【フローニンゲンからの便り】17337-17343:2025年9月5日(木)
- yoheikatowwp
- 9月7日
- 読了時間: 20分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
17337 | 冷水シャワーを当てる部位と当て方について |
17338 | 冷水シャワーと長寿遺伝子との関係 |
17339 | 今朝方の夢 |
17340 | 今朝方の夢の振り返り |
17341 | ヴォイチェフ・ズレクの『Decoherence and Quantum Darwinism』 |
17342 | 量子ダーウィニズムにおける人間存在と意識の立ち位置 |
17343 | ブライアン・グリーンの『The Hidden Reality』 |
17337. 冷水シャワーを当てる部位と当て方について
時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。昨日の朝から取り入れた新たな習慣としての冷水シャワーを今朝方も浴びた。昨夜の入浴後にもそれを行ったのだが、いつも以上に深い睡眠が得られただけではなく、目覚めの質も上がっているように感じたので、引き続き夜も継続していこうと思う。自分なりの工夫として、まずは手先から冷水シャワーを当てて、腕に移動し、そこから足先、脚、頭と顔、肩と背中へと移動させていくと抵抗感が低い。手先から背中までじっくり冷水を当てることを2セット行うことが今のやり方である。冷水シャワーを浴びてしばらくすると、体が芯から温かくなってくる。これからの時期は寒くなるが、冷水シャワーを通じて芯から温めることを大切にしたい。
冷水シャワーは古来より「寒冷刺激」として心身の活性化に利用されてきたが、その当て方には注意すべき点がある。特に心臓や腹部といった重要臓器に対して直接冷水を浴びせることは、体質や健康状態によっては負担となり得る。冷水の刺激は自律神経に強く働きかけ、交感神経を急激に優位にすることで血管の収縮や心拍数の上昇を招く。このため、心臓に直接冷水を当てると拍動が一時的に乱れたり、動悸や息苦しさを覚える人もいる。特に高血圧や心疾患、不整脈の既往がある人はこのリスクが大きいため、心臓部への直接的な冷水刺激は避ける方が良いだろう。同様に腹部は消化器官や生殖器を含む中枢であり、急な冷却は胃腸の働きを停滞させたり、腹痛や下痢を引き起こす場合がある。冷水浴を行う際は、四肢や末梢から徐々に慣らし、最後に体幹へ移行するのが望ましい。心臓やお腹に冷水を直接当てない方がよい人の特徴としては、まず循環器系に疾患を抱える人が挙げられる。狭心症や心筋梗塞の既往歴、不整脈や高血圧などは冷水刺激による急な血圧変動や心拍数上昇で悪化する可能性がある。また、自律神経が不安定で、冷え性や極端な低血圧に悩む人も注意が必要である。体が冷えやすい人は腹部の急な冷却で末端への血流がさらに阻害され、冷えや倦怠感を強めてしまうことがある。さらに胃腸が弱く下痢を起こしやすい人、月経中や体調不良時の女性も腹部への刺激は避けた方がよい。冷水浴の効果を享受しようとしても、かえって体調を崩す危険性があるため、無理な方法は慎むべきである。一方で、冷水を心臓や腹部に当てることには一定の便益も存在する。例えば適度な冷却は迷走神経を介して副交感神経を刺激し、過剰に高ぶった交感神経を鎮める働きがある。心臓付近の冷却は心拍を落ち着け、精神を静める効果につながる場合がある。また、腹部を冷やすことは内臓への血流を一時的に減少させ、代謝バランスを調整する契機となる。これにより胃腸の過活動を抑え、消化器系を休ませる作用が期待できるとする説もある。スポーツ選手の中には、腹部や胸部への冷水シャワーを疲労回復や自律神経リセットの手段として取り入れている例も報告されている。ただし、この効果は健康で体力に余裕のある人に限定されやすく、誰にでも安全というわけではない。要するに、冷水シャワーを行う際は「安全に全身を覚醒させたい」のか、それとも「強い刺激で自律神経をリセットしたい」のかという目的によって、当てる部位や強度を調整する必要がある。一般的には自分のように手足や足先から冷水を浴びて、腕・脚といった末梢を十分に慣らしてから、肩や背中、腰などへ移行するのが安全である。心臓や腹部に当てる場合も、最初から冷水を強くかけるのではなく、短時間・少量から試すことが推奨される。特に健康に不安がある人は主治医に相談し、自分の体質をよく理解したうえで取り組むことが不可欠である。冷水シャワーは刃物のように使い方次第で健康を切り開く道具ともなり、逆に無理をすれば体を傷つける危険ともなる。冷たさを敵とするのではなく、慎重に味方として迎え入れる態度こそが、冷水の恵みを生かす最良の方法だと思われる。フローニンゲン:2025/9/5(金)06:57
17338. 冷水シャワーと長寿遺伝子との関係
冷水シャワーと長寿遺伝子との関係は、近年の健康科学や老化研究において注目を集めている。長寿遺伝子とは一般にサーチュイン遺伝子群(SIRT1~SIRT7)やAMPK、mTOR経路などを指し、細胞内の代謝やDNA修復、炎症制御といった生命維持の根幹に関わる遺伝子群である。これらは断食や運動、カロリー制限といったストレス環境で活性化されやすいことが知られている。冷水シャワーもまた一種の「ホルミシス刺激」として作用し、短時間の冷却ストレスが細胞を適度に緊張させ、長寿遺伝子の活性化を促すと考えられている。具体的には、冷水刺激により体内でノルアドレナリンの分泌が増加し、交感神経が活性化されると同時に、細胞のミトコンドリアが増強される。この過程でSIRT1やAMPKといった経路が働き、エネルギー効率の改善や抗酸化機能の向上につながるのである。さらに、冷水は血管の収縮と拡張を繰り返させることで血流を改善し、慢性的な炎症反応を抑制する働きもある。これらは長寿に関わる遺伝子群の発現と相互補完的に作用し、老化を遅らせる可能性を秘めている。また、褐色脂肪細胞を活性化し、体温維持のためにエネルギー消費を促進する点も見逃せない。脂肪燃焼の過程で産生される分子シグナルは、代謝の柔軟性を高め、生活習慣病のリスクを低下させる。すなわち、冷水シャワーは単なる爽快感にとどまらず、分子レベルで「老化に抗う仕組み」を刺激していると理解できる。では、この効果を最大化するためにはどのような浴び方が望ましいのか。まず基本は「段階的な慣らし」である。突然全身に冷水を浴びせると体に強いストレスがかかり、心臓や血管に負担を与える。したがって最初はぬるめの水から始め、徐々に温度を下げていくことが重要である。入浴や温かいシャワーの後に冷水を取り入れる「温冷交代浴」は特に効果的で、血管のポンプ作用を強めて代謝を活発にする。冷水を浴びる時間は30秒から1分程度で十分であり、慣れてきたら2~3分まで延長するのが良い。重要なのは長時間冷え続けることではなく、短時間の強い刺激を繰り返すことである。体の当て方にも工夫が必要である。最初は足首や手首など末端から始め、次に脚、腕、背中へと移行し、最後に胸や腹部へと進めると安全である。頭部に冷水をかける場合は短時間にとどめ、心臓や腹部には体調を見ながら少しずつ慣らすのが望ましい。呼吸法も効果を左右する要因である。冷水に触れたときに呼吸が浅く乱れると交感神経の緊張が強すぎるため、意識的に深くゆっくりとした呼吸を保つことが、自律神経のバランスを整える鍵となる。また、冷水シャワーを行うタイミングも重要である。朝は交感神経を高めて覚醒を促す目的で適しており、夜は逆に短時間の冷水で体を刺激し、その後に体温が回復する過程で副交感神経が優位となり、深い睡眠に導かれることがある。ただし夜の場合は刺激が強すぎると眠りにくくなるため、就寝直前は避けるべきである。さらに、週に数回でも継続することが長寿遺伝子の持続的な活性化につながると考えられている。毎日無理なく続ける習慣化こそが最も重要な要素である。総じて言えば、冷水シャワーは分子レベルで長寿に関わる遺伝子群を刺激し、体全体の適応力を高める可能性を持つ。その効果を最大化するには、段階的な慣れ、末端からの順序、深い呼吸、適切な時間と頻度が鍵となる。冷水の刺激を「敵」としてではなく「鍛錬の師」として迎え入れることにより、心身は柔軟さと強靭さを同時に獲得し、長寿への道を自ら切り開いていくのである。フローニンゲン:2025/9/5(金)07:05
17339. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校のグラウンドに似た場所で、様々な学校が集まる形で開催されたスポーツフェスティバルに参加していた。市内の全ての学校だけではなく、隣接する市の学校も集まっていたのでかなりの生徒がそこにした。テニスコート近くの階段からグラウンドを眺めて、競技に勤しむ生徒たちの姿を眺めていた。すると、次の400m走の競技にある友人(KF)が出場すると聞き、試合前の彼の様子を確認するために、彼に話し掛けた。彼は足は早くなく、むしろ遅い方なのだが、今年の初旬に何か目覚めがやって来て、走り方を変えたところ劇的に早くなったとのことだった。これまでは腿をうまく使えておらず、腿を上げるような走り方にしたところ、驚くほど走る速度が上がったと教えてくれた。彼がどれだけ早くなったのか知りたかったので、試合前のウォーミングアップがてら、彼と一緒に少し走ってみることにした。すると、彼が述べていたように、彼の走りは以前とはまるで別人のようになっており、途轍もなく早くなっていた。自分でもそれを体験し、きっと彼なら良い成績を残すだろうと思った。彼を励ましとともに送り出した後、今度は自分が出場するサッカーの試合について考え始めた。ちょうどクラスのもう片方のチームがグラウンドでサッカーの試合を行っており、相手と力は拮抗していながらも数ゴール奪われてしまい、敗戦が濃厚だった。それを受けて、そのチームから上手い選手を引き抜いてきて、こちらのチームの戦力を補強し、万全のチーム体制で臨む必要があると思った。
今朝方はその他にも夢を見ていたような気がする。少し辺りが薄暗くなっている時間帯に、高校時代に過ごしていた社宅近くで小中高時代のある友人(SN)と勉強法や進路について話していた場面があったように思う。彼も自分と同じく文武両道の精神を持っていて、どちらも手を抜かずに学校生活を過ごしていた。彼との会話によってお互いを励まし合い、高め合うことができ、とても有意義な時間を過ごすことができ、その夜からまた気持ち新たなに学習と運動に力を入れていこうと思った。そのような場面があった。フローニンゲン:2025/9/5(金)07:29
17340. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台が中学校のグラウンドに似た場所であったという点は、自己の原点、すなわち思春期のアイデンティティ形成の揺らぎと芽生えを象徴していると解釈できるかもしれない。市内のみならず隣接する市の学校までが一堂に会していることは、個人の内的な競技会がもはや局所的なものではなく、広範な世界との接触を含むものであることを示している。そこには自我の境界を越えた競争と協力、個の力と集団の力の交錯が映し出されているのである。テニスコート近くの階段から競技を見下ろす場面は、観客と参加者という二重の立場を同時に生きる自己の姿を示唆する。すなわち、人生の舞台を俯瞰的に眺めつつも、同時にその中で自らが役割を担って走らねばならぬ存在であるという自覚の現れである。友人KFの登場は、この構造に決定的な転換を与える。彼は以前は足が遅いという評価を受けていたが、ある「目覚め」によって走法を変え、劇的な成長を遂げた。ここには技術的改善の物語を超え、内的覚醒が生み出す質的転換の象徴がある。腿を上げるという単純な工夫は、実際には生き方の焦点を変えるという深い意味を持っており、同じ基盤の上で全く異なる次元の成果が現れることを示している。夢の主体がその走りを共に試み、まるで別人のような速度の向上を目の当たりにしたことは、他者の変容をただ観察するのではなく、自らの身体と感覚を通して実感したことを意味する。つまり、この場面は「他者の成長を媒介にして自己もまた変容に触れる」という体験の象徴である。KFを励まし送り出す行為は、自己の役割が競争相手としての立場に留まらず、仲間の可能性を引き出し支援する役割へと拡張していることを示している。その後、夢の焦点は自己のサッカーの試合に移る。すでに行われているクラスのもう一方の試合での敗戦は、人生において避けがたい不完全さや挫折を表している。しかし、そこから「優れた選手を引き抜いて補強する」という発想が生まれる点に、自己の意識の特異さが現れる。すなわち、欠落や劣勢をただ受け入れるのではなく、資源を再編し、戦力を補完し、新たな布陣を組み直そうとする姿勢である。これは創造的適応力の象徴であり、失敗を単なる終わりではなく、新たな構築の契機として捉える精神性を示している。さらに、高校時代の社宅近くでの友人SNとの場面は、学びと生き方における「道連れ」の象徴として重要である。彼と語らう時間は、自己が文武両道の精神を抱くことを確証し、その姿勢を再確認する場となっている。薄暗い時間帯に交わされる対話は、人生の過渡期や不確実さの中でこそ、仲間との相互励ましが光を放つことを意味している。そこには競争ではなく協働、勝敗ではなく共成長というもう1つの生の在り方が提示されている。総じて、この夢は「変容」「補完」「共成長」という3つの要素を強調しているのである。KFの走法の変化は、視点の転換による飛躍の可能性を示し、サッカーの場面は資源の再編による創造的適応を示し、SNとの語らいは仲間との共鳴による内的成長を示している。これらはいずれも、人生において直線的な努力だけではなく、柔軟な視点転換、他者との相互作用、敗北を資源へと転じる力が必要であることを教えている。したがって、この夢の意味は、人生における勝敗や成果は単なる結果としての価値ではなく、そこに至る過程でいかにして他者の変容に触れ、自らの方法を刷新し、挫折を資源へと組み替え、仲間と共に歩むかという在り方そのものに存すると示しているのである。人生の本質は、競技場における勝利そのものではなく、競技を通して互いに励まし合い、共に変わり続ける運動そのものなのである。フローニンゲン:2025/9/5(金)07:42
17341. ヴォイチェフ・ズレクの『Decoherence and Quantum Darwinism』
午前中の朝日が出ている間に散歩がてら近所のショッピングモールに買い物に出かけた。ここから秋が深まり、冬になってくると日照時間が減るので、朝日が顔を覗かせている日は積極的に朝に外に出かけて朝日を浴びたい。
ヴォイチェフ・ズレク(Wojciech H. Zurek)の『Decoherence and Quantum Darwinism』は、量子力学の測定問題や古典世界の出現を説明する上で極めて重要な理論的枠組みを提示する論文群と総説である。ズレクは1980年代から「環境によるデコヒーレンス」という概念を発展させてきたが、その後これを発展させ「量子ダーウィニズム(Quantum Darwinism)」という新たな理論を提唱した。まずデコヒーレンスとは、量子系が環境と相互作用することによって「位相の相関(コヒーレンス)」が急速に失われる過程を指す。量子力学の状態は重ね合わせ原理に従って、猫が「生」と「死」を同時に含むシュレーディンガーの猫のような曖昧な存在になり得る。しかし実際には私たちが観測するのは常に古典的で確定的な状態である。デコヒーレンス理論は、環境との相互作用が波動関数の干渉項を事実上消し去り、観測者にとって重ね合わせが「古典的な選択肢の1つ」に見えるようにする仕組みを説明する。重要なのは、この過程が自然に、しかも極めて速やかに起こるため、古典的世界が自ずと出現するという点である。しかしデコヒーレンスだけでは「なぜ特定の状態が選ばれるのか」、すなわち古典的現実の確定性を完全には説明できない。そこでズレクが提案したのが「量子ダーウィニズム」である。この理論は、生物進化におけるダーウィン的プロセスを比喩的に取り込み、量子情報が環境を通じてどのように選択され、安定的に複製されるかを描き出す。具体的には、量子系の状態は環境との相互作用を通じて「多数の環境断片」にコピーされる。このとき「ロバストな状態」すなわち環境に繰り返し記録されても壊れにくい状態が「選択」される。ズレクはこれを「環境による監査」と呼び、環境が観測者に代わって量子系の情報を記録し、それを複製することで多数の観測者が同じ古典的現実を共有できると説明する。例えば、机の位置を私たちが知覚できるのは、机の位置情報が光子や空気中の分子を通じて環境に無数にコピーされ、それを目や皮膚感覚を介して取り込むからである。異なる観測者が同じ「机の位置」を一致して認識できるのは、この環境を通じた情報の冗長な複製による。すなわち古典的現実は「環境に選ばれ、環境に複製された情報」として成立するというのが量子ダーウィニズムの核心である。ズレクの理論は測定問題の伝統的な解釈に新たな視点を与える。従来のコペンハーゲン解釈では「測定」が特別な役割を担い、観測者の介入が波動関数を収縮させると考えられてきた。しかし量子ダーウィニズムにおいては観測者はもはや特別ではなく、環境そのものが観測者に代わって量子系を「測定」している。観測者はその環境を読み取ることで現実を認識するにすぎない。この立場は「客観性」の新しい定義をもたらす。すなわち、ある事実が客観的であるとは、それが環境に多数コピーされ、多数の観測者が独立に確認できることを意味するのである。この考え方の重要性は、量子力学と古典的現実との橋渡しにある。量子ダーウィニズムは「なぜ私たちは古典的世界を経験するのか」という問いに対し、環境を介した情報の冗長な複製という具体的メカニズムを提示する。また、情報という概念を中心に据えることで、量子力学の理解を物理学と情報科学の接点に位置づけ、現代的な意義を持たせている。総じて『Decoherence and Quantum Darwinism』は、量子力学の根本問題に新しい地平を開いた画期的な書籍である。デコヒーレンスが古典的世界の表面化を説明し、量子ダーウィニズムがその世界の「共有可能性」を説明する。この二段構えの理論により、私たちが経験する確定的で客観的な現実が量子世界からどのように立ち現れるのかが理解されつつあるのである。この考え方は多分に唯識の器世間の考え方と繋がる点が興味深い。フローニンゲン:2025/9/5(金)11:25
17342. 量子ダーウィニズムにおける人間存在と意識の立ち位置
ズレクの量子ダーウィニズムにおいて、人間の存在や意識は理論の中心的要素として直接的に導入されるわけではなく、むしろ「環境から情報を読み取る存在」として位置づけられる。ズレクの基本的な関心は、量子力学の測定問題を「観測者の意識」という曖昧な概念に依存せずに解決することである。すなわち、古典的現実の出現は人間の主観に還元されるものではなく、環境が量子系から情報を引き出し、冗長に複製するという物理的過程によって説明されるのである。この理論において重要なのは「環境が観測者に代わる」という発想である。従来のコペンハーゲン解釈では、観測者が測定を行うことで波動関数が収縮し、1つの現実が確定すると考えられてきた。しかし量子ダーウィニズムでは、量子系は環境と相互作用することで自動的に「デコヒーレンス」を起こし、その情報が光子や空気分子といった環境の自由度に大量にコピーされる。観測者である人間は、その「環境に記録された情報の断片」を受け取るだけであり、主体的に現実を作り出しているわけではない。したがって、人間や意識は量子ダーウィニズムの枠組みでは「環境そのもの」とはみなされず、むしろ環境を介して現実にアクセスする一存在に過ぎない。ただし、人間の身体や感覚器官は広義には「環境システムの一部」として機能する。例えば、机の位置は光子によって周囲に無数にコピーされており、私たちの目はその光子を取り込むことで机の存在を認識する。このとき人間の網膜や神経系は、すでに環境に記録された情報をさらに「再受容する装置」として働いている。意識は、この情報を統合し、世界像を形成する高次のプロセスであるが、その基盤にあるのは環境に広く分散された物理的記録である。したがって、人間や意識を量子ダーウィニズム的に捉えるとすれば、それは「環境が生み出した情報を利用して世界を構築する存在」として理解されるべきである。ズレクの立場は哲学的に見ると「観測者排除の原理」に近い。すなわち、現実の成立を意識や主観に依存させるのではなく、情報の複製と安定性という客観的な基準によって説明しようとするのである。ここで「客観性」とは、多数の観測者が独立に同じ環境断片を調べても一致した情報を得られることを指す。つまり、人間の意識は現実を「作る」のではなく、「既に環境にコピーされ共有可能になっている現実」を取り込むにすぎない。この点で、量子ダーウィニズムは意識の役割を最小化していると言える。観測者の存在がなくとも、環境との相互作用によって古典的現実はすでに成立しているからである。しかし同時に、人間はその現実を経験するための媒介として不可欠である。環境に記録された情報は、最終的には観測者の感覚器官と意識を通じて「世界」として立ち現れる。この意味で、人間や意識は環境の一部ではないが、環境がもたらす情報を現実として統合する「利用者」として理論の末端に位置づけられる。したがって、ズレクの量子ダーウィニズムにおいて人間や意識は、現実の成立に必要不可欠な「因果的要因」としては扱われない。むしろ、環境によって選択・複製された情報を享受し、それを主観的世界に統合する「受容者」として理解される。言い換えれば、量子ダーウィニズムが示すのは「環境が現実を形づくり、人間の意識はそれを読み取るにすぎない」という立場であり、このことは物理学的説明と主観的経験の境界を明確にする役割を果たしているのである。フローニンゲン:2025/9/5(金)12:52
17343. ブライアン・グリーンの『The Hidden Reality』
ブライアン・グリーン(Brian Greene)の『The Hidden Reality: Parallel Universes and the Deep Laws of the Cosmos』は、現代物理学が提示している「マルチバース(多元宇宙)」の可能性を体系的に紹介し、その哲学的・科学的意味を探る試みである。グリーンは超弦理論の研究者として知られるが、この著作では自身の専門分野を超えて、宇宙論や量子力学、数学的物理学の最先端をつなぎ合わせ、一般読者にも理解できるように多元宇宙論を展開している。本書の中心テーマは、私たちが知覚する宇宙が唯一のものではなく、背後にはさまざまな「隠れた現実」が存在する可能性である。グリーンはそれを「9種類のマルチバース仮説」として整理し、それぞれがどのような理論的背景を持つかを丁寧に解説する。例えば「パッチワーク宇宙(Quilted Multiverse)」は、ビッグバン後に膨張した宇宙が無限に広がるとすれば、どこか遠くに自分と同じ存在が別の場所に生きているかもしれないという帰結を示す。また「インフレーション的マルチバース」は、宇宙の急激な膨張(インフレーション)が無数の「泡宇宙」を生成し、それぞれが異なる物理定数を持ち得るという仮説である。さらに弦理論に基づく「ブレーン・マルチバース」や「ランドスケープ・マルチバース」も紹介される。前者では、私たちの宇宙は高次元空間に浮かぶ三次元的な膜(ブレーン)であり、他の次元には並行するブレーン宇宙が存在する可能性が語られる。後者では、弦理論が予測する膨大な真空解(10^500以上とされる)が、それぞれ異なる物理法則を持つ宇宙を生み出すとされる。これらは現代物理学における最大の謎、すなわち「なぜこの宇宙の物理法則がこのように定まっているのか」という問いに答える枠組みを与えるものでもある。また、量子力学の解釈に基づく「多世界解釈的マルチバース」も取り上げられる。エヴェレット以来の解釈によれば、量子の重ね合わせは観測によって1つに収縮するのではなく、すべての可能性が並行宇宙として実現している。この見方では、私たちが観測するのは数多の「分岐宇宙」の1つにすぎず、あらゆる可能性がどこかで現実化しているという驚くべき図式が浮かび上がる。グリーンの特徴は、こうした大胆な仮説を科学的根拠のない空想としてではなく、現代物理学の内部から自然に生じてきた必然的帰結として描き出す点にある。彼は一般読者にもわかる比喩や図解を多用しつつ、同時に理論的な基盤を曖昧にしない。その上で、マルチバースの存在は現代科学の枠組みを超え、哲学的・宗教的な問い、すなわち「現実とは何か」「人間存在の意味とは何か」にも触れざるを得ないことを強調する。ただしグリーンは、多元宇宙論が現時点では直接的な観測によって検証できないことも率直に認める。科学理論としての正当性は「反証可能性」に依拠しており、もしマルチバースが観測不可能であるなら、それは科学の枠を超えたメタ物理的仮説にとどまる可能性もある。彼はこの緊張関係を隠さず、むしろ現代物理学が直面する「科学と哲学の境界領域」として提示する。ここに本書の思想的魅力がある。総じて『The Hidden Reality』は、物理学的宇宙論と哲学的省察を架橋する書物であり、宇宙の奥行きがいかに多層的かを鮮やかに描き出している。グリーンは、私たちが「唯一の宇宙に生きている」という直観を超え、無数の宇宙の可能性を考えることこそ、科学的想像力と人間的探究心を最も豊かに刺激する営みであると示しているのである。フローニンゲン:2025/9/5(金)13:45
Today’s Letter
I took a cold shower in the morning, just like yesterday. It boosts my energy and, hopefully, my immune system. After continuing this practice for a while, I look forward to seeing changes in my body and mind. Groningen, 09/05/2025

コメント