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【フローニンゲンからの便り】17202-17206:2025年8月14日(水)



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タイトル一覧

17202

ジョン・フォン・ノイマンの量子哲学と唯識

17203

今朝方の夢

17204

今朝方の夢の振り返り

17205

マックス・ボーンの量子思想と唯識

17206

最後の夏日におけるトレーニングを終えて

17202. ジョン・フォン・ノイマンの量子哲学と唯識

     

時刻は午前6時半を迎えた。今朝はうっすらとした雲が空全体にかかっていて、朝日を拝むことはできない。昨日の気温が31度に到達したこともあって、まだ余熱が若干残っている。そのため、今の気温はすでに20度ある。今日は午前中は曇りがちのようだが、午後からは晴れとなり、気温は今日もまた31度に到達する。明日は27度、明後日は20度まで気温が下がり、そこからはもう随分と涼しい日が続くようである。おそらく今日と明日が夏を感じられる最後となるかも知れない。


ジョン・フォン・ノイマン(John von Neumann)は、20世紀を代表する数学者・物理学者の1人であり、量子力学の数学的基礎づけにおいても重要な役割を果たした人物である。彼の著作『量子力学の数学的基礎(Mathematical Foundations of Quantum Mechanics, 1932)』において、フォン・ノイマンは量子系の状態がヒルベルト空間上の波動関数で記述されることを明確にし、また測定という行為がこの波動関数に「収縮(collapse)」を引き起こすという問題に厳密に踏み込んだ。その上で彼は、量子測定における「観測者の意識」の役割に着目し、物理的装置の連鎖をいくら続けても最終的に波動関数の収縮を引き起こすものは、観測者の「主観的意識(subjective consciousness)」であると主張した。これは、物理的世界が意識に依存して確定されるという、当時としては極めてラディカルな立場であり、「フォン・ノイマン–ウィグナー解釈」とも呼ばれる。この考え方の中心には、世界は客観的に独立して存在しているのではなく、観測=意識の関与によって初めて物理的現象が確定するという、いわば「主観の形而上学」が存在している。フォン・ノイマンによれば、観測者の意識以前には、あらゆる物理的状態は可能性(重ね合わせ)にとどまり、それが「経験」されたときに初めて、特定の結果として顕在化する。この立場は、物理的実在と精神的実在の関係をめぐる哲学的問いを、科学的文脈の中で再定式化するものであり、従来の物理主義的世界観に対して深い問題提起を投げかけた。このようなフォン・ノイマンの量子哲学は、仏教唯識思想において展開される「識が世界を構成する」という基本命題ときわめて親和性が高い。唯識思想、特に瑜伽行派においては、すべての現象は「識」、すなわち意識の働きによって生起するものであり、物質的世界や客観的現実は、根源的には「識の変化」でしかないとされる。唯識の理論体系は、「識が対象を映す」のではなく、「対象そのものが識によって構成されている」という強い構成主義的認識論に基づいており、この点で、意識の作用が物理的世界の現前に決定的であるとするフォン・ノイマンの立場と一致する。特に、唯識における「八識」の教え、すなわち表層の五感的意識・思考・自己意識・阿頼耶識(深層的な潜在意識)という階層構造は、量子測定における観測者の意識の「深み」とも対応しうる。フォン・ノイマンが想定する観測者の意識は、単なる生理的反応ではなく、意味づけや解釈を可能にする意識の核心に位置するものであり、唯識でいうところの「第七識(末那識)」や「第八識(阿頼耶識)」に相当する深層的働きを仮定していると捉えることができるだろう。また、フォン・ノイマンが波動関数の収縮を、物理的プロセスではなく「主観的意識の介在」によるものとした点は、唯識における「業(カルマ)」と「識の展開」との関係にも対応する。すなわち、唯識においては、阿頼耶識に蓄積された過去の業(潜在的傾向)が、外界として顕現する現象を条件づける。これは、観測以前には多様な可能性が重ね合わされており、意識の介在によって1つの現象が選ばれて世界が「確定」するという、量子力学の観測問題と極めて似通った構造を持っている。フォン・ノイマンの量子哲学が提示する「意識の介入によって世界が形を取る」というモデルは、唯識における「唯識所変」——すべては識によって変化し、構成される——という原理と重なり合いながら、現代物理学が直面している実在論的ジレンマに対して東洋的視座からの補助線を引くものとなっている。つまり、彼の提案する世界像とは、観察されない限り未確定の「空」のような状態にあり、認識がその「空」に形式と意味を与えるという、まさに縁起的宇宙論に他ならない。結論として、ジョン・フォン・ノイマンの量子哲学は、意識と現象の関係に関する深い直観を含み、それは唯識が古代から説いてきた「心が世界を作る」という洞察と高度に共鳴している。両者はともに、「物質の背後に心がある」のではなく、「物質こそが心の現れである」という逆転的構図を採ることで、現代世界が求める統合的な宇宙観の土台を提供しているのである。フローニンゲン:2025/8/14(木)06:47


17203. 今朝方の夢

    

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の体育館にいて、これからバスケの紅白戦をすることになっていた。その場にいたのは小中学校の友人たちだけではなく、『黒子のバスケ』の登場人物たちもいた。現実世界の人物とアニメの登場人物たちが混じり合う中でのバスケに何の違和感もなく、両者は等しい存在に思えた。試合開始前に、センターサークルで誰がジャンプボールを担当するかをそれぞれのチームがじゃんけんで決めた。通常は1番背の高いセンターの選手がジャンプボールを務めるのが当たり前だが、なぜかその試合ではそうはならず、ジャンプ力が1番高い選手が一旦センターサークルに立ったものの、仕切り直しとなり、じゃんけんで決めたほうが面白いのではないかとなった。さらには、じゃんけんで勝った人がセンターサークルに立つのではなく、負けた人がそこに立つことになった。結果的に、私は最後の2人となり、友人にじゃんけんで負けたのでジャンプボールを担当することになった。いざ試合が始まってみると、確かにその場には優れた特殊能力を持った人たちばかりがいたが、彼らの能力を圧倒的に上回る能力が自分にはあった。最初自分もその能力の使い方がわからないぐらいで、試しにフリースローラインから飛んでみると、余裕でダンクができたので、直感的にスリーポイントシュートのラインからもジャンプしてダンクができそうだと思ったのでやってみたところ、見事にダンクが決まった。自分のジャンプ力は尋常ではなく、その能力を使って無双し、最初こそ負けていたが、最終的には1点差で逆転勝利した。そのような夢を見ていた。


もう1つ覚えているのは、見慣れない近未来都市で、小中学校時代の3人の親友(SI&YU&NK)と会っていた場面である。厳密には、親友のうちの1人が外見がモダンアートのような高層ビルの屋上で高級車を借りようとしており、残りの私たちは彼に便乗してその車に乗せてもらおうと思った。3人とも滅多に乗ることのできない最先端の高級車に関心があったのである。最初、車を借りようとしている友人は自分がその場にいることを知らず、2人の親友のうち片方が彼に電話をかけたところ、自分がいるのであれば全員乗せてあげてもいいと述べた。有り難いことに、彼は自分に特権を与えてくれており、その自分がいれば他の2人も車に乗れることになった。彼が向かっている高層ビルは一目瞭然で、私たち3人は遠くからそのビルを眺めていた。いざそのビルの1階に到着すると、表口ではなく裏口から中に入ることにし、入ってみると、そこは建設現場のようでもあったし、アンダーグラウンドの研究所のようにも思えた。私たちは平然と中に入ってエレベーターを探し始めたところ、最初こそそこで働いている人たちは特に不信感を持っていなかったが、突然不信感を持ち始め、私たちを捕まえようとしてきた。なので私たちは走り出し、エレベーターがあるであろう場所に急いで向かった。しかし、1階はだだっ広く、しかも入り組んでいたので、なかなかエレベーターに辿り着かなかった。なんとかエレベーターの入り口が見えた時、2人の親友は自分よりも幾分後ろを走っていて、仮に彼らを待ってエレベーターに乗ると自分も捕まってしまいそうに思えたので、彼らを置いて自分だけが先に行くのか、それとも彼らを待つかを悩んだ。脳内でシミレーションした時に、2人を待って、追っ手が仮にエレベーターの中まで入ってきても自分なら彼らを撃退できると思ったので、2人の親友を置いてけぼりにするのではなく、彼らを辛抱強く待つことにした。フローニンゲン:2025/8/14(木)07:06


17204. 今朝方の夢の振り返り

    

今朝方の夢は二重の上昇譚に思える。第一幕の体育館は、思春期の自己が鍛えられた原点のアリーナであり、現実の友人と『黒子のバスケ』の登場人物が自然に共存することは、記憶と想像、過去と可能性が同一平面でプレイ可能になった徴である。超常的能力の世界観が日常的人間関係に等置されることで、他者も自分も潜在的に“能力者”として読まれ直す。ルールの逆転――ジャンプ力でも背の高さでもなく、じゃんけんで、しかも負けた者がジャンプボールを担う――は、資格の基準を実力主義から偶然と敗北の受容へ移し替える通過儀礼である。敗者として中央に立つことは影の側面を公に引き受ける宣言であり、そこから始まる跳躍が常識の重力を無効化する。フリースローからのダンク、続いてスリーポイントからのダンクは、境界線が心理的契約にすぎないと見抜いた瞬間の身振りであり、能力の“正しい使い方”は外部の権威ではなく身体の直観が決めるという宣言である。序盤の劣勢から1点差の逆転へ至る軌跡は、力による圧勝を拒み、物語としての最小差分で世界の意味を書き換える美学である。ここで獲得されたものは単なる優越ではなく、遊びながらルールそのものを再設計できる主権である。第二幕の近未来都市は、未だ建設途上の自己像の外化である。屋上の高級車は加速された人生経路のメタファーであり、自分の存在が他者の乗車条件になる場面は、自分が鍵そのものであるという社会的象徴である。表口を避け裏口から入る選択は、規範的手続きではなく創発的入口を選ぶ気質を示すが、内部でスタッフが突然不信に転じるのは、無意識の免疫系が特権的通過を拒む自己防衛である。迷路のような一階は地表意識の拡散、エレベーターは垂直的統合への通路である。ここで自分は、単独で先に上がるか、友を待つかという倫理的加速度の問題に直面し、内的シミュレーションののち待つことを選ぶ。第一幕で得た超越は、第二幕で「守る力」へと変換され、上昇の資格が共同性の配慮によって裏付けられる。追っ手がエレベーターに侵入しても撃退できるという確信は、力と慈恵の同居であり、スピードより関係を優先する統治感覚である。両幕を貫く主題は、中心に立つことと上へ運ぶことの2つの運動である。前者は敗北の承認から始まる中心化、後者は裏口からでも到達する上昇である。現実と虚構、規範と偶然、個の力と仲間への配慮が等価として混成されるとき、人生のゲームは権威の審判から離れ、自分自身が審判笛とボールの双方を持つ遊び場へと変わる。夢は、勝つことよりもルールを再発明すること、速く昇ることよりも共に昇ることを、今の自分に促しているのだろう。フローニンゲン:2025/8/14(木)07:21


17205. マックス・ボーンの量子哲学と唯識 

     

マックス・ボーン(Max Born)は、量子力学の創成期において中心的役割を果たした物理学者であり、特に波動関数に確率的意味を与えた功績によって知られている。彼は1926年、シュレディンガーの波動方程式において登場する波動関数(ψ)の絶対値の二乗、すなわち |ψ|² を「粒子がその位置に存在する確率密度」として解釈することを提唱し、量子力学に確率論的枠組みを導入した。この「ボーンの確率解釈」は、古典力学における決定論を根底から覆し、量子世界の本質を「可能性のゆらぎ」に置くものであった。ボーンの思想の中核には、自然界が本質的に「確率的な構造」を持つという観念がある。彼にとって、波動関数は単なる計算ツールではなく、「可能性の波」を表すものであり、観測行為によってその波は「現実という一点」に収束する。重要なのは、彼がこの確率的世界観を単なる無知の表れ(古典的確率論)としてではなく、「自然そのものの根源的性質」として捉えていた点である。つまり、世界は客観的に1つの確定的状態として存在するのではなく、潜在的可能性の重ね合わせとして存在し、観測という行為によってはじめて現象が確定する。ボーンはこの点において、「現実とは確率的な構造の顕在化にすぎない」という、従来の物理的実在観とは一線を画す哲学的視座を確立した。このボーンの量子哲学は、仏教唯識思想と深い対話の可能性を秘めている。唯識とは、「すべては識(意識)の顕現であり、外界の実在性は究極的には否定される」という立場を取る仏教形而上学である。その中でも、私たちが経験する世界は「遍計所執性」として、誤認された投影にすぎず、その背後には「依他起性」すなわち条件によって生起する縁起的現象があるとされる。そしてこの依他起性は、固定的な実在ではなく、常に変化と因縁によって成り立つ「可能性の連関」として理解される。この点において、ボーンの確率解釈は、唯識が説く「未定性」「非実体性」「縁起性」といった根本思想と顕著に響き合う。ボーンが波動関数を「可能性の波」と呼ぶように、唯識においても現象は「因縁に応じて顕現する一時的構造」にすぎない。そして、唯識が説く「識の作用によって世界が構成される」という命題は、ボーンの見解と驚くほど一致する。すなわち、世界は「あるがままに」存在するのではなく、識(観測)の関与によって「そうであること」が定まる。また、ボーンの視点は、唯識における「阿頼耶識」の教義とも重なる。阿頼耶識はあらゆる経験の種子を潜在的に含んでおり、それが条件に応じて現象として顕現するという思想である。これは、量子論における「潜在的可能性の場(波動関数)」が、観測という条件のもとで「現実という果」となる構図と相同である。すなわち、唯識における種子とは「確率的に配列された可能性の種」であり、そこから現象が現れるとは、ボーンが語る「確率的構造の収束」と構造的に等価であると言える。加えて、ボーンの量子哲学は、「決定論的世界観からの解放」という意味においても、唯識の「空」の思想と接続可能である。唯識において「空」とは、あらゆる存在が固有の本質(自性)を持たず、縁起によって一時的に現れているということを意味する。ボーンの確率論的自然観は、まさにこの「無自性」の現代的翻訳とも言えるだろう。つまり、存在は固定された実体ではなく、確率的・縁起的な「顕現の連鎖」である。結論として、マックス・ボーンの量子哲学は、物質的世界の本質を「確率と可能性」に置くことで、唯識が説く「識と縁起による構成的宇宙観」と驚異的な一致を見せている。両者に共通するのは、「現実とは意識と条件が交差する場所において初めて成立する」という構造的な洞察であり、それは現代科学と仏教哲学が互いに照らし合いながら、より深い実在理解に到達しうることを示唆している。フローニンゲン:2025/8/14(木)09:59


17206. 最後の夏日におけるトレーニングを終えて

                                  

時刻は午後5時を迎えようとしている。今、見事な夕日が輝いている。今日は午前中こそ曇っていたが、午後からは雲ひとつない晴天となり、気温は31度を超えた。ここからの10日間の天気予報を見ていると、どうやら今日が最後の夏日であり、確かに明日も26度となるが、それくらいの気温であれば暑く感じることは全くない。明後日からはもう20度に気温が下がり、それ以降も19度から22度の間で気温が推移する。おそらく最後の夏日であろう今日は午後にジムに行き、パーソナルトレーニングを受けてきた。夏日であるにもかかわらず、ジムにはいつも通り人がいて、それぞれが思い思いに体を鍛えていた。70歳を過ぎた知り合いのキャロルもいて、彼は自分が到着した際にはランニングマシーンでウォーミングアップをしていた。今日は暑さのため、最後の15分間は普段のようにサーキットトレーニングをすることはなく、その代わりに幾つかのメニューを組み合わせたトレーニングを行った。60分間のトレーニングの中で、仮にサーキットトレーニングを行わなくても心肺機能を鍛えることができるような内容であった。今日もまたこれまで取り組んだことのない新しいメニューがいくつかあり、それらのうちいくつかは今後自主トレーニングの中にも組み込んでいきたい。トレーナーのエリーザから、今度のHYROXはオフィシャルのものではないが、内容は完全に同じなものがフローニンゲンで9月14日に開催されると聞いた。ちょうどIELTSの試験1週間前にあたり、今参加するかどうかを考えている。仮にそれに参加しなかったとしても、オランダにいる間に1回はHYROXに参加したい。ユトレヒトでの開催はとても人気が高く、10,000人以上がウェイティングリスト状態とのことである。エリーザ曰く、ユトレヒトはオランダの中心であり、同時に隣国のベルギー、ドイツ、そしてフランスからもアクセスがいいので、申込者が必然的に多くなるそうだ。その他にも、アムステルダムやロッテルダムでの開催もあるが、せっかくなのでゲントなどのベルギーの都市で開催されるHYROXに1度参加してみたい。いつどこで開催されるものかは未定だが、ものは試しに参加してみると、学びの多い良い体験になるのではないかと思う。フローニンゲン:2025/8/14(木)16:59


Today’s Letter

Silence is essential for my life. Even if I am surrounded by noise, I can easily find serenity within myself. Tranquility pervades my existence at all times. Groningen, 08/14/2025

 
 
 

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