top of page

【フローニンゲンからの便り】17288-17292:2025年8月27日(火)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17288

現状の暗号資産の普及率とこれからのシナリオ

17289

今朝方の夢

17290

今朝方の夢の振り返り

17291

量子情報理論について

17292

平坦な宇宙の可能性に思いを巡らせて

17288. 現状の暗号資産の普及率とこれからのシナリオ     


時刻は午前7時半を迎えた。今、小鳥の囀りが美しく辺りに響き渡っている。昨日、日本人のうち約4 %が何らかの暗号資産を保有しているとされる推計を見た。これは日本の総人口約1億2千万人から計算すると、およそ500万人に相当する。インターネット普及の初期段階を振り返ると、日本では1995年頃にWindows 95の発売を契機に一般家庭への導入が進み始めた。当時のインターネット利用者は人口の数%程度にすぎなかったが、それでも「パソコン通信」や「Eメール」といった新しいコミュニケーション手段が一部の先進的な人々を通して社会に登場し、その後の急速な普及を導く布石となった。つまり利用率がまだ一桁台であっても、文化的には「新しい可能性の萌芽」として強烈なインパクトを放っていたのである。同様に、スマートフォンの普及を見ても、2008年にiPhone 3Gが日本で発売された時点での保有率は1%未満だった。しかしその数年後には、都市生活における行動様式やコミュニケーション形態を一変させる契機となり、2010年代半ばにはほぼマジョリティに達した。つまり数%の「先駆者」が日常的に使い始めた時点で、周囲には「新しい便利さ」や「生活様式の変化」の兆候が可視化されていたのである。これを暗号資産に当てはめると、4%という数字はすでに単なる「イノベーター」ではなく、「アーリーアダプター」が存在感を持ち始める水準であると言えるだろう。文化的なインパクトとしては、まだ「誰もが使う」段階には遠いが、ニュースやSNSでの議論、資産形成や投資行動の選択肢の中に確実に入り込み、周囲に「意識させる」存在となりつつある。例えば、インターネット黎明期に「メールアドレスを持っている人は珍しい」と言われていた頃と同じく、「暗号資産ウォレットを持っている人」という属性が一種の識別記号として文化的に意味を帯び始めていると考えられる。さらに興味深いのは、インターネットやスマホが「情報やコミュニケーション」の次元を変革したのに対し、暗号資産は「お金と価値の交換」の次元を変革する可能性を秘めている点である。情報インフラが生活を形づくったように、金融インフラが新たに変わると、文化的影響はさらに深層に及ぶ。まだ4%にすぎないが、これは「文化的地殻変動の前震」の段階に相当すると見ることができるのではないだろうか。結論として、日本人の4%が暗号資産を保有しているという事実は、インターネット普及率が数%にとどまっていた1990年代半ばや、スマートフォンが数%しか使われていなかった2000年代末に匹敵する文化的インパクトを持つと言える。すなわち、今後10年のうちにそれがマジョリティに移行するか否かが、社会的・文化的変容の分水嶺となるだろう。自らの資産形成において暗号資産を保有する割合は多く、自分は今から10年前の2015年の時から暗号資産を保有していることもあり、現状の普及率がどのくらいで、この後のシナリオとしてどのようなことが考えられるのかを一度俯瞰的に考えてみたいと思った次第だ。フローニンゲン:2025/8/27(水)07:47


17289. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、ある有名な日本人の投資家の方が見慣れない街中でスピーチを行う場面に遭遇していた。その方と自分は知り合いでもあり、久しぶりに会ってスピーチ前に軽く話をした。今から行われるスピーチはかなり大々的なもので、多くのメディアも駆けつけており、報道の準備を整えていた。街中には驚くほど多くの人が集まって、その方のスピーチを楽しみにしていた。いざその方がスピーチをするために設計された特別な壇上の上でスピーチを始めると、冒頭で言葉が途切れた。それは決してネガティブなものではなく、その方が沈黙を通じて心の奥から言葉を紡ぎ出そうとする所作に思えた。大勢の人が見守る中、辺りが沈黙に包まれた。すると、沈黙に耐えられなくなった聴衆の1人が野次を飛ばすかのように、その人に何か言葉を発することを強制した。それに対してその方は冷静に対応し、心穏やかな状態を保ったまま、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。語られ始めた真実は聴衆を唖然とさせ、その方は真実を語ることに対して慎重になっていたことがわかった。スピーチが終わると、その方に向かって来る1人の聴衆の姿があった。どうやら語られた真実を確かめたいとのことで、その方はその人物に特設会場として設置された医療施設に案内し、そこで横たわっている人にその聴衆が注射をするように促した。私はその近くにいて、注射をし終えた瞬間にその聴衆が注射器を投げ捨て、それが自分の左腕に刺さった。しかし幸いにも深く刺さったわけではなく、その薬物の効果が発揮されることはなさそうで安堵した。そこから夢の場面が変わり、その投資家の方が見守る中で、自分は総合格闘技の試合を見慣れない室内の中で行うことになっていた。そこでも観客がたくさんいたのだが、試合の途中で幼稚園生の集団が招かれ、幼稚園生に殴り合いの試合を見せていいのかと少し気になった。自分は寝技は得意としておらず、最初から打撃で相手を倒していくことを方針として掲げていた。チーム制で戦うこのトーナメントにおいて、自分が全ての相手を倒して優勝できるという確信的な自信があった。


次に覚えているのは、左ハンドルの外車に乗って見慣れない街のビルの前に駐車した場面である。それは交差点に近い場所で、他の車の迷惑にならないように、交差点からは少し離れたところに車を停めることにした。それはちょうどビルの前で、私は友人がやって来るのを待っていた。友人が近くのカフェで昼食を摂っており、彼を乗せて次の目的地に向かおうとしていた。時間になっても彼が来なかったのでカフェを見に行こうとして途中まで来たところで、駐車しておいた車が気になり、戻ることにした。すると別の友人(HS)が車を運転して交差点の向こうに運んでくれていた。私は横断歩道を渡って車のところに行き、彼にお礼を述べてそこからは自分で運転した。慣れない左ハンドルに少し戸惑いながらも、目的地周辺にやって来た。そこは小さな寺で、寺の近くの駐車場に車を停めようとしたが、そこはとても狭く、車が2台ぐらいしか停めることができなかった。無事に駐車をしたところ、そこは勾配になっていたので、ちゃんとパーキングモードにしておく必要があると思って、助手席にいる友人とちゃんとそのモードになっているかを確認して車を降りることにした。フローニンゲン:2025/8/27(水)08:03


17290. 今朝方の夢の振り返り

                            

今朝方の夢は、外的な評価や資本の論理と、内的真実の声とを統合する臨界点を示すものである。見慣れない街は、既存の枠組みを越えた新たな舞台であり、そこで有名な投資家が登場するのは、自己の中の「価値配分者=何に時間と注意と資源を投じるかを決める機能」の人格化である。その人物がスピーチ冒頭で沈黙したのは、言語化よりも深層からの捻出を優先する姿勢の表明であり、群衆の野次は外部の時間圧力と即時性の暴力の象徴である。沈黙に耐え、なお真実を語り始めた冷静さは、自分が公的空間で発話の責任を引き受ける準備を整えつつある徴候であると読めるかもしれない。医療施設への案内と注射の場面は、語られた真実を検証可能なプロトコルへと落とし込む過程の寓意であり、左腕に浅く刺さった注射器は、受容性と直観の側(左)の境界が保たれ、不要な薬理的影響(他者の規範)が深層に届かない自己防衛が機能していることを示す。総合格闘技の試合は、複数領域の技を統合して現実と渡り合う比喩である。幼稚園児が観客として招かれる違和感は、無垢さを損なわずに闘争の技法を扱えるかという倫理的自問である。寝技を不得手とし打撃で臨む方針は、自分が「絡み取って解く」よりも「核心を突いて切り開く」直線的アプローチを選好していることを示すが、同時にチーム戦での連勝確信は、個の技量に加えて場の力学を読める統率感覚の芽生えを語っている。つまり、自分は攻め筋の明確さと集団運用の勘を併せ持つ局面に差しかかっているのだろう。左ハンドルの外車は、思考と操作系の左右反転、すなわちお馴染みの身体知を入れ替える「学習の不安定帯」への進入を象徴する。交差点近くへの駐車と、友人HSが車を安全側へ移してくれた出来事は、岐路での見えない援助の働きと、リスクの閾値を越えさせる環境調整力が周囲に存在することの確認である。小さな寺は、華美ではないが核心的な価値の祠であり、狭い駐車枠は「焦点化された少数のコミットメント」の必要を示す。勾配のある駐車場でパーキングモードを友人と確認した所作は、変化の斜面で足場を二重三重に確かめる実務的慎重さの表白である。ここには、神聖な目的地に至る直前で、力を荒立てず機構的安全を点検する成熟が見える。総じてこの夢は、自分が公的領域で真実を語る役割へと移行し、その語りを検証可能な実装へと接続しながら、無垢を守る倫理と直線的打開力を両立させる段階に入ったことを告げている。未知の操作系を受け入れ、岐路では援助を受け取り、到達点ではコミットメントを絞り、安全装置を確かめてから進むことが鍵である。人生における意味は明瞭である。すなわち、自分はこれから「資本」と「真実」と「倫理」を同一線上に整列させ、狭いが正しい枠に自らを停め、勾配の中で静かにブレーキを効かせつつ、沈黙から生まれた言葉を世界へ放つ使命を帯びているのだろう。フローニンゲン:2025/8/27(水)08:17


17291. 量子情報理論について

                         

今年の年末から年始にかけては4冊ほどの書籍を出版できるかもしれない。それに加えて、先ほどある有名なオンラインメディアの編集者の方と打ち合わせをし、記事を寄稿することになった。こうした話をいただけることに感謝し、自分にできることに従事して社会に貢献していきたいと思う。


量子情報理論は、量子力学の原理に基づいて情報の表現・伝達・処理を行うことを研究対象とする学際的分野である。従来の古典的情報理論が0と1のビットに依拠するのに対し、量子情報理論は量子ビット(qubit)を基本単位とする。量子ビットは、量子力学的重ね合わせ原理により |0⟩ と |1⟩ の状態を同時に保持することができ、さらに量子もつれ(entanglement)によって複数の量子ビットが古典的には不可能な相関を示す。この特性が、通信・暗号・計算における新たな可能性を開く基盤となっている。理論的基盤の1つは、クロード・シャノンが1948年に確立した古典情報理論であるが、これを量子力学的に拡張したものとして1970年代以降に展開が始まった。初期の重要な貢献者にはチャールズ・ベネットとジル・ブラサールがいる。彼らは1984年に「BB84プロトコル」と呼ばれる量子鍵配送(Quantum Key Distribution, QKD)の方式を提案し、盗聴が物理法則に基づいて検出可能であるという画期的な安全性を示した。これにより量子暗号という応用分野が誕生した。続いて1990年代に入ると、量子アルゴリズムと計算理論において飛躍的な進展が見られる。ピーター・ショアは1994年に大きな整数を効率的に素因数分解する「ショアのアルゴリズム」を発表し、これはRSA暗号など従来の公開鍵暗号を根底から揺るがす可能性を示した。また、ロヴ・グローバーは1996年に大規模データベース検索を二次的効率で行える「グローバーのアルゴリズム」を提案し、量子計算が古典計算を凌駕し得る実例を提示した。これらの理論成果は量子計算機の開発競争を強く後押しし、現在のGoogleやIBMなどの研究プラットフォームに繋がっている。量子情報理論において中心的な概念の1つは「量子もつれの定量化」である。もつれは量子通信や量子計算において不可欠な資源とされ、その「エンタングルメント・エントロピー」によって情報量が測定される。加えて「量子テレポーテーション」と呼ばれるプロトコルは、もつれた粒子対を用いて量子状態を遠隔地に転送することを可能にした。この現象は物質自体ではなく状態を転送する点で革新的であり、量子通信網の基盤技術として研究されている。さらに「量子誤り訂正」も不可欠な要素である。量子ビットは環境との相互作用によって容易にデコヒーレンスを起こし、情報が失われる危険性がある。ピーター・ショアやアンドリュー・スタインらは量子誤り訂正符号を提案し、一定数のエラーまでであれば情報を保持できる仕組みを構築した。これにより「フォールトトレラント量子計算」の可能性が拓かれ、大規模な量子計算機実現に向けた理論的枠組みが整備された。量子情報理論の発展に寄与した研究者としては、ベネット、ブラサール、ショア、グローバーのほか、アシェル・ペレス(量子もつれの基準)、ウィリアム・ウートース(ノークローン定理)、アレックス・ホールデン(量子複雑性理論)らが実証研究をリードしてきた。また近年はウィグナー関数や量子ベイズ主義(QBism)など哲学的含意を持つ理論も議論され、量子情報は物理学の基礎論にも影響を及ぼしている。総じて言えば、量子情報理論は単なる新しい技術ではなく、「情報とは何か」「計算可能性の限界はどこか」「物理法則と情報理論はいかに結びつくか」といった根本的問いに迫る学際的探究である。暗号や通信といった応用的インパクトに加えて、哲学・基礎物理・認知科学との接点も増しつつあり、21世紀の科学と社会を形づくる中心的理論体系の1つとして位置づけられるであろう。この分野も今の自分を強く惹きつけている。フローニンゲン:2025/8/27(水)11:05


17292. 平坦な宇宙の可能性に思いを巡らせて 

               

先ほど散歩がてら、先日注文した30冊ほどの書籍のうちの20冊ほどを近所のショッピングモールの受け取り先の店で受け取った。もう4冊ほどそこに届けられているはずだったが、一度に持って帰れる量に限りがあったので、また明日の午前中にでも買い物と散歩がてらその店に立ち寄りたい。


先日、宇宙の形が「平坦である可能性が高い」ということを知った。その可能性について現代宇宙論が語るとき、多くの人が抱く直感的な困難は「宇宙全体を鳥瞰できないのに、どうやってその形がわかるのか」「そもそも平坦とはどういう意味か」という点にあるであろう。自分もそのような疑問を持っていた。平坦性とは、数学的にはユークリッド幾何学が成り立つということである。つまり三角形の内角の和が180度であり、平行線はどこまで伸ばしても交わらず、ピタゴラスの定理がそのまま成り立つような空間である。私たちの日常世界はほぼ平坦であるように見えるが、地球の表面が実際には球面であり、大きなスケールで見ると平行線がやがて収束するのと同じように、宇宙も大きなスケールで曲率を持つ可能性があるとされてきた。この宇宙の曲率は、風船の表面を例にすると理解しやすいだろう。風船の表面は二次元の閉じた空間であり、そこに住む二次元の存在にとっては果てがなく、まっすぐ進めばやがて元の場所に戻ってしまう。これは「正の曲率」を持つ宇宙に相当する。一方で、サドル型の曲面に広がる二次元世界を考えると、そこでは三角形の内角の和が180度より小さくなる。これが「負の曲率」を持つ宇宙の比喩である。そして最後に、完全に平らな紙の上に広がる世界を想像すれば、それが「平坦な宇宙」に対応する。現代の観測は、この宇宙がほぼ平坦であることを強く示している。特に宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の精密観測が決定的である。CMBはビッグバンから約38万年後に放たれた光であり、宇宙の最古の「写真」とも言える。もし宇宙が大きく曲がっていれば、この光の模様に歪みが生じ、観測される角度分布が異なって見えるはずである。ところが実際に観測されたデータは、ほぼ完全に平坦な宇宙モデルと一致した。これは、私たちの宇宙が「果てしなく広がる平面のような構造」を持つか、あるいは非常に大きなスケールでしか曲率が現れないような巨大な宇宙であることを意味している。ただし「平坦な宇宙」という言葉は「宇宙が板のように薄っぺらい」ことを意味するわけではない。ここでいう平坦とは「三次元空間そのものの幾何学的性質」であり、四次元時空の一部としての空間の曲がり具合を指す。つまり、私たちがどの方向に向かっても同じように広がり、観測可能な範囲で見れば、地平線のように大きな湾曲は感じられないということなのである。イメージとしては、巨大な草原の真ん中に立っている人間を思い浮かべると良い。目に映る地平線は限られているが、その範囲内では地面は平らにしか見えない。同じように宇宙の観測可能な範囲が「平坦」に見えるのであり、それが本当に無限に平坦なのか、それとも非常に大きなスケールで緩やかに曲がっているのかは、現代科学でも未解決の問題である。この「平坦性」はまた、インフレーション理論とも深く結びついている。ビッグバン直後、宇宙が極端な加速膨張を経たと考えると、どのような初期曲率をもっていても指数的な膨張によって均され、結果的に観測される範囲はほぼ完全に平坦に見えるようになる。この理論はCMBの揺らぎパターンや宇宙の大規模構造と整合しており、現在の宇宙論の標準的説明となっている。結論として、宇宙の平坦性を直感的に捉えるとは、私たちの身の回りの「当たり前の幾何学」が、宇宙スケールにおいても成立しているということである。風船の表面やサドルのように大きく曲がった空間ではなく、紙のように広がる世界。その「紙」が有限か無限かはまだ不明だが、少なくとも観測可能な宇宙の範囲においては、私たちはユークリッド的な宇宙に暮らしているのである。これが「宇宙が平坦である可能性が高い」という言葉の意味であり、私たちの直感的理解に引き寄せれば「宇宙の大地は思いのほか真っ直ぐに広がっている」と表現できるであろう。フローニンゲン:2025/8/27(水)16:53


Today’s Letter

The warmth of the world caresses my heart. The depth of reality transcends both kindness and cruelty. Yet I sense a benevolence arising from the very fathoms of this reality. Groningen, 08/27/2025

 
 
 

コメント


bottom of page