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【フローニンゲンからの便り】17170-17173:2025年8月8日(金)



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タイトル一覧

17170

秋の気配を感じながらIELTS対策を楽しんで

17171

今朝方の夢

17172

今朝方の夢の振り返り

17173

マックス・プランクの量子哲学と唯識

17170. 秋の気配を感じながらIELTS対策を楽しんで

                           

時刻はゆっくりと午前7時に近づいている。昨日と同様に、今朝方も朝から穏やかな朝日が顔を覗かせている。来週は少し気温が上がる日が続き、夏らしさを感じられるだろうが、昨日ジムに向かっていると、その行きと帰りに、どこか秋らしさを感じた。それは太陽の光の感じと風の感じから得た直感であった。暦の上ではまだ8月前半であるが、季節は着実に秋に向かって進んでいる。夏日や真夏日がほとんどないとても穏やかな夏の姿は、自分の日々の心の状態を表しているかのようである。


今日もまたIELTSの対策に十分に時間をかけたいと思う。当初は、唯識や量子論哲学の探究をしばらくペースを落とすことに残念な気持ちがあったが、いざ対策を始めてみると、それがまるでゲームのように楽しく感じられ、またライティングやスピーキングの対策そのものが意義があり、同時にChatGPTを使いながらの訓練に楽しさを感じていることもあって、決してネガティブな気持ちではない。むしろ1ヶ月半ほど学術研究のペースを落とすことは良い休息となり、試験後再び探究に戻って来た時に大きな実りをもたらすのではないかと感じている。夏の間はサバティカルと思って、学術研究のペースを落としながらIELTSの対策を思う存分に楽しみたいと思う。本当に試験対策がゲームのように楽しく感じられていることもあり、毎朝起床すると今日もまたIELTSの対策ができるのだと思って嬉しくなる。就寝に向かう時もまた同じような気持ちであり、その日の充実した対策を振り返り、満足気な気持ちになって、明日の対策を楽しみにして眠りにつくという日々が続いている。こうした形で対策そのものに意義と面白さを見出せば、自ずと良い結果がついてくるだろう。前回の試験では、リスニングで思わぬミスをいくつかしてしまったので、それらを防ぐ対策をしっかりとし、形式にはしっかりと慣れておきたい。ChatGPTのVoice Chat機能を使えば、意外と取りこぼしの可能性がある数字やアルファベットの問題の対策もできるのではないかと思うので、工夫してVoice Chatを活用してみようと思う。今回は特にChatGPTをフル活用して、前回とは比べ物にならないほどにしっかりとスピーキングとライティングの対策をする。ChatGPTのライティングの採点は、実際の公式サイトの採点とほぼ完全に合致していることが実験を通じてわかったので、自分の回答が9.0に到達できるように表現を絶え間なくブラッシュアップしていきたいと思う。フローニンゲン:2025/8/8(金)07:02


17171. 今朝方の夢 

                       

今朝方は夢の中で、大学のOB・OG会に参加していた。雰囲気の良いレストランを貸し切り、様々な卒業年度の方たちと交流を深めながらその場を楽しんでいた。私のテーブルでは焼き肉が振る舞われ、自分は何切れかの小さな肉と6つの椎茸を焼いていた。普段はベジタリアンの自分もその日は肉を食べてみようか考えながら、やはりそれらの肉はテーブルにいる人たちにあげようと思った。その代わりに、6つの椎茸は自分で食べようと考えた。肉をひっくり返し、裏面もしっかりと焼こうとしている時に、目の前の席の人が自分が食べようと思っていた椎茸に手を伸ばした。それを見て私は、その椎茸は自分のものだと主張しようと思ったが、6つも椎茸を食べるのは多いような気がしたので、1つをその人に差し出した。


次に覚えているのは、実際に通っていた小学校のグラウンドでサッカーをしようとしていた場面である。その日は休日だったが、グラウンドに到着してみると、小学校の先生ではなく中学校時代にお世話になっていた先生たちがいた。先生たちは、迫っている運動会に向けてグラウンドで準備をしていた。私は数人の友人たちとサッカーがしたかったのだが、グラウンドで先生たちが準備作業に追われているため、サッカーができないと思って残念だった。すると、中学校時代の体育の小柄な先生が、自分たちを邪険に扱い、グラウンドから出ていくことを命じた。その先生はかつても、卒業生の自分たちが中学校のグラウンドで遊んでいることをよく思わず、その場から立ち去ることを命じて来たことを思い出した。そもそも公立学校の校庭は公共財であり、市民に開かれているはずのものである。先生はそのことをおそらく知らない無知な人間なのだろうと思った。私は幾分感情に任せる形で、先生の無知さを指摘し、グラウンドは公共の場に開かれていることを主張した。その際に、体育教師全般を否定するかのようなことも述べた。そして法律に詳しい父に電話をして、父は市長とも繋がりがあったので、市長に繋いでもらって事情を話し、先生の主張が間違っていることを証明しようと思った。実際に電話越しで市長と話をさせてもらえることになり、嬉しく思ったのだが、電話の向こうには自分が知っている市長はおらず、これまた無能な感じの中年男性が電話の向こうにいた。その市長と名乗る男性も、先生と同じく、公立学校の社会的な位置付けがわかっておらず、知識もなければ頭の回転も遅いこともあり、埒があかないと思って電話を切った。その時に私はまた感情に任せて、「市長、あなたも無能だったのですね。どうもありがとうございました」と誹謗と皮肉を交えた言葉を述べた。最後の頼みは父かと思い、公共性という概念を持たない教師、そして生徒たちの自主的な活動を抑圧しようとする教師について自分の考えを伝え、父から先生に何か一言を言ってもらおうと思った。父を除けば、なぜ自分の周りには自分よりも圧倒的に低い知性を持つ人しかいないのだろうかと反芻させられ、それも何か使命がそこにあり、宿命なのだろうかと思った。


もう1つ覚えているのは、2人の見知らぬ俳優がコンビを組んで歌のコンテストに出場している場面である。私は目撃者の意識としてその場面を眺めていた。彼らの歌唱力は高かったが、結果的に予選敗退となった。その結果を受けて男性は、女性にキッパリと諦めがつくように、わざと2人の相性は0%だと述べた。実際にはその真逆で、審査員と観客たちの評価は2人の相性は100%だった。その光景を目撃している自分からすると、仮に来年挑戦すれば、きっと彼らは1番を取れるだろうと思った。フローニンゲン:2025/8/8(金)07:20


17172. 今朝方の夢の振り返り

              

今朝方の夢の構造と内容は、主体の深層における「関係性」と「公共性」、そしてそれらに対する倫理的姿勢と内的葛藤を象徴的に表現している。それは単なる過去の回想でも未来の予兆でもなく、自己の在り方に対する問い直しの形式として夢に現れている。まず第一の場面——大学のOB・OG会における焼き肉と椎茸のエピソード——は、「自己の信念」と「他者との調和」の間にある繊細な倫理的バランスを描き出す。ベジタリアンとしての自己アイデンティティが一方にありながら、肉を焼くという行為に身を置いている時点で、その信念に対する一時的な揺らぎが示唆されている。だが結局肉は他者に譲られ、自己は椎茸を取るという決断を下すことで、自らの信条に忠実であろうとする内的な整合性が回復される。この場面は、「個人的価値」と「他者との共有」の葛藤における折衷的な倫理決定の象徴である。さらに、椎茸を6つ焼いていたことは、陰陽思想における「六根」や仏教的な「六波羅蜜」など、自己完成に必要な要素の象徴と見ることもできる。そのうちの1つを他者に差し出すという行為は、自己完成の過程において「利他性」や「分かち合い」を選ぶことの意味を語っている。つまりこの夢の第一場面は、「自己にとって何が本当に大切なのか」という問いに対して、「共有によって保たれる個」の在り方を描いているのである。次の小学校のグラウンドの場面では、時間と制度に対する葛藤が中心に置かれている。舞台はかつての学び舎でありながら、登場するのは中学校時代の教師たちであり、場所と記憶の交錯が生じている。この混在は、「個人の自由な活動」と「制度的な制限」との間の緊張を暗示している。夢の中の自分は、自らが成長し、合理性や知識を得た存在であると認識しつつも、それを理解しない教師や市長といった「制度の顔」と対峙せざるを得ない。特に教師の「無知」を強調する姿勢は、制度の象徴としての教師を「知の抑圧者」として見る視点であり、それに対して正当性と論理性で対抗しようとする姿勢は、自己のアイデンティティが単なる個人の自由ではなく、「公共空間における理性の代表者」として自己を規定していることを示している。しかしながら、最後には父という存在にすがろうとする場面において、「知の系譜」という幻想が露呈する。すなわち、自分の正しさを裏付けてくれるであろう権威(父、市長)に頼ることで、「論理的に整った公共性の夢」が崩れ去り、実際の世界は不条理と無理解に満ちているという実感が生まれる。これは「理想の共同体」への幻滅と、それでもなお倫理的主体としてあらねばならぬ自己への決意との対比である。そして「なぜ自分の周囲には、自分よりも低い知性しかいないのか」という問いは、知的孤独と使命感の交差点に立つ者の内的独白として深く響いている。最後の場面——歌のコンテストに挑む見知らぬ2人の俳優の姿——は、自己と他者との相性、可能性、そして失敗と誤解に関する象徴的な寓話である。ここで自分は傍観者でありながら、同時に「評価する者の視点」を有している。つまりこの場面は、自己の分身としての他者が試練に挑み、一時的な敗北に見舞われるも、それが本質的な不一致ではないことを見抜く知性と直観を自分が持っていることを示している。相性0%と断じた言葉の裏には、真の関係性の可能性を守るための仮面としての言辞がある。この「相性100%なのに別れを選ぶ」という逆説は、まさに現実において人間関係が持つ屈折と余白を暗示するものである。そしてその余白にこそ、来年再挑戦すれば1番を取れるという「希望」が生まれるのである。総じてこの夢は、他者との関係における「信条と譲歩」、制度との関係における「理性と無理解」、そして可能性との関係における「失敗と希望」という三重の層を通して、主体の倫理的成熟と公共性への志向を物語っている。夢の中の自分は、常に誰かと対峙し、時に譲り、時に主張し、時に敗北しながらも、自らの信じる価値に忠実であろうとする。そこには、単なる知性の誇示ではなく、「共に生きる」という困難な課題に向き合う1つの精神の姿が透けて見えるのではないかと思う。フローニンゲン:2025/8/8(金)07:38


17173. マックス・プランクの量子哲学と唯識

                       

マックス・プランク(Max Planck)は、量子論の創始者として知られ、1900年に黒体放射の問題を解決するために「エネルギー量子」の概念を導入したことで、古典物理学のパラダイムを根本的に変革した。彼はエネルギーが連続的にではなく、離散的な単位(量子)で放出・吸収されると仮定し、その仮定が後の量子力学の成立に決定的な影響を与えた。しかし、プランクは単なる物理学者にとどまらず、哲学的・形而上学的な関心を強く持っており、彼の量子理論には深い世界観的示唆が含まれている。プランクは物質やエネルギーよりも「意識」や「精神(Geist)」を根源的なものと見なしていた。彼は「私は意識が根本的なものであり、物質は派生的なものであると考えている」と述べており、これは彼の科学観が唯物論ではなく、むしろ精神的実在論(観念論)(idealism)に近いことを示している。彼にとって自然法則とは、無生物的なメカニズムではなく、理性的秩序の現れであり、背後には「意識的な秩序者」がいるとされる。このようにして、彼の量子哲学は、現象世界が見かけとは異なる層を持つこと、そしてその背後に非物質的な根源が存在するという認識に到達している。ここで唯識思想との接点を見いだすことができる。唯識(瑜伽行派)は、あらゆる存在が「識」すなわち意識の顕現であると説き、物質世界を客観的・独立的な実在と見なさない。その中心教義である「三性説」によれば、私たちが通常経験する世界(遍計所執性)は主観的投影にすぎず、背後にある依他起性(縁起的現象)は、常に識の活動に基づいて生起している。そして、そのような依他起性を誤って独立実在とみなす錯覚が、物質実在論に通底する誤謬である。最終的に見出される真理は、すべての現象が「唯識所変」であるという円成実性の悟りに他ならない。プランクが語る「物質の背後に精神がある」という考えは、この唯識の円成実性に非常に近い。すなわち、プランクの量子哲学における「意識的秩序者」や「精神としての実在」は、唯識における「阿頼耶識」や「如来蔵」といった深層的意識構造に重ねることができる。特に、観測によって物理的現象が確定するという量子論の特徴は、「識が対象世界を構成する」という唯識の命題と極めて親和性が高い。現象が客観的にそこにあるのではなく、識の作用によって生起し、変化し、消滅していくとする唯識の動的宇宙観は、プランクが抱いていた「精神を中心とする秩序」の科学的裏付けとしても読解可能である。さらに、唯識は八識という意識の階層構造を説き、深層には「阿頼耶識」という無意識的だがすべてを含蔵する根本識があるとされる。これは現代量子論において提唱される「量子的ポテンシャリティの場」や「非局所的相関」と共鳴する観念であり、個別的存在が本質的には分離していないという認識を支持する。プランクが自然法則の背後に知性的秩序を見るように、唯識もまた、あらゆる存在の根底に「智なる流れ」があることを説いている。結論として、マックス・プランクの量子哲学は、単なる自然科学の枠を超え、存在論的・認識論的な深淵へと踏み込むものであり、それは唯識哲学の核心と驚くほど近接している。両者はともに、物質的世界の背後にある「非物質的な原理」、すなわち「識」や「精神」といった構成的要因の存在を指摘しており、現代において科学と仏教哲学の対話を可能にする架橋的存在であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/8(金)16:11


Today’s Letter

The surrounding environment is calm and peaceful as usual. Although it’s still summer, I can already feel the touch of early autumn. As a new season approaches, a new chapter in my life is about to begin. Groningen, 08/08/2025

 
 
 

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