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【フローニンゲンからの便り】17319-17324:2025年9月2日(月)


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タイトル一覧

17319

ジム・バゴットの『Quantum Reality』

17320

今朝方の夢

17321

今朝方の夢の振り返り

17322

マイクロドーシングの最新の実証研究について

17323

クリストファー・ティンプソンの情報理論に関する書籍

17324

メルヴィンとメモリースポーツについて話をして

17319. ジム・バゴットの『Quantum Reality』       

     

時刻は午前7時を迎えた。昨日から9月を迎え、ここからますます秋らしくなっていくだろう。今年は秋の入り口に入ったのは早かったが、ここから10日間は基本的に20度前半の最高気温の日々が続く。1日だけ19度の日もあるが、秋が深まっていく速度はまだゆっくりのようである。


一昨日に目を通した書籍として、ジム・バゴットの『Quantum Reality(量子現実)』がある。本書は、量子力学がもたらした科学的・哲学的衝撃を一般読者に向けて丁寧に解説した書物であり、物理学の基礎理論が直面する「現実とは何か」という根源的な問題を追究している。バゴットは物理学者であると同時に科学解説者としても知られ、数式を多用せず物語性のある文章で難解な議論を描き出す。本書の魅力は、量子論の奇妙な実験事実を紹介するだけでなく、それをどう理解すべきかについての多様な解釈を比較検討し、現代人が「量子の現実」とどう向き合うべきかを問う点にある。本書の前半では、量子力学の基礎実験が詳細に紹介される。代表的なものは「二重スリット実験」であり、電子や光子のような微視的粒子が観測されないときは波のように振る舞い、観測すると粒子として現れるという二重性が示される。さらに「不確定性原理」によって位置と運動量を同時に正確に測定できないこと、また「量子もつれ」と呼ばれる現象によって遠く離れた粒子同士が瞬時に相関を示すことが説明される。これらの事実は、古典物理学が前提としてきた客観的で独立した現実像を揺るがし、観測者と観測対象の境界を不明瞭にするのである。続いてバゴットは、量子力学の解釈をめぐる多様な立場を紹介する。コペンハーゲン解釈は、観測によって波動関数が「収縮」するという実用的な立場を取るが、その過程の物理的メカニズムは説明しない。他方でエヴェレットの多世界解釈は、波動関数の収縮は起こらず、観測のたびに宇宙が分岐して全ての可能性が実現するとする。さらにボーム力学は「隠れた変数」を仮定し、粒子には常に確定的な軌道が存在すると考える。これらの解釈はそれぞれ長所と問題を抱えており、どの立場を取るかによって「量子現実」の姿はまったく異なるものとなる。バゴットは一方的にどれかを推すのではなく、各理論の論理的帰結と哲学的含意を比較することに力点を置いている。また本書は、量子力学が現代技術に及ぼしている実際的影響にも目を向ける。半導体やレーザー、量子暗号通信や量子コンピュータといった応用技術はすでに私たちの生活を根底から変えつつある。つまり量子力学は「現実をどう解釈するか」という哲学的問題を提起する一方で、実際の技術基盤としては驚くほど正確に機能しているのだ。理論が持つこの二面性――哲学的混乱と工学的成功――を強調する点も本書の特徴である。さらにバゴットは、量子論をめぐる議論が現代科学の境界を越えて、人間の意識や自由意志、さらには宇宙論的問題へと拡張されていることを指摘する。例えば、観測者の意識が波動関数の収縮を引き起こすのではないかという「意識解釈」、あるいは宇宙全体が量子的な波動状態として存在するのではないかという宇宙論的視点である。こうした試みはしばしば推測的すぎると批判されるが、それでも量子論が現代思想に及ぼす影響の広さを示している。総じて『Quantum Reality』は、量子力学を単なる数理体系としてではなく、「現実とは何か」という人類の根源的問いへの挑戦として提示する書物である。バゴットは「科学は世界を記述するが、それが世界の最終的な実在と一致するとは限らない」と警告する。すなわち、量子論が示すのは「私たちが世界をどう経験するか」に関する構造であって、必ずしも「世界そのもの」の直接的写像ではないというのである。本書の意義は、量子力学が私たちに迫る哲学的難題を正面から引き受けつつ、それを回避することなく一般読者に開かれた形で提示した点にある。したがって『Quantum Reality』を読むことは、量子力学の科学的基盤を理解する以上に、「私たちは何をもって現実と呼ぶのか」という自己省察を促される体験である。量子の奇妙さに触れることで、私たちの日常的な現実観が相対化され、より広い世界観へと開かれる。その意味で本書は、科学解説書であると同時に、現代人の哲学的教養書とも言えるだろう。フローニンゲン:2025/9/2(火)07:10


17320. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の教室にいた。教室で生徒たちは外国語で小説を執筆していた。自分は英語を選択し、小説を書こうとすると、先生は原稿用紙を渡し、パソコンでタイプするのではなく、手書きで書くことを要求した。それに対して私は随分と古風だなと思い、それを呟くと、前に座っていた小中高時代のある女性友達(MH)が先生に向かって大きな声で、自分の呟きを報告した。それは予期せぬ通報行為であり、あまり良い気持ちにならなかった。先生が私のところにやって来た時に、彼女はまた別の事柄で先生に告げ口をしたが、先生は彼女の証言は部分的であり、誇張表現であることを見抜いていたので、先生から怒られることはなかった。それにしても、彼女はやたらと先生に告げ口しようとするため、今後は言動には注意しようと思った。そこから小説の執筆に集中しようと思ったが、また何を告げ口されるかわからないため、気が気ではなく、先生のように真理を見抜く人がいてくれるのは有り難いが、自分の居場所はここにはないと思った。

次に覚えているのは、見慣れないフットサルコートでフットサルをしている夢である。大学時代のサークルのメンバーと小さな大会に出場しており、初戦はまず後輩たちだけをスタメンで起用することになった。それは先輩の采配であり、チームメンバー全員がその采配に異論はなかったので、まずは自分はベンチから試合を見守ることにした。自分が起用された時のイメージはすぐにできており、イメージの世界の中で、ゴールキーパーの先輩からのスローイングをそのままボレーで合わせるイメージが出来ていた。その時の自分の体はゴールポストよりも高く飛んでいて、それが印象的だった。気がつくと、自分は実際にコートの上でそれを行っていたようで、ゴールに入ったのかどうかは不明だが、ベンチを含めて観客席は歓声で沸いていた。フローニンゲン:2025/9/2(火)07:20


17321. 今朝方の夢の振り返り


今朝方の夢の前半において現れた中学校の教室は、過去の自己形成の場を象徴している。そこで外国語で小説を執筆する課題が課されるという構造は、過去の学習経験が新たな文脈で再演されると同時に、言語的表現を通じて自己の可能性を試される場面を示していると解釈できる。英語を選択し執筆を始めようとした際に、パソコンではなく手書きでの執筆を要求されたことは、現代的な効率性への志向と古典的な努力を通じた表現との間の葛藤を映し出している。すなわち、創造性を発揮する上で、単なる技術的な便利さを超えて、より根源的な身体的労苦や伝統的形式に向き合う必要があるという無意識からの示唆である。その過程で女性の友人が告げ口を繰り返すという出来事は、外部からの監視や評価に対する不安の投影であると同時に、自己表現を阻む心理的障壁の象徴でもある。彼女は子供時代からの知人であるため、自己形成期の記憶に根ざした「内なる検閲者」として機能している。告げ口は予期せぬ通報行為であり、主体的表現に伴うリスク、すなわち周囲からの誤解や曲解を象徴している。しかし同時に、先生がその証言を見抜いて部分的誇張であると判断したことは、真実を識別する存在の保証であり、主体が自己を正しく理解されうる可能性を示している。だが、それにもかかわらず「ここには居場所がない」と感じたことは、成長のために古い環境から離れ、新しい場を求める必要性を告げるものである。夢の後半で展開されたフットサルの場面は、より身体的で能動的な象徴を含んでいる。見慣れないコートは未知の場、すなわち未来における新しい挑戦の象徴であり、大学時代の仲間との再会は共同体における役割の再確認を意味する。後輩たちをまず起用する采配を自然に受け入れたことは、自分が自己中心的な欲求を抑制し、全体の調和を尊重する成熟した態度を表している。その上で、自分が出場する瞬間のイメージを鮮明に描き、実際にそれを体現していたという流れは、思考と行為が一致し、可能性が現実化される体験を表象している。特に、ポストを超えて高く飛ぶ身体のイメージは、日常的制約を超越し、精神的な自由や飛翔を示す強い象徴である。歓声が起きたにもかかわらず、実際に得点したかどうかは不明であった点は、成果そのものよりも「挑戦し、表現し、観衆の共鳴を得た」ことに本質的な意味があることを示している。この夢全体を貫く構造は、過去の制約を思い起こしながらも、それを超えて新しい舞台で自己表現を果たそうとする心理的運動である。教室の場面は内面的な批判や検閲の記憶を象徴し、そこから「自分の居場所はここではない」という感覚が芽生える。一方でフットサルの場面は、未知の舞台で自らの可能性を実際に試み、観衆の反応を得るという未来志向的な展望を示している。すなわち、この夢が人生に示唆するのは、過去の環境や他者の評価にとらわれず、自らが真に羽ばたける場を見出し、そこにおいて想像力を現実の行為へと昇華させるべき時期に来ているということである。夢は、自己検閲の呪縛を乗り越え、創造的飛翔を可能とする新たな段階への移行を促している。フローニンゲン:2025/9/2(火)07:39


17322. マイクロドーシングの最新の実証研究について

     

昨日ふと、マイクロドーシングの最新の実証研究について気になった。マイクロドーシングとは、シロシビンやLSDをごく弱い効果の用量で定期的に摂る実践であり、創造性や気分の改善を謳う体験談が広がっている。しかし最近の科学的知見は、「効くとしても、その多くは期待効果(プラセボ)で説明できるのではないか」という慎重な姿勢を取る。代表的なのが、参加者自身がプラセボを混ぜ込むセルフ盲検化大規模試験で、幸福感などの指標は改善したが、その幅は実薬群とプラセボ群で有意差がなく、むしろ「飲んだと思った」期待が効果を規定していたという報告である。一方、厳密な実験室試験は「小さな急性効果はある」ことを示す。LSDを6.5–26µgで投与した二重盲検では、用量依存的な主観的変化や軽度の生理影響が観察され、時間知覚の偏りなど特定課題での変化も報告された。ただし効果は小さく、認知全般や創造性の一貫した向上を裏づける所見は限定的である。総括的レビューも、微小用量が主観・情動・生理・神経指標に「プラセボ相対で差が示される場合もある」としつつ、研究間の不均一性、盲検破れ(被験者が群割付を当ててしまう)の問題、効果量の小ささを強調する。言い換えれば「完全な無効」でも「万能の妙薬」でもなく、期待と文脈の影響を強く受ける弱い実薬像である。この盲検問題は方法論的に重要で、単にプラセボ群を置いただけでは十分でなく、本当に騙せていたかが核心になる。最近の検討は、参加者が割付を言い当てるだけで効果差が生じ得ることを示し、マイクロドーシングは「アクティブ・プラセボ(体感ゆえに期待が強化される薬)」と捉えうると論じる。シロシビンについては、微小用量の無作為化試験はまだ乏しく、抑うつに対する低用量の安全性と有効性を検証する試験が進行中という段階である。現時点の人間データは自然観察や自己報告に偏っており、強固な因果推論には至っていない。安全性に関しては、実験室での低用量LSDの短期投与は概して良好で、心拍・血圧や不安感の軽微な上昇、入眠困難などが散発的に見られる程度と整理される。ただし長期的影響、特に慢性的な連用時の神経生理・気分への純粋な薬理効果と儀礼・期待効果の切り分けは未解明である。要するに、最近の調査結果は次の含意を示す。微小用量は、弱いが実在する急性作用を持ちうる(特に主観と一部課題)一方、平均的には期待・文脈の寄与が大きく、プラセボと明確に分かれない。さらには、長期的な有効性・安全性・適応疾患の輪郭は今後の厳密な二重盲検での検証待ちである。実践を価値づけるのが主観的ウェルビーイングであれば、儀礼や期待を含む全体としての介入が効く、という見方も可能だが、医学的有効性の主張にはなお慎重さが求められる。フローニンゲン:2025/9/2(火)11:02


17323. クリストファー・ティンプソンの情報理論に関する書籍

      

先日届けられた書籍の中に、クリストファー・ティンプソン(Christopher G. Timpson)の著書『Quantum Information Theory and the Foundations of Quantum Mechanics』がある。本書は、量子情報理論が量子力学の基礎問題にどのような新たな視点をもたらすかを本格的に論じた哲学的・科学的研究である。本書はオックスフォード大学出版から刊行されており、単なる教科書的な量子情報の解説にとどまらず、「情報とは何か」「情報を用いた量子理論の理解は基礎論的問題を解決しうるのか」といった根源的問いに対する精密な検討を展開する。序盤では量子情報理論の主要な成果が紹介される。量子テレポーテーション、量子暗号通信、量子コンピュータなど、1990年代以降に急速に発展した技術的成果は「量子」という奇妙な性質が応用可能であることを示した。ティンプソンはこれらの現象を、哲学的な立場から「量子力学の解釈問題とどう関わるのか」という観点で吟味する。特に量子テレポーテーションが「情報の瞬間移動」ではなく、実際には量子状態を古典通信と量子もつれを組み合わせて再構成していることを丁寧に説明し、「情報」という語を物理的存在として誤解してはならないと強調する。本書の核心は「量子情報を基礎づけに据えることが可能か」という議論にある。近年、クリフトン=バブ=ハルヴォルセン(CBH)定理など、情報理論的制約から量子論の形式を再構成する試みが注目されてきた。これは「情報の非増幅性」「超光速通信の禁止」「不可分複製の禁止」などの原理から量子力学の枠組みが導けるとするアプローチである。ティンプソンはこれを詳細に検討し、形式的には有力であるものの、それが「物理世界の実在に関する説明」を与えるわけではないことを指摘する。つまり情報理論的な再構成は量子論の特徴を抽出するが、それは「なぜ世界がそのようであるか」を解くものではない、というのである。さらにティンプソンは、「情報は物理的実体か、それとも抽象的記述か」という哲学的問いに立ち返る。シャノンの情報理論における「情報」は確率分布のエントロピーにすぎず、それ自体が物理的対象ではない。量子情報理論においても「量子ビット」は物理的粒子ではなく、状態を表現する抽象的構造である。ゆえに「宇宙は情報からできている」という流行的スローガンを批判的に検討し、情報はむしろ「物理的実在を記述する枠組み」であると位置づける。この議論は、ジョン・ウィーラーの「It from Bit(全ては情報から)」という思想を背景にしつつ、それを過度に実体化する危険を回避する試みと理解できる。また本書は、量子力学の解釈問題における情報理論の役割を論じる。例えば、「コペンハーゲン解釈」は観測を強調し、「多世界解釈」は波動関数の普遍性を強調するが、量子情報理論は観測過程や情報伝達を新しい角度から照らし出す。しかしティンプソンは、情報理論が解釈問題を魔法のように解決するわけではなく、既存の解釈を再整理し比較するための道具を与えるものにすぎないと論じる。その冷静な立場は、量子情報に哲学的“救済”を期待する風潮に対して重要なバランスを与えている。総じて『Quantum Information Theory and the Foundations of Quantum Mechanics』は、量子情報時代における基礎論の最良の哲学的導入である。実験的成功が続く量子情報科学の背後で、「情報とは何か」「現実をどう記述するか」という哲学的課題が依然として解かれていないことを明示し、科学と哲学を架橋する営みを体現している。読者は本書を通じて、量子情報を単なる技術トレンドとしてではなく、現実理解の鍵をめぐる深遠な問いとして捉え直すことができるだろう。フローニンゲン:2025/9/2(火)13:49


17324. メルヴィンとメモリースポーツについて話をして

      

つい先ほど、親友のメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらった。通常は5週間に1回髪を切ってもらうが、今回はメルヴィンの都合もあって6週間ほどの期間が空いた。秋を感じながら行き道の際にフローニンゲン大学のメインキャンパスの前を通ると、多くの学生たちで賑わっていた。9月を迎えて新学期となり、大学の近辺は活況を呈していた。自分も今から9年前の今頃にメインキャンパスでオリエンテーションを受けていたことがとても懐かしい。あの日から丸9年経ち、10年目の生活が始まって1ヶ月ほどとなる。もしかしたら今年はフローニンゲンで生活する最後の年かも知れず、悔いのない形でこの街で日々を過ごしたいと思う。自らの探究活動と仕事に没頭するのみである。


いつもは午後2時に予約をしているところ、今日は午後3時からの予約となり、メルヴィンは先客の髪を切っていた。彼が去ってから聞いたがどうやらその客はギリシャ人らしく、とても寡黙とのことだった。いつものように散髪前にソファに腰掛けて、お互いの近況を報告し合った。前回から今回にかけての大きな変化として、メモリースポーツへの関心があったので、メルヴィンにそれをシェアした。するとメルヴィンは大いに関心を示し、初めてその競技について聞いたとのことだったが、「ランダムに10個の数字を書いてみて」と私に述べ、それを素早く記憶して10個の数字を完全に再現した。メルヴィンに話を聞くと、2つずつの数字でストーリーを作っていたとのことで、まさにそれはメモリースポーツで必要となる技術の1つだったので驚いた。メルヴィンは同様にランダムの10個の言葉でも同じようにして覚えると述べており、彼は生まれ持ってのメモリーアスリートのように思えた。メルヴィンはディスレクシアを抱えているため、学校教育では高い評価を得ることはなかったとのことだが、色々なことで稀有な才能を見せてくれる。まさにメモリースポーツの素養もまたその一例である。メルヴィンから数年前にもらったトランプのデッキについて感謝の言葉を述べ、IELTSの試験が終わったら本格的に練習に励もうと思っていて、もう1つデッキが必要なので、どこでそれを購入したかを尋ねた。するとちょうど帰り道にある玩具屋とのことだったので、散髪後に立ち寄り、もう1つデッキを購入した。これで52枚のトランプを記憶するための練習の準備が揃った。2つのデッキがあると練習に便利で、1つを暗記用に、もう1つを確認用に使うことができる。すでにメルヴィンはメモリースポーツの才能の一端を発揮しているため、52枚のトランプを素早く覚えてもあまりメルヴィンを驚かせることができないかも知れないが、ここから少しずつメモリースポーツに親しんでいくことが楽しみである。フローニンゲン:2025/9/2(火)16:44


Today’s Letter

Generative AI might change our writing habits. Its nature might evolve, or writing itself might even disappear. I am pondering the function and meaning of writing. Groningen, 09/02/2025

 
 
 

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