【フローニンゲンからの便り】16885-16889:2025年6月30日(月)
- yoheikatowwp
- 7月2日
- 読了時間: 13分

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タイトル一覧
16885 | 自由意志を巡って |
16886 | 今朝方の夢 |
16887 | 今朝方の夢の振り返り |
16888 | 音読と瞑想の類似性 |
16889 | 心を無にして |
16885. 自由意志を巡って
時刻は午前6時半を迎えた。小鳥の囀りが美しく響き渡っており、天からは穏やかな朝日が地上に降り注いでいる。今の気温は13度と肌寒いが、今日は早朝から天気が良く、日中の最高気温は26度に到達するようだ。なので随分と暖かさを感じられる1日になるだろう。
昨日は自由意志について改めて考えていた。自由意志がどのように存在するかを問うとき、分析的観念論・中観・唯識という3つの立場は、相互補完的な層として1つの連続体を形成する。いずれも究極的実在は物質でも物理法則でもなく意識の動態であるという洞察を共有しながら、その意識がみずからを駆動する様式を異なる角度から解析する。分析的観念論は、意識の第一性を「意識の内的現前」と規定し、物理現象をそれに従属する表象として扱う。この枠組みでは、自由意志は「意識過程が自己を因果的に決定し得る内在的自由度」と位置づけられる。物理主義が想定する外部からの因果閉包は、実際には意識空間の一部的投影にすぎず、本来の因果連鎖は〈心的表象→心的表象〉のレベルで閉じている。意識は自己再帰的に情報を統合し、新たな意図を生成することができるため、自由意志は「意識自己決定性」の現象学的事実として成立する。他者と共有される物理的整合性は、この内在的決定が外部化された結果にすぎず、自由意志が物理的決定論に脅かされることはない。中観は、あらゆる存在が自性を欠き、縁起によってのみ成立するという立場を取る。ここで自由意志は「無自性でありながら機能的には有効」という両義的地平に置かれる。意志が縁起的であるとは、主体・対象・意図・条件が相互依存的に絡み合い、固定実体なしに生起するということだ。したがって自由意志は絶対的独立因としては認められず、同時に完全な必然としても還元できない。中観的ロジックは、「自由があるかないか」という二分を解体し、「縁起の動態そのものが自由である」という中道へ導く。意志は空であるからこそ硬直しない。むしろ無自性ゆえにこそ、新たな因果連鎖を開く潤滑油となる。唯識は、意志を阿賴耶識に潜在する業種子として捉え、その顕現を三性説で段階化する。まず遍計所執性において、私たちは「自分が自由に選択している」という強い感覚を抱く。次に依他起性の観点から見ると、その選択は過去の業種子・環境縁・身体状態など多数の条件に依存して仮に成立していることが明らかになる。しかし修道によって識の転依が起これば、業種子は浄化され、意志は円成実性の光のもとで直覚的自由へと転換される。この段階では主体‐客体の二元が融解し、行為は「識の自照」として自発的に起こる。ゆえに唯識は、条件依存的でありながらも修習によって質的に自由度を高め得る意志を肯定する。三枠を統合すれば、自由意志の存在位相は次のように整理できる。第一に、意識が第一性であるという前提のもと、自由意志は意識固有の内在因果として成立し、物理的必然に還元されない。第二に、その内在因果は自性を欠くため固定的実体とはみなされず、むしろ縁起的ネットワークとして流動的に機能する。第三に、縁起のネットワークは修道・洞察・瞑想などの実践によって再構築可能であり、自己拘束的な業種子を解きほぐす過程そのものが「自由度の増大」に等しい。したがって自由意志は、絶対的主権というより「縁起の海に遊泳する可塑的エージェンシー」として存在するのであると言えるのではないだろうか。そのようなことを昨日考えていた。フローニンゲン:2025/6/30(月)06:47
16886. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない空港の中にいた。どうやらオフィスが空港の中にあるらしく、前職のコンサルティング会社に勤めていた時代の人たちと話をしていた。その場にいたのは全員女性の上司で、仕事の休憩時間に楽しく話をしていた。どうやらある上司はこれから海外出張に出かけるらしかった。その上司がフライトのためにオフィスを離れたタイミングで、自分も空港内を散歩してみようと思った。しばらく歩いていると、空港の外に突き出た搭乗口があり、階段に人が列を成し始めていた。どういうわけか私は列の前の方に通されたが、優先的に搭乗できるのはフランス語が堪能な人からだと言われ、私はフランス語が堪能ではなかったので10人ぐらいに列を譲っていき、そこからまた列を再び並ぶことにした。どうやら搭乗口の向こうには飛行機があるわけではなく、また別の部屋があるようで、そこで少し食事などを摂ってから飛行機に乗り込むようだった。
次に覚えている夢は、実際に通っていた中学校の体育館にいる場面である。これから他校を招いたバスケの練習試合が行われるようで、生徒が応援に駆けつけていた。自分もこれから試合に出場することになっていたので準備運動をしようと思ったが、試合の前に体育館の中で模擬試験を受けることになっていた。模擬試験を受けるのは私とある友人の2人だけで、2人のためだけに体育館の端の方に机が2つ用意されていた。科目は数学のようで、これから模擬試験を受けるにあたって、自分は文房具を何一つ持っていないと思ったが、幸いにも筆箱が出てきて、そこからシャーペンと消しゴムを取り出した。しかし、シャーペンの替え芯が不足しているように思えたところ、友人が数本芯をくれた。また、ふと現れた2人の別の友人も替え芯をくれたのだが、片方の友人は不要なほどに大量の芯をくれた。有り難迷惑のように思えたが、友人の親切心を無駄にするわけにはいかず、黙って芯をもらうことにした。いざ数学の模擬試験に取り組もうとしたところで、場面が変わり、自分が見慣れない進学塾の受付でその週の受講料をクレジットカードで支払っている場面となった。その塾は月謝ではなく、週ごとに受講料を払うようになっていて、週の受講料は82,000円と他の塾にはない高額な値段だった。その塾としてはその金額に見合うだけの講義を提供していると考えているようだったが、そもそも自分は塾に通う必要はないように思え、来週からはもう塾に通うのはやめにしようと思った。仮に入試の前に直前講習を受講する必要があれば、それはその時に考えればいいと思った。とりあえず塾に通うのはやめて、自分のペースで学習していこうと思った。フローニンゲン:2025/6/30(月)07:00
16887. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の一連の夢は、現在の自己が過去の制度や評価軸から離脱して、自らの価値観とペースで次の段階へ進もうとする精神的移行過程を描写しているものであるとChatGPTは述べる。第一の場面に登場する空港は、未知の可能性へ飛び立つ出発点であり、同時に、多層的に区画された組織構造そのものを象徴する。かつて在籍していたコンサルティング会社の女性上司たちは、過去に身を置いていた競争的かつ評価中心の世界を体現する存在である。彼女たちと「休憩時間」に和やかに談笑している情景は、当時の緊張感がすでに緩和され、過去を客観視できる距離が取れていることを示す。やがて1人の上司が海外出張へ向かうとき、自分も空港内を散策し始めるが、ここには「主体もまた旅立ち得る」という潜在的選択肢が暗示されている。搭乗口でフランス語の堪能さが優先条件として突き付けられる場面は、未知のフィールドへ進む際に求められる新たな語彙・スキルセットを象徴する。自分は列の前方に招き入れられながらも、自ら十分ではないと感じて順番を譲り、再び並び直す。この挙動は、外的評価を得るよりも自己の準備度合いを重視する内省的な判断の表出であり、短期的な成果よりも長期的な適合を選択する姿勢を示す。また、搭乗口の先に飛行機ではなく食事の場が用意されている構造は、「出発の直前に必要な栄養補給=自己充足」を象徴し、真の跳躍には内的滋養が不可欠であるというメッセージを含意する。第二の夢では、中学校の体育館という原点回帰の空間に舞台が移る。バスケットボールの試合と数学の模擬試験が同時に課される設定は、身体的競争と知的評価という2つのパフォーマンス領域が並列に置かれ、自己が多面的な適応を迫られていることを示す。準備運動を始める前に突如試験が割り込む構造は、「計画外の評価機会が人生に介入する」という現実を映し出す。筆記具を持たない不安は即応力の試練であり、友人から芯を分け与えられる場面は、他者との相互扶助関係が自己能力の不足を補完することを示している。特に、過剰な量の芯をくれる友人は、善意が過度に介入し、自分の自律を圧迫しかねない状況のメタファーであるが、自分はその厚意を無為にせず受け取ることで、対人関係のバランスを保とうとする。場面が進学塾の受付へ転換する箇所は、外部機関による価値付与モデルとの最終的対峙を示す。週82,000円という法外な授業料は、過剰に高騰した「他者評価への依存コスト」であり、主体がそれを支払いつつも「来週からは不要」と判断する瞬間には、自己学習への回帰と経済的·精神的自立の決意が凝縮されている。入試直前講習だけを必要に応じて検討するという発想は、システムを全面否定するのではなく、自己の裁量で限定的に利用するという成熟したバランス感覚の表われである。全体として、この夢の構造は「外部制度→内省→準備→自律」という四段階の発展をなぞる。空港での搭乗順番の譲渡、中学体育館での二重タスク、塾での高額支払いの拒否はいずれも、「外から求められる条件に一旦向き合い、自己に照らして要不要を選別し、自分の時間軸で再編成する」プロセスを反復的に描出している。すなわち、自己は社会的承認や既存フレームの要求を鵜呑みにせず、あくまで内的基準で取捨選択しながら、次なる飛躍へ向けた養分を蓄えているのである。この夢を通じて提示される象徴的メッセージは、「未知の旅立ちには外的条件よりも自己充足が先立つ」「援助は受け取りつつも自律的判断を手放さない」「評価構造を飼い慣らし、必要なときにのみ戦略的に活用する」という三点に集約されるだろう。現実において自己が直面しているであろうキャリア転換や学習方法の再構築の局面と共鳴しつつ、夢は内奥からの助言として、外的要求よりも内的準備を優先し、自らの速度で道を選択せよと語りかけているのである。フローニンゲン:2025/6/30(月)07:24
16888. 音読と瞑想の類似性
昨日ふと、音読と瞑想の類似性について考えていた。日々の探究の中で常に文献を音読していると、それがまるで瞑想実践と近いように感じられていたのである。マントラ瞑想にあるように、まさに対象に集中した形での音読は、瞑想実践と言えるような側面がきっとあるのではないだろうか。そのような思いから類似性について調べながらあれこれ考察していた。音読と瞑想は一見すると異なる営みであるが、両者には深い構造的共通性が潜んでいる。まず第一に、いずれも呼吸を媒介として心身の状態を調律する点で一致する。音読では発声に伴う息継ぎが自然と腹式呼吸を促し、瞑想では数息観や止観の技法を通じて呼吸を意識的に整える。呼吸は自律神経系――とりわけ迷走神経――に直接作用し、リラックス反応を誘発するため、音読・瞑想いずれにおいても心拍変動が安定し、内的静けさが生じやすくなる。第二に、両者は注意の一点集中(分散制御)というメタ認知的訓練機能を共有する。音読では文字列を目で追い、意味を把握しつつ舌と声帯を協調させる必要があり、複数モダリティを束ねる集中が求められる。瞑想もまた対象(呼吸、身体感覚、マントラ等)に意図的に意識を留め、逸脱を検知しては優しく戻すプロセスを繰り返す。いずれの場合も、「気づき→逸脱→再集中」という注意制御ループが鍛えられ、前頭前野‐帯状皮質ネットワークの可塑性が高まる。第三に、内言と外言の往還という観点からも両者は共鳴する。音読は内言(サイレントリーディングの心的音声)を外言へ開放し、言語内容を身体化する行為である。瞑想、とくにマントラ瞑想や慈悲の念誦は、逆に外声を最小化しながら内言の響きを深層化する。いずれも言語活動を通して自己意識のリズムを可聴化・可感化し、「私は今ここで語っている/念じている」という存在感を強める点で同質的である。第四に、時間感覚の変容という効果も共有される。一定の韻律で音読を続けると、文章の節目が拍子となって時間知覚が伸縮し、没入状態(フロー)に近づく。瞑想でも内部時計が緩やかになり、数分が数十秒のように感じられることがある。この時間経験の可塑性は、デフォルトモードネットワークの活動低下とタスク正関連ネットワークの同期に起因すると考えられ、両技法が同じ神経基盤を部分的に活用していることを示唆する。最後に、自己物語の再編という帰結にも共通点がある。学術書であってもそこには物語があり、そうした物語を声に出す音読は言語的ストーリーテリングを通じて自己概念を外化し、再解釈の余地を生む。瞑想、とりわけ洞察瞑想は心的イベントを観察対象とし、自己物語への同一化を緩める。いずれも「自己を語り直す/眺め直す」プロセスを介して、固着した認知‐情動パターンをゆるめ、柔軟なアイデンティティ構築を助長する。以上のように、音読と瞑想は呼吸調律、注意制御、内外言語の循環、時間知覚の変容、自己物語の再編という5つのレベルで重なり合う。両者を補完的に実践すれば、身体性と言語性、注意と受容、行為と観照が相互強化的に作用し、より深い心身統合の地平が開けるであろう。フローニンゲン:2025/6/30(月)07:44
16889. 心を無にして
時刻は午後4時半を迎えた。今日は朝からすこぶる良い天気だった。今、気温は26度に到達し、今日の最高気温を記録している。25度を超えると夏日と呼んでもいいように思えるため、今日は夏日だったと言えるだろうか。30度に到達すると真夏日であり、ちょうど明日真夏日となる。今日は夏日であったが、フローニンゲンの街は風通しが良いこともあり、木陰に入ると吹き抜ける風がとても涼しく感じた。午後にジムに行った際に横切ったノーダープラントソン公園には多くの人がいて、日向や日陰の芝生にシートを敷いて思い思いに寛いでいた。彼らは一様に幸せそうで、ゆったりとした時を味わっていた。彼らの幸せそうな様子を眺めている自分の気持ちはとても穏やかで、彼らと同様に幸福感を感じていた。ジムに到着すると、今日は気温が上がっていたこともあってか、わずか3人ぐらいしかトレーニングをしていなかった。いざトレーニングをし始めると、しばらくして1人、また1人と帰っていった。途中からは広いジムの中に自分しかおらず、プライベートジムとしてジムを活用する幸運に恵まれた。本当に自分しかいなかったため、いかなるマシーンもスペースも自由に使うことができ、とても快適なトレーニングを行うことができた。夏日ではあったが、ジムの中はさほど暑くなく、普段いる人たちはジムでトレーニングする代わりに外出をして天気の良さを楽しんでいるのかもしれないと想像された。今日のトレーニング中はとりわけ瞑想の意識状態にある時間が多かった。インターバルの間は顕著であったが、実際に体を動かしている間はマインドフル瞑想のような形で身体の内側に意識が向かっていた。今後は、トレーニングの最中はマインドフル瞑想を意識し、インターバル中は無になる瞑想を心掛ける。何もないところで心を無にすることは難しいが、しっかりと体を動かした後のインターバル中であれば、比較的スムーズに心を無にすることができる。印象に残っているのは、ラットプルダウンのエクササイズのインターバルの最中に、ずっと重りを心を無にして眺めていたことである。自宅ではマントラ瞑想かの如く学術書の音読を通じて文字に集中し、ジムのインターバルや朝のランニング後のクールダウンでは、徹底的に心を無にすることを意識してみよう。フローニンゲン:2025/6/30(月)16:52
Today’s Letter
The universe is not machine-like but mind-like. Everything—including us, matter, and all else—is constantly changing in the mind-like universe. Groningen, 06/30/2025

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