【フローニンゲンからの便り】17650-17654:2025年11月7日(金)
- yoheikatowwp
- 4 日前
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タイトル一覧
17650. モード(教会旋法)について
時刻は午前4時半を迎えた。今日の目覚めもまた爽快なものであった。昨日にジムでパーソナルトレーニングを受けて、その際に最後のサーキットトレーニングで随分と息が上がり、汗をかいたことがいつも以上の快眠をもたらしていたのかもしれない。起床時間は身体のリズムに完全に任せているが、引き続き午前4時に起床する流れが続いていくことを望む。
先日ギターに特化した音楽理論の書籍を読んでいる中で、久しぶりにモード(教会旋法)と出会った。モードとは、西洋音楽の歴史において長調・短調が成立する以前に使われていた旋法体系であり、音階の出発点と構成音の関係によって独自の響きや情感を生み出すものである。現在一般的な「メジャー(長調)」や「マイナー(短調)」も実はモードの一種であり、イオニアン(Ionian)とエオリアン(Aeolian)と呼ばれる2つのモードから発展したものである。つまり、モードとは音階の「異なる始まり方」と「重心の位置の違い」によって、音楽の雰囲気を変化させる体系であると言える。具体的には、白鍵のみを使ってドからドまで弾くとイオニアン(Ionian=メジャースケール)になり、ラからラまで弾くとエオリアン(Aeolian=ナチュラルマイナースケール)となる。これに加えて、レからレまでがドリアン(Dorian)、ミからミまでがフリジアン(Phrygian)、ファからファまでがリディアン(Lydian)、ソからソまでがミクソリディアン(Mixolydian)、シからシまでがロクリアン(Locrian)である。それぞれ同じ音を使いながら、出発点が異なるため、全体の重心(主音=トニック)が変わり、旋律の性格が一変する。例えば、ドリアンは「短調だが少し明るい」響きを持つ。マイナースケールとの違いは第6音が半音高いことで、陰りの中に希望や動きのある印象を与える。これはスペイン民謡やケルト音楽、バッハの一部の作品にも見られる。ミクソリディアンはメジャーに近いが、第7音が半音下がるため、解決感がやや弱く、「牧歌的」「開放的」な響きが特徴である。ブルースやフォーク音楽で頻繁に使われるが、クラシックギターではルネサンス期や民謡調の作品によく登場する。メジャー(イオニアン)とマイナー(エオリアン)は、トニックからの音程構造が固定されているため、和声進行(I–IV–Vなど)が強く機能するが、モードでは必ずしもV→Iの強い解決を前提としない。そのため、モード音楽は「静止した響き」「漂うような均衡」を持つことが多い。クラシックギターでは、特に中世・ルネサンス期の舞曲やリュート音楽において、和声よりも旋律の自然な流れを重視するモード的思考が広く用いられていた。例えば、ルネサンス期の作曲家ルイス・デ・ミラン(Luis de Milán)やルイス・デ・ナルバエス(Luis de Narváez)の一部の曲には、ドリアンやミクソリディアンの旋法的要素が多く見られる。これらの作品では、和声が近代的な「トニック中心性」に従わず、旋律が独自の方向性をもって流れる。また、バッハの《無伴奏チェロ組曲第1番》のプレリュードなどにもドリアン的要素が潜んでおり、クラシックギターの編曲でもその自然な流れが再現されている。さらに、近代ギター作品でも作曲家たちはモードの再発見を通して新たな響きを追求した。エイトル・ヴィラ=ロボスの《前奏曲第1番》には、ミクソリディアン的な旋法感が漂い、トニックに強く依存しない「開かれた」響きを作り出している。また、マヌエル・ポンセやフェルナンド・ソルも、時に古い旋法の雰囲気を取り入れることで、感情表現の幅を広げている。要するに、モードとは「音階の起点の違い」によって独特の色合いを与える旋法であり、メジャー/マイナーが直線的な緊張と解決を重視するのに対し、モードは円環的で時間の流れをゆるやかにする。クラシックギターにおいてモードを理解することは、単に理論的知識にとどまらず、音の重心をどこに置くかという芸術的感覚を磨くことであり、それは古楽から現代曲まで、すべての表現の根底に流れる重要な要素である。これからモードについてもゆっくりと触れ合っていこう。フローニンゲン:2025/11/7(金)04:53
17651. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、2人の見知らぬ中年の日本人女性と話をしていた。場所は見慣れない小さな会議室だった。そこで私は自分の教育観について共有し、人々が持っている学びに関するある種の思い込みを指摘した。すると片方の女性が突然怒り出し、激しい口調で自分に反論をしてきた。どうやらその方には自分の真意が伝わっていないと思い、それを伝えようとしたが、その前に自分もその方の怒りに反応してしまって強い口調の一言が出た。しかしそれをすぐさま反省し、それ以上は強い口調で言い返すことをせず、むしろ丁寧に説明することを心掛けた。すると、その女性は自らの誤解を認め、とてもおとなしく冷静になった。そこから自分はさらに丁寧に自分の考えを共有すると、2人は随分と納得感を持って話を最後まで聞いてくれた。相手の怒りに対して反射的に怒りで返すのではなく、そういう時こそ落ち着き、怒りの煩悩の渦に巻き込まれず心を穏やかにして対応することが重要だということを改めて学んだ。
次の場面として覚えているのは、小中学校時代のある友人(AW)の家の庭の掃除に向かっていた場面である。自分は5ヶ月前に彼の家の窓ガラスを割ってしまい、その償いとして5週間に1度の散髪に合わせて庭の掃除をすることにした。今日はちょうど掃除の日だったので彼の家に向かった。庭はとても開放的で、普段から綺麗にされていた。なので自分がやるべきことはさほどなかったが、それでも約束を守るために今日もまた掃除をして帰ろうと思った。家の呼び出しボタンを押してみると、誰も出てこなかった。軒先のドアガラスが少し開いていたので中に誰かいるはずなのだが、人の気配は感じられなかった。おかしいなと思ってもう一度呼び出しボタンを押したが全く反応がなかった。友人一家に何かあったのかもしれないと少し心配になり、警察を呼んで捜査してもらうのが良いかもしれないと思った。家には誰もおらず、庭も綺麗だったので今日は掃除をせずに帰ることにし、今日を持って掃除は最後にしようと思った。
もう1つ覚えている場面として、大学時代のサークルの友人と一緒に留学用の英語の試験を受けに近くの小さなテストセンターに向かっている場面である。無事にテストセンターに到着すると、そこに自分の部屋が突然現れ、古いMacのデスクトップが置かれていた。なのでそれをいじってみると、そう言えば以前父がパソコンを立ち上げるためのパスワードを数学的知識が絡む一風変わったものにしていることを思い出し、父が立ち上げの際に行っていた思考プロセスが会話と共にリアルに思い出され、その通りにパスワードを打ち込むとパソコンが無事に立ち上がった。パソコンを立ち上げたのはいいものの、別にそこから先何かのために使う予定はなく、部屋を移動して試験の受付をすることにした。するとどうやら試験のパソコンの状態があまり良くないらしく、近所にその問題の解決に詳しいかつての女性従業員がいるとのことなので、友人を残して私が彼女を呼びに行くことにした。幸いにも彼女はテストセンターから数十メートルのところに住んでいて、すぐに見つかった。事情を説明すると、急いでテストセンターに向かうために車を準備してくれたが、わざわざ車に乗る距離でもないと思いながらも車に乗ってそこに向かった。道は狭く、車がすれ違うのはギリギリで、テストセンターの近くは駐車場がなかったので、やはり歩いて来た方が良かったのではないかと思った。フローニンゲン:2025/11/7(金)05:09
17652. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、3つの場面を通して一貫した主題を描いている。それは「関係性における成熟」と「内面的な整合性の獲得」である。すなわち、他者との摩擦、過去への償い、そして知性の継承という3つの異なる文脈を通して、自分の内なる秩序が一段と洗練されていく過程を象徴している。第一の場面――2人の見知らぬ女性との会話――は、自我と他者との衝突を通して「怒りの自覚的制御」という学びを体現している。教育観という主題は単なる議論ではなく、「自分が他者にどのように伝え、どのように理解されるか」という自己表現と共感の課題を象徴している。相手の怒りに対して反射的に怒りで返すのではなく、すぐにそれを手放し、穏やかに説明し直したという展開は、内的な「煩悩の変換」の瞬間である。ここには、唯識でいうところの「識の転依(しきのてんね)」の萌芽が見える。すなわち、外界の刺激に無意識に反応する段階から、自己の心的作用を識別し、それを慈悲的理解へと変換する段階への移行である。この短い出来事の中で、自分は教育とは他者の無明を責めることではなく、怒りを慈しみに変える実践そのものであることを直観したのである。第二の場面――友人の家の庭を掃除する――は、過去の過ちを清める儀礼的行為を象徴している。割ったガラスは「無意識に傷つけてしまった他者との関係」や「壊れた透明性」を示している。それを償うために定期的に掃除をするという設定は、自己浄化のリズムを意味している。しかも、当日には誰も出てこず、家も庭もすでに清められていた。この「不在」と「完了」は、外的な償いがすでに内的に完結していることを告げる象徴である。自分はもはや過去の過ちに縛られておらず、誠実さの実践そのものが新たな徳として身についている。掃除を終えずに「今日を最後にしよう」と思う場面は、罪悪感の終焉と新たな自己肯定の始まりを意味している。つまり、行為を通して自分の内に清らかさが根づいたのである。ちょうどそれを思わせる出来事がこの数日以内にあったので、まさにこの解釈は妥当だろう。第三の場面――テストセンターでの出来事――は、「知的な継承と統合」の夢的表現である。留学試験という文脈は未来への挑戦を示し、古いMacと父の数学的パスワードは「過去からの知恵と理性の系譜」を象徴する。父が残した知的な仕掛けを再現できたということは、自分が親世代の思考構造を理解し、再びそれを作動させる段階に至ったことを意味する。ここには「世代間の知性の連続性」と「自我の知的成熟」が表れている。その後、試験機器の不具合を解決するために、かつての女性従業員を探しに行く行動は、過去の経験知にアクセスする能力を示している。徒歩で十分な距離を車で行くという一見非効率な行為は、理性による過剰な手段選択への無意識的な警鐘であり、もっと自然で柔軟な手段を選ぶ直観力の必要性を暗示している。つまり、知的成熟とは合理性だけでなく、状況に応じた「智慧(prajñā)」の発動をも含むのである。これら3つの場面を貫く構造は、心の階梯的な変容である。第一場面では「怒りの昇華」、第二では「罪の浄化」、第三では「知の統合」が描かれており、それらは仏教心理学でいう三学――戒・定・慧――の象徴的順序に対応している。第一の場面での自制は「戒」であり、第二の静かな行為は「定」、第三の洞察は「慧」である。夢全体は、自分の心が倫理的制御から静寂、そして智慧へと歩む過程を明示している。人生的な意味として、この夢は「反応ではなく創造として生きる」ことの重要性を教えている。怒りや罪悪感、理性への過信といった反応的エネルギーを、意識的に変換し、他者と世界に対して新たな理解と誠実さをもって関わること。それこそが成熟した生の在り方である。夢の最後に残る印象は、どの場面にも共通して流れる静かな呼吸のような安定感である。すなわち、自分の人生は外的な衝突や問題を通じて、内なる静けさと透明な理解を育てる場となっているという確信である。フローニンゲン:2025/11/7(金)05:27
17653. ギターの練習から考える学びの王道
ギター学習において、特に初心者にとって「簡単な曲をどんどん弾けるようになる」という小さな成功体験の積み重ねは、上達の最も確実な道なのではないかと思う。この方法は単なる気休めではなく、人間の学習原理に深く根ざしている。楽器の習得には継続が欠かせないが、継続を支えるのは意志よりも「楽しさ」と「できた」という感覚である。難曲に挑戦し続けて挫折するより、短いフレーズや簡単な曲を次々とクリアし、弾けるレパートリーが増えていく感覚こそ、次の練習へのエネルギーとなる。少なくとも自分の場合はそうだ。弾けるレパートリーの拡張は、将来の即興演奏の下地となる。初心者にとっては、指が思うように動かず、音が濁り、リズムも安定しない。こうした壁に直面すると、自分には才能がないのではないかという錯覚に囚われやすい。しかし、実際は脳と指の神経回路がまだ形成されていない段階なだけであり、時間と反復によって必ず改善する領域である。したがって、短期で成果を確認できる練習構造が必要となる。簡単な曲を仕上げることは、その最も強力な方法である。自分がハマっているのは、19世紀初頭にウィーンで活躍したナポリ王国のギタリストであり作曲家マウロ・ジュリアーニ(Mauro Giuliani)が残した120個のアルペジオを練習することはそれである。この練習曲は、CEGの組み合わせとBDFの組み合わせからなるが、BDFの箇所を演奏せず、最初はCEGの組み合わせの箇所だけ演奏することで課題レベルを落とし、なお楽しく練習ができている。いずれにせよ、簡単な曲を仕上げるプロセスには技術の根幹がすべて含まれていることは見落とせない。右手のコントロール、左手のポジション移動、リズムの理解、音楽的なフレーズ作り、音色の意識。それらは単純な練習よりも楽曲の中で体得しやすい。基礎練習は重要であるが、曲が伴うことで目的が明確になり、身につきやすくなる。同じフレーズを反復するにも、「この先に完成がある」と思えるだけで、集中度と継続力は大きく変わる。さらに、弾ける曲が増えることは自己肯定感を育む。レパートリーを持つという実感、音楽を奏でられるという喜び、それを誰かに聴かせたいと感じる自然な欲求。それらがモチベーションの循環を生む。ギターは孤独な学習になりやすいが、曲が弾ければ人前で披露でき、フィードバックを得られ、成長が社会的な体験になる。それがさらに継続意欲を高める。もちろん、発展段階では高度な技術や難曲への挑戦が必要となる。しかし、それは土台があってこそ意味を持つ。初心者期に「弾ける」「楽しい」「進んでいる」という感覚を培わずに難曲へ突入すれば、多くの場合挫折し、自信を失う。音楽は耐久レースではなく、長い対話である。積み木のように少しずつ積み上げる姿勢が最も遠くまで導くのだと思う。結局のところ、簡単な曲を次々にクリアする学習法は、心理的にも技術的にも合理的である。それは自分の歩幅を尊重し、音楽への愛着を育て、学びを楽しむ習慣を形作る。好きだから続く。続くから上達する。この自然な循環こそ、ギターだけでなく、人生のどの領域にも通じる学びの王道である。フローニンゲン:2025/11/7(金)06:42
17654. コード進行について
ギターの朝練を2時間ほど行って今に至る。それでもまた午前7時半である。こうして朝のゴールデンタイムをギターの練習に十分充てられることがとても嬉しい。
コード進行は音楽における文法に例えられることが多い。しかし、文法が文章表現の全てを拘束しないように、コード進行もまた音楽表現を縛りつける枠ではない。むしろ、コード進行とは「期待と解放を生むための秩序」であり、その秩序を理解した上で逸脱することで、音楽はより深い表現力と個性を獲得することができる。つまり、コード進行は規則ではなく、創造のためのフレームなのだ。音楽理論が体系化されてきた背景には、人々が気持ち良いと感じる和声の流れが経験的に蓄積されてきた歴史がある。特にトニック、サブドミナント、ドミナントという機能和声の概念は、安定と緊張のダイナミクスを整理し、人間の聴覚と感性に基づいた構造を提供している。したがって、多くの楽曲がこの基本軸の上に成立しているのは当然である。しかし、それは従わなければならない規則というより、多くの人が共感しやすい心理的導線であって、創造を制約するものではない。むしろ音楽的に魅力的な瞬間は、多くの場合、この導線から少しずつ外れるところに生まれる。例えば、ジャズにおけるサブスティテュートドミナントやトライトーン置換は、伝統的な進行を理解した上で、期待を裏切りつつも別の形で解決感をもたらす手法である。また、ロマン派音楽や現代音楽においては、機能和声の枠を脱してモーダルな響き、増六和音、無調性など、聴覚の文法を拡張する試みが積極的に行われてきた。このような逸脱は、混沌ではなく新たな秩序の提示であり、音楽の進化に寄与している。クラシックギターの分野でも同様である。タレガやソルが重視した機能和声の美しさは揺るぎないが、アセンシオ、ブローウェルらの現代ギター作品は従来の進行を相対化し、新たなテクスチャや音響空間を生み出している。フォークやポップスなどの簡潔なコード曲でも、定型進行に意図的な変化を加えることで、シンプルでありながら洗練された響きが生まれる。つまり、逸脱とは難解さを追求することではなく、同じ景色に別の光を当てる行為だと言えるだろう。しかし、ここで重要なのは、逸脱が成立するためには基礎を理解している必要があるという点である。文法を知らずに文を崩せば単なる誤りになるが、文法を理解した上で崩せば表現として機能する。音楽も同じで、基本進行を体に染み込ませた上でズラす、止める、飛ぶといった選択が創造性となる。つまり、自由と規律は対立せず、むしろ相互補完的である。コード進行の本質は聴き手の心理に橋を架ける構造であり、逸脱の本質はその橋のかけ方を新たに発明する試みである。したがって、コード進行は守るべきルールではなく、理解し、遊び、時に越えるための土台と考える方が健全である。秩序と意外性のバランスの中に音楽の生命が宿る。基本に敬意を払いながらも、自分の耳と感性を信じて進行を探求し続けること。それこそが、音楽理論を生かし、音楽を自由にする態度だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/11/7(金)07:51
Today’s Letter
Practicing the guitar and studying Buddhism harmonize beautifully in my daily life, creating a creative and therapeutic flow. I’m constantly in this flow state, which nourishes my whole being. Groningen, 11/7/2025

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