【フローニンゲンからの便り】17153-17157:2025年8月4日(月)
- yoheikatowwp
- 8月6日
- 読了時間: 21分

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タイトル一覧
17153 | ロジャー・ペンローズの“The Large, the Small and the Human Mind”を読み返して |
17154 | 今朝方の夢 |
17155 | 今朝方の夢の振り返り |
17156 | 英語の学術書と学術論文の地道な執筆 |
17157 | 総重量を意識したトレーニング/カシミール効果と唯識 |
17153. ロジャー・ペンローズの“The Large, the Small and the Human Mind”
を読み返して
時刻は午前6時半を迎えた。ここ最近は朝の時間帯に雨が降っていたり、曇っていたりすることが多かったが、今日は穏やかな朝空が見える。今の気温は15度と涼しく、日中の最高気温も21度と限定的である。少なくともここからの1週間は19度から23度ぐらいの気温で推移していく涼しい感じとなる。
昨日、ロジャー・ペンローズの“The Large, the Small and the Human Mind”という書籍を読み返していた。本書は、宇宙論(the large)、量子論(the small)、そして意識(the human mind)の三者がいかに深く結びついているかを論じる、物理学と心の哲学を架橋する対話的書籍である。本書では、ペンローズがこれまでに展開してきた「意識の非アルゴリズム的本質」と「量子重力との関係」について改めて整理されており、さらには哲学者や物理学者たち(エイブラハム、エリス、ホーストンら)との討論も収録されていることで、彼の主張が批判的視点を通じて浮き彫りになっている。ペンローズの中心的な主張は、次のようにまとめられる。第一に、物理的世界(宇宙規模の構造)と量子的世界(素粒子スケール)は現在の理論では矛盾しており、それらを統合する理論、すなわち量子重力理論の必要性がある。第二に、人間の意識は単なる情報処理ではなく、非決定的で非アルゴリズム的な働きを含んでおり、これを担う基盤として量子重力的過程、特に脳内の微小管における量子的状態の「収縮」に注目している。第三に、意識を理解するためには、宇宙論的構造、量子論的性質、そして心の現象を統合的に捉えるパラダイムが必要である、という「三位一体的」視座である。本書の魅力は、ペンローズの科学的誠実さと、論理と直観のあいだを絶妙に行き来する語りにある。彼は、数理的厳密性を重視しつつも、意識や美といった主観的要素が物理的世界の根本に関係しているのではないかという問題意識を捨てない。特に、量子の測定問題に対する「意識の関与」仮説や、心の現象が物理法則に根差している可能性については、従来の自然科学にはない開かれた感受性を示している。
“The Large, the Small and the Human Mind”におけるロジャー・ペンローズの主張は、現代物理学が抱える断絶と、その克服に向けた意識の導入という試みによって特徴づけられる。唯識の観点から見るならば、彼の洞察は実に鋭く、しかもその多くは仏教の認識論・存在論の深層にある構造と響き合っている。唯識は、現象世界の一切を「識の所変」として捉える。すなわち、宇宙の広がり(the large)も、素粒子のゆらぎ(the small)も、人間の意識(the human mind)も、すべて識の変容によって立ち現れているという根本的な見方である。ペンローズが「この3つは断絶していてはならず、統合されねばならない」とするならば、唯識はその統合をすでに「心の流れ」として体系化していると言える。彼の語る「意識の非アルゴリズム性」は、唯識が説く「無分別智」と通じる。これは、言語や論理によって対象を切り分ける「分別智」とは異なり、事物をそのままに如実に知る智慧である。ペンローズはゲーデルの不完全性定理に基づいて、人間の直観的な理解が形式的推論を超えると論じたが、唯識においても、最終的な認識の完成は論理的言語的な把握ではなく、直覚的了知によって達成されると考える。それは「識の自己照明性」に他ならず、心が自己を明らかにする力として理解される。さらに注目すべきは、ペンローズが量子論における「収縮(collapse)」を、人間の意識の関与によって生じる可能性として語っている点である。これは、観察者がいなければ世界が確定しないという量子力学の根本的問題、すなわち「測定問題」と関係する。唯識においても、対象の実在性は否定され、識が対象を「現起」するという立場が取られる。すなわち、「見られるもの」は「見ている識」なしには存在しない。この点で、ペンローズの考えは「識なくして世界なし」という唯識の核心と驚くほど一致している。また、ペンローズが想定するような「未発見の物理法則」、あるいは「量子重力的過程」の奥に、心の働きを支える深層構造があるという見立ては、唯識における「阿頼耶識」の思想と重なる。阿頼耶識は、あらゆる現象の背後にある「種子の貯蔵庫」として働き、そこから経験や物理的構造が生起してくる。ペンローズが脳内の微小管に宿ると考えた「ひらめき」の瞬間は、この阿頼耶識に内在する種子が因縁によって発動し、顕在化する一場面として理解しうる。ただし唯識は、心の基盤を物理的構造に還元するのではなく、物理そのものを「心の投影」として位置づける。すなわち、唯識において「世界は心から生まれる」。これはペンローズが「心の本質は物理に根ざす」と言うのとは逆向きの視座であるが、両者は「意識が物理と切り離せない」という認識において接点を持っている。ペンローズは物理学の方法論を貫きつつも、決して唯物論にとどまらず、意識や美、真理への畏敬を持って科学に臨む。これは、唯識が「智」と「悲」を両輪とする実践哲学であることと符合する。彼の「3つの世界」(the physical, the mental, the Platonic)の構図も、唯識における「三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)」に対応するようにすら思える。とりわけ、現象が構成される仕組みを「依他起性」と捉える視点は、量子揺らぎの相関性や、意識との共発性に通じるものである。結論として、ペンローズの試みは、現代科学が心の深奥に手を伸ばすための誠実な模索であると言える。そしてそれは、唯識が長らく洞察してきた「心こそ世界の根本である」という叡智を、物理学の言語で再発見しようとする営みとも言える。唯識のまなざしから見れば、「the large」「the small」「the human mind」はいずれも、ひとつの流れとしての「識の相」にすぎない。ペンローズが見つめる「心の影」は、唯識にとっては「世界を照らす光」そのものであり、今ここに立ち現れる現象界のすべてが、すでにその光の作用なのである。フローニンゲン:2025/8/4(月)06:47
17154. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬ小柄な女性と野原で話をしていた。その野原も自分にとっては馴染みのない場所であり、小柄で可愛らしい彼女と歩きながら他愛もない話で盛り上がっていた。彼女の笑顔はとても優しく、彼女の笑顔を見るだけでエネルギーが湧いてくるような感覚があった。しばらく野原を歩いていると、彼女が住んでいるマンションが近くにあるとのことで、彼女の部屋で話の続きをしようと誘われた。その誘いに乗る形でマンションの階段に到着し、階段を登っていると、突然彼女の体に異変が生じ、踊り場で倒れた。何が起こったのだろうと心配になり、彼女に駆け寄って体を起こそうとすると、どこからともなく男性の太い声が聞こえてきた。その男性曰く、彼女はAIが搭載されたヒューマノイドで、人間ではないとのことだった。先ほどまでの会話からはもう完全に自然な人間だと思い込んでいた自分にとっては大きな驚きだった。仮にヒューマノイドであったとしても異変が生じているのだから助けなければと思って体を起こそうとすると、彼女の体に触れた瞬間に、これから1分以内に起こることがビジョンとして知覚された。そのビジョンには、彼女が制御機能を働かせることができなくなり、自分を襲ってくるというものだった。そのビジョンが現れるのと同時に、再び先ほど同じ男性の声が聞こえてきて、今はとにかくその場を離れるのが賢明であると言われたのでその場を急いで離れることにした。再び野原に戻ってきて呼吸を整えていると、目の前にヒューマノイドの彼女がいて驚いた。その表情を見ると、どうやらもう元の状態に戻ったようで安心したが、また不具合を起こさないか心配になった。そのことを彼女に伝えると、制御装置を修復し、もうあのように取り乱すことはないと述べた。ヒューマノイドとどのように付き合っていくかは、これからの人類の新たな課題だと思わされた次第である。
その他に見ていた夢として、複数の高級眼鏡屋だけが入った高層ビルがホテルの機能も果たしていて、その建物の中にいた場面を覚えている。高層ビルとしては87階ぐらいまであり、1階から5階までの全階全フロアが眼鏡屋になっていた。1階から順番に眼鏡屋を回っていると、上の階にたどり着いた時、そこの店が小中学校時代のある親友(YU)の母親が経営している店であることに気づいた。その店には、まるでプールのような立派なL字型の浴槽が店の真ん中にあり、白い美肌の湯の温泉の素が入れられており、入浴しながら寛いで眼鏡を吟味できるようになっていた。私はすでに下の階で眼鏡を購入してしまっていたので、友人の母親が経営するその店ではもう購入できないと思っていたが、今度来た時にはここで眼鏡を購入しようと思った。高級感と落ち着きのある雰囲気は自分にとって心地良く、置いている眼鏡はどれもお洒落だった。店を後にして、ホテルの宿泊階に戻るためにエレベーターに乗った。もちろん数人乗れる通常のエレベーターがあったが、自分が乗ったのはトイレの個室型のエレベーターだった。そのトイレも高級感と落ち着きのある雰囲気で、特に用を足すわけでもなく、そのエレベーターに乗って移動することにした。自分は12階あたりに宿泊していたのだが、エレベーターはそれを超えて87階に到着してしまった。ドアが開くと、そこには見知らぬ宿泊客がいたので、その人に個室型のエレベーターを譲ることにし、自分はメインのエレベーターから下に降りることにした。今度は無事に宿泊階に到着し、自分の部屋に入った。すると突然足元に揺れを感じた。体を屈めて地面に両手をつくぐらいの揺れで、大きな地震であることがわかった。おそらく上の階の揺れはもっと大きいだろうと想像したが、この建物の最先端の耐震構造のおかげで、揺れは最小限で済んだ。揺れが収まってしばらくは、心臓がドキドキしており、やはり地震を含めて自然災害は怖いものだと思った。フローニンゲン:2025/8/4(月)07:04
17155. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、2つの場面を通じて「制御」と「視座」をめぐる内的交渉が描かれている。野原で出会う小柄な女性は、親密さや生命感をもたらすアニマ的存在であると同時に、AI搭載のヒューマノイドという属性を与えられることで、自分の心的世界における「関係性の自動化」「予測可能性への欲望」を凝縮した象徴として立ち現れている。微笑みがエネルギーを与えるという感覚は、外部オブジェクトに自己活性の鍵を委ねたい衝動の現れである。野原は文化化されていない広がりであり、自分がまだ名づけていない感情領域である。その場所での軽やかな会話は、未分化の可能性が約束に満ちたまま保持されている状態を示す。ところが女性の住むマンションへ向かう階段に差しかかると、場は公共的な自然から私的な内部空間へと移り、関係は「暮らし」の文脈に接続し始める。階段は段階的統合の象徴であり、踊り場は移行の節(ふし)である。そこで彼女が倒れるのは、関係を内面化しようとした瞬間に、自分の制御志向が過負荷に陥ることを示す事態である。どこからともなく響く男性の声は、内的なロゴス、すなわち状況判断を司る守護者的機能である。彼が「彼女はヒューマノイドだ」と告げるとき、自分は二重の驚愕を体験する。ひとつは、自然な人間性だと思い込んでいた対象が「精巧に作動するもの」として露わになった驚き、もうひとつは、自分自身が「自然さ」を演じる仕組みを無自覚に欲していた事実への驚きである。触れた瞬間に「1分以内のビジョン」が開くという構図は、予測処理的な自分の思考様式を示唆する。未来の危険を先取りする想像力は防衛として洗練されているが、同時に「触れ合い」を不可能にする。男性の声が離脱を勧めるのは、自分の内なる境界線設定の機能がなお健全に働いている徴である。いったん野原へ戻るのは、未分化の広がりへと退避する再接地であり、そこで彼女が回復して現れるのは、対象側の「制御装置」を整え直したというシナリオを通じて、自分の側が関係可能性を再度受け入れる準備を整えつつあることを示す。つまり、自分の心理は「親密さを自動で安全に管理してくれる存在」を希求しながらも、その自動性が崩れたときに襲いかかる不可測性を鋭敏に覚えており、結果として境界と接近を往復するのである。ここには、テクノロジー時代における信頼の新しい形が問われている。人間とヒューマノイドの関係をめぐる省察は、結局のところ「自分の心の一部を外部の安定化機構に預けるとは何か」という、きわめて個人的な倫理の問題へと収斂していくのである。高級眼鏡屋の高層ビルとホテルの複合体は、「見ること」と「滞在すること」を統合する巨大な心的建築である。眼鏡は視座・フレーミング・判断基準のメタファーであり、ホテルは仮の自己状態に身を置くための内的宿泊施設である。1階から5階までが眼鏡屋であるという配列は、自分が現実把握の基本的レンズを多面的に吟味している段階を示す。上層で親友の母親が営む店に出会うのは、視座の選定に母性的原理を導入する契機である。店の中央に据えられたL字型の浴槽は、視ることと浸かること、判断と滋養、冷静と温もりを直交させる装置である。白い美肌の湯はアルベド的な清澄化を想起させる。自分はすでに下の階で眼鏡を買ってしまっており、ここでは「次回に」と保留する。この延期は、母性的まなざしからの視座を採用する準備がまだ整っていないという誠実な自己認識である。選択の先送りは回避ではなく、成熟のためのインキュベーションとして働いている。個室トイレ型のエレベーターという奇妙な機構は、垂直移動(精神の上下動)と排泄(不要物の処理)を同時に行う内密の変容装置である。用を足さずともそこに入る選択は、「捨てるべきものは何か」を点検するためにプライベートな空間へ退避するリズムを示す。ところがエレベーターは意図を超えて87階へ到達する。過剰な上昇は、理想や洞察が先走る瞬間の寓話である。見知らぬ宿泊客に個室エレベーターを譲り、メインエレベーターで降り直す場面には、個人的な浄化装置に執着せず、公共的・標準的な移動経路を採用する柔軟性が表れている。12階に宿泊しているという設定は、円環的完成数としての12が示す調和段階への滞在であり、自分の現在地が「総合の準備」を意味する。そこで起きる地震は、心的地殻の深部からのテレグラムである。上階ほど揺れが大きいという推測は、理想や高みのヴィジョンほど不安に脆いことを知る直観である。最先端の耐震構造が揺れを最小限にとどめるという描写は、自分が獲得してきた自我の緩衝装置――呼吸、距離、ユーモア、規律、社会的支え――が実際に機能するという自己信頼の証左である。恐怖は残るが崩壊はしない。この配分が、自分の現実適応の成熟を物語る。両夢をつらぬく糸は、「予測と驚き」「制御と信頼」「見ることと浸かること」の三極である。ヒューマノイドの制御装置と高層ビルの耐震装置は対照的な双子であり、前者は関係の安全のための装置、後者は存在の安全のための装置である。前者は触れ合いの直前で作動し、自分に回避を促す。後者は衝撃の最中に作動し、自分を保つ。つまり自分の心は、接近前の予測防衛と、事後の回復弾性の二層をすでに備えている。残された課題は、予測防衛が親密さを閉ざしすぎないよう、どこで触れ、どこで退くかの微細な調整を学ぶことである。眼鏡というモチーフは、その調整を支える「見方の選択」を強調する。母性的な浴槽を中心に据えた店に「次回」を誓うことは、判断のまなざしに滋養と慈愛を組み込む決意の予告である。自分は、硬質で鋭いレンズだけではなく、温度と湿度を帯びたレンズを必要としている。L字という形は、直進から曲がる勇気、予測の線形性からの逸脱、すなわちコーナリングの技術を象徴する。野原とホテルという2つの場が示すのは、未分化の広がりと構造化された居場所の往復である。自分は今、その間を往来しながら、新しい関係形式と新しい視座の両方を仕立て直している。小柄な彼女の「回復宣言」は、対象の側に完全性を期待する古い幻想の残光でもあるが、同時に自分自身の回復力を外在化した肯定でもある。次に必要なのは、彼女の制御装置だけでなく、自分の側の「接近の手順」を設計することである。触れる前に境界を言語化し、離れると決めたらすばやく退き、戻る時には広場(野原)で再会する――そうした儀礼的なリズムが、ヒューマノイド的な自動安定化と、人間的な変動性の間に橋をかけるであろう。地震の余韻の鼓動は、本能がまだ生きていることの証である。恐れは感受性の裏面であり、感受性は関係の可能性の前提である。今朝方の夢は、恐れを抑え込むのでも、万能な装置に委ね切るのでもなく、恐れを抱えたまま選んで視る、選んで触れる、その成熟の稽古を行っている。眼鏡をかけ直すように、関係にもフレームを。湯に浸かるように、判断にも温度を。階段とエレベーターを使い分けるように、速度と深さを。そうして自分は、予測と驚きが共存する世界で、崩れないが揺れる心的建築を住みこなしていくのだろう。フローニンゲン:2025/8/4(月)07:29
17156. 英語の学術書と学術論文の地道な執筆
穏やかな朝日を眺めながら、良遍の漢文文献の転写を終えて、英語の学術論文の執筆を今日もまた少しずつ進めていた。最近は、唯識に関する英語論文の執筆を毎日コツコツと進めている。それに加えて昨日からは、論文を書くことが理解を深める最良の方法だと改めて思ったので、少し早いが唯識と量子論哲学を架橋させる論文も少しずつ書き始めた。今取り掛かっている良遍の論文は、査読付き論文の要求字数を遥かに超えており、1冊の学術書になるぐらいの分量になりそうである。そこでふと、欧米の学術世界において、特に自分が身を置く人文社会学系学術界においては、学術論文の執筆と学術書の執筆のどちらが評価されるのだろうかと思った。これまでは学者を一括りにして、論文を書くことが評価に値すると思っていたのだが、調べてみると興味深いことがわかった。分野にもよるが、一般的に査読付きの学術論文と比較して、学術書(monograph)の方が長期的かつ包括的な業績として高く評価される傾向にあるらしい。とりわけ哲学、歴史学、文化人類学、宗教学、文学研究、批評理論などの分野においては、単著として出版される学術書が、その研究者の思想的立場や方法論的貢献を体系的に示すものとして、キャリア上の評価軸において中核的な位置を占めているとのことである。これは学術論文が通常、特定の問いに対する限定的な分析や反論、理論の適用に留まるのに対し、学術書はより広範な理論的構築、複数章にわたる議論の積み重ね、あるいは知的伝統全体への貢献を可能にする枠組みを提供し得るからである。大学教員の終身在職資格(tenure)審査や昇進、また研究助成金の申請などにおいても、査読付き論文の本数と並んで、あるいはそれ以上に、質の高い学術書の出版が決定的な役割を果たすケースが多いということを知った。学術書の字数に関しては、出版社やシリーズの方針、対象読者層によっても幅があるが、標準的な単著学術書の目安としては、約70,000字から120,000字(英語ベースで)という範囲が一般的である。これは日本語換算でおよそ14万字から24万字に相当する分量であり、序章、複数章(通常5~8章)、結語、注・参考文献などを含む構成が標準である。また、博士論文を基礎とした初の単著(first book)は、研究者の独自性を最もよく示す成果物として重視されることが多く、それゆえにこの第一作の完成と出版が欧米のアカデミアでは一種の通過儀礼的意味を持つ。ただし、近年ではオンラインジャーナルの発展やオープンアクセス出版の増加により、学術論文のインパクト指標や被引用数もキャリア評価において無視できぬ重みを持ち始めており、学術書と論文のどちらが優越するかは、所属機関や国、専門分野の文化によって相対的であることも留意すべきである。とは言え、「理論的基盤の確立」や「学問的思考の全体性の提示」という観点において、学術書が持つ評価的価値は、今なお欧米の人文学・社会科学の核心に位置づけられていることを知り、テーマやトピックに応じて学術書と学術論文の双方を使い分けて執筆していきたい。今、英語の書籍と論文を書くことの喜びの中で毎日生きられていることが幸せで堪らない。それに深い感謝の念を持つ。フローニンゲン:2025/8/4(月)08:31
17157. 総重量を意識したトレーニング/カシミール効果と唯識
時刻は午後4時半を迎えた。先ほどジムから帰って来てシャワーを浴びて今に至る。今日からのジムでのトレーニングは、重量よりも総仕事量を意識するようにした。これは以前も取り入れようとしていた考え方だが、習慣とならなかった。というのも、徐々に重たいものを扱っていくということが望ましいことだという神話から抜け出せなかったためである。心機一転、今日からは比較的軽い重量であってもそれを回数こなすことで、限界ギリギリまで行うことで総合的なボリュームを稼ぐ形のトレーニングをした。結果的に、いつもの3セット形式のトレーニングよりも、総ボリュームは格段に増加していた。セット数に拘らず、重さと回数の掛け合わせの総重量を意識したトレーニングをこれから継続してみて身体にどのような変化があるかを確かめていきたい。
ジムに行くまでに行っていた量子論哲学の探究を振り返っている。そこではカシミール効果という概念と出会った。カシミール効果とは、量子場理論における現象の1つで、真空中において二枚の金属板を非常に近づけたとき、両者の間に微弱な引力が働くというものである。これは決して古典的な電磁力や重力の作用ではなく、量子真空そのものの性質に由来する。では、これを身近な例えで考えてみたい。静かな湖の上に二艘の小舟が非常に近い距離で浮かんでいるとする。周囲の水面には微細な波が常に立っているが、小舟同士の間の狭い空間では、特定の波しか立てない(波長に制限がある)。一方、外側の広い水面ではあらゆる波長の波が立つことができる。つまり、小舟の外側ではたくさんの波が行き交い、内側では限られた種類の波しか存在できないのである。その結果、小舟の外側から内側に比べて、より多くの圧力(波のエネルギー)が加わるため、二艘の小舟は自然と引き寄せられてしまう。これが量子論におけるカシミール効果のアナロジーである。実際の物理世界では、真空であっても完全な「無」ではなく、エネルギーの揺らぎ(ゼロ点振動)が常に存在しており、この「揺らぎ」が空間に存在する物体に物理的影響を及ぼす。この効果は1948年にヘンドリック・カシミールによって理論的に予言され、後に実験によっても確認された。重要なのは、「何もない」と思われていた真空が、実際にはエネルギーの海であり、その構造が物理現象を生み出す力を持っているということである。
カシミール効果が示すのは、「真空=空ではない」という逆説的現象である。すなわち、目に見えない何もない空間が、そこに何かを配置したときに物理的な影響を与えるという事実である。これは、物理的な「無」の場が、実際には「相互作用を可能にする基盤」であることを示唆している。このような「空であるが、作用しうる」場の性質は、仏教唯識思想が説く「空(くう)」と「依他起性」の関係性と深く響き合う。唯識において、私たちが世界と呼ぶものは、実体的に外在しているのではなく、「識の相続的流れ」の中で因と縁とが関係し合うことで現れているとされる。まず、カシミール効果における「真空」は、いわば物質も光もないように見える「空なる場」である。しかしこの「場」は決して絶対的な無ではない。それは、量子揺らぎという非可視的なエネルギーの場であり、そこにはポテンシャルとしての作用性が満ちている。これは、唯識が説く「阿頼耶識」と極めてよく似た構造を持っている。阿頼耶識とは、一切の現象が現起する以前の基底にある「無自覚的意識」であり、そこには無数の「種子」が蓄えられている。この種子は、縁が揃ったときに「現行」として顕在化し、現象界を構成する。カシミール効果における「金属板」とは、この現象化の契機としての「縁」にあたる。二枚の板を置くという行為が、もともと一様だった量子真空の「波動構造」に干渉を与え、空間のモード(振動可能な波長)を制限する。これは、阿頼耶識に満ちていた無限の可能性の中から、特定の因縁が触れることで、特定の像が生じることに似ている。また、カシミール効果は、「見ることができないもの」が「見えるものに影響を与える」という点で、唯識が説く「見分所見(見られるもの)と見分能見(見ている識)」の非二元的関係にも通じている。つまり、現象は客観的にそこに「ある」ものではなく、識との関係性の中でそのように「顕現している」にすぎない。金属板を置かなければその引力も起こらないという点は、認識作用なくして対象が定まらないことの物理的アナロジーとさえ言える。さらに、カシミール効果に内在する「空なるものの能動性」は、唯識の「空如の能生(空性がすべてを生む)」という洞察を思い起こさせる。唯識において「空である」ということは、実体性がないという否定的意味ではなく、「縁によって自在に変化しうる」という積極的意味を持つ。「空」であるがゆえに「現象は無限に開かれる」のであり、それが「依他起性」である。カシミール効果において、空なる場が二枚の板の関係性によって「引力」という働きを生むように、唯識においても、空なる識の基底が、条件に応じて無数の現象世界を展開する。結局のところ、カシミール効果は、私たちが「何もない」と思い込んでいた空間が、極めて豊かな可能性を内包していることを科学的に示している。これは、唯識が「空なるものが世界を生む」とする哲学的直観を、現代物理が実験的に追認しているようにも見える。仏教における「空」は、断滅ではなく「因縁の力」であり、カシミール効果における真空もまた、断絶ではなく「相互作用の場」である。金属板を通じて空間が応答するように、識が働きかけることで世界が姿を変える。唯識は、すでにこのことを心の次元で洞察していたのである。カシミール効果の驚きは、「空間とは、無ではない」という点にある。唯識が長らく伝えてきた「識が世界を作る」という教えは、このような物理的発見に照らされることで、改めてその深いリアリティを現代において証しつつある。空なるものは、無ではない。それは、可能性と関係性の揺らぎであり、世界が開示する根源なのである。フローニンゲン:2025/8/4(月)16:45
Today’s Letter
Morning serenity pacifies my mind and nurtures my body. It is a vital resource in my life. All I can do is simply appreciate the quiet of the morning. Groningen, 08/04/2025

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