【フローニンゲンからの便り】17158-17161:2025年8月5日(火)
- yoheikatowwp
- 2025年8月7日
- 読了時間: 13分

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タイトル一覧
17158 | 2年振りのIELTSの受験に向けて |
17159 | 今朝方の夢 |
17160 | 今朝方の夢の振り返り |
17161 | アラン・ウォレスの書籍“Choosing Reality”を読み始めて |
17158. 2年振りのIELTSの受験に向けて
時刻は午前6時半を迎えた。今日は昨日と全く同じ時間に起床した。目覚ましなしで1分違わずに起床することになり、それは内的なリズムがそうさせたのだろうと思う。今の気温は14度と肌寒く、日中も19度までしか気温が上がらないようだ。20度を下回ると日中も少し肌寒さを感じるかもしれない。天気予報を見ると、今週末から25度に到達する日がちらほら出て来ており、それくらいの気温が一番夏らしく、そして寒くも暑くもなくちょうどいいように思う。直感的に、今年もまた昨年に引き続き冷夏になりそうであり、昨年は8月に30度を超える真夏日が数日あったように思うが、今年はもしかしたら8月中に真夏日になることはほとんどないかもしれない。そのような予感がある。月間の天気予報を確認してもそのようなことが言えそうな感じがしてり、仮に8月に30度に到達する日が1日もなかったら、この10年間の10回の夏で初めてのことになるだろう。
一昨日に2年ぶりにIELTSを受験するための予約を完了させた。今年の年末年始にイギリスの大学院の4校に出願しようと思っており、そのためにIELTSを再受験する必要があった。2年前に受験したものはすでに期限が切れているので、今回再受験する必要があった形となる。2年前の初受験の時に、すでにオーバーオールが8.0を取れていたが、リスニングで結構ミスをし、またライティングの出来もそれほど良くなかった。もちろん2年前の段階で、大学院が要求するオーバーオールスコアとそれぞれのセクションの要求スコアを超えてはいたが、2年間の英語力の伸びを確認する上でも今回の試験は楽しみである。日常生活の中で伸ばしてきた英語力が反映されるだけではなく、むしろしっかりと対策をすることがスコアに反映されるため、当初の予定よりも早めに昨日から対策を始めることにした。当初の予定では、9/20の試験に向けて、9月から対策を始めれば十分と思っていたが、IELTSの試験勉強はゲーム感覚で取り組める非常に楽しいものなので、日々の学術研究の息抜きとして対策を始めることにした。昨日から初めてみると、やはりそのゲーム感覚的に取り組める要素がとても楽しく、学術研究よりも時間を充てており、それはそれでいいかと思った。今回出願する大学院のうち、IELTSのスコアを一番高く要求している大学院であっても、オーバーオールスコアは最低7.5、各セクションのスコアが最低7.0であり、それはすでに2年前の初受験の時に取得している。しかし、楽しみながら抜かりなく対策を進めることでその基準を今回も軽々と越し、前回のスコアを上回りたいと思う。特に対策を進めておきたいのはスピーキングとライティングで、どちらも2年前にはまだ発達していなかった生成AIを使うと、非常に学習効率が高まり、重宝している。特にスピーキングに関しては、ChatGPTのボイスチャットモードで対話をすることで、本番に近い形式で対策が出来ており、AIから採点ルーブリックに基づいたフィードバックだけではなく、より洗練された発話の提案やトピックに関連した単語や言い回しを教えてもらっており、それが大変役になっている。ここから試験まで毎日コツコツと対策を楽しみながら進めていけば、きっと2年前のスコアを超えることができるだろう。オーバーオールスコアが8.5に到達したら、CEFLの最高レベルであるC2と同等なので、そこを目指したい。フローニンゲン:2025/8/5(火)06:49
17159. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、3列構成の車の中にいたことを覚えている。運転席の列に座っているのは、運転手の友人とその横に次の列に座っている友人の母親がいた。その車は左ハンドルだったので、運転手の友人は左側の席に、そして次の列の友人の母親は右側の席に座っていた。次の列の左側のシートには、その右側に座っている友人の小さな弟がいた。その弟はまだ幼稚園の年中か年長ぐらいの年齢で、とても可愛らしかった。最後尾の席の左側に私が座っていて、その横に小中高時代のある親友(NK)が座っていた。最初車内は和気藹々とした話で盛り上がっていた。途中で一度パーキングに立ち寄ることにしたが、私と数人はトイレに行くことはせずに車内で待っていた。友人の母親はトイレに行きたいとのことで、助手席を降りてトイレに行った。すると、車の周りに偶然ながら別の車でやって来た友人たちが集まって来てこちらに話しかけてきた。ちょうど窓を少しだけ開けていたこともあり、彼らの声は鮮明に聞こえた。すると、外にいた友人のうちの1人が助手席に乗り込もうとし、そのタイミングで友人の母親が帰ってきた。友人の母親は自分の席が奪われてしまうという恐れがあったのか、少し不機嫌そうな顔をしていた。いざ出発をしようとした時に、車の外にいた見知らぬ女性が友人の母親に耳打ちをし、何かを告げていた。すると、その母親が突然私に対して、罰を課すかのように、シートベルトをものすごくキツく締めて身動きが取れないロックするように要求してきた。私は何も悪いことをしておらず、完全に冤罪だった。どうやら私が友人の小さな弟をいじめたと勘違いしているようであった。それは完全に誤解であり、むしろ彼とは常に楽しく戯れていた。しかし、一度誤解した友人の母親は自分の考えを曲げることなく、頑なに自分に罰を与え続けた。こうなってしまうと無駄に抵抗しても無駄だなと思った。最初は大声で自分の無罪を主張しようと思ったが、火に油を注ぐようなものだと判断し、静かにしておくことにした。遅かれ早かれ友人の母親は自分が無罪である真実に気づくであろうから、それを待つことにした。彼女が真実を知った時、おそらく自分に対して行った仕打ちを後悔し、心を痛めるであろうから、その時を見越して、小さな弟に、「お母さんが真実に気づいて小心を痛めたら、優しく慰めてあげて」と伝えた。
次に覚えているのは、見知らぬ若い女性と意識の哲学に関する学術論文を執筆していた場面である。彼女を筆頭著者とし、私はサポート役に回っていた。彼女よりも知識がある自分の役割は、論文の方向性を導いていくことに加え、彼女のやる気を高めるような関わりをすることでもあった。実際に論文を一緒に執筆してみると、彼女は最初から熱意が高かったが、自分の励ましにより、どんどんとやる気が高まっていき、結果として当初の予定よりも圧倒的に早く、かつ質の極めて高い論文が出来上がった。私たちはその歓声を喜び、喜びに浸っていると夢から覚めた。フローニンゲン:2025/8/5(火)07:04
17160. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、三列シートの左ハンドル車という構造を舞台に、内的な権威配置と関係性の再編成が二幕仕立てで進む心的ドラマである。前方は運動エネルギーと現在の意思決定を担う領域であり、運転する友人は日常を推進する自我の運行役である。中列右にいる友人の母親は、規範と庇護を司る外在化された母性的権威であり、その対角に座る幼い弟は無邪気さと創発的生命力、すなわち内的子どもを象る存在である。最後列左に位置する自分は出来事を俯瞰し意味づける観照の主体であり、その隣にいるかつての親友NKは、成長の基盤となった連帯や忠誠の記憶を携えた心理的伴走者である。左ハンドルという設定は、馴染みの規範とは別様のルールのもとで自我が運行していることを示し、自己がいま異郷性を帯びた文脈で役割を再配列していることを暗示するのである。駐車場は移動と静止の閾であり、次段階への通路としての沈黙の場である。窓を少しだけ開けているという細部は、外界の声を受け入れる透過性と、同時に風評や暗示が侵入しうる危うさの両義性を描く。助手席に他者が乗り込もうとする出来事は、母性的権威の席次が侵食されることへの不安の顕在化であり、支配的な保護者像が秩序の座を守ろうと硬化するさまを示す。そこへ見知らぬ女性が耳打ちするという挿話は、匿名の規範や共同体の噂が母性的権威を煽動し、判断を短絡化させる場面である。結果として自分は無実でありながら、極端に締め付けられたシートベルトによって身体を固定される。これは内的子どもと戯れる自然な親和が、かつての学習によって「危険」や「逸脱」と誤認され、超自我的な罰が発動して自由な運動が拘束される力学の象徴である。自分が反駁を控え、時間に真実の回復を委ねる姿勢は、反応ではなく応答を選ぶ成熟の兆しであり、怒りに対する自制が、より高次の正統性に根ざしていることを物語る。さらに、母親が誤りに気づいたときに心を痛めるだろうと見越し、その痛みを幼い弟が慰めるよう依頼する場面は、罰する権威を敵視せず、内的子どもを媒介として母性的権威をも癒やそうとする循環的倫理を示している。ここには、抑圧者を処罰するのではなく、誤解の源をも包摂して全体を回復へ向かわせる再親和化の知恵が立ち現れているのである。第一幕の核は「誰がどの席に座るのか」という配席の問題である。運転、保護、遊戯、観照という諸機能が三列に配されるとき、秩序は固定ではなく、状況に応じて動的に再配分されねばならない。助手席争奪の一幕は、この流動性が脅威と受け取られた瞬間であり、境界侵犯への過敏が罰の形を取って噴き出したのである。自分が選んだ沈黙は屈服ではなく、境界設定の一法であり、声量ではなく時間を資源として用いる内的主権の表明である。ここで注目すべきは、自らが自分の自由ではなく相手の悔悟の痛みに配慮し、その先回りのケアを幼い弟に委託した点である。これは内的子どもを単なる被保護対象ではなく、関係修復の能動的エージェントとして位置づける転回を示す。無邪気さは無力ではなく、関係の再生産に不可欠の資本であるという洞察が働いているのである。第二幕で舞台は学術的共働へと転じる。見知らぬ若い女性が筆頭著者となり、自分は方針を導き、熱意を増幅させる支援者となる。ここでは母性的権威の硬化が、創造的女性性の躍動へと置換されている。第一幕で誤解に飲み込まれた母親は、規範の番人としての影を濃くしたが、第二幕の若い女性は同じ女性性でも、関係を締め付けるベルトではなく、志を束ねる帯として機能している。自分は最前列の運転者ではなく、後方の観照者でもなく、推進の方向とリズムを整える指揮者として働く。励ましが熱意を増幅し、予定よりも速く質の高い論文が結実するという展開は、罰による制御から共鳴による統御へ、統制の力学が転換したことの証左である。しかもテーマが意識の哲学である点は、夢そのものの自己言及性を帯びており、自己の内的運行を俯瞰し、構造化し、伝達可能な言葉へと錬成するメタ意識の立ち上がりを告げるのである。両幕を貫く動機は、権威の再教育である。誤解に基づく罰を沈黙と時間で溶解させ、痛みの予見に配慮を差し向けることで、母性的権威は関係修復の対象となりうることを学ぶ。一方で、創造の場では権威は相手を押さえつけるのではなく、能力を引き出す共鳴器として再定義される。三列の車は、過去・現在・未来の座席でもあり、自分が最後列から全体を調停し、未来の知を生み出す前列の女性を支えることで、時間軸を横断する役割配分が完成する。窓の開口は外界との通気でありながら、耳打ちという毒矢をも招いた。ゆえに今後の実践としては、開放性を保ちつつ、誰の声を助手席に通すのかを選び取る境界管理が鍵となるであろう。ベルトは締め付けの記憶であると同時に、集中を束ねる意志にも転じうる。第一幕の拘束は、第二幕の凝集へと変容しうるのである。結局のところ、この夢は自分に、罰する権威を育て直し、無邪気さを関係修復の媒介へと昇華させ、共鳴によって他者の潜在力を先導する新しい統御様式を採用せよと告げている。席次はもはや固定ではなく、状況に応じて交替可能であり、その都度自分は観照者、導き手、支え手として自在に位置を選び直すことができる。誤解は時間と配慮によって学びへと転じ、締め付けは集中へと精錬され、外から差し込む声は選別されて協奏となる。そのとき、車は単なる移動手段ではなく、意識が自己の構造を運行し直すための変容装置として走り出すだろう。フローニンゲン:2025/8/5(火)07:28
17161. アラン・ウォレスの書籍“Choosing Reality”を読み始めて
数日前に届けられたアラン・ウォレス(B. Alan Wallace)の書籍“Choosing Reality: A Contemplative View of Physics and the Mind”を読み始めている。本書は、西洋科学、特に量子物理学と仏教的認識論との対話を試みるものであり、観測者の意識と現実との関係に関する深い哲学的・科学的省察を展開している。ウォレスは、近代科学が築いてきた客観主義的世界観を相対化し、観測者抜きの「客観的現実」という仮構を問い直す。特に量子力学が示すように、観測という行為そのものが物理的状態に関与し、決定性よりも確率的・関係的な世界観が妥当となることを手がかりに、彼は「心」が世界の成り立ちにおいて単なる受動的受容者ではなく、能動的構成因であることを主張する。この立場を支える枠組みとして、ウォレスはチベット仏教の唯識思想を援用しつつも、特にツォンカパ以降のゲルク派の中観思想やヨーガ・チャーラとアビダルマ的伝統を統合する形で、認識と存在の相互依存性を浮かび上がらせる。彼にとって「現実を選ぶ(Choosing Reality)」とは、世界をいかなる方法で知覚し、構成するかという主体の在り方を反省することであり、その選択は究極的には精神修養や瞑想実践を通して深化していくべきものである。ウォレスは、単なる理論的知識ではなく、認識のあり方そのものを変容させる「熟達としての認識」を提唱する。このような議論に対して、瑜伽行派(唯識)から応答するならば、いくつかの補足と批判的視点が必要である。まず評価すべきは、ウォレスが心の能動性と世界構成力を認め、意識と現実との関係を非還元的に捉えている点である。唯識思想もまた、「外界は心の顕現である」とする立場を取り、阿頼耶識に蔵される種子が縁起によって色法や心法を顕現させるという見解において、主観と客観の二元的対立を超えようとする。この点で、量子物理学における観測問題や非局所性、相補性といった概念は、唯識の「遍計所執性」と「依他起性」に相似する構造を持つ。ウォレスの試みは、これらを現代的な語彙で再提示する1つの実践であるとみなせる。しかしながら、唯識における現実認識の深化は単なる概念的理解ではなく、「転依」、すなわち心の基盤そのものが転換されることに重きが置かれる。ウォレスも瞑想修行を通じた主観の変容を重視するが、彼の議論では阿頼耶識の如来蔵的側面や「無漏種子」の概念が明示されないため、最終的な解脱の方向性が「現象と心の関係性の再編」にとどまってしまう可能性がある。唯識においては、現象の如幻性を体得するのみならず、「我法二空」の智を通じて「真如無為」に触れることが、現実を選ぶこと以上に重要な転換点となる。またウォレスは、唯識と量子物理学との親近性を強調するが、唯識が「真実の現実」として理解する「円成実性」と、量子物理学が語る「未確定な波動関数」や「観測者依存の事象」とを同一視することには注意が必要である。唯識における円成実性は、心の浄化と空性の智慧に裏打ちされた直観智によって開示されるものであり、単なる認識的相対主義とは異なる。現象が「主観の構成物である」ということと、「すべては如来蔵の法界において一如である」ということとの間には、実践と悟りを介した深い断絶と跳躍がある。ゆえに唯識の観点からすれば、本書“Choosing Reality”は、現代科学において失われがちな主観の重みを回復する重要な営みであり、仏教的世界観との創造的対話を拓く書である。しかしその先には、認識の変容を越えて「識の終焉=無分別智の顕現」に向かう、より深遠な存在論的転回が求められる。現実を「選ぶ」ことから始めて、いかにして現実を「放下」するか――この問いこそ、唯識がウォレスの探究に差し出す最も根源的な課題であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/8/5(火)12:53
Today’s Letter
The default state of my mind is like serene music. My existence melts into this music, filled with pleasure and bliss. My life flows on like this. Groningen, 08/05/2025

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