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【フローニンゲンからの便り】17183-17186:2025年8月11日(月)


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タイトル一覧

17183

最後の夏日に向けて/IELTS対策の進展

17184

今朝方の夢

17185

今朝方の夢の振り返り

17186

今朝方の夢のさらなる振り返り

17183. 最後の夏日に向けて/IELTS対策の進展

   

時刻は午前6時半を迎えた。今日から新たな週となり、今日もまたここ数日間と同じく、早朝の空はとても穏やかで優しげである。今の気温は12度と低く、換気のために2階の両側の窓を開けていると、冷たい風が入ってくる。とは言え今日は25度まで気温が上がるようである。明日から4日間は25度を超える気温となり、明日は28度となり、明後日は珍しく真夏日の気温である32度を記録する。その翌日も30度に到達するようで、金曜日はまた26度に落ちて、土曜日は21度まで気温が下がる。月間天気予報を眺めてみても、今週の真夏日と夏日の数日間が最後のそれとなるだろう。そう思うと、とりわけ30度を超えるような真夏日であっても有り難さを感じ、十分楽しめるのではないかと思う。結局今年も昨年と同じく冷夏であったと結論づけられそうである。個人的に夏は涼しいに越したことはなく、クーラーや扇風機を一切使うことなく、自然な形で過ごすことは体調にも望ましいであろうし、何より知的生産活動に暑さは大きな影響を与える。そうした心配がないというのはとても恵まれたことである。


今日もまたIELTSの対策に力を入れていく。午前中一杯はその対策に時間の全てを充てることができる。午後に1件オンラインミーティングがあり、それがいつもジムに行く時間と重なっているので、今日はジムに行くことはせず、自宅でトレーニングをしようと思う。自宅でのトレーニングは汗をかかない程度に、大臀筋や大胸筋などの大きな筋肉に焦点を当てて鍛えていくことにする。ちょうど今週の木曜日はパーソナルトレーニングがあるので、それに向けて少し体に休養を与えることも重要だろう。自宅で軽めに鍛える前に、近所のオーガーニックスーパーに出かけて必要な食材を購入して来る予定である。今日のIELTSの対策の焦点もまたいつものようにライティングとスピーキングである。ジムに行かない日はリーディングやリスニングの問題も解いて形式に慣れている最中で、それを9月まで続けていくと、形式に慣れることは十分な状態にあるだろう。そこから実践形式で、本番と同じ時間制限の中で模擬試験を解いていくことを行っていく。リスニングとリーディングの問題を両方解いて復習するのは時間がかかるであろうから、曜日を変えて交互に問題を解くようにしたい。一方のライティングとスピーキングは基本的に毎日1セット本番と同じ形式で問題を解くようにしたい。すでにスピーキングについては今もそれを行なっている。ChatGPTを活用すると、ライティングに関しては驚くほど正確な採点をしてくれ、フィードバックも実に的を射ている。Voice Chat機能を使って、スピーキングに関しても最高得点の9のモデルアンサーを自分の回答をもとに話してもらうことはとても有益である。自分の表現がより洗練され、自分が話す傾向にあるトピックに対して表現を肉付けしてくれるのがとても良い。9月中旬の試験本番まで、ゲーム感覚で対策を楽しめそうで何よりである。この1ヶ月半ぐらいは、学術探究から少し距離を取り、ある種のサバティカルのような時間として、IELTSに集中したい。フローニンゲン:2025/8/11(月)06:48


17184. 今朝方の夢

   

今朝方は夢の中で、地上数百メートルの建設現場のクレーンのような設備の上にいた。そこは東京タワーよりも高い場所で、現在地から地上を見るとその高さが一目瞭然で、少し恐怖感があった。そんな場所で私は、近くにいた数人の人と話をしていた。私たちは1人1人区画化されており、それぞれ存在する場所が決めれていた。下手に立つと風で下に落ちてしまいそうだったので、全員中腰かその場に座り込んでいた。今から1人ずつ小さなカゴのようなものに乗って、下に降りていくことになった。私は2番目で、3番目の後ろには小中高時代のある友人(YU)がいた。彼の後ろには顔の見えない見知らぬ男性がいて、彼がその友人の背中を少しずつ押してきて、私は危うく反対側に落ちそうになった。とても危険な状況に立たさせていると思ったので、私は友人を押し返す形で元の位置に戻ろうとした。しかし、お互いの力が拮抗していて、ピタリとも動かなかったので、私は手元にあった長い直方体の硬い木材でその男性の頭を叩いた。最初は少し軽めに叩いたが、それでもその男性が怯んで後ろに下がらなかったので、思いっきり頭を叩き始めた。もう彼が死んでしまうのではないかというぐらいに頭を叩いたところ、ほぼ元の位置に戻ることができ、彼はそれ以降押してくることはなかった。先頭の友人が最初に地上に降りていく姿を見ていると、途中までは気圧差を考慮してゆっくりなのだが、最後の100mぐらいは一気に地上に降りていく様子を見て幾分恐ろしくなったが、早く地上に降りたい気持ちもあったので自分も意を決して下に降りていくことにした。


次に覚えているのは、見慣れない大型スーパーの屋上にいた場面である。そこで見知らぬ男性1人と女性3人と話をしており、話が終わったので1階の食品売り場に行って昼食を買いに行くことにした。屋上での話題の中で体力と食事の関係性について取り上げており、屋上のドアから階段を降りていく際に、4人のうちの男性と引き続きそのテーマで話をしていた。いざ生鮮食料品売り場に到着すると、そのスーパーが提供している食材はどれも新鮮でとても美味しそうに思えた。その男性は肉を食べることを私に勧めたが、自分は基本的にベジタリアンなのでその勧めを断り、しかし魚介類がとても美味しそうに思えたので、その日はペスカタリアンになって海鮮丼を食べようと思った。ちょうど自分で具材を選んで海鮮丼が作れるようになっていたので、種々の魚介類を選んでいった。すると途中で同じく海鮮丼を作っている大学時代のある女性友達と遭遇した。彼女と魚介類の豊富さについて改めて話をしていると、彼女の5歳になる子供の話となった。子育てが大変だという話を彼女から聞いていると、会計の場所に辿り着いた。プラスチックの容器に入れた魚介類を会計にいた中年女性に見せると、海鮮丼は丼に具材を入れないといけないとことで、その女性は自分が取った具材を入れたプラスチックの容器をサッと回収し、廃棄しようとした。私はそれはとてももったいないことだと思い、容器から丼に移すと主張したところ、その女性は聞く耳を持たずに具材を捨てようとした。私はその女性を止めるために、大きな声で呼び止めた。最初は丁寧な言葉で、しかし彼女は一切こちらの言葉に耳を傾けなかったので、幾分汚い言葉で大声を出して彼女を止めようとした。その瞬間に夢から覚めた。フローニンゲン:2025/8/11(月)07:06


17185. 今朝方の夢の振り返り

     

今朝方の夢は、二幕構成で「高所からの着地」と「形式と実質のせめぎ合い」を通じて、自己の境界を再編する過程を描いている。最初の場面は、東京タワーを超える高さという極端な抽象空間である。建設現場という語は、いま進行中の自己更新を示し、区画化された足場は社会的役割や自ら課した規律の「割り当て」を象徴する。風に煽られぬよう中腰でいる姿は、飛躍と転落の間で重心を探る慎重さであり、個別のカゴで順に降りる段取りは、集団から一歩抜けて自分のペースで現実へ降ろしていく個別化の覚悟を表す。顔のない男性は、名指せない圧力—評価、慣性、規範—が背後から押してくる像であり、旧友の背を介して迫るところに、過去の関係性が現在のポジションを脅かす構図が見える。直方体の木材で頭部を叩く行為は、感情ではなく直線的で硬質な論理(木の梁=構造)で圧力の源—思考や信念の部位—に境界線を引くことである。暴力性への戸惑いは残るが、「落ちないために必要な強度」を発動した結果、原位置を回復している。高低差に配慮してゆっくり降り、最後の100メートルで加速する描写は、変化が閾値を越えると着地直前に事態が一気に具体化する予感であり、恐れと早く降りたい衝動が同居する現在地を言い当てているのである。次の場面は、すでに高層ではあるが屋上という生活圏の延長に移り、話題は体力と食事へと一挙に具象化する。スーパーは選択可能性の豊穣さであり、自作の海鮮丼は自らの資質を吟味して組み合わせる「自己配合」の比喩である。肉食の勧めを退けつつ、ペスカタリアンとして柔軟に摂る判断は、理念の純粋性と身体の要請の間で現実的均衡点を見つける運動である。大学時代の友人と5歳児の話題は、生成とケアの次元の立ち上がりを示し、自己の力を「誰かを育てる力」へ変換する方向性を暗示する。そして会計での衝突は、この夢の核心である。丼という「正しい形式」に具を移せという規範は、内容の価値より手順の正統性を優先する制度の顔であり、せっかく選んだ新鮮な具材を廃棄しようとする所作は、創造的配合が標準手続きによって無効化される危機である。はじめ丁寧語で制止し、ついには大声と汚い言葉に至るのは、第一幕で木材が担った境界防衛の力能が、第二幕では「声」として立ち上がる変奏である。すなわち、自分は内容を守るために形式へ異議申し立てを行う準備が整っており、それはもはや転落回避のための反射ではなく、資源の浪費を許さない倫理と自己決定の主張へと翻訳されつつあるのである。総じて、この夢は高所の抽象から生活の具体へ降りるプロセスで、背後の無名の圧力に対して構造的に境界を引き、次に制度の形式主義に対して内容の豊かさを擁護するという二段の通過儀礼を示す。最後の100メートルの加速感は、近く到来する実装段階の切迫を告げる。同時に、防衛の強度を「叩く」から「語る」へ洗練させよという教訓が含まれている。自分が選び取った具材は、すでに十分に新鮮である。棄却を迫る声があっても、丼の形に従うためではなく、自分自身の配合として堂々と盛り付ける時期に来ているのだろう。フローニンゲン:2025/8/11(月)07:29


17186. 今朝方の夢のさらなる振り返り

                                  

IETLSの朝の対策がひと段落したところで、再び今朝方の夢を振り返っている。最初の場面の「高さ」は、自分が現在立っている抽象度と可視性の水準を象徴しているのかもしれない。地上の諸相から大きく離れ、全体を俯瞰しつつ自分の構想を組み上げる地点であり、建設現場という舞台は、思索や仕事、対人関係の運用原理を今まさに再設計している過程を示す。そこには割り当てられた区画という役割の枠があり、風は環境変動と世評の流れである。恐怖は単なる高所恐怖ではなく、「その高さにふさわしい責任と露出に自分が耐えうるか」という核心に触れている。高所は視界の広さと同時に失敗の可視化も増大させる。落下への怖れは、成果がまだ形になる前に外圧や偶発によって足場を失い、築いてきた位置から退かされる可能性への怖れである。顔のない男性が旧友の背を介して押してくる像は、匿名化された規範や慣性が過去の関係ネットワークを通じて現在の自分を動かそうとする力であり、恐れていたのは「自分で決めた重心を他者にずらされること」であったのだろう。直方体の木材という構造物で他社の頭部を打つ描写は、感情的反応ではなく、原理・論理・設計図という硬い規準を用いて、圧力の源に明確な境界を引いたことの表象である。さらに、降下が最後の百メートルで加速する手触りは、長く練ってきた抽象が実装直前に一気に現実化する局面への身構えであり、「もう戻れない速度」に対する畏れと期待の同居を示す。後半の「丼」は、抽象を生活と社会に供するための器=フォーマットを象徴している。自分にとってそれは、研究や執筆、講座、事業計画、あるいは日々の作法のように、内容を受け止めて他者と共有可能にする枠組みである。器があるからこそ配合は意味を持ち、しかし器の規範が内容を凌駕すると創造性は毀損される。会計で容器ごと廃棄されそうになる場面は、「正しい手順」や制度の都合によって、せっかく選び取った生きた内容が無効化される危機への抵抗を物語る。自分が大声で制止するのは、第一幕の木材が声へと洗練された形で再登場したものであり、「形式のための形式」ではなく「内容のための形式」を選び取る意志の表明である。丼の具材は、現在の自分が使える資源と資質、そして一日を構成する具体的実践の断片を表している。魚介の鮮度は、今まさに生命力を帯びている関心・概念・方法・人間関係・身体感覚の新しさであり、肉を勧められても原則を保ちつつペスカタリアンへと柔軟に振る舞う選択は、価値一貫性と適応性の両立を示す。自作の海鮮丼は、借り物ではない自家製の統合であり、学術的関心や精神的修養、仕事の技法、生活リズム、協働相手を自分の配合比で盛り付ける行為である。友人とその子の話題は、蓄えた力を生成とケアへ振り向ける方向を示し、具材の豊富さは多元的な自己を抱きとめる器の必要を逆照射する。ゆえに今の自分にとっての課題は、器の規範に従属することではなく、器を自分の目的に従属させることであり、選び抜いた具材を捨てさせず、自分自身の丼として堂々と供することである。最後の加速が近い今こそ、叩く強度を語る説得に移しながら、形式を内容の召使いへと躾ける段に来ているのかもしれない。フローニンゲン:2025/8/11(月)10:51

 
 
 

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