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【フローニンゲンからの便り】17166-17169:2025年8月7日(木)



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タイトル一覧

17166

ポール・ディラックの思想と唯識

17167

今朝方の夢

17168

今朝方の夢の振り返り

17169

身体とIELTSの充実したトレーニングを味わって

17166. ポール・ディラックの思想と唯識

                                  

時刻は午前7時を迎えようとしている。今朝方もかなり気温が低く、13度ほどなので、部屋では上にヒートテックを着て過ごすことにしている。下も半ズボンでは寒いので、長ズボンを着用することがここのところ増えている。


ポール・ディラック(Paul A. M. Dirac, 1902–1984)は、20世紀の理論物理学において極めて重要な貢献を果たした人物であり、量子力学と相対性理論の統合に向けた数理的革新を成し遂げたことで知られている。彼の最大の功績の1つは、1928年に発表されたディラック方程式にあり、これは電子の運動を量子力学と特殊相対性理論を調和させる形で記述するものであった。この方程式により、電子のスピンという概念が自然に導き出されただけでなく、反粒子(特に陽電子)の存在が理論的に予言されたことは、現代素粒子物理学の扉を開く画期的な成果であった。ディラックの量子論思想の特異性は、物理現象の背後にある数学的美への信仰にある。彼にとって、自然法則は数学的構造の中にこそ宿るものであり、「美しい理論は正しい可能性が高い」という信念を終生貫いた。彼はまた、観測者の役割や確率的性質を強調するコペンハーゲン解釈に対して、あまり積極的には関与せず、あくまで数式そのものが語る物理的真理に耳を傾けた。彼の理論的作業は、記号的厳密性と形式的普遍性に特徴づけられ、ヒルベルト空間、作用素、交換関係などを通じて、物理現象を抽象的に記述する力学体系の整備に寄与した。こうしたディラックの功績と思想に対して、唯識の観点から応答することは、自然法則の成立根拠と認識構造の相関性を問い直す試みとなる。まず注目すべきは、ディラックが仮定した「数学的構造の内在的真理性」という信念そのものが、唯識的に言えば「遍計所執性」にあたる可能性を含んでいる点である。すなわち、数学的構造が実在の骨格であるかのように見なす態度は、心が構成した抽象的記号体系を「自性有」と錯覚する認識の様態である。唯識においては、いかなる対象もそのままに実在するのではなく、「識」によって構成された表象であると考えられる。ゆえに、数式や理論モデルもまた、認識主体の種子に依拠して生起する「依他起性」の現れにすぎず、そこに実体的な本質を見ることは「遍計所執性」による誤認とされる。しかしながら、ディラックの「美への信仰」には、単なる理論的錯覚を超えた直観的深みが感じられることも事実である。彼が信じた数学的美とは、言語的構築や経験的観察を超えた、秩序と対称性の感得であり、それは唯識における「無分別智」による現象把握にも通じる側面を持つ。唯識は、「分別」と「無分別」の二層構造において、概念的認識の限界を越えて、如実知自心の智慧に至ることを目指す。ディラックが形式の背後にある「何か」を美によって探知しようとした姿勢は、深層においてはこの「無分別的な直観」の萌芽を含んでいたと見なすことができる。また、ディラック方程式が導いた反粒子という存在は、唯識の「相対的二元性の共依存性」を象徴的に体現している。電子と陽電子、粒子と反粒子、正と負、生成と消滅といった構造は、唯識における「識の二重構造」(現行と種子、能縁と所縁、表分と影分)との対応が考えられる。すなわち、現象界は単一の「物」の集積ではなく、相互に依存しつつ顕現する構造の流動的ネットワークであり、この観点はディラックの量子場的視座とも深く響き合う。とりわけ、反粒子の理論的必然性は、「空なるものが空ならざる如くに現れる」という中観–唯識的命題を自然科学の側から裏打ちするものとさえ言える。しかし、ディラックはあくまで主観の役割には慎重な距離を保ち、コペンハーゲン解釈のような観測者依存的世界観に批判的であった。この点において、唯識が提唱する「万法唯識」の立場――すなわち、観測者の心識が世界の成り立ちに不可避の役割を果たすという見解とは、本質的な緊張が存在する。唯識においては、対象世界は外在的に存在するのではなく、阿頼耶識という根本識に内在する潜勢的種子が因縁によって顕現するという視座が中核にあり、観測という行為そのものが存在を成立させる。この点において、ディラックの数理的構造主義は、「表象の背後にある本体」への信仰という形で、再び実体論の罠に戻る危険性をはらむのである。総じて言えば、ディラックの功績は、世界の深層構造を記述するための数理的言語を飛躍的に拡張した点にあり、その「美と真理の一致」への信仰は、形而上的直観としては非常に純粋である。しかし、唯識の立場から見ると、その純粋性はしばしば「所取の実体視」という微細な執着を伴い、真の解脱的智慧からは一歩隔った地点にとどまる。真理とは、構造の探求に留まるものではなく、構造そのものを構成している心の働きを観ずるところから生まれる。ゆえに、唯識はディラックの成果を深く尊重しつつも、問いの方向を「世界はどうなっているか」から「この世界を構成している心とは何か」へと転回させるのである。その転回の先にこそ、量子論と仏教思想との真の対話が開かれるのであろう。フローニンゲン:2025/8/7(木)07:04


17167. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、小中学校時代に住んでいた社宅に向かって自転車を漕いでいる場面があったのを覚えている。いつもの通りの見慣れた道で、国道脇の道を自転車で走ることは心地良かった。木々の葉は青々とした状態から少しずつ秋に向かうような雰囲気を呈していた。おそらくこうして今目に見えている木々の葉も、あとしばらくすると黄色く紅葉するのだろうと想像していた。近所の保育園の脇を通り、社宅の敷地に入ろうとした時に、景色の異変に気づいた。どうも新しいアパートが数多く建っており、自分が知っている社宅の雰囲気とは違ったのである。そこでハッとしたのは、同じ町の中にある別の社宅に自分はいるのではないかと思った。スマホを取り出して地図で確認することも考えたが、それをするまでもなく、明らかにそこは自分が住んでいる社宅とは違う社宅であると実感した。幸いにもお互いの社宅は距離が近いので、そこからまた自転車を漕いで目的地の社宅に向かおうとした。

今朝方はその他にもいくつか夢を見ていたが、確実に覚えている夢としては、規則がとても厳しい全寮制の高校に入学した場面である。最初は自分の意思で入ったその学校を楽しみにしていたのだが、初日から厳しい規則のオンパレードに精神が参ってしまい、初日で学校を辞めて、通信制の高校に通うか、それとも高校には一切通わず、独学で大検を取得することを考えた。初日でまず最初に違和感があったのは、その日に食べる料理の具材が指定されていることであり、生徒全員が広い畳部屋に集められ、私はその日には食べてはいけないミニトマトを持って来ていた。その日は大きなトマトなら許されるが、ミニトマトだったらダメだったのである。自分にとっては両者は大差なく、意味のない規定だと思っていたが、小中高時代のある女性友達(KE)が自分を先生に密告した。畳部屋の中の前方の中心に立っていたのは、高校時代の家庭科の先生だった。その先生は怒ることはしなかったが、自分を諭しながら、その日に食べてはいけない食べ物は今後持ってこないようにと述べた。納得できない気持ちのまま一旦寮の部屋に戻ると、そこでこれから一緒に暮らす数人の友人たちと愚痴をこぼしながら室内に干していた洗濯物を取り入れることにした。すると、まだ靴下が少し湿っていたので、もう少し干す必要があると思った。そうこうしているうちに数学の時間となり、教室に向かうと、そこにはすでに高校1年生の時の担任かつ数学を担当していた先生がいて、ホワイトボードの前に立って、授業を始めようとしていた。授業がすぐさま始まると、先生は生徒に配っていた難し目の問題集の中の難しい問題をホワイトボードに書き始めた。そして、その問題に対して答えるように笑みを浮かべて私を指名してきた。先生はその時にどういうわけか、「25年振りの登場だな」と述べ、確かに数学の因数分解の難問と向き合うのはそれくらい振りかもしれないと思ったが、果たして先生の真意は何だったのだろうと少し考えた。そこから私は、ホワイトボードに書かれた長い数式を眺めて、(1-1/2)の形をそれぞれの項に対して作ることが最初のステップであり、その切り口さえ見つかれば、その問題は攻略できたも同然であると述べた。先生は自分のアプローチに対してとても満足気で、さらに笑みを浮かべ、そこからは先生が問題を解き始めた。フローニンゲン:2025/8/7(木)07:21


17168. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、記憶・規律・自己探求という三層的な象徴構造を通して、内的な成長と方向の再調整をめぐる心理的過程を描いている。それはあたかも1つの個人史を時間的な回廊として歩む旅のようでもあり、記憶という風景に身を委ねながらも、現実との違和感を感受し、それに応じて新たな態度や認識の形を模索する内的なドラマである。まず、自転車で旧社宅へ向かう夢の場面は、過去への回帰を表すと同時に、自我が無意識的に「かつての自分の居場所」を再訪しようとする動きである。見慣れた道を心地良く走るという感覚は、時間の流れと共に変化してゆくものへの静かな受容を象徴しており、とくに木々の青葉が秋に向かう描写は、自己の成熟と季節のうつろいが共鳴する瞬間を示している。しかし、その回帰が単なる懐古では終わらず、到着した社宅が記憶のそれとは違っていたという点に、この夢の転調がある。これは「同じ町の中の別の社宅」という微妙なズレが象徴するように、自我が過去の地点に戻ろうとしても、既にその場は変質しており、もはや同一の心理的空間として再訪できないという無意識的な直感の表現である。それは単なる風景の更新ではなく、記憶と現実とのずれ、かつての自己と現在の自己のずれに対する深い認識である。夢の中でスマホの地図を取り出そうとする動きは、象徴的に「理性」や「客観性」によってこのズレを埋めようとする試みを表しているが、それをせずに身体的感覚に従って再び目的地に向かう選択は、内的直観への信頼の高まりを暗示している。次に、全寮制高校に入学する夢は、外的な秩序や権威への適応と抵抗の葛藤を象徴している。自らの意思で入学したはずの場で、初日から精神的に打ちのめされるという展開は、表面的な選択と深層的な欲求との乖離を表す。夢におけるミニトマトのエピソードは、規則の不条理性とそれに対する内的反発を象徴している。トマトのサイズによって許可が分かれるという細分化された規定は、現代社会における制度の恣意性を風刺しているかのようであり、それを密告する旧友の存在は、かつて親密であったはずの人間関係の中に潜む「規範の内面化」という側面を可視化している。つまりこの場面は、内なる規律と外部からの規制、自己信念と集団規範の間で揺れる主体の構図を体現している。さらに、洗濯物を取り込むという日常的な動作は、自己の感情や経験の整理・再編成を象徴している。濡れた靴下がまだ乾ききっていないという描写は、心理的成熟の途上にある感情の「未完了性」を意味しており、その湿り気は、いまだ癒えぬ部分、あるいは内的葛藤がいまだ続いているという無意識的認識の表れである。そして最後の場面、数学の授業における登場は、知性と洞察力、さらには「構造を見抜く力」に対する信頼の回復を象徴している。ホワイトボードの前に立つ先生が「25年振りの登場」と告げるのは、過去のある地点において放置されていた課題、あるいは知的探究の情熱が今再び回帰してきたという暗示である。数学の因数分解において(1-1/2)の形を見つけるという戦略は、混沌とした状況を解きほぐすための「核心的視点」の発見に他ならず、それは人生の問題構造におけるパターン認識力の比喩でもある。先生がその洞察に笑みを浮かべるのは、夢の中の自己がかつての未熟さを越えて、いまや十分に成熟し、問題の本質を把握する能力を備えたことへの象徴的な承認である。この一連の夢の流れは、記憶と現在、制度と個人、混沌と構造の間を旅する「内なる巡礼」である。そこには、過去に戻ろうとする郷愁と、それが叶わぬ現実との交錯があり、規則への不満と自由への欲望があり、そして最終的には、複雑な問題を切り崩す視座の獲得という形での内的統合が示されている。夢は単なる無意識の混成ではなく、深層における自己との対話であり、心の折々の段階を物語として織り成すものである。まるでひとつの詩的構造を有する回想の書のように、この夢は、自己が歩んできた道を振り返り、そこに潜むズレや不協和音を感じ取りながらも、なおも意識的に前へと進もうとする姿を浮かび上がらせている。フローニンゲン:2025/8/7(木)07:39


17169. 身体とIELTSの充実したトレーニングを味わって

  

時刻は午後4時半を迎えた。午前中はヒートテックを着て過ごす時間が続いていたが、午後にジムに出かけた際には半袖半ズボンで出かけることができた。どうやら来週は幾分気温が上がるようで、夏らしさを感じられそうである。月間天気予報を見ると、もしかしたら来週が最後の夏らしさを感じられる日になるかもしれない。そうなってくると、今年の夏はわずか数日だけしか30度を超えることがなかったことになる。今日のジムでのトレーニングはいつもの通り集中力高く取り組むことができた。前回のトレーニングから、重量よりも合計のトレーニング量を重視することにしたところ、やはりこのトレーニングの方が効果的のように思えている。トレーニング後の筋肉の張りを見ているとそれを実感する。


トレーニングに出かけるまでの時間はIELTSの対策に時間を充てていた。2年前の初受験の時は、試験1ヶ月前に対策を始め、それでも十分にスコアを取得することができたが、今回はより余裕を持って1ヶ月半ほどの時間を充てることにした。この機会にスピーキングとライティングをブラッシュアップさせたかったことが1つの理由であり、もう1つの理由は、ChatGPTを活用したそれらのスキル領域のトレーニングがとても楽しいということが挙げられる。幸いなことに、IELTSの公式対策講座にはライティングのスコア9.0のモデルアンサーがそれぞれの問題に対して常に掲載されている。それを参考にして、言い回しや構造などを取り入れるようにしている。ここからしばらくは模倣の時期である。実際にタスク1に関して自分でも回答し、それをChatGPTに採点してもらうと、9.0のスコアからは程遠く、なるほど2年前の自分は採点基準の項目を満たしていなかったことが痛感させられる。実際にモデルアンサーを読み込ませてみると、大抵9.0で、時折8.5と表示されるが、いずれにせよライティングにおいて8.5でも滅多に取れないスコアゆえに、モデルアンサーを参考にしていきたいと思う。まずはモデルアンサーの回答の質感を自分にしっかりインストールすることが重要であり、型を身につけることにしばらく注力したい。タスク1で出題される問題形式ごとに幾つかの9.0のモデルアンサーを徹底的に音読していくことを行い、それに平行して自分でも文章を書いていき、それをChatGPTに採点してもらうことによって、徐々に9.0に近づくようにしたいと思う。2年前には用いていなかったChatGPTは、今回のIELTS受験において、スピーキングセクションの対策においてもライティングセクションの対策においても大活躍である。フローニンゲン:2025/8/7(木)16:44


Today’s Letter

Consistent training will never betray me. I will feel confident in myself once I have trained enough. The accumulation of effort makes all the difference. Groningen, 08/07/2025

 
 
 

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