡せる自由な視点を求める意識の動きが表現されていると思われる。図書委員の彼女が自分を見つけられない点は、規範による統制がもはや自分の意識水準に追いつけないという意味が込められているのかもしれない。全体としてこの夢は、他者から与えられた枠組みを超え、自分のペースと興味に従って学び、内面の自由を保ちながら上昇していくという成長のプロセスを象徴していると推測される。また、周囲の誤解や規範的な制止があっても、それらをすり抜けて自由な思索の領域に飛び立つ能力を自分が備えていることを示す夢的表現とも読み取れる。人生における意味としては、自分がこれから進む研究と探究の道が、平均や規範に縛られた世界ではなく、自由に飛翔するべき領域にあることを示唆しているように感じられる。自分は空へ飛んだ者として、自分独自の道を歩み続けることにこそ、本質的な喜びと成長があるというメッセージが込められているのではないかと推量される。フローニンゲン:2025/11/29(土)07:13


17791. 第160回のクラスの事前課題(その1) 

               

第160回のクラスの事前課題をいつものように見ていく。これは毎週土曜日の儀式になっている。1問目は、「この論文が問題視している「Integral」という語の二重性(記述と評価の結合)を、あなたの言葉で説明してください」というものだ。「Integral」という語の二重性とは、この語が一見すると発達理論上の“記述的カテゴリー”のように見えながら、実際には“価値判断”を同時に含んでいる点を指すものである。論文が指摘するように、「Integral」は厚い概念として機能しており、単なる説明語ではなく、ある特定の発達状態を“望ましいもの”“より高次で優れたもの”と評価する働きを内包しているのである。例えば、ある人物を「インテグラルな発達段階にある」と述べる際、その表現は単にその人物の認知構造や視点取得能力を記述するだけでなく、同時にその段階を“良いもの”として賞賛してしまう含意を帯びている。すなわち、この語には「統合されていることは善い」という価値づけがあらかじめ折り込まれているのであり、論文はこうした記述と評価の境界が曖昧になる危険性を問題視している。したがって、「Integral」という語を使用する際には、それが純粋に発達の構造を描写する語なのか、それとも倫理的・価値的な評価を同時に行っている語なのかを明確に区別する必要がある、というのが本論文の主張である。


2つ目の問いは、「スタインは、「Integral」という言葉を「発達理論の最上段階の呼称」とする用法ではなく、「規範的ラベル」として再構成すべきだと述べています。なぜその再構成が必要なのか、論文中の議論(thick concept、strong evaluation、normative commitmentsなど)を用いて説明してください」というものである。スタインが「Integral」という語を発達階層の最上段階として扱うのではなく、「規範的ラベル」として再構成すべきだと主張する理由は、主としてこの語が厚い概念としての性質を強く有しているからである。すなわち、「Integral」という用語は単なる発達の進度を記述する語ではなく、そこに強い価値評価を自然に結びつけてしまう“価値含有的な語彙”であるため、発達の階層区分と倫理的評価を混同させる危険が大きい。論文が示すように、発達理論における高次段階の記述は、本来は「複雑さの増大」や「視点取得能力の向上」といった心理学的特徴を説明するものである。しかし現実には、こうした記述が「高次=より善い」「高次=より成熟している」といった規範的コミットメントを伴って使われることが多く、結果として人間の価値を階層化する言語ゲームを助長する可能性がある。ゆえにスタインは、「Integral」という用語を発達段階の固定的カテゴリとして扱うのではなく、むしろ「包括性を重視する姿勢」「多視点性を尊重する態度」といった倫理的・認識論的基準を指し示す規範語として再構成することを提案するのである。こうした再構成により、発達段階の序列化による優劣判断を避けつつ、「Integral」という言葉が表す価値的志向性を明確化することが可能になる。


3つ目の問いは「ハーバーマスの議論(“human sciences reshape self-understanding”)を踏まえて、スタイン が主張する「人間科学のモデルには倫理的責任が伴う」という立場を批判的に検討してください。特に、成長発達に関する議論が“発達は善につながるという前提(growth-to-goodness)”の進化目的論を再生産してしまう危険性と、厚い概念の性質がどのように影響するかを絡めて論じてください」というものだ。ハーバーマスが述べる「人間科学は自己理解を再構成する(human sciences reshape self-understanding)」という視点は、スタインの議論において中心的役割を果たしている。人間科学のモデルは単なる説明枠組みではなく、個人が自分自身をどのように理解するかという“自己物語”を直接形成する力を持つため、その提示には必然的に倫理的責任が伴うという主張である。ここで問題となるのが、“growth-to-goodness”という前提、すなわち「発達は自然に善へ向かう」という進化目的論である。この前提が無自覚に理論の内部へ入り込むと、高次の発達段階や統合的意識が、あたかも道徳的に優れた状態であるかのように見なされ、発達階層そのものが倫理的序列を形成する危険性を孕む。そのとき、発達段階の記述は単なる科学的記述ではなく、善悪の判断を含む規範的言語へと変質する。さらに、「Integral」という語の厚い概念としての性質が、この問題を一層深刻にする。「Integral」という用語は記述と価値を一体化させるため、発達段階の説明を行っているだけのつもりであっても、そこには「よりインテグラルであることは望ましい」という暗黙の評価が伴う。結果として、理論は科学的モデルであるにもかかわらず、個人の価値観・自己評価・他者評価に強く介入し、ハーバーマスが批判した「科学主義」の問題(本来価値中立であるはずの科学的知識を、人間の生き方や自己理解にまで唯一の正当な基準として押し付けてしまい、他の価値領域(倫理・実践・文化)を不当に支配する傾向のこと)に接近する。したがって、スタインの論点は、発達理論を提示する者がその規範性を自覚しなければ、発達の科学が倫理的価値の押し付けへと逸脱しうるという警告である。成長を善と同一視する進化目的論と、厚い概念としての「Integral」という言葉の性質が結びつくとき、人間科学は容易に“善の階層化”を生み出し、その影響は個人の自己理解や社会的関係に深刻な歪みを与えうる。この点を批判的に理解することこそが、スタインの議論の核心であると考える。フローニンゲン:2025/11/29(土)07:21


17792. 第160回のクラスの事前課題(その2)

                            

4つ目の問いは、「あなたが教育・心理支援の現場にいると想定したとき、「Integral」という語を“厚い概念(thick concept)”として安易に使うことで生じる実際的リスクを2つ挙げ、それを避けるためにどのような実践的配慮が必要か説明してください」というものだ。教育や心理支援の現場において「Integral」という語を安易に使用することには、少なくとも二つの重大な実践的リスクが存在する。第一のリスクは、価値の押し付けが生じる可能性である。「Integral」という用語は厚い概念であり、記述語であると同時に「統合的であることは望ましい」という価値判断を内包している。そのため、クライアントや学習者の現在地を「インテグラルではない」と述べるだけで、本人の価値や人格に対して否定的評価を投げかける効果を持つ。特に発達段階の文脈では、“高次の段階ほど望ましい”というメタメッセージが伝わりやすく、無意識のうちに参加者に劣等感や未熟感を植え付けてしまう危険がある。第二のリスクは、発達段階理論の誤用を助長する点である。発達研究は領域固有的で文脈依存的であるため、一個人が常に「インテグラルな認知」を示すわけではない。しかし、「Integral」という言葉を最上位段階の固定ラベルとして扱うと、人間理解が過度に階層化し、「あなたはこの段階」「あの人はあの段階」という単純化された分類が行われてしまう。このような分類は、支援者とクライアントの間に不必要な上下構造を生み、対話関係を歪める危険性がある。では、このようなリスクを避けるにはどのような配慮が必要か。第一に、「Integral」という語を用いる際には、記述的側面と価値的側面を明確に切り分ける説明が不可欠である。すなわち、「この語は特定の能力構造を説明する一方で、そのあり方を望ましいとみなす伝統的背景を持つ」と前置きし、価値を押し付ける意図がないことを透明化する必要がある。第二に、発達段階を扱う際には、クライアントや学習者に対して、発達は一様ではなく、文脈依存的であるという前提を繰り返し確認することが重要である。その上で、「どの段階にも固有の強みと課題がある」という価値中立的な姿勢を徹底し、「より高い=善い」という暗黙の序列化を避けることが求められる。第三に、「Integral」という言葉を扱う際には、本人の主観的経験や価値観を中心に据える対話姿勢を保つことが重要である。厚い概念には強い評価性が伴うため、支援者が安易に使用すると相手の語りを支配してしまう危険がある。したがって、用語を提示する前に、本人の語りや価値観を丁寧に聴き取り、それに応じて必要最小限の枠組みとして概念を紹介する姿勢が求められる。以上のように、「Integral」という用語を厚い概念として安易に使用することには実際的なリスクがあり、それを回避するためには、用語の規範性の自覚と、価値中立的な説明、そして本人中心の対話姿勢が不可欠である。


5つ目の問いは、「あなたが「発達段階を扱うワークショップ」を設計すると想定してください。スタインの議論を踏まえ、①“発達は善につながるという前提(growth-to-goodness”)を参加者に無意識に植え付けてしまう危険性と、②それを回避しながらも発達的成長を扱う教育デザインの原則、の両方について説明してください」というものである。発達段階を扱うワークショップを設計する際、スタインの議論が示す最大の危険性は、参加者に対して“発達は善へと向かう”というgrowth-to-goodnessの前提を無意識に植え付けてしまうことである。これは、ボールドウィン的目的論の現代的変奏であり、発達階層を倫理的序列に転換する強力な言語装置として機能する。特にワークショップのような集合的・教育的環境では、「高い段階がより優れている」という含意が瞬時に共有されやすいため、参加者同士の優劣感情、自己評価の歪み、あるいは“高次段階への同調圧力”が生まれる危険がある。さらに、「Integral」という語を含む厚い概念は、記述と評価の層が密接に絡み合うため、発達段階の説明を行うだけで、参加者は「この段階に到達していない自分は劣っているのではないか」という価値判断を導きやすい。このように、厚い概念の持つ規範性が、教育的場面ではそのまま“善悪の階層化”として働く危険性がある。したがって、理論の紹介そのものが無意識的規範化を招きうるという点を、設計者は厳密に理解しておかねばならない。では、こうした危険性を回避しつつ、発達的成長を扱うためにはどのような教育デザインが必要か。第一に、発達段階の提示は、価値中立的な記述モデルとして提示する姿勢が不可欠である。例えば、「高次段階=より優れている」という含意を避け、「各段階には文脈に応じた適応性があり、どの段階も固有の強みを持つ」という説明を徹底する必要がある。第二に、ワークショップ冒頭で、発達は線形的・不可逆的なものではなく、領域固有的であるという前提を明確に伝えることが重要である。これにより、参加者は「自分は低い段階だ」という固定的自己判断を回避しやすくなる。第三に、参加者が自らの経験を語るプロセスを中心に据え、理論はあくまで問いを深めるための道具であり、自己評価の基準ではないというメタメッセージを提示することが必要である。すなわち、理論が私たちを規定するのではなく、私たちが理論を使いこなすという構図を作り出すことが求められる。第四に、ワークショップの設計者は、厚い概念の規範的性質を自覚し、“高次=善”という価値連鎖を断ち切るメタ言及を適宜行うべきである。例えば、「この段階モデルは価値の優劣を意味しない」という注意書きを明示的に挿入し、参加者の解釈を誘導しすぎないようにする。以上のように、発達段階を扱う教育場面では、growth-to-goodnessという隠れた目的論が容易に再生産される危険性があり、それを避けるためには、価値中立的な提示、経験中心の進行、厚い概念の規範性への自覚、メタ的透明性といった複数の原則を統合する教育デザインが求められるのである。フローニンゲン:2025/11/29(土)09:58


Today’s Letter

The state of my mind is tranquil, probably because I practiced classical guitar this morning. Playing the instrument allows the ocean of my mind to become serene. Groningen, 11/29/2025

 
 
 

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